一万分の四十冊


     †


 この本は、炎の中から生まれたのかもしれない。

 ある日、書物たちは炎の海に産卵した。私はその光景をこの目で見たし、助産師のような仕事もした。産み落とされたのは、およそ数百、数万、数億という文字の卵たち。しかしそのうち実際に孵化できたものは、ほんの一握りにすぎなかっただろう。さらに言えば、成長して一人前になり、砂浜へと戻って来られたのはもっとわずかなはずだ。

 だからここにあるものたちは、炎の中から生まれた選りすぐりのものたちだ。長い執筆という旅路を経て、ようやく生を形作ることができた。一人前の、選りすぐりの、素晴らしいものたちだ。

(久高美咲『海の中』あとがきより)


 こんな文章を恥ずかしげもなくあとがきに載せられるのは、おそらく世の中で彼女ぐらいなものだろう。いま僕の目の前でハイネケンを飲む久高美咲という女性は、まさしくそんな人間だ。

 僕は大学近くのバーで、先輩に一杯だけ付き合うことになった。

「本が出来たから、受け取ってほしいの。表紙、すごくきれいにできたから。お礼にビールでも奢るわ」

 そう言われて、今に至る。

 僕らは薄暗い半地下の店内で、スタンディングの席でビールとタバコに興じていた。先輩は相変わらずのハイライト・メンソール。僕はダンヒル・ライト・ファインカットだった。

 スーパーキングサイズのダンヒルは、思った以上に長いタバコだ。キングサイズは所詮フィルターが長いだけだと言う人もいるが、僕はそれに同意しない。たしかにフィルターは長いが、そのぶん一本をゆっくりと楽しむことができる。タバコとは、生き急ぐ人間のために与えられた嗜好品。その一瞬で命を削り取っていく。刹那主義のシンボル。だからそんな儚い一瞬ぐらいじっくり楽しんでいいじゃないか。僕はそう思っている。

 先輩に奢ってもらったハイネケンは、よく冷えていた。瓶のままラッパ飲みしながら、僕らは一冊の本に目を落としていた。

 波打つような厚みのある青。乱雑に塗りたくられたアクリル絵の具が幾重にも重なり影を落としている。そしてその上に振りかけられるは、黄色の粒たち。先輩曰く、おしっこだ。

「綺麗じゃないですか。この印刷、いくらかかったんですか」

「一月のバイト代がきれいさっぱりすっ飛ぶぐらい。結構したわ」

 言って、先輩は煙をふかした。

「ちなみにタバコ何箱ぶんだと思う?」

「百箱ぶんとか」

「そうね。だいたいそれぐらいかも。……この小説は、タバコ百箱ぶんの価値しかない。でも、少なくともタバコ百箱ぶんの価値がある。ねえ、人生で吸えるタバコの量ってどれぐらいなのかしら。私たちはこの人生の中でいったい何本のタバコを吸えるとおもう?」

「さあ。でも、タバコ一本で寿命が五分縮まるって聞きましたよ」

「じゃあ、少なくともこの小説には人生のおよそ――そうね。一本五分で、一箱が二十本だから……タバコ一箱で一〇〇分の人生を無駄にする。それが百箱だから、つまり――”一万分”の時間を捧げる価値があるってことね」

 そう言ってまた先輩はタバコを吸った。

 僕は本を手に取り、ページを繰った。

 一本が五分。一ページは何分だと、そう思いながら。


     †


 しばらくのあいだ志乃原さんは、無言で『海の中』を読み続けた。そのあいだ彼女が何か挙動を見せることはなく、ただひたすらにページを繰り続けた。まるでそれしかできないように。彼女はクリーム色の紙片から片時も目を離さなかった。

 やがて彼女が目線を上げたのは、喫茶店の客入りもまばらになったころだった。昼時にやってきたサラリーマンたちは失せ、代わりに入ってきたのは年金暮らしの老人たち、それから昼下がりの主婦たち。さきほどまで喫煙所からしていた仕事の話は、いつしか中身のない政権批判に変わっていた。

「これ、お借りしてもよろしいですか?」

 本を閉じ、目線を上げて彼女は問うた。

「かまいませんが。どうです、それは『生きている本』でしたか?」

「それはわかりません。でも、少なくともまだ読める本です。……って、ごめんなさい。これって書いた人に失礼な言い方ですね。でも、すみません。悪いように取らないでください。読めることって、わたしにとっては褒め言葉というか、なんというか……。とにかくこの言い方は正しいんです。あの……。実はわたし、文学研究会にいるのに本が読めないんです」

「はあ、本が読めないといいますと」

 読字障害ディスレクシアか?

 一瞬そう疑ったが、彼女の矢継ぎ早な言葉がそれを否定した。

「いえ、そんな病気とか障害ってわけではないと思います。だって文字は読めますし、文章も理解できる。教科書だって普通に読めるんですよ。なのに、小説は読めないんです。読んでも、読んだ気がしないというか。なにも入ってこないんです。

 本は好きなんですよ。でも、むかしから小説を読んでも、その内容が頭に入ってこないというか。途中から気持ち悪くなってきて、吐きそうになって、めまいがして……。結局、読めなくなるんです。文学研究会に入ったのは、そういうサークルに入ったら治るかなと思って。荒療治みたいなものだったんです」

「サリンジャーは読めたんですか?」

 彼女は首を横に振った。

「途中までは読めたんです。『ライ麦畑でつかまえて』ですよね。あれ、サークルの先輩が勧めてくれた本なんです。「あれは名著だから読んで欲しい。もしそういうを抱えているなら、まず二十歳になる前にこの本を読むんだ」って。そう言われて、読んでみたんです。それにもし英文で読んだら、また何か変わるかなとも思ったんです。

 ……でも、ダメでした。ホールデンはすごく気に入りました。彼の言葉はすごく好きです。とても生き生きしていて。でも、なぜだかわたしは読んでいるうち、吐き気を催して――結局、ホールデンがニューヨークへ向かう途中で読むのを諦めました」

「つまり、志乃原さんの言う『読める』というのは、『吐き気を催さない小説』ということですか?」

「はい、その通りです。吐き気というか、拒絶反応というか、そういったものを引き起こさない本。わたしが読んでいられる本のことです」

「そして、それが『生きている本』……?」

「きっとそういうことです。……すみません、実はわたしにもよく分からないんです。でも、そういうことなんです。わたしが吐き気を感じるのは、なにか、こうショッキングなモノを目にしたときの感覚というか。死体を目にしたような感覚に似ているんです。って、死体を見たことなんて無いんですけどね。でも自然とそういう拒絶反応が起きるんです。小説を読むと、まるでそれが死体のように見えてならないんです。

 けど、この小説には不思議とそれがない……。だから驚いています。まさかこんな本があったなんて。……って言っても、これからまた読み進めていくうちにダメになるかもしれませんけど」

 彼女はそう言って、『海の中』を片手に微笑んだ。

 変わった話だ。ふつうの少女なら、むしろサリンジャーを読んでいるほうが何も感じないはずだ。退屈な少年の独白だとか、それぐらいにしか思わないはずだろう。なのに彼女は、性器とそれが放尿をする様だとか、その情景や心理描写なんかを事細かに書き記した先輩の小説のほうが吐き気を催さないと言っている。彼女は変わった子だと思った。いろいろな意味で。


「今日はありがとうございました。本当に、まさかこんな本に出会えるとは思ってませんでした」

 一冊の小説を鞄に戻し、志乃原翔子は小さく微笑んだ。自然と僕も笑っていた。

「いえ。こちらこそお役に立ててよかったです。「生きている本が読みたい」なんて聞いたときは、びっくりしましたよ。なにを言ってるんだ、この客は? みたいな」

 微笑。空になったコーヒーカップが揺れる。ハイライト・ブルーのスカーフが優しい青色をしていた。

「困った客ですよね。でも、本当にありがとうございました。あの、よかったら。これ、コーヒー代です」

 と、突然彼女は鞄の中から財布を取り出すと、千円札を二枚を机に置いた。

「いえいえ、とんでもない。奢ってもらうなんて」

「感謝の気持ちだと思ってください。あるいは、貸出料金だとでも。コーヒー代なんて大した金額でもないですから」

「いや、しかし――」

 奢られることに抵抗はない。僕は先輩に何度も奢られてきた。酒も、ホテルも、コンドームも。だけど彼女にそうされることだけは、何かまずいような気がしたのだ。年下に奢られるのがイヤなのか?

「受け取ってください。その代わりと言ってはなんですが、今後もこういった本を教えてください。その依頼料だとでも思ってください」

「いや。ですが、それは……」

「お願いします」

 一度言ったら食い下がらない。メールの文面からでも薄々感づいていたが、やはり彼女はそういう性格だったのだ。

 仕方なく、ここは僕のほうが折れることにした。

「わかりました。お気持ちとして受け取っておきます。それから本ですが、返すのはいつでもかまわないので。なんなら僕のアパート宛に郵送してもいいので。それから、もしほかの本が読みたいのなら、その久高美咲の小説は何冊か持っていますので。お望みであればお貸しいたします。……それでいいでしょうか」

「はい。ありがとうございます」

 そう言って、彼女はまた僕に礼をした。深々と下げられた頭は、初めて会ったときと一緒だった。


 そうして僕らは分かれた。志乃原さんは講義があるからと大学へ。僕は夕方からのバイトに出た。

 仕事の最中、彼女のことが頭から離れなかったことは言うまでもない。だけどその思いのなかには、久高先輩への思いも幾ばくか含まれていた。

 僕が好きだった久高先輩。僕があこがれ続けた久高先輩。志乃原さんはそれを読んだとき、何を思うのだろうか。僕のように今の彼女を思って泣きたくなるのだろうか。

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