地下鉄の中で

小谷杏子

1・無気力代表、山田太一

 僕は幽霊が見える。それは嘘ではない。


 僕の父、姉、祖父、つまり先祖代々、視える体質なのだ。

 なんでも、ご先祖さまが霊媒師だったみたいで(本当かどうかは嘘っぽいが)、僕たちはその余った能力を僅かに受け継いだのらしい。


 だが、それをみんなに言ったって信じてくれない。

 それは多分、僕の名前が「山田太一」という実に平凡な名前のせいか、もしくはどこにでもいそうな普通の顔だからだろうな。内気で大人しい性格、友達もろくにいないし。

 もし、僕の名前が山田太郎だったらどうなっていただろうか。

 開き直って周囲からもいじられる対称になっていたかもしれない。なんて、馬鹿なことをたまに考える。そして、その度に名前をつけてくれた祖父を恨む。


 はぁ。溜息。

 幸せが逃げる、と言われても出てしまうものは仕方がない。ぼんやりとのろのろと学校へ行く道すがら、誰に言うわけでもない言い訳をしておく。


 僕の通学手段は地下鉄だ。最寄りの駅まで長い階段を降りて、ホームへ行けば、ごった返す人の群れに思わず顔を顰めた。

 一限目は通勤ラッシュと重なる。たまに死んだ人間もいるが、極力目を合わせないようにする。

 大きく欠伸をし、二分後に来る電車を待った。


『まもなく、四番乗り場に、電車が到着します……』


 機械的なアナウンスの音。

 途端に、押し合いへし合い、真っ黒なトンネルからやって来る電車を待ち構える人たち。その群れに飲まれないよう、僕は列の最後尾に並んでいる。


 あぁ。今日も、平凡な一日が始まる。

 退屈でつまらない、いつもと変わらない、そんな一日が――。


 風と共に駆ける電車が、軋むような音を響かせてやがて止まる。何かに押し込まれながら、電車の中へ入る。背後には誰もいなかったので、恐らく別の何かだろう。いつものことなので気にしない。

 足がもつれそうになりながら、僕は電車の中へ足を踏み入れた。


 すると……


「え? 何で?」


 妙に圧迫感がないことに気づき、俯けていた目を上げれば誰もいない。辺りを見回す。今日の電車はいつもとまったく違っていた。


「えっと……」


 迷っているうちに、背後のドアが閉まっていく。慌てて出ようと振り返るも間に合わず、扉はもうぴったりとくっついてしまった。

 唖然とした僕を乗せたまま、電車が揺れる。


 まさか、これ、回送じゃないよな。

 いや、朝は人が多いから回送電車なんて紛らわしいものが来るはずない。それに、いつも同じ時間、同じ電車なんだから間違えるはずもない。

 しかし、それならこの状況が分からない。


 ガタン、と大きく車体が揺れたので、僕の足もよろける。仕方なく吊り革に掴まることに。そして、無人の電車の中でまたも溜息をつく。


 夢か、これは。


 目を瞑って、確かめようと思った。僕は俯いて、目を閉じた。三秒ほど数えて、ゆっくり開ける。


 すると、期待はあっさりと砕かれ、その代わりに浅黒い肌の老爺が目の前の席に座って、こちらをじっと見つめていた。


「うわっ……」


 思わず声に出して驚いてしまう。慌てて口をつぐんで目を逸らすと、老爺が笑い声を上げた。


「はははぁ、なんじゃ、君、新入りかい?」


 その意味が分からずに首を捻るしかない。老爺は身を乗り出すと、調べるように僕を眺めた。


「む? 違うなぁ。な」

「は、はぁ……」


 しばらく難しい顔つきをしていたが、にっこりと微笑むと老爺は僕に手招きした。


「まぁ、こんなに座席は空いとるんじゃから、座れ。別に立っとくことはなかろう」

「はぁ……」


 横に座るのは嫌だった。でも、老爺の人の良さそうな笑みを見て、僕の足は勝手に動く。


「それにしても、まさか生きとる人間が乗ってくるとはなぁ……」


 生きている、という言葉をしきりに繰り返す老爺。

 ということは、つまりこの老爺は生きていないのだろう。見た目は僕となんら変わりなく、幽霊のように透けているわけでもない。


「まったく、信用がない。たまに生きとる人間を乗せるもんだから、いちいち説明するのが億劫でなぁ」

「あの……」

「むぅ?」

「この電車って、回送じゃないんです、よね……?」


 消え入っていく声。

 まともに他人と話すことなく生きているのだから、知らない他人に話しかけるなど言語道断だった。


 老爺は「はぁ?」と口をあんぐり開け、しばらくその意味を考えていた。そして、分かったのかどうなのか、今度は大笑いした。

 しゃがれているので、ほとんどがひぃひぃと空気が抜けるようだったが、とにかく何が面白いのかその笑いは止まない。


「あぁ、悪いなぁ。いやすまんすまん。しっかし、面白いこと言うなぁ君」


 面白いことは一言も発していないのだが。


「これはな、あれじゃ。幽霊の乗る電車じゃよ」

「え?」


 あまりにもさらりと当然の如く、その言葉を口にするので僕は驚きを露わにした。視るのは慣れているけれど、他人の口から飛び出すにはあまりにも聞きなれない言葉だ。


「幽霊の乗る電車って……幽霊電車ってことですか」

「そのまんまじゃな」


 僕の問いに揚げ足を取る。先ほどから思っていたが、少し失礼じゃなかろうか。眉をひそめておく。

 でも、老爺は僕の機嫌の悪さなど構うこと無く、どんどん話を進めていく。


「まぁ、死んでないから知らんのじゃろうなぁ。これはな、死んだ人間をあの世まで運んでくれる電車なんじゃよ」

「はぁ……じゃあ、えーっと、僕は死んだ……ってことですかね」

「うんにゃ」


 僕の思いつきは、いとも簡単にばっさりと斬られた。老爺は大袈裟に首を振り、腕を組む。


「死んどらんって言うとるじゃろう。頭の悪いやつめ」


 悪かったな、物分りに乏しくて。とは言えるわけもなく、口を真一文字に結んだまま。

 そんな僕に、老爺はただ笑っているだけ。馬鹿にされている、ようにも見えるけど、ただ陽気な人なだけかもしれない。


「ま、なんでかは知らんが、これも何かの縁。てなわけで自己紹介でもしようかのう。俺は黒田源太郎。近所の連中からは『ゲンさん』と呼ばれとった。よろしくな」

「はぁ、どうも……」

「君は?」


 その問いに、僕は少し躊躇った。

 うーん……こういう時、簡単に名乗ってもいいのだろうか。だが、相手は返事を待っている。それはもう、訊かれたら返ってくるのが当然と信じて疑わないとばかりに。

 見知らぬ他人に素性を明かすというのも然りだけど、自己紹介というのは一番苦手な行為なのだ。僕は咳払いしてしばらく悩んでいたが、特に気の利いた偽名も思いつかないので、仕方なく嫌いな自分の名前を告げた。


「山田、太一です」

「あぁ……」


 その途端、老爺――黒田さんの口から何故か惜しそうな溜息が漏れてくる。怪訝に思っていると、黒田さんはいたずらっぽい笑みで僕を見た。


「惜しいなぁ。太郎だったら、うんとからかってやったのに」


 何言っているんだ、この爺さん。それに、あんたの年代なら「太郎」なんかいくらでもいただろうに。


「それじゃあ、太一と呼ぶか」

「はぁ……」


 いきなり下の名前で。しかも呼び捨て。

 いや、まぁ……相手は爺さんだから、もう気にしなくていいか。


「そういえば山田くん。君はなんで俺が視えるんだろう?」

「え?」


 唐突な質問に、僕は面食らった。何を今更。

 こうして当たり前のように話をしているのに、黒田さんはどうやら違和感を覚えていたらしい。

 僕にとってはこの景色も「日常」の一部だ。幽霊電車に乗り合わせるなんてのは流石にないけども。

 幽霊は日常の一部でしかないので、その辺の感覚が常人とはズレているのだろう。


「この電車な、たまぁに生きたやつも乗ってくるんだが、俺らを視た奴は君が初めてじゃなぁ」


 なるほど。それなら黒田さんの違和感にも納得がいく。


 しかし、ここでも僕は脳味噌をフル回転させて悩んだ。

 今まで「幽霊が視える」なんて言ったら変な目で見られていたのが常だった。その蓄積された過去の例により、無意識にブレーキがかかってしまう。


 だが、相手は幽霊。だ。言っても、別段問題はない。

 迷うことなどなかった。


「僕、幽霊が視えるんですよね……」

「へぇ~」


 すぐに返ってくる軽すぎる反応。そういうものなのか。

 幽霊と話しをしたことはなかったこともあり、これは新たな発見だと思う。


「あの、黒田さん……」

「ゲンさんって呼んどくれよ」


 ニコニコして言う。なんだかとても楽しそうだ。

 そんな馴れ馴れしくていいのか。いや、本人がいいって言っているならいいのか。

 僕はどうも、悩まなくていいことまで悩んでしまうらしい。不毛だとようやく気がついた。


「あー、じゃあ、ゲンさん。あの、この電車って……ちゃんと降りることは出来ますよね?」


 一番訊きたかったことがようやく訊けてホッと胸を撫で下ろす。少しだけ、会話というものに慣れた気がした。

 そんな僕の横で、ゲンさんは先ほどとは打って変わって、真面目な顔つきをした。うーむ、と長々唸っている。


「……そいつは、無理だなぁ」

「え?」

「乗ったら、二度と降りることは出来ない」


 僕は頭を抱えた。まさかそんな。なんてものに乗り込んでしまったんだろう。

 帰れない、戻れない、という言葉がぐるぐると脳内を走る。

 そんな絶望的な僕の様子を見て、ゲンさんは盛大に吹き出した。


「嘘だよ! う、そ! ちゃあんと降りられるさ。普通の電車と同じで各駅停車だし」

「ほんとに……ですか?」

「あぁ、ほんとほんと。ちょっとからかっただけじゃないか。そんな顔すんなって」


 ゲンさんは皺だらけの浅黒い顔を、クシャクシャにして笑った。まったく、屈託のない笑顔なものだから、怒る気にもならない。


 しかし、相手をするのは骨が折れる。どうにも振り回されている気がしてならない。


「山田くん、君はどこで降りるのかね?」


 両手に顔を埋めていると、僕の気持ちに構うこと無くゲンさんが話しかけてくる。

 ここまでからかわれていると、他人との付き合いが下手くそな僕が警戒するのは必然だ。


「あ、えっと……大川公園前で」


 もごもごと返事をしておく。すると、ゲンさんはドアの上に付いたモニターに映し出されている路線図を見やった。


 大川公園前までは、あと四駅も先だ。


「じゃあ、まだ時間はある。ちょいと話し相手になってくれんか?」


 そうくると思ったよ。


 面倒くさい、という思いが大きく、どうにも気乗りしないのだが、ゲンさんの屈託ない笑顔に逆らうことはどうしても出来なかった。

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