1.葦木くん奮闘記

1-1.悪魔は日常に溶け込めない。


 そんなに怒らなくて良くない?

 以上、担任教師に呼び出されてガミガミと雷ならを脳天に落とされた俺の感想である。

 だって思ったんだもん、紙ヤスリって凄いザラザラしてるなぁって。

 廊下ってやけに滑るから、いつも俺は転ぶ。百歩歩けば一回は転ぶ。廊下のその触った感触がツルツルと言うよりスルスルと形容できる事実に気付いているのは人の百倍尻餅をついている俺か、廊下の雑巾掛けに熱意を燃やすお掃除好きな模範的生徒くらいであろう。詰まる所、俺は模範的生徒の一人と言えなくもない。

 校舎自体が古いから、今まで何十年も歴代生徒が歩く事で学び舎の廊下の摩擦係数はほぼほぼゼロに近くなっているのだと俺は推測している。

 この学校の廊下は類を見ないほど滑りやすいのだ。スケートリンクかっつうの。俺の他のやつが転んでるのを見たことはないけど。

 そんなとき思ったのだ、紙ヤスリって凄いザラザラしてるなぁって。これを上履きの裏に貼ったらさぞ滑りにくいだろうなぁと。

 俺は滑って転びたくない。その願いを叶える為に、先述した思い付きを実行に移しただけである。

 結果として俺は今日一日地べたに這いつくばる事はなかった。

 その代償と言うべきか、こうして職員室で腕組みをする担任教師の前に立っているのである。


「君が歩いた後を振り返って見てみると良い。ナメクジが這った様に跡がくっきり残っている」


「それは違います先生! ナメクジが通ったあとはヌメヌメしてます! 俺が歩いたあとはザラザラしてました! つまり、俺はナメクジとは対極にいます!」


 間髪入れずに口火を切って、自分の言葉を反芻した。

 ナメクジってその名前がすでにヌメヌメした感じだよな。名は体を表すってのはこの事だ。いや、待てよ? 逆説的に考えろ、昔の偉い人は見た目にそぐう名前をつけたのではないか? 待て待て、ナメクジの命名者はそもそも偉い人なのか? いやいや待て待て待て……謎は深まるばかりだ。


「詭弁はいい。そう言うのは今は必要としていない。何にしても人に迷惑をかけていると言う点では、君はナメクジと同じだ」


 迎井むかい先生は丸めた教科書で俺の頭をポカンと叩いた。

 長い髪を頭の後ろで一つに縛り、そのポニーテールをこねくり回してまとめ上げた彼女は、喋り方こそ女性らしくはないものの、ブラウスの似合う知的美女である。口調がやや乱暴なのは思春期の少年少女への威圧の為なのだろう。怖がらなくてもいいよ、僕は君の味方だよ……と手を差し伸べて見たくもなる。

 黙って入れば誰もが羨む美人女教師は、溜息を吐き頭を抱える姿も、それはそれで絵になっている。

 ……て言うか、ナメクジと同類って酷くない? ナメクジ、みんなに迷惑かけてなくない? 反論すべきはそこじゃないか。


葦木あしき、君はこの学校に来てどれくらい経つ?」


「丁度ひと月になりつつあります」


「そうだな、そしてこの一ヶ月で何度職員室に呼び出されれば気が済むんだ。

 君の出身地は魔界かどこかか? カルチャーショックと呼ぶには優しすぎる問題ばかり起こして、そんなに先生に構って欲しいのか?」


 ここは君のお説教部屋じゃないんだ、と彼女はもう一度深く息を吐いた。

 俺だって怒られたくて怒られているわけではない。欲を言えば褒められて伸びたい盛りだ。さぁ、頭を撫でてくれ。

 願い虚しく、差し出した頭はもう一度教科書で叩かれた。さっきよりも音が少し高いのは、叩く力がより強まったからだろう。


「上履きは返すから、ヤスリは剥がして置くように。あと、帰ったら『丁度』の意味をちゃんと調べておけ」


 怒りの表情は呆れと哀れみに変わっていた。

 これ以上眉間のシワを増やして先生の老化にひと役買うのも申し訳ないし、何よりお許しが出たので職員室を後にすることにしよう。


「足元に気をつけて、ちゃんと一歩一歩を踏みしめて歩くんだぞ」


 その言葉を背に入室する時よりも軽い扉を丁寧に閉めると、窓から覗く空は既に血の様な夕焼けに染まっていた。

 グラウンドからは野球部の『セイッ! セイッ! セイッスェース!』という掛け声が聞こえる。俺にはそう聞こえる。ホントはなんて言ってんのこれ?

 汗を流す運動部生達を尻目に、模範的学生である俺は言いつけ通りに糊付けした紙ヤスリの端を爪で引っ掻きながら下駄箱へ向かった。言われた事を直ぐに行動に起こす。なんて健気なんだ、俺。

 そしてすっ転び、忠告を二歩で無駄にする俺。靴下で廊下を歩くと普段の十倍くらい滑るなぁ。

 なぜこんなことをしたんだ、との迎井先生の問いには滑って転ばない為です。と素直に答えた。

 目くじらを立てた迎井教諭の回答は、要約すると『君の努力は認めるが、これ以上廊下を傷だらけにするのはやめろ』と言うものだった。

 言わんとする事はわかる。でも俺は俺のやりたい事をしているだけ、言い換えるなら、己の願いを叶える為に努力を惜しまないだけだ。

 その結果、こうして毎日の様に迎井先生に教誡時間を取らせてしまうわけだが、即ちそれは俺の努力を否定されている事になるのではないだろうか。

 人に迷惑をかけてはいけない、と言うロジックは理解できるものの、努力ってすべからく肯定されるもんじゃないのかと疑問にも思う。俺が読んだ本にはそんなこと書いてなかった。全く、人間の考える事はわからん。

 と言うのも、迎井教諭の言った『魔界出身かお前はコノヤロー』との言葉(原文ままではない)は、実は当たっている。何を隠そう、俺の正体は悪魔なのである。

 実は今、内心バクバクだ。彼女の言葉がある種の小粋なジョークである事は明白であるが、ば、バレた!? と一瞬思ったりしちゃったりした。

 そうでーす、魔界出身のあくまでーす! なんて言ってもどうせ信じてもらえないし--その方が都合は良いが--更にお説教を長引かせるだけなので、黙っていたのは賢明な判断だろう。

 とある目的があり、悪魔である俺はこうして男子高校生としてひと月を過ごしている。正体がバレるわけにはいかない。バレたら俺の願いが叶えられなくなってしまう。……これ、こんなサラリと告白することなんだろうか? まぁ、いいか。

 話が逸れたので軌道修正。

 人間社会の決まり事は悪魔の俺にはちと難しい。今の所、毎日毎日放課後の個別生活指導を受けるばかりで、ちっとも目的が果たせそうにない。

 様々なルールや倫理に縛られた生活を平気な顔して送っている人間達に、ある意味での尊敬の念すら覚えるほどだ。

 ニ十回くらい尻餅をついたところでやっとこさ下駄箱に辿り着いた。

 大丈夫か、俺の尻。餅はつけばつくほど柔らかくなると言う。つきたての餅はさぞかし美味いと聞く。俺の尻は今、そこら辺の女子の二の腕よりも柔らかく、そして食べ頃に違いない。ちょっとだけ揉んでみようかな……。


「ドシンドシンと音がすると思えば、葦木くんじゃない。恐竜でも近付いて来ているのかと思ったわ」


 そっと右尻ライトヒップに手を添えたところで不意に声を掛けられた。くそぅ、今いいところだったのに!

 眉間にシワを越せて声の主を睨む。

 視線を向けた瞬間、思わずげぇっと小悪党みたいな声を上げてしまった。

 夕陽を背に立っていたのは、忌々しい少女だったからだ。


「で、出たな!? 帆篠ほしの 雫月なつき!!

 なんでこんな時間まで学校に残ってんだ! はよ帰れ!」


 体表面に影を作る長い髪の少女。彼女こそが俺の現状を作り上げた張本人である。

 涼しげな目元が尚の事腹立たしい。誰のおかげで日々人間なんかにご指導ご鞭撻の程を承っているのだと思ってるんだ。お前も一緒に怒られろ! こってり絞られろ! 廊下で滑って転びやがれ!

 歯を鳴らして唸る俺の恨み言なんかつゆ知らぬ様子で帆篠は返り言を漏らした。


「人を悪の軍団の戦闘員みたいに言わないで。日頃からキーキー言っているのは、どちらかと言えばあなたの方でしょう?」


 悪態と溜息を交互に吐き出す。その口を縫い付けてやろうか。

 ハイソックスのよく似合うスラリと伸びた足をローファーに詰め込みながら、帆篠は続ける。


「三年生の男子に、体育館裏に呼び出されていたのよ」


 僅かばかりの疲労感を額に落とし、帆篠は大きく一回瞬きをした。

 体育館裏? ははんなるほど、人間界の勉強の為読んだ書物に似たシチュエーションがあった。

 状況を察した俺は語気を強める。


「リンチ? リンチなのか!? 袋叩きにされたのか!?」


 体育館裏に呼び出されたとなれば、それはリンチと相場が決まっている。俺が読んだ人間界の漫画にはそう書いてあった。

 帆篠の整った顔に痣や血どころか汚れすら見受けられないのが不思議ではある。みろよ、この顔……綺麗だろ? これでもリンチされたんだぜ……。


「残念、不正解。あなた、少女漫画を読んだ方が良いわよ。そしたら、その凶悪な顔面でも少しは女心がわかるでしょうし、ミジンコ並にはモテるんじゃないかしら?」


 顔面って言い方が癪に触る。

 仕方ないだろ、魔界の床屋には不良漫画しか置いてないんだから。少女漫画コーナーなんてあんなピンク色の所、俺が立ってるの見られたら絶対学校で噂になった後陰口を叩かれるに決まっている。

 あの悪魔、悪魔の癖に少女漫画なんて読んでるんだよーて、クラスの女子にプププと後ろ指を指されてしまうだろうが。

 クイズに正解できなかった俺の頭上に大きなバッテンが落ちてきて、回答席に鎮座していた葦木くん人形が深い地層に吸い込まれていった。あぁ、副賞のハワイ旅行が……。

 なんて一人で一喜一憂する俺を横目に、ポケットからシワのついた紙を取り出し帆篠は悪戯っぽく笑った。


「これが果たし状に見える? 眼鏡をかけなさい。そしたら、その惚けた面でも多少賢そうに見えるわ」


 面って言い方が癪に触る。

 逆光に目を凝らすと、彼女の細い指につままれたひらひらと踊るそれが封筒であることがわかった。ハートのシールで封がしてある。

 こ、これは……!


「こ、恋文!?」


「言い方が古臭い。ラブレターよ、ラブレター」


 手裏剣の様に放り投げられた紙切れをキャッチして帆篠を睨む。顔に向かって投げるんじゃない。目に入ったらどうすんだ。

 眉間にしわを寄せたまま、視線を手元に落としピンク色のハートマークを指でなぞる。


「初めて見た、これが噂に聞く恋文……もといラブレターか。自らの下心をしたためて好意を抱く異性に送るというあの伝説の……」


「『恋心』、ね」


 そう、恋心を書き連ねて送ると言う伝説の書物。まさか実在するとは。

 でもさ、今日日ハートマークのシールって奥さん、時代錯誤だねこりゃ。

 やっぱり恋文って呼び方の方があってるんじゃないの?


「で? で? オッケーしたの? ちゅーした?」


 間髪入れずにギラリと刃物の様な目が夕闇に光る。この視線だけで小さい動物なら殺してしまえそうだ。

 そんな怖い顔しなくて良いじゃん。こちとら苦笑いしかできないよ。君、さっきまで笑ってたじゃんか。

 女の子は笑顔の方が似合うよ、それがたとえ帆篠でも。


「『一目見た時から好きでした。今日の放課後、体育館の裏に来てください。待ってます。』なんて、見ず知らずの人から愛を囁かれても、嬉しくともなんともないわ。私の何を知っているというのかしら。

 行ってみればお友達がずらっと並んでいるの。呼び出すのなら一人で来なさいよ、男らしくない」


 一息に不満が吐き出されていた。なんか俺が叱られてる気分になるからやめろ。


「なんやかんや言って呼び出しには応じたんだな」


「こんなくだらないものを寄越した人の顔を拝んでみたくなったのよ」


「別にいいじゃんか、一人だと不安だったんだろ。それに、内面どうこうって話も、ようは一目惚れってやつだろ? そんくらい俺でも知ってるぞ」


 葦木くんのナイスフォロー虚しく、彼女の追撃は続く。


「詰まる所、あたしの外見だけを見て好意を抱いたって事よね。それは恋なんて崇高なものではなくて、単なる下心でしょう。

 ……なるほど、先だったあなたの言い間違いは強ち誤りでもなかったというわけね」


 帆篠嬢はたいへんお怒りの様子である。

 普段から機嫌の悪そうな顔をしてはいるが、それはどちらかと言うと氷の様なポーカーフェイスである。現在進行形のそれは明らかな赤黒さを孕んでいた。

 ところで氷と言えばよく滑る。俺は滑るのが嫌いだ。だから俺はこの女が苦手なのだろうか。


「じゃあちゅーはして……?」


「してない。

 断ったって言ってるじゃない。もう相手の顔すら覚えていないわ。

 それにあたし、ファーストキスは大事にしたい派なの」


「派閥があるんだ……」


 また新たな知識が増えてしまった。

 人間界って覚えることがいっぱいあって困っちゃうなぁ、頭がパンクしてしまいそうだ。

 覚えることは一日百までと決めているから、寝る前に今日得た知識をいくつか手放さないといけないな。


「口は災いの元よ。キスにしたって言葉にしたって、いざという時に使うから意味がある。

 あなたみたいに軽口ばかり叩いている人間は、信用をなくしてしまうでしょう? あなたみたいに」


 念を押すな。


「逐一俺に対して悪口言うのは良いのかよ」


 人間じゃなくて悪魔だけどね。

 でも悪魔だからって傷付かないとは限らないのだ。現に俺は少しだけ泣きそうである。

 あんまり酷いこと言わないで。


「あなたについては、どう口汚く罵っても良いの」


 今言わないでって念じたところなのに!


「理不尽だろうが!」


「貴婦人だけに」


「お前には高貴の欠片も無いけどな」


「失礼ね。

 珍しくも今、あたしはあなたの事を褒めているのよ? 葦木君と話していると、とっても楽しいわ」


「それだけ人を罵倒してればそりゃ楽しいだろうさ! 先生に言いつけるからな!」


「小学生みたいな事を言わないの。

 それに学校生活においてお利口さんなあたしと普段からの奇行が目立つあなたとなら、そんな密告は意味をなさないわ。言ったでしょう? 軽口ばかり言っていると信用を無くすって」


 ぐぬぬと奥歯を噛みしめる。容易に想像できる自分が悲しい。

 今日覚えて帰ることはただ一つだ。やはり、俺は帆篠雫月が大嫌いだと言うこと、ただ一つ。


「じゃあ俺の前でもお利口さんでいてくれよ」


「その約束は履行できないわ」


「この不履行さんめ!」


「人を柱時計みたいに言わないで」


 悔しいが、ここで得意げな彼女にひとつ謝罪を入れる事にしよう。


「……ごめん、ちょっとそれよくわからん」


「ごめんなさい、あなたの低い知的レベルに合わせたジョークを言うべきだったわ。

 今の冗談の意味はね……」


「や、やめて! 自分で自分のギャグの説明するのはやめて! 聞いてる俺が恥ずかしくなるから!」


 その憐れむ様な微笑みもやめろ。やっぱりお前の笑顔は大嫌いだ。


「なにも恥ずかしがらなくても良いのに。あたしと葦木君の仲じゃない?」


「お前とそんなに親しくなったつもりはない!」


 現に俺はこいつが嫌いだし、正直少し恨んでもいる。

 それでも日々、罵詈雑言を浴びせられてもこうして受け答えをするのにはちゃんと意味と目的があるのだ。

 俺は帆篠の願いが知りたい。

 彼女の願いを叶える事が悪魔としての俺の目的であり、願いでもある。

 だから毎日の様に帆篠のくだらない話に付き合っている。繰り返し馬鹿にされようとも、苛々させられても、腹が立ったって、彼女との時間に背く事は選択肢にはないのだ。


「そうね、これまであなたから話しかけてくれたことは無いし、友達以下の存在として扱われている自信はあるわ」


「自信を持って言う事かよ」


 誇らしげに胸を反らす姿に少し寂しくなる。

 別に反らした胸に膨らみが乏しいからではない。ちなみに、この事を指摘すると帆篠はめちゃくちゃ怒る。過去に実証済みだ。


「あたし以外、友達どころか話をする相手すらいないあなたからすれば、寧ろ感謝して欲しいくらいね」


 友達がいないのはお互い様だろう。


「でも、教室で帆篠から話しかけてきたこともないだろ」


「みんなの前で罵倒されても良いのなら、喜んでお話ししにいくわ」


 酷い事を言っている自覚はあるらしい。むしろ無自覚だった方が人として怖い。


「……やっぱりお前のことは大嫌いだよ」


 いつもの様にそう告げた。

 目を細めて笑う帆篠を、少しだけ可愛いなんて思ったりもしたがそんなの一瞬の気の迷いである。

 だって俺は悪魔だし、人間なんてちっぽけな存在に美意識や好意を抱くことはない。そして何よりこいつの事が嫌いなんだから。

 だから今感じた刹那の感覚なんか、今日忘れて良い出来事リストにぶち込んで蓋をしてやるのだ。

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