8月28日「サヨナラは言わない」


 夏目兄弟がせっせと荷造りをする様子を、志乃は優しく微笑んで見守っていた。自分の荷造りはあらかた終了している。付け加えると、陽一郎も荷造りは終了している。夏目の里で取ったフィルムをケースに収めるのに没頭している。まぁ、陽一郎らしい。


 決定は突然だった。


 ──帰る。


 陽一郎はボソリと呟くように言った。志乃は陽一郎の気持ちを知っていたから驚きはしなかったが、普通に当たり前のように言う陽一郎に、陽大も戸惑いを見せていた。何ともないように、思い出したように陽一郎は言った。


 帰るから、と。


 ずっとこんな生活が続くはずはない。それは誰も分かっていた。夏休みも間もなく終わる。でも、でも、と晃の目には迷いがあった。それは亜香理も、美樹もそうだ。


 此処は居心地か良すぎた。美樹は俯く。でも、帰る場所があるのだ。それを決断した事は陽一郎から聞かされていたはずなのに、なんでだろう。とても寂しい。


 喧嘩同然で乗り込んできたはずなのに、楽しい想い出以上に辛い想い出を得てしまったはずなのに、なんで帰ると分かった瞬間こんなに寂しくて、空しいんだろう。


 陽一郎はフィルムのケースをバックに放り込んで、無言で部屋を出た。


 志乃は追いかけない。


 今は誰も陽一郎は必要としていない。それが分かるから。陽大も長兄の思惑は予想していたはずなののに、なんでなんだろう、頭が混乱する。


 夏目は居心地が良すぎた。


 そして気付く。情けない。髪をくしゃくしゃに掻く。僕とした事が情けない。僕は甘えたかったのか。情けない。本当に情けない。


 甘えたかったのだ。苦しかったのだ。長兄を支えているつもりで、いつも陽一郎に自分は支えられていたのだ。自分はクールで冷静だと思っていた。しかし実は違う。美樹だってそうだ。しかし実のところ、僕らはただのガキでしかない。それが悔しい。


「陽ちゃんはね」


 にっこりと笑う。


「好意を拒否した訳じゃないよ」


 陽大は顔を上げる。それは分かる。まして意地でも無い。陽一郎は、長兄は、そんな阿呆じゃない。


「ただね」


 陽大は美樹は晃は亜香理は、志乃の言葉を待つ。


「自分の家に帰りたいのよ」


 唖然とする。そうなんだ、そうなんだ。僕らの家は此処じゃない。確かに信頼できる親戚が、照が日向がいてくれる。でも、此処は僕らの家では有り得ない。幻想か思いこみか、それでも夏目兄弟の家は此処じゃない。むこうで、父さんと母さんが待ってる。そんな気がする。──思いこみだろう、単なる。それでも、父と母の遺影は此処にはない。遺骨も、魂も。


 そして僕らの生活も。


「うん」


 陽大はうんと頷いた。美樹と亜香理が同時に。そして俯くように晃も。志乃は微笑んだ。この場にはいない、一番甘えたかった人の事を思う。


 陽一郎は好意を拒否した訳じゃない。ただ、敵なんかいない今、陽一郎がいるべき場所を夏目兄弟自身が選択したのだ。誰が決めたわけでもない、自分達の選択なのだ。甘えてなんかいられない。僕らの生活は僕らが守る。それつまり、と陽大は思う。陽一郎と志乃の生活を守っていく事へと繋がる。


 誰にも頼らないわけじゃない。ただ、この場所は僕らの居場所じゃない。不安が無いわけでもない。寂しくないわけでもない。ただ、ただ、夏休みはいつか終わる。そして、これっきりじゃない。またいつか来られる。だから、サヨナラは笑顔で言った方がいい。そしてサヨナラよりはまた会おうね、の方が。晃はそう小さく笑う。


 志乃は自然と晃のその髪を撫でた。志乃自身、そう思う。サヨナラは悲しすぎるけど、また会おうねなら、きっと笑顔で手を振る事ができる。それでいいんじゃないかと思う。ねぇ陽ちゃん?陽ちゃんもそう思うよね?











四十日目






 別れ際と言うのは、不思議なものだ。みんな、笑顔を振りまこうとする。決して良い思い出ばかりではなかったはずなのに、みんながみんな、笑顔で振舞う。この大所帯も最初は喧嘩同然、殴り込みに等しい状態で【夏目】に乗り込んできたはずなのに、今や敵なんかいない。


 いや、と陽一郎は駅のベンチに座り込みながら思う。思った以上に敵なんかいなかったのだ。ただ、群がる連中がいただけ。照は最初からそんな輩は相手にもしていなかった。


 心苦しいとは思う。陽一郎達を応援して、支えようとしてくれる人たちの手を拒絶するなんて。


 ただ、陽一郎にはそれしか選択肢はなかった。今じっくり考えても、陽一郎の故郷はここでは無い。それは自覚する。言い訳を色々と考えてみた。志乃の為じゃ無いといいながら、結局は志乃の為なんだろう。その実感は強くある。


 隣に志乃が無言で座る。


「いいの?」


 志乃は遠く、線路の向こう側を見ていた。蝉の声。同じく賑やかな人々の喧噪。陽一郎はを取り出し、写真を撮っていく。志乃はそんな陽一郎を優しい目で見つめる。


「いいって何が?」


 陽一郎はファインダー越しに晃を見る。志保が切なそうに晃を見つめていた。一郎が複雑そうな顔で両者を見ている。志保の気持ちがなんだか分かる。ついこの間まで、自分も志乃とこんなに距離は近く無かったから。


 シャッターを切る。


 晃が無理に笑った。


 シャッターを切る。


 一郎が、晃と志保の背中を無理矢理、押す。二人の距離が急に縮まる。志保は顔を真っ赤にし口をぱくぱくと開いた。何か、何か伝えないと。志保の頭の中はぐるぐると回る。でも、でも、でも、でも、でもばかり。そればかり。どうしたらいい? どうすればいいの?


 時間は迫る。刻一刻と迫る。


 晃はすっと手を伸ばす。満面の笑顔で。何かを言う。晃なら何て言うだろう。また、ね。かな。晃ならきっとそう言う。新しく得た友達を忘れるはずがない。ここで経験した事を全てを振り返ってみても、結局は大事な友達である事に変わりはない。


 と亜香理が何かを、志保の耳に囁いた。すると、志保は大きく目を見開く。亜香理はクスクス笑っていた。陽一郎は写真を撮る手を休めない。彼らに写真を贈ろう。素敵な思い出の為に。陽一郎はそう思う。志乃はそんな陽一郎に肩を寄せて、陽一郎のするがままに。


「いいの?」


 志乃は聞く。諦めたように、陽一郎は微苦笑をたたえて頷いた。


「うん」


 シャッターを切る。


 たくさんの過ちがあった。それを許してもらえるとは陽一郎も誰もが思っていない。結局は陽一郎も夏目の末端。この地で起きた災禍への責任はある。忘れてはいけないと思う。忘れちゃ絶対に。傷跡は大きい。あまりにも大きく、晃を引き裂いた。それでも晃は、何事もないかのように振る舞っている。それが陽一郎にとってのせめてもの救いかもしれない。


「わがままかもしれない」


 陽一郎は呟いた。


「………」


「志乃と一緒にいたい、ってだけだから」


「うん」


「照さんに見透かされているのは分かってる。日向さんだって、それぐらい分かってる。だから俺はガキなんだろうなぁ」


「私は嬉しいけどね」


「え?」


「陽ちゃんがそう言ってくれるのが嬉しいよ。それにね」


 志乃は陽一郎ににっこりと笑う。


「何回も言うけど、陽ちゃんは一人じゃないから。私がいるし、誠君も、お父さんもお母さんも、北村君も、吉崎君もいるもの。陽ちゃんは一人じゃないもん。怖いものなんかなにもないよ?」


 陽一郎は頷くかわりに、そんな志乃にカメラを向ける。志乃は言葉を言う暇もなく、ファインダーの中に収められた。無情にもシャッターの切る音。


「陽ちゃんー」


 ぷぅっと膨れる志乃が可笑しくも愛らしい。陽一郎は無言で、志乃の髪を無造作に撫でた。











「日にち、かなりオーバーしちゃったね」


 と優里はたいして気にもしてないように言う。吉崎は駅の入り口に座り込んで、熱い太陽に目を細めた。


 夏が終わる。


 風が涼しい。しかし、蝉は相変わらず、うるさい。


 夏休みは終わる。そうしたら、二人はまたばらばらか。らしくないが、センチメンタルだ。そんな自分に腹がたつが、今更ながら、吉崎にとっては優里の存在はでかい。


「寂しい?」


 にっこりと優里は聞く。


「寂しくねーよ」


 ぶっきらぼうに吉崎は言う。どうしてこの男はこんな言い方しかできないのかなぁ、と思いつつ、もう一度聞く。


「寂しい?」


「うるせぇよ」


「私は寂しい」


「………」


「まだ時間あるはずなのに……時間……まだあるのに……おかしい……可笑しいよネ……目にゴミ…ゴミだよ……目痛いなぁ……」


 言葉が続かない。優里の目から涙がぽろぽろと溢れてくる。泣かない、泣かないと絶対に決めたのに。涙が自然と溢れてくる。あの時、優里が転校して北海道に行く時、泣かなかった。笑顔でバイバイできた。笑顔で手を振って、また会えるよねと言えた。


 それは優里は吉崎の事を心から思っていたから。距離なんか些細な問題でし書かないと分かっていたかから。今だってそれは変わらない。どんな男の子を見ても、全然心は踊らない。かっこいい子はたくさん居る。でも、コイツみたいに私の心を無邪気にはしゃがせてくれる人はいない。


 優里は気づいた。この人じゃないと駄目なんだ、と。


 なおさら、だから。離れる時間が迫っているのが辛い。


 吉崎がハンカチを持ってる訳もなく、優里は自分の腕で涙を拭おう──として、吉崎の抱き寄せられた。吉崎の胸に顔がうずくまる。


「み、みんな、見てるよぉ、高志ッ」


「関係ねーよ」


 強く強く抱きしめる。吉崎の心音。優しく優しく波打つ。気持ちが落ち着く。優里は今度は自分で、涙を拭った。微笑ましく見てくれる人たちがいる。知らない振りをしてくれる人たちがいる。暖かいと思う。また来たいと思う。


 この場所にまた。











 言葉は無い。むっつりとした顔で照は立ち尽くしていた。


「結局、陽一郎を掴まえる事は無理だったね」


 日向は言う。


「掴まえるつもりなんか無い」


「ふーん」


 小さく楠婦人は笑んで、社長を見やる。


「負け惜しみとしては、たいしたものね」


「華!」


 夫がたしなめるが、それも何処吹く風だ。


「いいじゃない。今度はあの子達の所に遊びに行けば」


 照は鼻を鳴らす。そんな時間があるか、そう言いたげな顔だ。


「今度は陽と茜ちゃんだけじゃなくて、あの子達を失う事になるわよ?」


 日向は真面目な顔で兄を見やる。照は日向を思わず見やる。


「別にあの子達がいなくなる、とかそういう意味じゃないわよ」


 と小さく笑う。


「子どもの成長は速いから。今年の夏休みと来年の夏休みじゃ、きっと違う表情をあの子達はしてる。それを見逃すのは、とてもつままらないと思う」


「ガキがいないくせに生意気言うな」


「お互い様でしょ」


「………」


「少なくとも、私は恋はしてるもの。兄さんはいつまで、茜ちゃんの影だけ見てるの?」


「俺の恋人は仕事だ」


「仕事だけなんて寂しいよ。陽ならきっとそう言う」


 ぬっとその会話に朝倉が割って入る。


「社長」


 朝倉に社長と言われると気味が悪い。確かに、少なからぬ因縁はあるが経営者と技術者。接点はあるようでない。この夏、初めて面と向かって話した。それまでは陽達を簒奪した黒幕というイメージしかなかった。だが技術はある。それが今まで夏目に在籍させていた理由だ。個人的感情は仕事に関係ない。そして朝倉も北村も、夏目ブランドを何より重視してくれた。


「待ってるから、来い」


 しかし経営者に対する発言とは思えない。隣で北村と長谷川は微苦笑で傍観している。


「な?」


「うだうだぬかすな、来い。茶ぐらい出す」


「で、自分はビール飲むのか?」


 長谷川の冷やかしを、朝倉は拳の直撃で答えた。苦悶する長谷川。呆れる北村。呆れながら、しかしと思う。結局は何も変わってないのかもしれない。本当なら隣に陽と茜がクスクスと笑っていたはずだった。あの二人がいないという現実だけが此処にある。


「あの本当に」


 と頭を下げて、朝倉の妻、緑は口を挟んだ。


「御待ちしています。あの子達の成長を見て欲しいので」


 そう言う。子の成長は速い。うかうかしていたら──あっさりと追い抜かれる。陽の子ども達は油断ならない。だが、それも嬉しくある。嬉しいのか俺は? 苦笑した。緑の言葉には答えず、ただ頷く。


 意地か、今までのは。回り道して来たのか。こんな答えを出す為に。素直になれないというただそれだけで。


 親父はなんて思うだろうか?


 バブル経済、貪欲に成長を望んだ企業の数多の一つ、夏目。その過ちに気づくのに、照は今までかかった。そして父親は死ぬ間際までかかった。


 ──陽に会いたかったな。


 柔和に笑んだそんな父の顔を見たのは何十年振りだっだろう。殺伐としたマネーゲームの中で、夏目は確かに何かを置いて来たのだ。それを実感する。肝硬変、診断書に書かれた死因はそれだったが、まるで天寿を全うするような穏やかな表情なのを思い出す。


「朝倉」


 ボソリと照は言った。


「?」


「……陽と茜の墓を知ってるか?」

 朝倉は頷く。


「来年、花を携えて行く。道案内を頼む」


 言った言葉はそれだけだった。空を見上げる。蝉がうるさい。日差しが眩しい。夏が終わる。夏が終わる。しかしこれっきりじゃない。











 電車が来た。車掌はあまりの人数に驚きを隠せない。それを尻目に人々は、お喋りをストップさせる事なく列車に乗り込む。陽大と弥生は何の苦もなく、その人ごみの間を滑り込んでいた。


 弥生は不思議だと思う。今じゃ何でもないくらいに、陽大は自分の本音を打ち明けてくれる。あの冷静な委員長が、だ。全幅の信頼を得た事にも気づいている。この関係は愛ても恋でもない。弥生本人からてみたら、不服でしょうがない。それでも、陽大と距離が近づけるの事ができるの嬉しい。この夏休みで、弥生はきっと陽大の相棒になれるぐらいにはなれたのかもしれない。事実、洞窟探索の時の二人の息の合ったコンビネーションを思い出す。私は……思う。彼のように天才では無い。でも、手を伸ばす努力だけは忘れたく無いと思う。


 委員長は引き蘢っていた私を、単語帳を投げ捨てる事によってメッセージをくれた。


 だから、私は晃君にそのメッセージを上げたい。


 そっと弥生は晃の背中を叩く。晃は呆然と窓の向こう側の志保を見つめていた。


 とん。そっと弥生は晃の背中に手を置く。列車がゆっくりと、ゆっくりと走り出す。


「晃」


 陽大は弥生と対になるように背中に手を当てる。


 遅いなんて事はないから。

 今からだって間に合うから。


 その瞬間、晃は最後尾に向かって、人の波を縫いながら駆ける。志保を追いかけるように、追いかけるように。


 列車は走る。志保との距離が遠くなる。


 晃は窓を開けた。


 志保が、一郎が、照が、日向が、楠夫妻が、様々な人たちが手を振っている。


 だけど、晃が見ていた人はただの一人だけだった。


「志保っ!」


 晃は呼んだ。志保がその声に呼ばれて駆けてくる。間に合わない、間に合わないと分かっていても。


 晃は叫ぶ。声の出る限り。腹の奥底から振り絞るように。


「サヨナラは言わない! また来るから!」


 志保はその声に手を伸ばすように、さらに全速力で列車を追いかける。


「私も言わないよ! お手紙書くもん! これで終わりじゃないもん!」


「志保!」


「晃!」


 それだけだった。もっと言いたい事はあるはずなのに、もう二人の声は届かない。無情にも、列車は二人の距離をずんずんと引き離して行く。が──目一杯、精一杯の志保の最後の一声が晃の耳に届いた。


「晃、大好きだよっっっっっっっっ!」


 その小さな声が、幻聴のように列車の中で揺れながら、晃の意識の奥底へ消えていく。晃は言葉を返そうとして、もう志保は見えない事に気付いて、言葉を飲み込んだ。


 夏休みは終わる。列車にたくさんの思い出を詰め込んで。


 夏休みは終わる。次の夏休みの為に。夏休みが終わる。次の夏の為に。また次の夏に会える素敵な思い出候補の為に。夏休みが終わる。そんなの分かってる。夏休みが終わる。色々な事がありすぎた。夏休みが終わる。悲しくなんか無い。悲しくなんか――前が見えない。夏休みが終わる。志保に――何も言えなかった。何も何も言えなかった。


 夏休みが終わる。


 そんな晃をいつのまにか隣にいた志乃と陽一郎が抱きしめて。

 夏休みが──。

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