8月20日「向日葵畑」


 陽一郎は唖然として、向日葵畑を見回した。志乃は陽一郎の手を強く握る。


「ここは?」


 息を飲む。向日葵の海、と言うべきか。向日葵の草原と言うべきか。さわさわと風がたなびくたびに向日葵たちは、優しく揺れた。朝日が眩しい。夜道を連れられて、野宿した時は此処がどこなのか検討もつかなかった。ただ、老婦人はまるで頓着しないように、優雅に昔話をしてくれた。蚊取り線香の煙とともに、ゆらゆらと。少しずつ。


 薄々、気付いていた。老婦人の正体も。きっと彼女は自分の──。


 だが、こうも飄々とした人だと言うことに失望と苦笑いが浮かぶ。だが、何となく納得もできた気がする。


「夏目の向日葵庭園へようこそ」


 彼女はにっこりと笑んだ。石造りのいすに腰掛けて、お菓子と水筒どこからともなく取り出す。まさに魔法だ、と思った。


「昨日はゆっくり話せなかったから」


 と紙コップに麦茶を注ぐ。


「ゆっくり話しましょう」


 そう笑む。簡素な休憩所のような場所だ。ここだけが人工物。石畳、石の天井、石の机に、石の椅子。風格と品性がそこに刻まれている。だが、自然の中の不純物のはずなのに、一体化してとけ込んでいる。


「どこまで話したかしら?」


 記憶を辿る。麦茶をすすりながら。涼風が耳をくすぐる。虫のかすかな囁き。陽射しのプリズム。向日葵たちは首をかしげて、そこにいる全ての存在が婦人の物語に耳を傾ける。陽一郎と志乃も耳をすませる。何より一番聞きたかった物語を彼女は語ろうとしている。


「確か、一人の男の子と女の子が此処で出会ったんですよね?」


 と陽一郎は応じる。老婦人はコクリと頷く。少年にとっては最初、夏休みの単なる冒険にしか過ぎなかった。夏目は広い。色々な場所がある。向日葵庭園もそんな場所の一つだ。育ち盛りの少年には、どこもかしこも冒険の舞台だった。足りなかったのは、友達の存在──少年は一人だった。


 だから、誰かと会った時、少年はどんな顔をしていいのか分からなかった。

 あの日も、と老婦人はにこやかに笑った。こうやって向日葵が風に揺れていた。











32日目











 初めて会った生き物のように、少年と少女は目をあわせた。


 どんな顔を作って良いのか分からない。ただ、風に揺れて女の子の腰までありそうな長い髪が、風に弄ばれるようにたなびく。その子の香りが、ここまで届くような。


 少年は一歩下がった。


 少女は一歩、前進する。手を出す。手の平を少年に差し伸べる。少年は目をぱちくりさせて、そしてその手を握った。


「ここによく来るの?」


 少女が聞いた。少年はコクリと頷く。


「そっか。いい場所を見つけた」


 嬉しそうに笑う。少年は首を傾げた。少女の意味が分からない。


「だって、ここに来たら君はまたいるかもしれないでしょ」


「え?」


「やっと喋ってくれた」


 嬉しそうに言う。


「お友達、見つけちゃった」


 本当に嬉しそうに言う。だから、少年も思わず笑い返して、大きく頷いた。友達、言葉では知っていた。少年だって学校に行く。でも、誰もが距離を置く。みんなの家から遠すぎる。夏目の子だから、とまるで違う生き物のように誰もが扱う。丁重すぎるくらいに丁重に。兄様は俗物は捨てておけと言う。でも、自分は特別じゃないのを知ってるし、他の人間と同じ、何も違わない人間だと自覚している。だから、少年は冒険をやめなかった。


 いつか出会える、とそう思っていたから。


「名前、聞いてもいい?」


 大きな黒い目がのぞきこむ。


「僕は陽。夏目──」


 失敗したと思った。この名字はこの土地ではタブーだ。ここの土地を奪った制圧者のように人々は思っている。確かに夏目は豊かな自然を切り開き、ここの周囲の土地をかえてしまった。神が住むと一部では信仰されていた山をあっさりと高速道路にかえてしまった。父様の行動力――悪く言えばエゴがそこにあると思う。


「夏目陽君か。いい名前」


 また一歩、少女は距離を近づける。陽は、さらに目をパチクリさせた。人と人の距離をこんなに感じた事はなかった。目の前に少女の大きな瞳が、陽を見つめて、陽がその中に映っている。無頓着に陽をまじまじと見る。親も姉弟もここまで、陽を見つめてくれた人はいない。観察という視線ならいくらでもあるが。学校のクラスメート、教師、使用人、集落の人々、みんながみんな羨望か嫉妬の色合いしか送らない。むしろそれに慣れていたから、少女の視線がなんだか恥ずかしく、少し身構える自分がいる。まるで心の中に入り込んでいくような、問答無用で心の奥の扉を開けてしまうような、そんな暖かい眼差しを感じている。


「私は、霧島茜。陽君、よろしく」


 手を差し出す。無意識に陽は手を握る。茜はにっこりと笑って、そして耳を疑う言葉を言ってのけた。


「私、決めた。君を私のお婿さんにする」


「え?」


 にこっと茜は笑む。向日葵は揺れる。風にゆれて。歌うように。笑うように。背伸びするように。

 幼い出会い。幼い言葉。幼心が言わせた稚拙な戯れ言。たいした意味なんかこの時には無かった。でも二人にはこの時、重要すぎるほどに重要な言葉だった。


 茜は宣言を現実にしてしまう。











 二人は恋していたのか? と言われたらそれは恋じゃなかった。結婚というのはお友達から抜けきらないママゴト程度の単語でしかなかったし、同じ年頃の女の子男の子同様、運命的な恋を感じる年でもない。ただ必要な人だと言うのは感じていた。


 この田舎町で、失ったら完全に「トモダチ」がいなくなってしまうという恐怖は愛や恋よりも子ども達には恐怖だった。だから、陽も茜も最初から一生懸命だった。二人の直線距離、10キロ。そこを自転車で行き来する。冬は雪でとても行けないから、手紙でやりとりをする。まるで恋人のように、毎日毎日文章を書く。夏目の財力があれば車を使ってすぐ行ける距離なのに、陽はそれに甘んじようとは微塵も考えていなかった。


 姉がカメラをやりだした影響を受けた理由が此処にある。写真でなら、いつでも茜に会える。茜もいつも陽に会える。陽は茜をいつも写真に撮っていたし、茜は陽に写真を撮られるのが好きだった。


 向日葵畑で陽はいつものようにカメラをいじる。


 茜はそんな陽をじっと見つめている。


 二人は少しずつ、年を重ねる。その手を重ねる温もりと重みを感じていく。周囲の軋轢と、大人達子ども達の見栄と虚栄を感じながら。


 不思議だと思う。無邪気な幼心ながら、二人は一生懸命に会う事だけを考えていた。周囲の思惑なんて蚊帳の外でしかなかった。だから、なおさら、だったのかもしれない。何を言われても、どう妨害されても痛くも痒くもなかった。


 お金がからむと、人間は途端に醜い毛虫になる。


 毛虫って表現はよく合う。茜は毛虫が嫌いだから。夏目も、夏目じゃない人も根底を辿れば同じようなものだ。陽はため息をつく。いい加減慣れたと思っていたが、茜といると彼らの茶番がいかにくだらないかを痛感する。


「陽も大変だね」


 小さく微笑。呑気そうな口調だが、茜だってひしひしとそれを感じている。学校の友達はまるで口車を合わせたように夏目を敵視する。陽は学校では孤立している。それを苦だとも思ってないようだが。


「茜がいるからね」


 真顔で言ってのける。本心だから、隠す必要も無い。茜もだから、陽を敵に回す人は茜の敵だからと言い切ってしまう。陽は微塵も感じていないが、茜はそれが我慢成らない。茜はまっすぐ過ぎると陽は思う。まっすぐ過ぎるから、一年たっても、二年たつても、三年たっても、五年たっても、二人は二人のままでいれた、そう思う。


 向日葵が毎年花を咲かせるのを見ながら、陽はそう思う。


 咲く──

 枯れる──


 咲く──

 枯れる──


 その繰り返し。種は埋もれる。何十分の一の確率で。冬になると陽は茜に、茜は陽に一生懸命手紙を書く。年を重ねるごとに気持ちはより重く深くなる。会いたいと綴る言葉は、前にも増して切なくなる。だから陽は写真を撮る。茜は他の人の写真を撮ると、少しだけ不機嫌になる。


 楠は毎年、向日葵の手入れをする。夏になると、楠は姿を消す。夏目の中での唯一の味方と言ってもよかったのかもしれない。口は挟まず、耳は傾けず。ただただ草花の手入れをし、自分の仕事に戻っていく。だから二人は安心して、無防備に抱きしめ合う。感触を確かめ合う。そこに確かに感じる暖かさを。温もりを。愛しさを。


 二人は自転車で駆ける。夏目の里を走り回り、知らないところは無いくらい冒険にいそしみ、時には宿題を教え合い、時々は二人で昼寝をして一日を過ごす。二人で写真をパズルを作るように整理して、時々、背中を合わせて本を読み合って。


 一緒にいるのが当たり前に、いつの間にかなっていた。


 だから、嘘もあっという間に、相手に伝わってしまう。


「何を隠してるの?」


 茜は切り出す。陽は無造作にカメラをいじっていた。


「別に……」


「嘘」


「え?」


「陽は隠すの下手。正直に言って。嘘ついたって意味ないもの」


 嘘は騙されるから意味がある。陽のつく嘘に茜は騙されてあげるほど甘くも無い。本音意外はいらないと思う。茜は陽に嘘をだからつかない。ついても意味が無い。隠すことなんか何一つ無いから。


 陽は隠すのが下手だ。それでいいと思う。隠してほしくなんか無い。そうやって壁を作って欲しくなんか無い。会ってから五年が過ぎて六年が過ぎて十年になろうとしている。


 陽はじっと茜の目を覗き込む。


 不安も焦燥感すら無い穏やかな目。ただ陽の言葉を待っている。


「……結婚させられる」


「え?」


「相手は、唐島薬品のお嬢さんだって」


 沈黙。茜はじっと陽の目を見る。やはり何も揺れ動かず、穏やかに。向日葵は風に揺れる。言葉を待つ。陽の次の言葉を。


「婚約したらしいよ、昨日」


「お兄さんが?」


「俺が」


 カメラをいじる。落ち着いているように見えて陽は苛々している。茜にはそれが手に取るように分かる。陽は怒りというものをあまり表面に出さないから。笑顔は絶やさないけど、それも演じてる笑顔でも無いから。陽はただ怒る事が嫌いなだけ。人の笑顔が好きだから、自分も笑う。夏目にいれば、嫌でも欲に流された競争を目の当たりにしてしまう。兄の照はそれを当然の事だと飲み込みむしろ闘争心を燃やし、姉の日向は失笑を浮かべて、家から飛び出した。陽は──人当たりのいい笑顔をただ浮かべている。まるで自分でお人形さんだ、と思う。みんなが陽を良い子だと言う。夏目の繁栄の為にお父さんを、お兄さんを支えてあげるんだよ、と誰もがニコニコして言う。


 陽は空を見上げる。夏目は今、急成長を迎えている。薬剤一つで、巨大企業に進化させた夏目が今度は兄、照の感性を信頼し、コンピュータ事業に着手しようとしている。誰もがさらに成功と繁栄を夢見てる。今回の結婚だって、彼らからしてみたら、その一歩だ。


 陽と茜を引き剥がしたいという思惑が、ありありと感じられるが。


 夏目は唐島を吸収するつもりでいる。唐島の技術と店舗の集客力、昔からの信頼と安心。急成長した夏目には無い魅力だ。


「陽はいい子すぎるよ」


 茜が言葉をようやく、漏らす。じっと、茜は陽の目を覗き込む。この人の笑顔は無条件の承伏じゃないのに、どうしてみんなは誰も気付かないのだろう? と思う。陽が笑ってないと、夏目は途端にビジネスの会話しかなくなる殺伐とした家になってしまう。日向はそれに嫌気がさしていた。照は寡黙だ。陽が笑っていないと、父に母を繋ぎ止めておくことはできない。


 でも、そうじゃない、と茜は思う。そうじゃない。

 みんなが陽に甘えすぎてる。


 陽は道具じゃない。人形じゃない。ぬいぐるみじゃない。良い子って名前じゃない。


 一つの事に執着しすぎて、冷静になれないでいる。そんなに夏目を大きくする事が重要なの? 人身御供のように陽を扱って、陽の幸せは何処に行くの? 茜が心に渦巻く感情は、ヤキモチよりも、怒りだった。


 みんなが陽を過剰評価している。でも、肝心な事は見ていない。陽はいつも笑っているけど、笑っていない。夏目の為じゃなくて、みんなの為。それはいつも本意じゃない。


「私はイヤだよ」


「……茜」


「陽は頑張ってると思う。みんなを引き留めるのに必死なのも知ってる」


「姉さんは出て行ったよ」


「行く人は行く。それは日向さんの決断だもの。陽のせいじゃない。日向さんには夏目は狭すぎたんだと思う」


「居たくなかったんだよ。姉さんは」


「家族は一つじゃないとイヤ?」


 茜に見つめられて、陽は空をさらに仰ぐ。雲がゆっくりと風に流される。同じ空の風景は見れない。単色の青。この空を写す事は難しい。今、この瞬間と同じ色を銀塩写真で再現する事は多分、一生かかっても無理だと思う。写真はあくまで、人工物だ。


 日向は雲のように、掴み所がない。こういう青空の下で同じ場所に留まらず旅を続けていく。きっとこれからも、ずっと。


 照は逆だ。同じ場所で家をこつこつと建てていく。その家は土台からしっかりとした、ちょっとやそっとじゃ傷すらつかない。周到に計算して建築していく。だからこそ、父は一番に照をビジネスの相方として信用している。


 陽は──。


 なんなんだろう。日向は雲。照は大地と言い切れる。でも、陽はなんなんだろう? と思う。そもそも形なんか無いのかもしれない。人形が一番良く似合う形容詞かもしれない。雲のように流れる勇気も無い。大地に根付く愛着も無い。ただ家族は一つであって欲しいと思う。


「陽はね、向日葵かな」


「え?」


「種をたくさん、私にくれるの。幸せの種をね、これでもかってくらいたくさんくれるもの」


「そんな事……」


 否定する言葉を茜は手で塞ぐ。


「んーんー、んーーー」


 鼻孔まで押さえつけられて陽は息ができない。窒息しそう、と本人は言いたいらしい。茜はお構いなしに、にこにこ微笑んでそんな陽を見つめて──手を離したかと思ったら、すかさず陽の唇にキスをする。


「へへ、ほら、私はこんなに幸せ」


 と満面の笑顔で言う。いつも顔を赤くして言葉を失うのは陽の方だ。


「茜っ」


 反論にならない声をあげても、すぐ茜の笑顔に毒気をぬかれてしまう。


「私はイヤだよ」


「え?」


「陽を離したりしない。誰にも渡さない」


「……兄さんは茜の事を好きだよ」


 今度は茜が目を点にする。思いもしない言葉に。でも、陽は真面目に真剣な表情で言っている。茜は横に首を振って否定する。


「照さんが私みたいな小娘、気に掛けるはずないでしょ」


「そんな事ないよ」


 と苦さの混じった微笑を浮かべる。自分でも聡いと思う。その聡さ故、自分の身を引こうと思う時期もあった。が、その決断はことごとく茜に覆された。遠ざけようとすればするほど、茜は陽の傍へ近づこうとする。そして本気で怒る。本気で泣いて、本来で陽を離してくれない。


「だとしても。百歩譲ってそうだとしても、私の気持ちは変わらない」


「え?」


 向日葵が揺れる。風と共に揺れる。陽が首を傾げる。茜はゆっくり陽の首に自分の腕を回す。


「私、陽の傍に居たい。何があっても、どんな事をしても」


「……うん」


 茜は強く強く抱きしめる。


 風が二人を優しく撫でるように。意志。決意。約束は風に吹かれ飛んでしまう事などないほど強い。雪に埋もれる事も無く、大地に沈む事も無く、雲に流れ事も無く。二人の種は、季節が回るスピードよりも速く速く速く、幸せの種を産み落としていっている。


 陽は茜の腕をほどく。一瞬、茜は泣きそうな顔になった。何より陽からの拒絶を茜は嫌う。でも、拒絶じゃない。陽はしっかりと茜の手を握っている。


「行こう、一緒に?」


「え?」


「夏目を出る。迷ってたけど、さ」


 陽は空を仰ぐ。姉と雲を重ねた感慨じゃない。ただ、あの空の向こう側まで超えて行けそうな気が、今ならする。


 行かなきゃいけない。


 茜と一緒に居る時は、陽は自分が呼吸をしているのを自覚できる。夏目にいる時の自分は呼吸すら忘れて人形に置き換わる。それは決して、生きてるなんて言えない。自分の意志が何一つ無い。


 だから──せめて茜の事だけは、譲れないと思う。何があっても、どんな事があっても。


 向日葵が揺れる。風に揺れる。茜の表情が揺れる。茜は陽を直視できない。涙が溢れ出る。自分の気持ちには素直であろうとした。でも、陽はもしかしたら諦めてしまうかもしれないと思っていた。陽は夏目を捨てられないと思っていた。夏目の呪縛はそれほど強い。陽はそれを振り切るには、あまりにも優しすぎる。


「陽は捨てられるの?」


 陽はじっと、茜を見る。見透かされていると思うのは陽だけじゃない。茜もだ。時々、陽の透明すぎる硝子のような目が痛くなる時がある。疚しい事があるからじゃない。時々、自分の陽へ対する感情が自己満足のエゴなんじゃないかと思うから。無償の笑顔を見る度に、茜はそう思う。


 そんな自己嫌悪を消してくれるのも、陽の無償の笑顔だったりする。


「そうしないと、茜と一緒に居られないなら捨てるよ」


 ほら、そんな無償の笑顔で、そんな台詞を躊躇無く言ってのける。


 茜は陽にしがみつく。


 ずっと恐れていた。最後の選択を迫られる日を。ずっと年をとらず平穏で平和な子どもでいたかった。それは無理だと年を重ねる事に悟っていった。それでも、陽と一緒にいたかった。陽だって考えていたと思う。でも陽はまるでたいした問題じゃ無いように言うってしまう。


 夏目の呪縛は、陽と茜が思う以上に、緊縛し肌に食い込んでくる。


『夏目の強欲亡者』


 と街の人達は侮蔑する。


『力の無い民間人』


 と夏目の人達は優越感を隠さない。一触即発の緊張もその街に及ぼす経済効果が、かろうじて憎しみを飲み込んでいる。そんな平和は平和と言うのか、と疑問に思うけど。まるでロミオとジュリエットみたい。


 でも、最後に死んで幸福になれるなんて思わない。自分が死んでも、と本気で思う。陽は生きて幸せであって欲しいと思うから。何より一番は陽だから。陽がそれで幸せなら、茜はきっとどんな選択も最終的には納得できる覚悟はあった。──あくまで覚悟だけど。


 (やっぱり失いたくない)


 それもまた本心だ。本心をさらけ出していいと陽は言ってくれるから、茜はいつも素直に自分の気持ちを伝えられる。


 向日葵は揺れる。風の囁きに頷くように。

 雲は流れる。青い空の向こう側へ。速い。速すぎる。地平線の彼方へ消えていく。


 流されない。流されない。もう流されない。

 陽は呟く。


 人にはもう流されない。それは決意なたんだろうか、宣誓なんだろうか。自分に言い聞かせていたんだろうか。


 力一杯、精一杯、陽は茜を抱きしめる。向日葵は揺れる。二人を覆い隠すように。雲は流れる。速すぎる雲の流れ。足跡は雨音に変わる。ぱらぱらとした雫は、やがて打ち付ける滝になる。それでも、二人は離れない。離れようとも思わない。雨に流されてしまうほど、安易な決意じゃない。


 伝わる雫。打ち付ける雨。凪ぐ風。向日葵はそれでも、精一杯力をこめて立ち続ける。二人の体が離れないように。それは陽と茜を見続けてきたもう一人の応援者達の声だったのかもしれない。


 唇と唇を重ねて、決意をもう一度、確かめ合う。


 それで宣誓は充分だった。夏目を去る決意は完成した。


 その次の日、静かに二人はそれぞれの家をいつも通りに後にして、いつものようには帰ってこなかった。メッセージは伝えてきた。


 陽は夏目にいた全ての人に無償の笑顔で


『元気にがんばって』

 と。


 茜は町行く人達に

『行ってきます』

 と。陽と同じくらい無償の笑顔で。


 最後に二人は向日葵庭園の向日葵たちに


『行ってきます』

 と。


 風が凪ぎ、同じように向日葵は揺れた。

 それは微笑なのか、寂しさの一抹なのか、手を振って見送ったのか。人間の思い入れにしか過ぎないのか。


 その日も黙って、老婦人は陽と茜の旅立ちを見守っていた。この場所で、遙か遠くの陽と茜の旅立ちを。


「行ってらっしゃい」


 満面の笑顔は風と一緒に届いたのか、一瞬、陽と茜がこちらを見たのは、あの日の目の錯覚だったのかもしれない。











「ずっと見ていたんですか」


 陽一郎は苦笑して言う。お菓子をつまむ。物語は父と母にとっての序章にしか過ぎない。それは重すぎる序章で、有る意味では想像していた序章でもあった。父の笑顔とイタズラをいつも思い出す。母はそんな父を見ていつもニコニコ笑っていた。そう、笑顔が絶えないのだ。


「あら、出歯亀のように言わないで頂戴。私のテリトリーはここなのよ。陽と茜がたまたま、この庭園を約束の場所にしていただけ。だから、肝心な所は私は見ないように身を引いていたし」


「でも、肝心な所は見てますね」


 と志乃は言った。沈黙とともに、苦笑いが三人から漏れる。なんとなくこの老婦人ならぬけぬけと、ウオッチングを楽しんでそうな気がするから、恐さもある。なんといっても、夏目の邸宅でこっそりと陽一郎と志乃のキスから抱擁から、しっかりと観察して「まだまだキス下手ねぇ」だなんて言ってのける。


「不器用なキスは陽そっくり」


 そんな台詞を吐かれても、若い二人はあたふたするしかない。


「お、お、おばあさ──」

「楠夫人、探しましたよ」


 陽一郎が声を上げるのと、聞き慣れない声が響くのは同時だった。陽一郎は顔を上げる。それより速く、幾数もの足音が陽一郎達へ近づいてくる。


「陽兄!」


 と真っ先に抱きついてきたのは、亜香理だった。次に晃と陽大がしっかりと陽一郎に抱きつく。陽一郎は目を点にした。朝倉夫妻、夏目日向、北村、吉崎、桃、優理、誠、美樹、長谷川夫妻、と豪華メンバーが勢揃いしている。そして思い出す。あ、そうだった。


 (誘拐されていたんだもんな、俺達)


「その顔は」


 と誠は呆れと微苦笑を滲ませて言う。


「忘れてたな? 自分の立場を?」


 反論の余地無しである。美樹も呆れて肩をすくめている。まぁ、陽大のような心配は抱いていなかった。長兄の事だ、という信頼の強さがある。


 陽大は今、末弟達とかわらない行動を示している。それほど心配していたのだ。普段は冷静な陽大だが、兄が居なくなる事に何より恐怖している。後ろで、弥生の安堵した顔が見える。彼女はずっと陽大を気に掛けて心配していたらしい。それほど陽大は追いつめられていたのが分かる。


 陽一郎は感謝の意をこめて、頭を下げる。弥生は真っ赤になって俯いた。いい子だ、と思う。陽大はいい子を見つけたと思う。自分だって、恋も愛も何も語る資格なんか無いほど若造なのに。


 陽大の体が震えている。分かっている。陽大の中で陽一郎がいなくなるのはタブーだ。冷静な仮面は成長過程で、妹・弟を持つようになって身につけたモノだ。本来の陽大は泣き虫で甘えん坊で淋しがり屋だ。それを知っているのは、陽一郎と志乃、そして誠ぐらいか。


 誠はにっこり笑んでいる。


 陽一郎は無言で、陽大をなお強く抱きしめた。自分達だけで大丈夫と証明する為に夏目の地に踏み入れたはずなのに、と苦笑いを浮かべる。でも、だからこそ、離ればなれは不可能なのだ。一人一人は弱い。でも兄弟五人が揃うと、こんなにも強い。大人の手なんかいらないほど。それはエゴで思いこみで自分勝手だとしても、陽一郎は失えないと思う。


「……陽一郎、か?」


 と聞き慣れない声が問う。がっちりとした体格、鋭く細い視線。ただどこなく、父の優しい面影を連想させる。陽一郎は意気を呑んだ。緊張感と威圧感。陽大を怒らせた時にも似た、冷たい気迫。ただ優しさを目の奥底に隠せないのは、陽大と同じ。緊張は日向以外の血筋で出会えたからだ。恐れからじゃない。


「……夏目、照さんですか」


「ああ」


 とぶっきらぼうに言う。照れている? 陽一郎は目をパチクリさせる。照が何か言おうとするより前に、その隣にいた毛髪一本無いサングラスの男が、深々と頭を下げる。


「申し訳ありません、坊ちゃん」


「は?」


 意味が分からない。


「うちの家内が坊ちゃん達を連れ回したようで」


「家内?」


 と老婦人を見やる。父と同じ面影をした老婦人に目をやる。彼女はニヤニヤして、お茶を飲んでいる。その表情が優雅さ幼稚さを兼ね備えているから、なんとも不思議だ。


「え? おばあちゃんじゃない?」


「まぁ、おばあちゃんと言えばおばあちゃんかしら。そんな年だし」


「白々しく言いやがって。俺達がどれだけ苦労したと思う」


 照の冷たい声すら動じていない。


「あら? 照さんの部下への躾がなってない結果よ」


「母さんの妹だとは思えない」


「んふふふふ」


「不気味な笑いはよせ。今度は何をたくらんでる」


「たくらんでいる、だなんて人聞きの悪い」


「あんたは、企みの固まりのような人だからな」


 隣で楠は大きく頷いている。


「夫なんだから、フォローぐらいなさい!」


 拳が飛ぶ。陽一郎と志乃は──来客として扱われるべき人達は唖然として、その光景を見やる。賑やか、限りなく賑やか。もっとも夏目が賑やかなのは、陽と茜が出て以来だ。日向は目を閉じる。


 陽一郎達と一緒に陽と茜も帰ってきた。

 そんな気がする。


 向日葵は揺れる。「お帰り」と風と一緒に歌っている。


 楠夫人は、そんな日向の思考をお見通しと言わんばかりのように、小さくコクンと頷く。


 楠が丁寧に育てた向日葵畑を。


 その向こう側まで広がる青空へ。


 風は走り抜けていく。

 まるで陽と茜がそこにいるように。


 今はそこにいる陽一郎を、照も力一杯抱きしめた。 


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