第壱話


 積もる話と云っても。

 いざ改まってみると、一体何を話せば良いのやら。

 全く、困りましたねぇと胸中で呟き、草雲は手に持ったお茶を一口喉の奥に流し込んだ。少し前に運ばれてきてから放置されていたお茶は、熱くも無く冷たくも無い、所謂ぬるいと感じる温度になっている。その為、熱いものが苦手な彼でも問題無く飲める程度になっていた。

 とりあえず、と先程一悶着あった橋から然程遠くも無い場所に暖簾を出している甘味処で一休みをしながら、何を話したもんかと悶々と考え込んでいるのである。ほぼ勘当状態である為、久しぶりに妹に再会したと云っても家に帰って落ち着いて話をするわけにも行かず。だからと云って、自分が執筆をする為に使用(もちろん、住まいとして借りたのであるが、執筆している時以外は居ついた事がない)している小屋に案内するのも何となく気が引けた。そこで、丁度良く目に付いたこの甘味処に腰を下ろしたまでは良かったのだが、これはこれで二人並んで黙々と茶菓子を食べ続けるだけになってしまっている。どうにも、上手い話題ときっかけが見つからない。

 案の定。

 不機嫌そうな顔をして餡蜜をざくざくと突いていた千花が、ぼそりと口を開いた。

「それで、兄様。一体いつから、あんなガラの悪いのと付き合うようになったのよ」

「嗚呼。雷封さんの事ですか?」

「ふーん。雷封って云うの」

 ざくりと力を入れて白玉をもう一突き。

 不機嫌そうな、ではない。これは、誰がどう見てもあからさまに不機嫌だ。

「ええ、ひょんな事から知り合いましてね。それ以来、何度か祓い屋仕事に立ち合わせていただいたりしているんですよ。まぁ、立ち合わせてもらっていると云っても、単なる成り行きでそうなっているというだけで、私はただそこにいるだけなんですけどね」

「祓い屋! やっぱり、胡散臭い事してるのね」

 一言で切り捨てる。話題にのぼっている青年の義弟がこの言葉を聞いたら一体何と云って反論するだろうかと考え、草雲は苦笑いを浮かべた。

 何とも、複雑な心境だった。妹の性格から云って、雷封と鉢合わせたらこうなるだろう事は想像に難くはない。

 というよりむしろ、予想の範疇である。そうなると、自分が雷封に援護を頼んだ手前、何故先程戦っているのが妹である事に気が付けなかったのだろうと悔やんだ。でも、だからと云って、妹だと分かっていたら尚の事放っておけない。つまり、どちらにせよ見て見ぬ振りは出来なかったのだと一人納得してみたり。

 自分が助けられないまでも、困っている人にはどうにも手を貸したくなる性分なのである。それが、儚い女性であったり、自分の可愛い妹であったりするなら尚更見て見ぬ振りなど出来るわけがない。

 ……出来るわけは、ないのだが。

 妹と雷封をあのような形で会わせてしまったのだけは、心底まずかったと流石の草雲も思っている。千花はとにかく、人に助けられる事、人に頼る事を嫌う。つまり、素直じゃないのだ。だから、あんな形で会ってしまうというのは例え雷封じゃなくとも、一番避けなければならなかった事態なのである。

 ふぅ、と小さく息を吐き出し。隣で、相変わらず何かをぶつけるように餡蜜を突いている妹を盗み見る。

 小柄な身体。手の動きに合わせ、小刻みに揺れる緩く編んだお下げ。桃色の着物と紅色の袴。

 そして、脇に置かれているのは、その小さな身体に似合わない、立派な刀。

 人を――殺める事も出来る道具。

 ――私の、所為ですね。

 自分がこんな性格でなかったとしたら。妹がその華奢な手にそんな道具を持つ事は無かっただろうと草雲は思う。彼女が剣を覚えたのは、剣を持つ事を拒んだ自分に代わり、実家である道場を継ぐ為なのだから。

 女だてらに剣を振るう事。それが一体、どれだけ彼女の負担になっているのか、草雲にははかりしれない。真っ直ぐで負けず嫌いな性格故に、女だからと云われぬよう人知れず努力をして来た事を彼は知っている。その努力が実を結び、今では大の大人と渡り合っても引けを取らない程の実力を身につけているという事も。

 だが、それを手放しで喜んで良いものなのかどうか、草雲は分かりかねているのである。

 千花はまだ十七だ。だが、年頃の娘らしい格好もせず、そうした事に興味を持たない。ただ、強くなる事。それだけを目標に日々過ごしているのである。

 だからなのか、自分よりも強い人間には過剰に反応するきらいがあるのだ。それは、羨望でもあり、嫉妬でもあるのだろう。

 先程の雷封への反応を見る限り。こいつには敵わないと悟ったのに違いない。それが、妹の自尊心をいたく傷つけてしまった事も悔やまれるし何より、妹をそんな立場に追い込んでしまったのが不甲斐無い自分自身なのかと思うとどうにも居た堪れない気分になるのだ。積もる話も何も、彼女に申し訳なくて、どうしようもなくなってしまう。

 どうしようもなくなって、ふぅ、ともう一度小さくため息をついた。手持ち無沙汰で口に運んだお茶は、ぬるいを通り越してとっくの間に冷たくなってしまっている。

「……翡翠様、大丈夫かしら」

「雷封さんがついていますから。大丈夫ですよ」

「どうだか。別の意味でも心配だわ」

 あの男、いい加減そうだったし、と、これでもかと甘さを主張しているかの如く餡のたっぷり乗った団子を口に運びながら云う。おや? と思った時は後の祭りで、団子は千花のお腹にしっかりと収まってしまっていた。それは、草雲がお茶と一緒に頼んだ物であったのだが、時既に遅し。皿の上には、甘さを主張している黒々とした餡と、団子がそこにあったのだという事を示す細い竹串だけが綺麗に並べられて置かれている。もちろん、先程まで千花が突いていた餡蜜も、綺麗に無くなっていた。

「まぁ、雷封さんは確かにいい加減に見えますけどね。でも少なくとも、引き受けた仕事に関してはきちんとしてますから大丈夫だと思いますよ」

「仕事に関しては、でしょ。今回みたいなのは報酬も出ないし、あの態度だし。仕事だと思ってるかどうか危ういところだわ」

 ……報酬も、出ないし。

 もしかして、後からとんでもない額の手間賃をふんだくられるんじゃなかろうか。

 ……いや、そんな。

 妹の皮肉に、あまり想像したくない事を思い浮かべたりしながら草雲はふるふるとかぶりを振った。妹の言葉を否定するというより、自分の脳裏に浮かんだその無駄に現実的な想像を振り払いたくて振ったようなものである。

「いや、いくらなんでも。大体、翡翠さんが襲われる場面を実際目撃してるんですし、送るぐらいは真面目にやってくれると思いますよ」

「……ふーん。兄様、やけにあいつの肩を持つのね」

「肩を持つというか……。あの場面に出くわしておきつつ、翡翠さんを放っておけるような男は人として駄目です、ええ」

「……じゃあ、兄様が送って行ってあげれば良かったじゃないの」

 呆れた様に(実際呆れているのだろうが)云った千花の言葉に、私じゃ盾にもなりませんから、とあっさり情けない返事をこぼす。

「それにしても。昼真っからあんな街中で教われるなんてまったく穏やかじゃありませんよ。一体、何が目的なんでしょうかねぇ」

「ああ。相手は、分かってるの」

「え……?」

 千花はつまらなさそうにぽつりと呟くと、龍仙寺りゅうせんじの連中の差し金よ、と云った。

 ――今までも、何度もあった事だわ。

「そんな。龍仙寺と云ったら、季球で一、二を争う程のお寺じゃないですか。そもそも、命の遣り取りに何だってお寺が出てくるんです」

 兄の台詞を聞き、疲れたようにため息をつく。

「あのね、兄様。大きなお寺だから、に決まってるじゃないの。奴らからしてみれば、真光寺が邪魔なのよ。大して大きなお寺でもないくせに、神託の所為で国の主様から絶大な信頼を受けている真光寺がね。だから、あの手この手で翡翠様を亡き者にしようとしてるってわけ。翡翠様は特に神託を授かる能力が強いから、相手も余計に焦ってるんだわ」

「……そんな、でも……お寺、ですよ?」

「それでも結局。動かしてるのは、人だわ」

 吐き捨てるように云った妹の言葉に草雲は、云い知れない寂しさを感じる。動かしているのは、人。妹の云い分は、正しい。それは確かに真実だけれど、彼にはそこまで割り切って考える事は出来ない。どうしても何処か、職業という壁に、そしてそれに縛られる人間というものに期待してしまう。

「もちろん、非公式な情報ではあるんだけど。でも、あたしみたいなのも非公式に雇われてるわけだし、確実な証拠が無いまでも完全に白って事も無いと思うわ」

 いつの間に頼んだのか、追加の餡蜜を受け取って口へ運びながら千花は云った。あああ、そんなに甘い物ばかり食べては太りますよと思わず呟き、じろりと突き刺さる程の冷たい視線で睨まれる。小さく首を縮めながら、意外と地獄耳なんですねぇと今度は心の中でのみ苦笑して、別の質問を口にした。

「非公式に雇われてるって。そうだったんですか」

「ええ、そう。きちんとした公式の外出の時には、警護だってきちんとしたのがつくから。あたしは今日みたいな、非公式の外出時のお供ってわけ。翡翠様だって人間だもの、公式の行事以外で外出出来ないなんて、耐えられないじゃない」

「はぁ。いや、それは分かりますが。でも何だって千花のところに」

「女だから、よ」

「……はぁ?」

「折角の外出、いくら安全の為とはいえ、むさ苦しい男に囲まれてたら伸ばせる羽根だって伸ばせないじゃない。だから、あたしのところに話が来たってわけ」

「……はぁ」

 分かったような、分からなかったような。

 そんな兄の、複雑な気持ちを知ってか知らずか千花は何処となく誇らしげな顔をして追加の餡蜜をつついている。

「……でもっ。危険じゃ、ないですか。さっきのような事が、度々あるのでしょう?」

「もう、慣れちゃった。案外、骨の無いやつばっかりなのよねー」

「な、慣れたって、そんな」

 ――でも結構強いぜ、あの子。

 雷封の台詞が思い出される。彼が云う程なのだから、妹の剣の腕は相当なものなのだろう。いくら雷封でも、あの場面で嘘はつかないと思いたい。

 だけど、いくら強いと云ったって。

「だって、慣れるしかないじゃない。引き受けちゃったんだし」

「簡単に云いますねぇ」

「難しく云ったってしょうがないし。誰かが守ってくれるわけじゃないんだもの。あたしが、翡翠様を守ってあげなきゃならないんだから」

 それとも。

 兄様が、守ってくれる――?

 そんな台詞を妹が本気で口にしたわけではないぐらい、草雲にも分かっていた。それでも、そんな事を云われてしまうと流石に黙ってはいられない。

「そ、そりゃあ! 私だって、千花が危ないとなったら何としてでも守りますよ! 命を賭けてでも、守ってみせます!」

「あたしは、命なんて賭けてもらいたくないわ」

 冷めた口調で、珍しく大声で宣言した草雲をあっさりと撃沈させる。

「命なんて賭けてもらったって、嬉しい事なんて何も無いもの。そんなものを賭けないとどうにも出来ないのなら、守ってなんて欲しくない」

「あ、いや、命を賭けてでもというのはほら、それぐらい大事だって事で、ホントに賭けるわけでは」

「……分かってるわよ、そんな事」

 しごろもどろになりながらぶつぶつ弁解をする兄を冷ややかに見つめ。ただ、例え話でも嫌いなの、とぽつりと云った。

 その時の千花の表情が、草雲の脳裏に焼きついて離れない。

 怒っているように、少しむくれた顔をしながら。

 それでいて少しだけ、泣き出しそうな。

 少女と大人の狭間で揺れる、複雑で繊細な表情。

 そんな妹の顔を、初めて草雲は見た。

 ――嗚呼。

 ほんの一寸見ないうちに、千花も大人になったんですねぇ。

 そんな事をほんのりと思いながらも、でも、追加の団子は止めておいたほうが良いですよと余計な一言を口走り。

 ――ぱしーん。

 何処までも、青く晴れ渡った秋空に、乾いた張り手の音がよく響き渡ったのだった。



 言葉を交わす事無く、二人は黙々と表通りを歩いていた。

 少し遅れて歩く雷封の顔には何の表情も浮かんでいないが、彼が時折見せる触れたら凍ってしまいそうに研ぎ澄まされた冷たさも伴ってはいない。やる気が無いのか虫の居所が悪いのか。極力、真光寺翡翠を見ないようにしながら、ただ押し黙って後をついて歩いているのである。つまり、目が見えないはずの翡翠が赤毛の青年を先導する形になっているのだが、そんな事とはまったく知らぬ人間が見ても翡翠の淡い翠色の瞳が何も映さないのだなどと感づく者はいないだろうと思えるほど、彼女の歩みは自然で危なげがない。

 ふと、先を歩く翡翠がその足を止め、雷封を振り返る。それもまた、彼女が光を失っているとは微塵も感じさせないごく自然な動作だった。

「少し、寄りたい所があるのです。寄り道しても、構いませんか?」

「別に俺は、あんたを送ってくれと頼まれただけだ。寄り道しようがどうしようが、最終的に真光寺に辿り着けりゃア構わねェよ」

 好きにしてくれ。

 投げ遣りにそう云うと雷封は、すぐに翡翠から目を逸らした。

 いい加減な肯定ではあったが、返事は返事である。儚げな季球の巫女は、では、お言葉に甘えさせて頂きますねと云い、しっかりとした足取りで再び歩き始めた。



 何処をどう歩いたのか。

 それはまるで、魔法のように現れた。

 見渡す限りの、花の平原。

 鮮やかに、穏やかな。

 色とりどりに咲き誇る、優しい絨毯。

 それを目の当たりにし、流石の雷封も短く息を呑んだ。

 然程、遠くまで歩いた覚えはない。それほど複雑な道を通った覚えもない。それこそ、寄り道で済んでしまう程度の道程だったはずだ。それなのに、彼はこの場所を見た事がなかった。

 これだけ広い秋桜の絨毯が都の近くにあるのなら、知っていてもおかしくはないはずなのに。

 ここは――まるで。

「――綺麗でしょう」

 美しい巫女の静かな声で、はっと我に返る。翡翠はしゃがみ込み、慈しむようにその花弁を撫でていた。

「まだ目が見えた頃――大好きだった場所です」

 云って、花の平原をゆっくりと見回した。彼女の瞳には、昔と変わらぬ景色が映っているのだろうと雷封は思う。

「子供の頃。偶然ここに迷いこみました。どうやって辿り着いたのか、今でも覚えていません。ただいつも、目を瞑ると不思議とここに辿り着く事が出来たのです。それは今でも変わらないわ」

 わたくしにはもう、記憶の中でしかこの景色を見る事は出来ないけれど。

 さわさわと、花弁が優しく揺れた。

「……大好きな景色と引き換えに、国の行く末を視る力を手に入れたンだろう。まったく、皮肉なもんじゃアねェか」

「それがわたくしの、真光寺に生まれた者の宿命ですから」

「宿命ねェ。まったく以って、安直な理由だな」

 すべてを否定するような、強い響きを持った台詞だった。周囲に纏わり付かせているのは、深い嫌悪感や突き刺さるように鋭い敵意。

「貴方は、わたくしの何を知っているのです」

 静かに立ち上がり、真正面から雷封を見据える。

「もちろん、わたくしの名前、わたくしの役割を知っている人間は沢山います。それ故、先程のような事も少なくはありません。善意であれ悪意であれ、わたくしの周りには様々な人間が集まってくるのです。憧憬の瞳を向ける者、畏怖の念を持って避ける者。本当に、沢山の人達が」

 雷封はただ押し黙って翡翠の言葉を聞いている。

「だけど貴方は、誰とも違う。わたくしに敵意を持っているのに、わたくしを守ろうとしてくれている。何故です? わたくしは貴方の事を知らないけれど――貴方は、わたくしの事を知っているのではないですか?」

 儚いが底の見えぬ淡い光を湛えた翠の瞳と、暗く鋭い光を宿した深い赤の瞳。互いの視線がぶつかり合い、一瞬だけ絡み合う。

「何も、特別な事は知っちゃいねェ。あんたは神託を授かる巫女で、この季球にとっていなくちゃならねェ存在。季球に住んでるやつならガキでも知ってるその程度の事しか知らねェし、興味もねェ」

 ただ。

 一際冷たい風が、二人の間を吹き抜けて行く。

 ――ただ。

「俺は――生まれた時から、あんたが嫌いなんだ」

 ちりんと。

 風に吹かれて、小さく鈴の音が鳴った。



 よりにもよって。

 花街、ですか。

 妹と別れ、雷封に渡された紙を頼りに訪れた場所。そこは、表通りから一本外れた裏通りにある、草雲のような朴念仁とは一番縁遠い場所だと思っていたような場所だった。真面目というか意気地なしというか。どちらにせよ、金で一夜限りでも夢を買いたいなどと考えた事も無い人間には無縁の場所であるという事は確かである。

 無縁の場所であるから、こんな所に夜の街が存在していたという事すら知らなかった。そんなわけで、やって来たのは良いものの足を踏み入れるか否か、まだ活気付いていない夕闇に包まれかけた通りの前で、見なかった振りをして帰ろうかどうしようかぐだぐだと迷っているわけである。傍から見れば、夕方にこんな場所の入り口で腕を組みつつ情けない顔をしてぶつぶつと何事か呟きながら行ったり来たりしている男の図は十分に怪しい。怪しいのだが、彼の頭の中では帰ろうと意見している大多数常識派の草雲と、でもこんな場所で自分に用がある人物とは一体どんな人間なんだろうかと少なからず相手に興味を持っている少数派で本音の草雲とがあーでもないこーでもないと激しい議論の真っ最中だ。そんな真っ当な事に気が付く余裕は、どうやら何処にもないらしい。

 まったく、酷いですよ雷封さん。

 自分の所為で、一人で訪れる羽目になったのだという事実はこの際都合良く忘れる事にして、心中一人ごちる。

 行き先が花街なら花街だと、一言ぐらい云っておいてくれたって良いじゃないですか。

 雷封さんと違って、こういった場所に免疫が無い事ぐらい、云わなくたって察しがつくでしょうに。

 ぶつぶつとぼやきつつ、でも雷封と夜の街というのもどうにも想像が付かないな、と不思議に思い首を傾げた。

 想像は付かないけれど、可能性がないとも云い切れない。少なくとも自分よりはずっと可能性がある。何にせよ、ここで誰かが待っている事だけは確かなのだが、わざわざここを指定するという時点で無駄に勘ぐってしまいたくなる。

 ――うん。

 用事、ですから。

 このままでは、あまりにも埒が明かない。

 取りとめも無い方向へと突っ走り始めた思考を強引に引き戻し、まだ頭の中で会議を続けている沢山の草雲達を用事という二文字で有無を云わさず黙らせる。それでも意見を云いたそうな表面上常識派の草雲が居たら、一発殴りつけてでも黙らせるぞと強いんだか弱いんだかよく分からない決意を固め、まるで根っ子が生えたかのように地面にくっついて剥がれない自分の右足を持ち上げる事に成功した。

 ……用事、ですから。

 ふと、先程まで会っていた妹の顔が浮かんだ。結局先程は一度も見る事が出来なかった満面の笑みに云いようのない恐ろしさを感じつつ、彼はやっと目的の場所に足を踏み入れる。

 ふわり、と甘い香りが鼻孔をくすぐる。

 それは媚薬にも似た、快楽の香り。

 ぞわり、と全身に震えが走った。

 ――用事、ですから。

 再三自分に云い聞かせ。悩んでいる間に灯が入れられ、活気付いてきた退廃的に華やかな夜の街を小さくなりながら早足で歩く。

 鮮やかな朱が、鮮烈な影を落とす着物が、酷く目に痛い。

 兄さん兄さんと声を掛けてくる遊女達を急ぎ足でやり過ごし、ちらちらと店の中へと遠慮がちに視線を送ってみたりしながら、どうにも恐ろしい事に気が付いてしまった。

 ……一体、どの店に、いるんでしょう。

 すぅっと、身体中の血液が一気に凍ってしまったような冷たい感覚。代わりに身体を駆け巡ったのは、嫌な予感というあまりお友達になりたくないたぐいの感覚だった。

 心の底から祈る思いで、渡された紙を懐から取り出す。

 それを、上から下から表も裏も、はたまた透かして見たりして、一字一句穴が開くほど凝視した。

「……か、書いてないじゃないですか……ッ!」

 思わず、声を上げてしまった。一気に注目を集めたのにも気が付かず、小さな紙を勢いで破り捨てる。

「何ですか、いじめですか。いじめですね。わざとですか。わざとですよねッ!」

 紙吹雪どころかまるで粉雪である。どうやら彼の頭の中では、雷封が書き忘れたという至極尤もな選択肢は最初から排除されているらしい。だが確かに、真光寺翡翠を成り行きで送る羽目になってしまった雷封がせめてもの腹いせにと、こうなる事を見越して故意に書かなかったわけであるから、哀しいかな草雲の予想は当たっている事になる。当たっていても、何も嬉しい事などない辺りが更に哀愁を誘う。

 破り捨てた小さな紙をこれでもかと派手に踏みつけて、はあぁっと心の奥深いところからの本当に深い深いため息をつき。

 ……馬鹿らしい。

 帰ろう。

 そう決めて、動くのも億劫な程どっと疲れた身体を引き摺り、回れ右をしようとした時だった。

「先生ェ。どなたか、お探しかい?」

 頭上から掛かった、艶のある声。

 思わずつられて、ふらりと見上げる。

 女が一人。煙管の煙を燻らせ、二階の窓から面白そうにこちらを見下ろしていた。

「あ、いえ……」

 急に恥ずかしくなり、全く答えにならない声が出た。女はそれを聞き、にぃっと紅い唇を吊り上げる。

 それは、美しいのだけれどどうにも心をざわつかせる笑みで――。

「あんたが探してるのは、椿白零つばきはくれい。そうじゃアないのかい?」

「ど、どうしてお分かりで!」

 女は目を細め、くくっと肩で笑った。

「どうしても何も。あんた、あたしが先生って呼んだ事にこれっぽちも疑問を持ってなかったのかい」

「……あ」

 頭上の相手をまじまじと見つめ。じゃあ、と続けた草雲を見下ろしながらもう一度、今度は声を上げて笑い。

「全く、鈍いお人だねェ。そう、あたしが椿白零さ」

「わ、分かっていたなら。もっと早くに声を掛けてくれれば良かったじゃないですか。私は、一体どうやって貴女を捜せば良いのかと」

「あたしだって、先生の姿格好を知っていたわけじゃアないからね。ただ、先生があまりにもこの場所からはみ出してるもんだから、こりゃア種田草雲ってェ物書きの先生は十中八九このお人のことだろうと――見当をつけただけの事さね」

「……そんなに、はみ出して見えますか」

「そりゃアもう、これ以上無いってぐらいにね。こんなところに顔を出すにしちゃア、先生は真っ当過ぎるのさ」

 さ、これ以上の立ち話もなんだよ。と椿は続け。

「遠慮しないで上がっておいで。別に、獲って食いやしないよ」

 尤も。

 いつまでも馬鹿みたいに通りの真ん中で突っ立ってたりしたら、それこそ一体いつ獲って食われるか分かったもんじゃアないけどさ、というぼやきが聞こえるや否や。

 草雲は、慌てて椿の居る店の中へと飛び込んだ。

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