第26話 わたしを取り戻す必要性

 渋谷の街はもうすぐ終電の時間を向かえる。足早にすれ違う人並みが、渋谷の夜を告げている。


 わたしは、大通りから細い坂道を上がって、『トラッシュボックス』という小さな喫茶店に入った。


 歩き疲れて足が限界だ。


 小さな喫茶店のごった返す店内は、渋谷には夜なんてないとでも言っているかのようだった。


 アイスコーヒーを頼んで店内を見回すと、都合よくいい席があいた。柔らかいソファに座ると、わたしはまた、今日の事を思い出していた。


 今日一日で、さざんかの事をゆっくりとだけれども、いろいろ思い出してきた。かおりちゃんと幸太が、わたしに少しずつ思い出を分けてくれているように感じた。


 わたしにとって、さざんかは温かい場所だ。なぜ、忘れてしまったのだろう。


 幸太の悲しそうな顔が印象的だった。かおりちゃんは、何の事を話しているのか、初めの内はわかっていないようだった。


 『お母さんとは奥山さんの事だよ』


 『今でもリコは奥山さんをお母さんだと思っている』


 『奥山真奈美さんは亡くなった』


 『あの真奈美は、真奈美さんじゃなく、愛花だ』


 わたしにはこれらを繋ぎ合わせることができなかった。それは、かおりちゃんも同じのようだった。わたしとかおりちゃんは、自然と幸太が次に話す言葉を待った。


「施設にいる時、愛花は初めは拒んでいたけれど、しばらくしてからになった。奥山家に養子に入ったんだ。その後は幸せそうにしているように見えたよ、俺もしょっちゅう会いに行った」


 幸太は、かおりちゃんがいれてくれたお茶を手に取り、だけど、それを飲むこともなく、また話し出した。


「でも、高校に入学した時から、愛花は急に真奈美になったんだ。それからは会いに行ってもすれ違うばかりで、俺は愛花と話せていない……」


 わたしは、風月高校へ行ったときに会った、いけすかない女子生徒の言葉を思い出した。


『――どうせ、名前が変わる前の知り合いなんだろ!』


 中学から高校に入るときに、突然、愛花は真奈美になった。どうして……。


「どうしてなの?」


「それは、俺にもわからない」


 しばらく黙っていたかおりちゃんが、急に立ち上がった。


「なんて……何てことなの……」


 かおりちゃんは、これまでの穏やかな微笑みを失ってしまって、すっかり狼狽してしまっている。わたしはかおりちゃんの隣へ行って、肩を抱いてゆっくりと座らせた。


「もしかしたら……奥山さんの旦那様が亡くなったから?」


「え? そうなの?」


「もともと、奥山さんは精神的にお強い方ではなくてね……もちろん里親になるには問題になるほどではなかったの……でも、いつだったか、旦那様を亡くされたらしいという話を誰かがしていて……」


 マナミ……いや、愛花なのか……あなたに一体何が起こったの?


「かおりちゃん、愛花の話はまたにしよう。今日はリコの話だ。あんまり盛りだくさんになると、リコが混乱してしまうよ」


「そ、そうね、リコちゃんの話しもいろいろあるから……」


 いろいろ……まだ、何か残っていたかな? わたしにとっては、お母さんがお母さんじゃなかったことでお腹がいっぱいだ、もう知りたいことなんかない……。


「ここからはおれたちも知らない話なんだ、リコは小学二年生の途中までさざんかにいた。その後、親戚の家に引き取られたんだ……だよね、かおりちゃん」


「そう、亡くなったお父様の妹さんが中野区にいらっしゃってね、やっと旦那様が許してくれたので、リコちゃんを引き取れるようになったと……」


 中野区……やっぱりわたしはあの町にいたんだ。だから町並みを知っていた。でも、その頃の事は完全に抜け落ちている。ただ、近づきたくないという、汗ばむほど嫌な印象だけが残っている。


 できれば聞きたくもない。だけど、聞かなきゃいけないと自分を励ました。


「愛花ちゃんがいなくなってから、リコちゃんはすっかり元気がなくなってしまってね、だから、おば様のお宅へ行けることになって、みんな喜んでいたんだけれど、当のリコちゃんは行くのを嫌がってね……結局は養子ではなく、親戚が保護者になるという形で行くことになったの」


 中野区の叔母さん……叔母さんは優しかった……ような気がする。だけど、叔父さんはとても怖くて……できるだけ顔を見ないようにしていた。


 叔母さんはいつか慣れるからって叔父さんをなだめて……でも、いつからか、叔父さんは叔母さんを叩いたり、いじめたりするようになって……。


「リコ、大丈夫か?」


「え? うん……わたしは叔父さんが大嫌いで、早くここから脱出しようって、そればかり考えていたの……そして……それから……」


「無理しないでいいのよ……リコちゃん、誰にだって思い出したくないことはあるんだからね、思い出したくないことは思い出さなくていい!」


 かおりちゃんはわたしを真っ直ぐに見て言った。その表情は優しくもあり、力強くもあり、私を落ち着かせてくれた。


「……リコ、やっぱりかおりちゃんに会ってもらって良かった。俺だけなら、こんな風に話はできなかったと思うんだ」


「幸太……」


「だけどね、ひとつ問題があるの……リコちゃんは、中野区の家を脱出したのだけど、世間はそうは見てくれない……保護者から捜索願が出されているの。このままだと、そこへ戻らなくてはいけないわ」


 捜索願いか……私を探してどうするつもりなんだろう。また、あの暗い部屋に閉じ込めるつもりなんだ……。


 わたし……思い出し始めている。抜け落ちたあの家での記憶を……。


「今日は……帰るね……なんだか疲れちゃった……」


「そうか……また来いよ。そうだ、連絡先を教えておくから――」



 それから先は、幸太の声も届かなくなった。帰りの電車で東京へ近づくごとに、あの頃の事を思い出していく……中野区へ近づくほどに……。


 そうして、一人で電車で揺られながらいろいろなことを思い出した。


 わたしが中学に入る頃には、もう、叔母さんはボロボロだった。自分で考えるのを止めてしまったかのように、ただ、あの男の言うことを聞くだけになった。


 わたしもそうする事にした。暴君の様に振る舞うおじさんに奴隷の様に従った。それを続けることが出来れば良かったのかもしれない。でも、できなくなった……それは、中三の夏の事だった。


 あの男は、体つきが女性的になったわたしを見る目が変わり、あろうことか、叔母さんに、わたしをはがいじめにさせて……。


 そうして、飛び出してきた。


 昔は優しかった叔母さんを、わたしは殴り倒して、キッチンから包丁を持ち出してあの男に投げつけた。包丁の行方も見届けず、わたしは家を飛び出した。


 脱出したんだ、地獄から……。

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