ミサキ・ミサキ・ミサキ

「あ、おかえりなさい、宮澤さん」

 帰宅したとき、そんな声が響くのは心地いいものだ。最近になってつくづくそう感じている。

 帰宅した僕を待っていたのは、一冊の本と一人の少女だった。翔子はすでにテーブルに本やカバン、それから何やら紙袋を広げていた。袋の側面には洋菓子店の名前が記されている。中身はケーキだった。

「お土産買ってきたんです。午後の授業、めずらしく休講になったので」

「ずいぶんと高そうなケーキだ。紅茶でも淹れるよ」

 言って、僕は台所へ向かった。

 キッチンからは、ちょうど彼女が返しにきた本が見えた。机の上にちょこんと乗せられた、一冊の文庫本。久高先輩の小説。

 翔子が二周目最後の一冊に選んだのは、『U19 Girl』。それは久高先輩が初めて作った本だった。その当時、僕はまだ大学一年生で、先輩とはまだそこまで仲良くなかったから、制作の経緯については詳しくは知らない。ただその本はいくらか余っていて、僕はその余りをもらった。そのことだけは覚えている。

 先輩は『U19 Girl』についてこう言っていた。


     †


「それはきっと、ずうっと未完成のままだと思うわ。ずっと、ずぅーっと。未成年アンダー・ナインティーンのままなのよ、それは。ずっと未完成のままなのよ。だからこそ私は、その本に加筆修正を続けると思う。それはライフワークというよりは、呪いというか……そうね、呪い。呪縛のようなものなのよ。でも、これは未成年の感性でしか書けない小説なの。だから、大人になった私がを未完成だと感じていたとしても、改稿しようにも、どうやってもできないのよ。ぜったいに完成なんてしない。だって、私はもう大人だから。もう感覚が鈍麻してしまったから。間違ってると思っても、正解を答えることができないのよ。だからその本はずっと未成年のまま。私は十九歳の私に呪われ続けるの」


     †


 そのことについては、僕も納得している。

 その本は、先輩の残した小説の中でも異質なものの一つなのだ。

 主人公は、名前を持たない一人の少女。仮にミサキという名を与えられた彼女は、本当の自分の名前を求めて様々な場所を旅する。はじめは彼女を育てた孤児院。次に東京の街。そして沖縄へ。舞台ごとに章立ての変わる物語は、関連しているように見えて、まったくつながりがないようにも思える。どれも同じ「ミサキ」という少女によって語られているのだが、それはすべて別の物語のようにも考えられるのだ。

 孤児院で兵士として育てられる「ミサキ」。

 東京で娼婦として虐げられる「ミサキ」。

 沖縄の太陽の下、自分の名前を探す「ミサキ」。

 同じ人物のはずなのに、そこに筋は通っていないのだ。三人のミサキがどのような時系列で孤児院、東京、沖縄を行き来したのか。それがまったく記されていないのだ。

 それを構成のなっていない駄作ととるのか。それともすべてが計算し尽くされた傑作ととるのか。それは人それぞれだ。

 だからこそ、先輩は悩んだのだろう。

 未成年の時の感性は、もう戻ってこない。いくら書き足そうにも、少女ミサキには大人の視点が入り込み、完全な物語ではなくなってしまう。不完全で、完全体。それがこの小説の正体だと、僕はそう感じている。

 ただ翔子はそう感じていなかった。


「あの小説にも、きっと続きがあるんですよ。でも、久高さんはそれを読者に委ねたんです」

 翔子は買ってきたケーキをとりわけながら、『U19 Girl』について口にした。銀座で買ってきたというミルフィーユは、とてもフリーターの僕には手の出せない品だった。

「あれは未完成だよ。先輩がそう言ってた。あれは、未成年のときの感性でしか書けないもの。だから、どうやっても完成させられないんだ」

 僕は台所で紅茶を淹れながら答えた。

 それから僕はティーカップを二人分持って行った。翔子は机に並べたケーキを眺めながら、しかし甘いものを前にした女子とは思えぬ表情をしていた。神妙な、深い思索を巡らせるときの顔だ。

 紅茶を置くと、彼女はようやく思考空間から現世に戻ってきた。

「思ったんです。あれって、少女が大人になるまでの話なんじゃないかって。名前を探すというか、名前をもらう話なのではないでしょうか?」

「名前をもらうって? 元服みたいなものか? でも、あの小説の終わりは――」

「はい。沖縄に行って、お墓参りをして終わりです。誰の墓かもわからない墓標を前にして、スピリチュアルというか、神秘体験みたいなものをするわけでもなく。ただ墓と顔を見合わせて終わりです。本当の名前もわからずじまいだし、ミサキがどうして沖縄にきたかもわからない。そのお墓がミサキの血縁者のモノなのかもわからない。すべて読者に託されているんです。なにをつなげるか。なにが彼女にとって真実だったのか。それら迫り来る現実をどう理解していくか。それが答えだったのではないでしょうか」

「迫り来る現実をどう理解するか、か。ずいぶんと抽象的な話になってきたな」

「えっと……ごめんなさい」

「いいよ。僕もそういう話は好きだから。抽象的で、哲学的で、形而上学的で……。きっと、だから久高先輩の小説が好きになったんだろうな……。ほら、さっさと食べよう。紅茶も冷めてしまう」


 ティータイムが一段落したところで、翔子は思い出したように手を叩いた。それはまだ日も暮れていない六時半のことだった。

「そうです、忘れてました! 今日はご相談したいことがあったんです。あの、宮澤さんって車の免許持ってますか?」

「免許だって?」

 僕が驚いたように問い返すと、翔子は何度も首を縦に振ってみせた。

「はい、普通自動車免許です。オートマ限定でもかまわないのですが」

「いちおう持ってるけど。急にどうして?」

「実は、わたしの両親が別荘を持ってるんです。でも長いこと使ってなくて。せっかくだから、掃除がてらサークルの友達を誘って使ってくれって言われてるんです。それで、運転手が必要でして」

「サークルの友達に聞けばいいじゃないか。免許持ちの一人ぐらいいるだろう?」

「本の読めない文学研究会員がどんな扱いか、宮澤さんわかりますか?」

「煙たがられて部室にも行けないとか?」

 翔子は申し訳なさそうに小さくうなずいた。仕方ない、彼女は本を読むことに吐き気を覚えているのだから。活字中毒の人間から疎ましく思われるのは、仕方ない。

「で、その代役として僕に白羽の矢が立った、と」

「代わりといいますか……。まあ、端的に言ってしまうと、まあ、そうですね。両親の頼みも断れませんし。大学での人間関係が上手くいってないとも言えなくて……」

「大学以外の友達は?」

 僕がそう問うと、翔子は首を横に振った。

「高校時代の友達はいるんですが、みんなまだ免許は持ってなくて……。別荘の場所が結構辺鄙へんぴなところでして、車がないと不便なところにあるんです。それで、もし宮澤さんが車の免許を持っていたら……」

「代役を頼もうと」

「まあ……そういうことです」

 縮こまる翔子。

 僕は彼女を落ち着かせるように重い息をついた。

「いいよ。三日間ぐらいなら、バイトも休めると思うし。付き合うよ」

「本当ですか?」

「ああ。明日あたり店長に聞いてみるよ。それより君の都合は大丈夫なのか?」

「大学は来週で試験期間も終わって夏休みですので。八月中ならいつでも大丈夫です」

「そうか。ならいいんだが」

 そのときの翔子の顔と言えば、先ほどとは打って変わって笑顔がぱあっと花開いていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る