前夜

前夜(一)

 真名子には、一年前まで付き合っていた男がいた。昨晩その男と会ってしまい、怖い目に遭ったということだった。

 都が車で迎えに行った。助手席に乗せ、背中を擦り続けて、落ち着くのを待ってから発進する。三つ目の交差点で引っかかった頃、真名子はぽつぽつと経緯を話し始めた。

 大学のゼミの活動で、真名子は帰りが遅くなってしまった。

 急ぎ足で駅へ向かおうとキャンバスの敷地を出て、近道のつもりでちょっとした裏道に入った途端、声を掛けられたそうだ。しかも「真名子」とはっきり本名で。振り向くと、年季の入ったバンが停まっていた。運転席の窓が開いている。二度と再会したくなかった男が車内から、にこやかに手を振っていた。

 「久しぶり。ねえ車買ったんだ、中古だけど。送ってくよ」

 無我夢中でキャンパスに駆け戻った真名子が、未だ歯の根も合わぬまま都を呼んだのは、それから二〇分後のことだ。

 

 とっくに縁を切ったはずなのに、今更現れた過去の亡霊。陳腐な表現だが、その理不尽さと執念においてまさしく亡霊だ。

 つい運転が荒くなり、助手席の震える生き物が怯えて小さく跳ねた。あ、ごめん、と都は謝るが、視界は狭まり、息が自然に浅くなる。私の知らないそいつのせいで、余計に真名子を怖がらせてしまった。

 都は努めて緩やかにアクセルを踏みながら、男のことを尋ねる。多少躊躇った後、真名子が語ったところによれば、彼とはインターネットで知り合ったそうだ。顔を合わせて、何度か遊びに行くうちに恋人どうしになって、という、極めて「2010年代っぽい」馴れ初めであったらしい。

 しかし、インターネットで知り合う相手に限らず、人と人との関わりの中では、両岸を裂き、理解の橋を掛けることのできない暴れ川があるものだ。どんなに相手を好ましく思っていても、ほかの橋から彼岸に辿り着けるようでいても、そのたった一本の支流の氾濫で造りかけの橋は流れ、此岸には取り返しのつかない被害が及ぶことがある。

 その男の川は独占欲だった。

 それっぽいところはあったけど、リアルで会う前から、と真名子が言うのを、昨夜車の中で聴いた。彼女はもう泣き止んでいて、時々苦しげに詰まる声を、都は運転席で聴いていた。顔は見られなかった。

 「付き合うってなった時も、ちょっと悩んだんだけど、ほかのフォロワーとリプとか飛ばしてると、機嫌悪くなるのも、毎日LINEしてくるのも、その」

 「自分のことが好きだったからだ、って、思った?」

 「……うん」

 反対車線のハイビームが、都を刺しては離れ、刺しては離れを繰り返す。ハンドルに移った自らの体温が煩わしい。自分と知り合うより前に、誰にどういう気持ちを抱いていたかなんて、関係ないはずなのに。

 重たい沈黙は、再び真名子から破られる。

 「付き合ってからも、すぐメッセージに返事しないとすごい嫌味言われたり、誰と遊びに行ったとかすごい訊いてきたり、インスタ監視されてて」

 真名子が限界を迎えたのがちょうど一年ほど前。その頃には珍しくなっていた真名子からの呼び出しに、何も疑うところが無かったらしい男は、浮かれた様子でカフェにやって来た。二人が初めて顔を合わせた店だった。近況報告、というか尋問――毎日LINEで問い質しているにも関わらず、男はこれをいつも強いた――を済ませた後で、彼のあまり面白くない話を聞き流し、ようやく別れ話を切り出したのは、テーブルに置かれたカップがすっかり汗をかいてしまってから。

 顔色を失い、声もなく、終始虚ろな目のまま真名子の言い分を聞き終えた男は、やがてひとつだけ言い残して、去っていったという。返事も待たずに。

 「なあ、俺たちいいカップルじゃなかったのか?」

 彼のフラペチーノは、まだ半分以上残っていた。

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