第29話「毒気」


「どうも」

 ぼそりと言って、琉樹が軽く頭を下げたのが腕の引きで分かった。楓花は欄干に張りつくようにして上を見る。だけど僅かに横に傾いていた顔は正面に向き直っていて、その表情は見えなかった。

 男は、わざとらしい咳払いを一つすると、

「三年ぶりだな。元気そうで何よりだ。喉が渇いた、茶を淹れてくれ」

 琉樹が体を強張らせたのが伝わる。だがそれも一瞬のこと、彼はすぐに背を預けていた欄干から体を浮かせた。手の力が緩んで、解けかける。

 そのとき。

「琉樹、そんな必要はありませんよ」断固とした声。

 その声は続く。

「茶をご所望ならば、外にいくらでも茶店がありますから、そちらへどうぞ。彼は私の大事な客人です。あなたが粗略に扱える筋合は、どこにもない」

「――へえ、客人」

 声には明らかな侮蔑があった。

「彼はすでに僧籍を得ております。あなたと立場は何ら変わりません」

「坊主! これのどこが」

 吐き捨てた男は、しばし無遠慮に琉樹を眺めまわすと、

「有髪に俗衣の坊主ね、僧籍剥奪ものだな」

 そう言って、鼻で笑った。

「お疑いでしたら、あなたでもご存じの経を唱えてもらいますが」

「――経など、適当に並べればそれなりに聞こえるものだ」

 その言葉を、今度は志均が鼻で笑い、

「ですから、ご存じの経をと申しておりますのに。まさかとは思いますが、今や庶民ですら口にできる平易な経文すら覚えておいでではないと? そういうことでしたら、こちらで経典を用意させますので、彼に諳んじてもらいましょうか?」

「……。その必要はない。何が楽しくて、辛気臭い経など聞かねばらなぬのだ。は寺でもあるまいに」

「あなたがお疑いになったからですよ。私が好まないものですから、邸内では法衣を脱いでもらっております。それに彼は華厳宗の僧――よもや華厳宗が有髪僧を認めるを、ご存じないわけではありますまい?」

「えっ……」

 思わず声を漏らしたのは珪成である。

 無理もない。華厳宗はここ半世紀の内に台頭してきたばかりの新宗派であるが、そこは琉樹が属していないばかりか、有髪僧など認めてもいない。つまりはでたらめな話である。

 しかし男は、

「知っておるわ! そうか、華厳だったか」

 妙に大きな声は無様に裏返った。声が喉に来たのか、激しく咳き込む。

「面白い方ですね」

 珪成が身を寄せ、口元を手で隠しながらささやいてきた。楓花は笑顔で頷いて見せた――つもりだが、ただ口元が歪んだだけのような気がする。

 軽い咳払いが聞こえて揃って上を見ると、琉樹が肩越しこちらをちらっと見下ろして、口角を上げてみせた。そうして再び、正面に向き直る。

 ようやく咳を収めた男は、そこで「そうだ」と一言呟き、


「時に――あの女はどうした」


 今しがた緩んだはずの心身が、再び強張る。解けかけた手を握り直していた。

 亭台に落ちる僅かな沈黙。破ったのは志均だった。

「……。お話、分かりかねます」

「そういえば婚約者がいるそうだな。相手はこの家の向かいの老夫婦に引き取らせて花嫁修業中の身だとか。大層なかわいがりようだと近所で評判だったぞ。残念ながら向かいの家は不在だったのだが、まさか相手は――」

 そこで志均はハッと吐き捨てるように笑い、

「噂話を聞いて回るなど、また随分と品のないことを」 

 だが、冷やかに言い捨てる志均の言葉など全く耳に入らないように、男は続けた。

「まあそうでなければ、家を出た意味がないな。『婢を正妻つまにする。妾は持たない』などとのたまって父上の逆鱗に触れた身なのだから。――父が気紛れで手をつけた下女から生まれた卑しい身でありながら、我らと全く同等の扱いを受けた恩を忘れ、父に逆らったのだ。まさか今さら、あのときの発言を後悔してはおらぬだろうな」

 嘲りも露わに投げつけられた言葉に志均は、

「後悔など、するはずもございません。私は、妾は持たぬと決めたのです。母が亡くなってもう十年にもなろうというのに、丈夫おっとを呪い、正妻を呪い、嫡子あなたたちを呪い、絞り出されたあの叫声、怨言、人のものとは思われぬあの、恐ろしい目――未だに離れない。私は、人のあのような姿を見たくない。もう二度と」

 静かな声で、だがまるで自らに言い聞かせるように言葉を繋げた。

「それは立派なことだ。だが――」

 男はそこで言葉を切った。

「おまえはいい。好きでそう決めたのだから。だがあの女は?――本来、奴婢は奴婢同士でしか婚姻できないもの。すでに決まった相手がいたのではないか。例えば――この男とか」

 握る手にどちらが力を込めたのか、分からなかった。

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