第1話 血塗れの救世主

 別に誰かに助けてほしいわけじゃないけれど、それでもやっぱりこの世界に救世主なんて存在しない。


 年齢で言えばまだ十三歳、中学一年生。人生まだ半ばですら無い、ようやく始まりから少し先に進んだ程度でしかないのだけれど。それでもぼくはなんとなくそういうことを察してしまった。

 ただ義務的にぼくの世話をするだけの両親は、今日もぼくに一言も告げずにふたりとも仕事に出かけていた。焼いたパンとジャムを一枚だけ置いて。

 それを無理矢理口の中に突っ込んで、牛乳で流し込んでからすぐに部屋に戻って着替えに行く。今日もまた学校に行くために、制服に着替えなければならない。


「……」


 女子制服、セーラー服に着替えた自分の姿を姿見に写した。中学に入学してから一ヶ月ほどたった今でも、未だにぼくはその姿に慣れなかった。

 なんというか、チグハグだった。髪は男の子みたいに短く整えられていて、顔も別に女の子らしい訳でもない。背は低くて、凹凸はあんまり無いけれど、けれど身体つきは女の子だった。

 なのにスカートなんてひらひらさせて、まるで無理矢理型に押し込められるみたいだ。ぼくはぼくでしかなくて。女の子であるのも、男の子であるのも嫌だった。

 昔からそうだった。スカートは好きじゃなかったし、長い髪は鬱陶しいだけだった。おままごとはどうでもよくて、ヒーロー物の特撮のほうが好きだった。

 大きくなってから。ぼくの身体が、明確に女の子になり始めてからも相変わらずで、女の子らしい言葉遣いも、服装も全く興味なかった。

 そんなぼくに、お父さんとお母さんは「そのうち女の子らしくなるだろう」と決めつけて放置して。けれど、他の皆はそれを許さずに、段々とぼくを気色悪いと思うようになっていった。


 それらしくないぼくを、世間は拒絶する。


 それに対して、ぼくは恨み言を言う気がない。どこまで行っても、これに関してはぼくが悪いんだと思ってる

 少女として、少女らしく成長できなかったぼく。何度も機会はあったけれど、何度もそれを拒絶してしまったぼくが。

 女の子としても、男の子としても生きたくなかったぼくが。ただ、その狭間で揺れ動いていたかったぼくが悪いんだって。


 ■■


 学校の正面玄関に辿り着くと、上履きと革靴を履き替える。なんともないことに安堵しながら、廊下を肩身を狭く歩いて行く。

 周りの会話が、視線が、ぼくをチクチクと刺しているような気がする。勘違いであれば良いのだが、少なくとも今日に関してはそうではなかった。


「見て、今日も来たよ、"僕っ子"」


 クスクスと、笑い声が聞こえてくる。

 この声は誰のものなのだろうか、その"輪"はもうぼくが把握しきれないくらいにこの狭い世界に広がりきってしまっていた。

 この学年の女の子の殆どが、ぼくのことを知っているだろう。勿論、悪い意味でだけれども。


「ほんと、キャラ付けキモいよね。アニメの見過ぎでしょ」


 ぼくの一人称なんて、どうでもいいじゃないか、と声を大にして言いたかった。けれどぼくが何かを叫んだところで、彼女達にはより面白い玩具になるだけだということは分かっていた。

 だからじっと堪えて、出来る限り歩みを一定に、教室へ。たどり着いたところで、安息が有るわけでもないのだけれど、それでも不特定多数からの視線を浴びるよりはマシだった。

 また、小声でぼくのことを喋っている。それを無視して、ぼくは自分の机に座る。最近は、学校に物を置いていくことがなくなったから、物が無くなることは少なくなった。

 大々的にやると多少なりと騒ぎになるから、机や椅子に落書きなんていうこともなかった。ただただ、ぼくを見て遠巻きに笑っている。少なくとも、この場においては。

 授業はまともに受けられるし、じっとして堪えていれば何も危害は加えてこない。それだけは本当にありがたかった。ありがたがるものではないとは、分かってはいるけれど。

 ただ、何時もよりも彼女らが此方を見ている時間が多いような気がするのが、少しだけ気になった。


 チャイムが鳴った。朝のHRの時間だ。今日も平穏であるといいけれど。


 今日も一日が終わる。六限目の授業が終わったらさっさと家に帰る。何も無い家だが、何も無いなら上等だ。

 礼が終われば鞄を持ち上げ、出来る限り歩幅を一定に、焦らず、然し着実に教室を出ようとして。


「ねぇ、あんた今日時間有る?」


 ぼくの前に、一人の少女が立ち塞がった。

 長い髪に、先生に怒られない程度に短く改造されたスカート。鞄には可愛らしいストラップが幾つも付いている。

 そんな少女が。ぼくの事を見下ろして、優しく笑って立っていた。


「ちょっと、一緒に来て欲しいところがあるんだけど」


「……え?」


 困惑した。何故だろう、何故なのだろう、と頭に血が上っていった。

 すぐに思考が空転していった。何故、彼女はぼくにそんなことを言うのだろう。ぼくは彼女に対して、何か気に触れるようなことでもしたのだろうか。

 用事なら、特にない。ないが……行きたくない、行ったところで、きっと酷い目に遭うのは分かっていた。


「え、あの、ぼくは……」


「別に、変なことするわけじゃないからさぁ。ね、ちょっとで良いから!」


 だからぼくは、首を横に振ろうとした。だけれども、その少女はぼくにこのとーり、と頭を下げてまでぼくに来てほしいと言った。

 ……もしかしたら、本当にぼくに頼み事が有るだけなのかもしれない、と思った。仮に行ったとしても。今はぼくは、貴重品は持っていないし。


「……じゃあ、少しだけなら」


「本当、ありがと~! 助かるよぉ」


 きっと、そこまで最悪なことにはならないだろう、と思う。だから、そこまで頼むのならばと、彼女の頼みに頷いた。



 ■



 後悔している。

 少しでも、ほんの少しでも。友だちができるんじゃないかとか、甘いことを考えたことを。

 ぼくが馬鹿だった。忘れていた、みんなは、ぼくよりも遥かに可愛らしい女の子であるのと同時に、嘘がとても上手になっていた、ということに。

 連れてこられた場所は、廃墟だった。ぼくも知っているそれなりに有名な。元々は、戦争中の陸軍の研究所だった、っていう。

 今では色んな落書きやゴミ塗れになっている、歴史ある廃墟にぼくは連れ込まれた。やっぱり帰る、と言い出した頃には、もう遅かった。

 十三歳のぼくにとっては、目の前に有るものは余りにも非日常だった。煙草やお酒、髪を染めた男の子、派手に飾ったバイク、どれも初めて間近で見るものだった。

 あの男の子達は、年上だろうか。同級生達よりも身体はがっしりとしていて背も高い。嗚呼、私は今、絶体絶命だ。


「気持ち悪いんだよね、あんたさ。ぼく、なんて使っちゃって、変なキャラ作っちゃってさぁ」


「ッ……!!!」


 振るわれた金属バットの一撃を右腕で受け止める。嫌な音がしたが、それを歯を食いしばって耐えていた。

 声を上げれば玩具にされるだけだ。先生に言ったって、少しHRを開いてそれで終わりだ。お母さんもお父さんも私の話なんて聞いてくれない。

 だから、耐えなければならない。耐えて耐えて耐えて、この状況が嵐のように過ぎ去るのを待つしかない。

 私の鞄の中身が引きずり出されているのを遠目で見た。それから、それに缶に入ったライター用オイルがかけられるのを見た。


「はぁ、話聞いてんの? ちゃんと私の目を見て話してくれないかな?」


 少し意識を逸らしていたら、髪を掴んで無理矢理視線を合わされた。その表情は、先の優しそうな表情とは違う。ただただ、悪意に満ちていた。

 殺意、にすら近いだろう。ぼくはこの女の子とまともに話したこともないのに、なんでそこまでの感情を抱くことが出来るのか分からなかった。


「ご、ごめん……」


「ごめんじゃねえんだよ」


 ぱこん、と軽い音とともに頭に衝撃。そのまま廃墟の埃っぽい床に倒れ込んだ。

 死なない程度に手加減したのだろう。スイングというよりは軽く当てる程度の動きだった。だがそれでも……金属が頭に当たるというのは、これほど強いとは思わなかった。

 痛みはない……無いが、何か生暖かいものを感じる。恐らくは汗が噴き出してきたんだろうと、今はあまり深く考えないようにする。


「ま、良いけどさ……本題は別にボコることじゃないし。おい、アレ貸してよ。後シンジ、こいつ抑えといて」


「おっ、マジでやんの? はー、女って怖ぇなぁ~」


 何をされるんだろう。ただぼくに暴力を振るうことが目的じゃないのであれば、じゃあ何が。

 いや、それよりも早く逃げなければ。きっと酷い目に合わされる。きっと 暴力よりも酷いことだ。立ち上がって、逃げなきゃ。


「はいはい、ちょっと待ってねー。ていうか中学生ちっちぇなー」


 立ち上がって、動き出そうとした私の腕をゴツゴツとした手が掴んだ。身体がぴくりとも動かない。張り付けられたようだ。

 振り向くのが怖い。これから何が起こるのか、分からないが兎に角恐ろしい。これもぼくが、ぼくの生き方が悪いから引き起こしたことなんだろう。

 それでも、それでも。


「それじゃあ今からあんたの事ひん剥いて女かどうか確かめてあげるから。感謝しなよ、あんた自分じゃ"性別分かんないみたいだからさぁ"」


 手の中にあるのは銀色の鋏、何をしたいかようやくわかった。スマートフォンを片手に、ピコン、と軽い撮影開始の音を鳴らした。

 白日の下に晒される。そうなった場合、どうなるんだろうか。クラスの皆に出回って、きっとそのうちインターネットでばら撒かれて。

 ぼくが女の子である、と。皆に知れ渡ってしまう。ぼくが知れ渡ってしまう。そんなのは嫌だ、そんなのは――――。


「――――嫌だ! 助けて、誰か!! 助けて!!」


「なっ……暴れんなって! おい、ちゃんと抑えとけよ!!」


「分かってる、分かってるけど……ああもう、おとなしくしてろっ! 怪我するぞ!! てめぇが悪いんだろうが!」


 そうだ、これはぼくが招いたことだ。ぼくがちゃんと女の子らしく出来てればこんなことにはならなかった。

 ……でも、それだけだ。ぼくはそれだけでそんな風に虐められるの?

 ぼくはただ、ちょっとだけ人と違うだけなんだ。 確かに、それを不快に思う人はいるだろうけれど。それでも、それでも――――ぼくは。


「違う、違う違う違う!!」


「ぼくは――――何も、悪いことなんてやってない!!!」


 ……嫌な音がした。

 視界が狭くなっている。からりと金属音が響いた。目の前の女の子は目を見開いて驚いている。手は血塗れだ。鋏は持っていない、取り落としたのだろう。

 表情は恐怖一色だ。恐らくは血を見るとは思っていなかったのだろう……いや、それはないか。バットで殴った時点で多分、血は出ていた。


「……私、知らないから。あんたが、あんたが動くから……!!!」


 開放された。左目にそっと手を伸ばすと、新鮮な赤色にべったりと染まった。

 ああ、やっぱり、いやでももしかしたら違うかもしれない。何が合ったかは分かっている、いやまだわからない、いやこれはどう考えても。

 否定するぼくと肯定するぼくがいる。ああ、でも……流石にこれは、怖気づいたかな。今日はこれで終わりかな。


「ね、ねぇどうしよう。私捕まりたくない、院にぶち込まれるとか勘弁なんだけど!!」


「ああ……じゃあもう、殺っちまった方が良いだろ。先輩に連絡するから、拐うぞ。逃がすなよ」


 ……ああ、そうか。ぼくは最悪を踏んだらしい。

 ぼくを殺して、それで終わりにしようとしている。今度こそ、今こそ逃げ出さなければ。走り出そうとして……前のめりに、転んでしまった。

 頭がくらくらする。血を流しすぎたのか、それとも頭に一度小さいとは言え殴られたのが悪かったか。何方にせよ、ああ、もう、最悪だ。

 なんてぼくは運が悪いんだろう。ぼくは、ぼくは。


「――――死にたくない」


 けれど、この世界に救世主なんて存在しない。呟いた言葉を掬い上げる神様は存在しない。

 ……もう少し、早く誰かに助けを求めていれば、と思っている。お父さんやお母さんに言ったら、もしかしたら何か考えてくれたかもしれない。

 先生に言ったら、もしかしたらもっと配慮してくれたかもしれない。そう言えば保健室登校って選択肢もあったっけ。今更後悔したって、仕方ないんだろうけれど。

 意地を張っていたのだろう。誰もぼくを理解してくれないなんて、最初から誰かに手をのばすことを放棄していたのかもしれない。だから、こんな結果なんだって。



「……誰だよ、お前」



 その一言で、ぼくは意識を現実に戻され――――そして、それに心を奪われた。


 ■


 何時からそこにいたのだろう。少なくとも、誰かが入ってくるような気配はなかった。

 時代錯誤な格好をしていた。日本にはもう、軍隊はない。だと言うのに……その不可思議な闖入者は、軍服に身を包んでいた。

 かつてこの世界にあった軍隊の軍服、詳しくはないけれど、ドラマや映画で似たようなものを見たことがある。

 腰には刀を差していて、現代で言えばただの凶器だ。だと言うのに、それを気にするよりも前にまず、その何処か人間離れした姿と雰囲気に目を奪われた。


「――――綺麗」


 白磁の如き白い肌、白い髪。ルビィのような紅い瞳。均整の取れた身体付きで、それでいて胸やお尻が軍服の上からでも女性らしさを主張していた。

 凛と立ったその姿は力強くて、生物としてまるで完璧になるように生み出されたように……その無欠さは、まるで歪にすら感じるほどですらあった。

 そしてそれが綺麗だった。その歪をこそぼくは素晴らしいと思った。こうしてありきたりな言葉を並べるくらいしかぼくには手段が見出だせなかった。


 ぶん、という音がなった。甲高い金属音が鳴った。


 空を切る金属のバットの音、それが硬いものに叩きつけられる音――――ああ、そうだった。彼はそういう人種だ。

 少年法によって守られていること、或いは法の網の目の抜け方を知っていること、或いはそれら全てを隠蔽する方法を持っていること。それら全てが、彼等に悪意を振るうのに一切躊躇させない。


「……え、なんで?」


「馬鹿、見られてたらどうしようもないだろ。口止めよりこいつもバラしたほうが確実だし……な……あ……?」


 だが、彼女はそこに立っていた。一滴の血を流すこともなく。側頭部、背丈は百八十センチ程にも及ぶ少年の全力のフルスイングを受けて、身じろぎ一つすることなく立っていた。

 何かの間違いだと、彼はもう一度バットを振るった……今度は、当たる音すら鳴らなかった。それは、彼女の右手によって掴み取られていた。


「――――明確な殺意を伴う攻撃と判断。薔薇十字卿との通信は途絶状態、自律判断。脅威を排除します」


 がきり、という音がした。金属と金属がぶつかる音――――否。あれは、圧縮される音だ。掴み取られていたそれは、彼女の手の形に"潰されて"いるのだ。

 ……果たして、どれほどの握力が必要なのだろう。林檎を握り潰すくらいなら見たことはあるが、流石にあんな光景は初めて見た。まるで本当に人間じゃないかのよう。


「お、おい……なんだよてめぇ、何する気だよ……おい……」


 かつり、と白い彼女が軍靴を鳴らした。それと共に、彼が一歩後退りした。何でもないかのように、人を殺そうとしていた彼は、今ではその声に恐怖心を滲ませているのぼくにすら分かった。

 何をする気だろう。薄ぼんやりと思った。彼女のそれは、まるで機械のようであった。まるで人間ではないかのように、何か目的があるのは分かるが、そこにある感情が一切分からなかった。

 ――――怖気がする。彼女には恐らく、何も無いのだろうと分かってしまう。鈍感なぼくにすら、それが分かる。それは、あまりにも無感情で無機質で無感動な。


「な、何だよおい。や、やめろ、やめろって、す、すまん、すみません、ごめんなさい、謝ります、金なら払います、あ、あ、あ……!!」


 細い指先が首元へと伸ばされた。両の掌がゆっくりと彼の太い首を絡め取る。最初は、殴りつけたり、蹴りつけたり、そういう風に抵抗していた彼の表情から、段々と血の気が引いていく。

 それは一瞬だった。ほんの少し指先が動いたかと思うと、首が……へし折れる、というよりは粉砕されたと言ったほうが正しいかもしれない。

 首の中に通っている肉ごとぐちゃぐちゃに破砕される音。それと同時に頭部にある穴という穴から……よくわからない液体と、鮮血を撒き散らしながら彼の身体が崩れ落ちていった。

 噴き出した血が彼女へと降り掛かった。何でもないように彼女は振る舞っていて……それがまた、綺麗だった。


「い、い……いや、いや! 誰か、助けて! 誰か、誰かぁ!!!」


 ぼくを、虐めていた彼女が走り去っていく。誰も来ない場所に呼び出しておいて、誰かに助けを求めるだなんて、なんだか勝手だなあとぼんやりと思った。

 彼女の背中を、白い彼女は追わなかった。一瞥して、それからぼくへと視線を向けた。無機質で、無感動で、それでいて、それだからこそ透き通るように美しいそれを除き返す。

 ……ぼくはどうなるんだろう。ぼくをどうするんだろう。軍靴を鳴らした。こっちに向かってくる。白い手が差し出された。ぼくは、ぼくは――――



「応急処置に入ります。落ち着いて、私に任せて下さい」



「……え?」



 ――――ぼくは、血塗れの救世主に、やはり心を奪われていた。



 ■


「……ようやく見つけたぞ。七十年。随分時間をかけさせたな」


 夜風に吹かれて、本のページがはらりはらりと捲られる。それを鬱陶しく思ったか、ぱたりとそれを閉じた。

 長い直進の国道は炎に塗れていた。それを男は歩道橋上から見下ろしている。その炎の元凶は、珍走団と呼ばれる者達の物であった。

 とある一人の仲間に呼び出された彼等は、高らかに"コール"しながら二輪や四輪を好き放題に走らせていた。

 無論、その外見通り、男にとって彼等は好ましくない者達であった。無論その程度で全員の命を奪うほどに殺人を嗜好している訳ではない。

 ただ、そこに向かってもらうべきではなかった。簡単な話だが、理由としてはそれだけの話だった――――彼女達、否、彼女の存在が公になるのはあまり好ましくないと。


「追跡者は我々のみであるべきだ。これだけ費やしたんだ――――これ以上待ちたくはない、余計な手間は必要ない。行くぞ、ユーティライネン」


 ――――そして、その影にもう一人。大柄な男の姿があった。

 同じく白いコートを羽織ったその男……ユーティライネンは、灰色の軍服に身を包み、じっと口を閉ざしていた。

 その光景に、男の言葉に、感情を抱いた様子はなく。然して、機械的ではなく、意図的に自分を圧し殺しているかのように、ゆっくりと歩き出した彼の背をゆっくりと追いかける。


「問題はあれがどれほどに今までを"維持"出来ているかだ。時間移動の結果、奴にどれだけの変化が生まれているか……だが」

「まあ、リトヴャクは上手くやれるだろう。あれは優秀だ、あれはまともだ。だからこそそれ以上にはなれないが、我々にとっては弁えている人間は貴重だ」

「お前のように全てが壊れている怪物とは違う。壊れているが、理性も倫理も備えている。心配はしていない。後は……」


 その男は――――クリスチャン・ローゼンクロイツは、相変わらず神経質そうな顔の眉間の皺を、より深めながらブツブツと呟く

 自分の役割、成すべきこと、全てが膨大であった。長い年月を歩み、ようやくその一端を見つけたものの、其処に辿り着くまでがまた至難の業であった。

 そうしなければ、"彼"は納得しない。"救世主"は全てを救ってこそが救世主であり――――故に、彼女もまた救世の対象であるが故に。



「岩畔聖下の、納得出来る形へと組み立てなければならない――――ああ全く。忙しくなるだろうな」



 ――――組み上げなければならない。

 理論を、理屈を、道筋を、道程を。創り出さなければならない、そして必ず辿り着かなければならない。


 それはやがて街中へと溶けていった。誰もが彼等を認識することなく――――まるで、最初から其処には何もなかったかのように。

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