第2章 崩れなければ、歪ではない②

 人は追い詰められれば、その思考は鈍っていく。それも度が過ぎれば停止する。徐々に何も考えられなくなり、そして最後には何も考えなくなる。そうなってしまえば、人はもはや、ただの朽ち木と変わらない。流れに逆らうこともなく、落ちるところまで落ちていく。行き着く先で、淀み、朽ち果てるだけ。

 伊佐治の心理状態は、まさにそれだった。

 死ぬことでしか解放されない、と。

 端から見れば狂っているようにも思えるものでも、伊佐治にとっては整合性の取れた論理によって導き出された唯一の答え、救いだった。

『間もなく、一番線ホームに列車が到着致します。黄色い線の内側までお下がりください』

 駅構内に、列車の到着を告げるアナウンスが流れる。

 伊佐治は中年を振り切り、プラットホームの下へ飛び降りようとした。

 汚名を濯ぐことはもう考えなかった。無理だと思った。

 逃げ切ることも不可能だろう。駅構内には複数の駅員が存在する上、正義感の強い偽善者も少なくはない。何百、何千という人間がいる駅構内を、逃げ切るだけの体力は伊佐治にはなかった。

 唯一可能性があるとすれば、それはもう、飛び降り自殺しかなかった。飛躍した思考だ、と多くの人間は鼻で笑うだろう。しかし追い詰められた伊佐治にとっては、唯一と言っていい、正当な論理だった。それに縋るしかなかったのである。

 しかし。

 幸か不幸か、伊佐治の最後の願いは叶わなかった。

 ホーム下に飛び込む前に、足が縺れ、伊佐治はその場に激しく転倒した。そしてすぐに中年が追いつき、倒れた伊佐治の上に覆い被さる。息も出来ないくらいに苦しかったが、もはやどうでもよかった。

 伊佐治は噎び泣いた。

 死ぬことも許されない現実を、激しく呪った。

 そんなときだった。

「…………」

 誰かが何かを言った。

 それが自分に向けて発せられた言葉だとは、すぐには気づかなかった。

「……ですか?」

「え……?」

 伊佐治が顔を上げると、そこにはスーツ姿の若い男が立っていた。

「大丈夫ですか?」

 青年はもう一度伊佐治に声を掛ける。

「あ、あ……」

「おう、兄ちゃん。こいつぁ、痴漢でよ。ちょっと手伝ってくれ」中年が伊佐治の腕を取りながらそう言った。

 すると青年は不思議そうに首を傾げ、伊佐治を見つめる。

「そうなのですか?」

「ち、ちがっ……」

 伊佐治は顔をぐしゃぐしゃにしながら首を振った。

 青年は柔和な顔つきを崩さず、伊佐治に覆い被さっている中年に顔を向ける。

「違うみたいですよ?」

「阿呆か。痴漢はみんなそう言うんだよ」

「ふうん」青年は一度頷いたが、すぐに首を傾げた。「しかしそれはおかしいですね」

「ああ?」

「あなたの仰るとおり、痴漢が全員やっていないと言うのであれば、それはつまり、全員が痴漢ということになってしまいます。ちょっとその理屈は、論理的ではありませんね」

「う、うるせーな! いいんだよ、そんな屁理屈は、今はどうだって! とにかくこの男は痴漢なんだよ」中年は口角泡を飛ばす。

「何か証拠があるのですか?」

「いちいちうるせー野郎だな、お前は! 嬢ちゃんが痴漢されたって言ったんだよ!」

 そう怒鳴るように言うと、中年は振り返った。そこには痴漢被害に遭われたと言う、女性が立っていた。

「なっ? そうだろ?」

「はい……」

 中年が尋ねると、女性は静かに、しかし力強く頷いた。そして倒れている伊佐治を虫でも見るかのように、冷ややかに見下ろしていた。

「なるほど。現行犯というわけですね」

「おおう、それだそれだ。現行犯逮捕ってやつだ。な?」中年は大きく頷き、再び女性に同意を求めた。

「失礼ですが、あなたは本当にこの男性に触られたのですか?」

「え?」女性は一度大きく瞬いた。

「何か物が当たってしまっただけとか、そういうことは考えられませんか? 何しろ通勤ラッシュ時ですからね。車内も相当混んでいましたし、勘違いということも充分に」

「いいえ。この人に触られました。間違いありません」

 青年を遮るような形で女性は断言した。

「他の人という可能性も」

「ありません。間違いありません。この人に触られたんです」女性は再び青年を遮り、今度は少し感情的に叫んだ。

 伊佐治は口を挟まなかった。いや、挟めなかった。当事者の、その筆頭であるにもかかわらず、伊佐治は事の成り行きをそっと眺めていることしかできなかった。もしかしたら、傍観者になりたかったのかもしれない。関係のない、赤の他人になりたかったのかもしない。その思いが、伊佐治を論争の輪に入らせなかった。

 とりあえず今は、伊佐治は青年に託すしかなかった。自分が何を言っても信じてもらえず、押し切られてしまうだろう。痴漢行為をしていないことを証明することは、それは悪魔の証明に他ならない。不可能に近いほど難しいそれは、やさしく迎え入れ決して逃がさない牢獄だ。

 伊佐治は、壊れそうだった。

 突然現れた青年に縋ってもいいのか、心が揺れ動く。死ぬしかないと、そう思っていたところに現れた一縷の望み。そんなか細い糸に手を伸ばしてみても大丈夫だろうか、と自問する。それにしか、縋るものは何もないというのに。

 死を決意した人間に、生をちらつかせるのは、死神の悪戯だろうか。

 これ以上心を乱されたら、もう……、保てない。

 心情的には、飛びつきたかった。わずかでも芽が出てきたのなら、それに全力で縋りたかった。

 だがもし、それで駄目だったら……。そう考えると怖かった。

 青年が何者かはわからない。しかし恐らくは最後の希望だろう。

 だからこそ、青年に期待するのは我慢するしかなかった。彼に縋れば、心の気圧を下げてしまう。そうなれば、ぶれてしまう。死の決意が鈍ってしまう。そうして残るのは残酷な生き地獄だけだ。それにはもう、精神が保たない。自分を保つために、精神の崩壊は免れない。

 伊佐治は、自分でもよくわからなかった。

 このわずか十分足らずの時間で、彼の何十年という人生は大きく歪められてしまった。正常な判断ができるはずもなかった。

「おう兄ちゃん。あんたは関係ないんだから、もうどっか行くか、駅員呼んでこい」

 中年はそう言ったが、すでに異様な事態に気づいた駅員がこちらに向かってきていた。

 こちらへ向かってくる駅員を横目で見ながら、青年は中年に言った。

「この場は私に預からせてもらえないでしょうか?」

「はあ? 兄ちゃん何言って」

 青年は胸ポケットから何かを取り出し、それを中年に差し出すと小さな声で耳打ちをした。

「うっ……」

 中年が言葉に詰まったかと思うと、伊佐治は圧迫から解放された。嘘のように、あっさりと拘束が解かれたのだった。

「え、ちょっと!」

 それに異を唱えたのは女性だったが、伊佐治が起き上がったころには中年の姿はすでに見当たらなかった。

 何だ?

 何が起きている?

 伊佐治は青年を見た。端正な顔立ちに、柔らかい笑み。黒髪は短く、ヘアワックスで立たせている。縁無しの眼鏡の奥には切れ長の目。しかし受ける印象はとても柔らかなものだった。彼を見て、伊佐治は学生時代の爽やかな生徒会長を思い出した。

「あ、申し遅れました。私、こういう者です」

 青年は心が晴れるような笑顔を見せ、伊佐治に名刺を差し出した。伊佐治はそれを受け取り、視線を落とす。名刺に書かれた肩書きを追っていくと、思わず声が出た。

「え……、べ、弁護士……?」

「なっ」

 伊佐治だけでなく、女性も口を閉じることも忘れ驚いた。

 弁護士だと言われて、青年の胸元に金色に輝くバッジに気がついた。平等を表わす、天秤が彫られている。

「はい」

 青年は笑顔を崩さずに続けた。

「痴漢冤罪を専門に弁護活動をしています。篠崎しのざきと申します」

 さわやかな青年は篠崎と名乗り、伊佐治に、そして女性にやさしく微笑んだ。

 伊佐治は何のリアクションも取れなかった。篠崎が弁護士を名乗った時点で極度の安堵に襲われ、放心状態にあったのである。胸を撫で下ろすことも、ほっと息をつくこともできはしない。不意に訪れた救済は、それまでの緊張や絶望が強ければ強いほど、大きな解放感を伊佐治にもたらした。

 あまりの安堵に、無表情のまま涙を流す。息も出来ないくらいに体が震え出したのは、それからすぐにことだった。

 対して顔を歪めていたのは女性だった。彼女は青筋立てて篠崎を睨んでいる。

「ちょっと! どういうことですかっ?」噛みつかんとばかりに、女性は篠崎に詰め寄る。「痴漢冤罪が専門って! それ、どういうことですかっ?」

「何かお気に障りましたか?」

 獰猛な獣を軽くあしらうように篠崎は笑顔を絶やさない。その余裕ある態度がしかし、女性の神経を逆撫でする。

「私は! この人に、触られたんです! この人は痴漢なんです! それなのに、あとから出てきた関係のないあなたが、それを冤罪だなんて言うんですか? 冗談じゃない、冗談じゃない!」

 女性は烈火の如く怒りを露わにする。

 辺り構わず怒鳴り散らす女性に、伊佐治は圧倒されながらも、どこか奇妙な違和感のようなものも覚えていた。

 こんなに怒るものなのだろうか?

 痴漢被害に遭ったにもかかわらず、それを否定されたから?

 それとも……、何かを焦っている?

 だとすれば、何を……?

 篠崎の登場、そして彼の助け舟に、伊佐治は安堵し、心を落ち着かせることが出来た。そしてそれと同時に、いつもの穏やか思考が取り戻すことも出来つつある。

 あれほど歪んでいた世界も元に戻り、いつもと変わらない風景を映している。

 伊佐治は女性をゆっくりと観察出来るまでに回復しつつあった。ヒステリックに叫んでいる割には、年齢はかなり若そうに見える。伊佐治の目には、女性は二十代に映った。

 ベージュのピーコート。その中に着ているのはグレーのスーツ。髪は肩よりも長めで茶色。化粧気が強いものの、目鼻は整っていて美人と言える顔つき。身長は伊佐治よりも高めだが、それは履いているブーツの影響かもしれない。

 伊佐治は、初めて見る女性だった。

 いつも乗る列車は時間帯、乗り込む車両も含めて毎回同じだった。通勤ラッシュ時のため満員ではあるものの、乗客はやはりいつも見る面子が多い。名前はもちろん知らないし、言葉を交わしたことさえなかったが、それでも伊佐治は十年近く同じ路線を利用しているので、大体の顔は把握している。乗客全員を注意深く観察しているわけではないので断定することは出来ないが、伊佐治がこの女性を見た記憶はなかった。

 女性はいつから乗っていたのだろう。

 伊佐治は今朝の記憶を必死に辿る。伊佐治が列車に乗り込んだ際、車内はすでに混み合っていた。そのため他の車両から移動してきたということは考えにくい。このときはまだ女性の姿はなかったはず。

 次の駅で乗り込んできたのだろうか……?

 女性を見ていると、柔らかい香水の臭いが鼻を衝いた。それを嗅いだ記憶があった。

 いや……、違う、そうじゃない。

 列車に乗り込んですぐ、伊佐治は同じ臭いを嗅いでいる。普段は嗅ぐことのない臭いだから覚えていた。女性は伊佐治のあとに続いて、列車に乗り込んだのだ。

 そこでまた奇妙な違和感が伊佐治の頭を突いた。

「あなたはこの人に触られたと、そう言うわけですね?」篠崎が女性に質問を重ねている。

「だから何度も言ってるでしょ!」激昂する女性。「私はこの人に触られたんです、襲われたんです。何度も止めてとお願いしたのに、執拗に私の……」

「どこですか?」

「なっ、そ、そんなの言うわけないじゃない。何考えてるんですか、あなたは!」

「…………」

 伊佐治は二人のやり取りを眺めているだけ。口を挟む余地はなかった。

 感情的に騒ぐ女性に対し、篠崎は理知的に追い込んでいく。伊佐治が見ているだけでも、篠崎は圧倒的だった。小さな論理を重ねていき、相手の逃げ場を徐々になくしていっている。まるで追い込み漁のように、巧みな話術で相手を誘導し、反論の余地を確実に奪っていった。

 女性は醜く藻掻くだけ、感情的に怒鳴り散らすだけ。

 その姿を見ていると、先ほどまでの自分は何に焦り、恐れていたのかと自問したくなる。自殺をしようとするまでに追い詰められていたのが嘘のようだった。

 こうして落ち着いて観察していると、女性の過度の怒りは、何かを隠しているように見えた。

 そんな焦りの色が見えている女性に対し、篠崎はやさしく言った。

「ここでは何ですから、場所を移しましょう」

「はぁ?」

「あのう、どうかされましたか……?」不穏を嗅ぎつけた駅員が近づいてきて、訝しむ目をこちらに向ける。

 篠崎は駆け寄ってきた駅員に広げた片手を見せて制し、女性に向かって攻撃的に微笑んだ。

「困るのはあなただと思いますが。どうしますか?」

「…………」

 女性は歯を食い縛るようにしながら、篠崎を睨んだ。

 無言は同意の証として篠崎は受け取り、満足そうに微笑み頷いた。そして彼は駅員に向き直り、やはり柔和な笑顔で対応した。

「お騒がせして申し訳ありません。もう大丈夫ですので……」

「え、あ、はあ……」

 怪訝な表情を浮かべて首を捻る。しかしそれ以上は駅員には何も出来ず、こちらの様子を窺いながら離れていくしかなかった。

 駅員が離れていくのを横目で確認してから、篠崎は女性に、そして伊佐治に向かって言った。

「では参りましょうか」

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