8月18日「岩手県二戸郡夏目」


三十日目












 電車に揺られ、陽一郎は薄く目を開けた。


 ローカル線を埋め尽くす、馴染みの顔ぶれ。未だに唖然とする。隣にいる志乃も呆れた顔で苦笑している。目の前で朝倉と妻は何気ない顔で、すでにビールを飲みあっている。何気ない所でボロを出すが、こういう所では狸に化ける。──いや、酒が好きなだけかもしれないが。


 総参加者105人。本当なら街ほとんど全員の人が参加したかっただぞー、とのほほんと言ってのける朝倉父に陽一郎は呆れを通り越して言葉も出ない。夏目日向もまた分かっていたことではあるが目の前の人数にから笑いだ。10両編成の車両に所狭しと、人がひしめいている。普段、年寄りが数人乗るか乗らないかの赤字車両が今日は満員御礼だ。駅員も目を点にさせていた。目的地てである「夏目」には何もない。大富豪の広大な屋敷以外は、単なる村落でしかない。


 陽一郎の目の前には北村と桃が座っている。以外な取り合わせだが、陽一郎は微笑するにとどめる。桃と目を合わせてどんな顔をしていいのか困惑する。北村との因縁もある。学校での友達だから、という事もある。何より志乃が隣にいる事がある。志乃の北村へ対しての気まずさも同様だったが、北村は何も感じないかのように桃とガイドブックを見ている。


「何もないわけじゃないみたいだね」


 と北村は陽一郎に言う。なんと返していいのか……陽一郎は言葉に詰まる。


「あ、うん」


「ほら、夏目。温泉が五カ所あるみたいだし」


「どれ」


 と吉崎も顔を出す。その隣には優理がいる。優理の前では吉崎はなんて幼い。──いや、と思う。幼いんじゃない。素の吉崎が何の躊躇もなく素の感情をさらけ出しているのだ。誰にじゃなく、優理に。優理一人に。案外、自分もそうなのかもしれないと思う。陽一郎は志乃に甘い。陽大にも誠にもそう言われる。きっと北村が優理に見せているような顔を自分も志乃に見せているのかと思うと、気恥ずかしいものがある。


「あ、混浴だ。いいな、優理、一緒に入ろうぜ」


「イヤ」


 にこやかに拒否。目は笑ってない。遺恨はまるでないかのように、北村も吉崎も普通に接している。ある意味では非常にわざとらしくもあるが。


「陽ちゃん、一緒に入る?」


 志乃はニコニコと本気で言ってのける。まぁ、保育園の頃は一緒にお風呂入っていたし……だが……それとこれは……少し違うだろ、志乃?


「志乃ちゃんに背中流してもらうのか、いーなぁ」


 とニヤニヤ笑っているのは誠だ。誠は美樹とオセロを楽しんでいる。ちなみに晃が持参してきたもので、オセロ大決戦が大人子ども入り乱れて、一つの盤で白熱している。現在連戦連勝の誠に美樹が勝負を挑み、美樹劣勢である。頭脳戦は誠が強い。


「美樹、そこの黒の上におくと、端を封じられるよ」


 無視してアドバイス。ちなみに陽一郎と誠は小学校の頃から将棋クラブに所属していて、実力は五分五分。高校に入ってからは休み時間に対局していたりする。10分の休み時間で決着つけるのに一週間~2週間。非常に地味でオヤジくさいと美樹からはブーイングだが、幼なじみゆえのコミュニケーションとも言える。


「妹に甘いな、陽一郎は」


 と苦笑して反撃に出る。ただいま、誠劣勢。だが、最後まで端をがら空きにしていた誠はもっと美樹に甘い。ラーメン熊五郎の店主・大膳熊五郎はそれをニヤニヤしながら見やっていた。


 亜香理はと言えば、陽大の隣にちょこんと座ってクッキーを頬張っている。陽大手製だ。晃はそのクッキーをティッシュに包んで、離れて座っていた辻弥生に差し出す。


「え?」


「陽大兄ちゃんのクッキー、好きでしょ?」


 無邪気な顔で差し出す。ストレートに投げかける言葉に思わず頷く。亜香理がそれを見て、手招きする。勿論、晃にではなく弥生にだ。


「陽大兄さんのお隣どーぞ」


 と亜香理は言ってのける。陽大は目をパチクリさせた。それでも躊躇っている弥生の手を晃が引く。強引に連れられて、思わず単語カードを落としてしまう。それを陽大は拾い弥生に――差し出さず、窓の外にぽいっと投げた。


「ちょっと委員長! 何するの──」


「せっかくの旅行だよ。勉強はナシにしよう」


「うん……でも、けど、だって」


 本当は勉強なんかしたく無い。でも陽大と話す機会がつかめなかった。家族が参加するからついてきたけど、本当は来る気もなかった。理由はただ一つ、夏目陽大が参加するから。誰にも気付かれたくないから何も言わなかった。でも電車で一人でいて、やっぱり来なければよかったと後悔の味が強かった。それが夏目の末っ子達にかかると、とてもくだらい問題に思える。


 夏祭りの時も。

 夏目家にお邪魔した時も。


 子どもだから素直なんだろうか? でも弥生だってまだ子どもだ。陽大だってまだ子どもなのに、まるで大人のように達観した眼差しをする。大人より大人びた表情を見せる事がある。彼の両親が亡くなってから、その度合いはさらに増した。


 時々思う。叶わない。届かない。彼と私の距離の差はあまりに遠すぎる。同じ学校にいて近所にいて今、目の前にいるのにまるで別次元の人のように思えてしまう。


「どうぞ」


 と亜香理が席をゆずり、末っ子達は陽大の向かいに席を移す。弥生はためらっていると、陽大が弥生の手を引いて座らせる。なすがまま、されるがままに。弥生の体から力が抜けた。まるで陽大に全て吸い取られてしまったかのように。


「辻」


 声が顔が近い。息が甘く耳元をくすぐる。


「あまり先を急ぐな。僕を置いていくな」


「え?」


「……何でもない」


 クッキーと林檎ジュースを辻に差し出した。末っ子達は夢中でクッキーを食べている。電車は揺れる。105人を乗せて。消化不良の感情も一緒に乗せて。


 


 







 一番、最後尾の車両には誰もいなかった。街の人々はできるだけ固まって座るようにしていたからだ。すし詰めでも立っていなくても、みんなが同じ場所にいるのはいい。そう陽一郎は思う。だが、その騒がしさはカモフラージュでしかない、という事にも気付いている。


 夏目の故郷へ帰る。今は何も感じない。だがどこに行くとか、何があるとか誰も語りはしない。志乃の父も、日向も。北村の父だけが複雑そうな表情で陽一郎を一瞥したが。そこに含まれる感情は読み切ることができない。大人の思惑を乗せて、この電車は走る。


「夏目君?」


 聞き覚えがある声がした。さっきまで北村の隣にいた笹原桃が立っていた。まさか北村とそういう関係になっていたと知らなかったから、本日一番のピックニュースではあった。学校では誠と並んで桃と仲が良い。桃が主演の演劇のポスター写真を依頼されてからの仲だ。桃は大女優になる、と陽一郎は心底思う。イメージ写真そのままの演技を桃は現実に舞台で見せる。まるで魔法のようだ、と思う。魂が切り替わる。桃じゃない人になる。一度、桃の芝居を見せられていなかったら、舞台の写真なんか撮りたいとは思わなかっただろう。陽一郎が常に興味あるのは日常生活で幸せな笑顔を見せてくれる人たち。今では最大の笑顔は朝倉志乃に他ならない。


 北村も絵を描くというから、その部分でリンクしたものがあったのかもしれない。桃は何より繊細な子だ。ほんの少しの感情の乱れが、彼女を情緒不安定にする。芝居の稽古が始まるとなおさらだ。


 その桃が今では微塵の不安も出さない。北村としっかりリンクしている。桃の目が北村を確かに必要としているのが一目で分かった。それがまた複雑でもある。


「元気?」


 月並みの台詞を陽一郎は飛ばした。ここに陽大がいたら苦笑いしていたかもしれない。


「うん、夏目君も元気そうだね」


「おかげ様で」


 笑う。桃も笑う。お互い、やるせない。どちもどちらとも苦痛を救う事はできなかったから。


 今でも好きという感情は何なのか分からない。ただ志乃を失いたくない。もう二度と。


 流れてゆく景色を見つめて、陽一郎はため息を吐く。


「今でも兄さんの夢は見るか?」


「見ない」


「そうか」


「夏目君はさ」


「え?」


「優しい顔になった」


「そ……んな事はないだろ」


「あるよ。志乃ちゃんの前ではすごく優しい顔してるもん。羨ましい、私もそんな顔されたかった」


「お互い様だろ。桃だって、北村の前じゃリラックスしてる」


「私は夏目君の前だと泣いてばかりだったもんね」


「そうだな」


 と陽一郎も眩しそうに頷く。


「そんな桃を見たかった、というのはあるかな」


「夏目君は幸せ?」


「たかだか高校生にそんな事分かるか」


「志乃ちゃんといて満たされる?」


 陽一郎は桃の目をじっと見やる。


「志乃が必要なんだ。ようやく気付けたと思う」


 照れもせず言う。お互い自分を変えてまくれる人と出会った。今までの自分たちは傷を舐めあうことしかできなかったから。誠はしこの事を知らないが、もしかしたら気付いていたのかもしれない。


「北村は知っているのか?」


「夏目君を好きだった事を?」


「それ以外に何があるんだよ?」


「知ってるよ」


 言葉が重い。陽一郎はあの雨の日の事がよぎる。北村とは悪縁しかないのか。いい奴だ、吉崎の言うとおり。いい男だと思う。いい顔で笑う。逃げ続けてきた陽一郎とは違う輝きと、自分の弱さを飲み込める強さをもっている。兄弟と志乃がいてようやく立てる陽一郎には無いものを持っている。それが羨ましいとさえ思う。


「志乃ちゃんは?」


「知らない」


 と陽一郎は息を吐く。とても志乃には言えない。


「そう」


 にっこりと桃は笑った。


「笹原は幸せか?」


 陽一郎は聞いた。大人になれない子ども達の永遠の命題かもしれない。誰かを傷つけること慈しむこと悲しませること喜ばせることを手探りだからこそ。


 桃はにっこりと笑って頷く。満面の笑みだった。


「だから、志乃ちゃん」


 と桃は大きくわざと声を上げる。


「心配しなくていいんだよ」


 陽一郎は目を点にした。今にも泣きそう顔で、志乃が通用口に立っているのにようやく気付く。


「志乃-──」


「私は今の夏目君の気持ちを確認したかっただけだから。それ以外は何もないから」


「……」


「じゃ」


 と桃は軽快なステップで出て行く。陽一郎に伝えたかった言葉を伝えられたから。北村が待っている。陽一郎には悪いが、志乃にわざと聞こえるように言っていた。隠せない隠し事はよくない。隠すならとことん隠せばいい。陽一郎にもしその力があれば、きっと志乃の手を離す事もなかっただろう。桃は逆に北村に何でも気持ちを伝えられる強さがあるから、昔の呪縛も今隣にいてくれる北村も、これからの先の事も直視できる。


 好きだった人にもその強さを持って欲しい。陽一郎と桃は同類だから。だかになおさら、バランスがとれなかったと今なら言えるから。


「こんなの、聞いてない」


 志乃の声が震えている。陽一郎の気持ちが自分に向けられているのは分かる。でも悔しい。自分がいなかった空白の時間に、自分の知らない女の子に、自分が言ってほしかった「好き」という言葉を囁いていた事実が。


 陽一郎は髪を掻き上げる。なんて言ったら志乃は納得してくれるのか。一番は志乃で、もう手を離すつもりはないし、気持ちを隠すつもりはない。


「こんなの嫌だよ」


 志乃は正直すぎる。陽一郎に自分一人だけを見ていてほしいと切実に思う。陽一郎が他の女の子に笑顔を向けるのが嫌だ。まして自分以外の子に甘い言葉を囁いているのは激痛でしかない。もう離れたくないから、二度と過ちは繰り返したくないから、もう隠さないから、陽一郎が隠していた空白の時間が痛い。それは今は何でもない過去の事だとしても。志乃は一笑して片づけられない。


「陽ちゃん……だって……私の傍にいて、くれるって。そう言ったよ」


「うん」


「私だけ見てくれるって」


「うん」


「私、離れたくないもん。絶対に陽ちゃんの事離さないもん」


「うん」


 陽一郎は何て言っていいか分からない。ただ志乃の事を力一杯、抱きしめた。


「私、嫌だよ。陽ちゃんがね、他の女の子の事、考えているの嫌なの」


「それは俺も……」


「嫌だから。絶対に嫌だから。近くにいてくれなきゃ怒るから。実家に残るなんて言ったら私も残るから。何が何でも近くにいるから。離れないから。あっちに行けって言っても、私絶対に離さないから」


 志乃なりの不安。夏目の故郷へ近づいているから。


 電車は揺れる。未熟な未発達な感情を乗せて。電車は揺れる。揺るがない純粋さを乗せて。

 電車は揺れる。そんな幼い二人を日向はカメラの中におさめて。


「いやはや青春だわ」


 もう一枚。幼い二人がきつく抱きしめあっている姿を。

 電車は揺れる。夏目の里を目指して。


 


 

 岩手県二戸郡夏目──岩手の県庁所在地である盛岡からさらに北へローカル線で一時間。さらに乗り換えて一時間。二戸町の近く。さらに山奥にその場所はある。古びた標識が駅には飾られていた。「夏目」と。その標識も風化して今にも落ちそうな有様だ。勿論無人駅。人のいそうな気配はゼロである。唯一、駅から伸びてるアスファルト舗装の道路が使い込まれているのに、人が居る事の感触を感じ、少しほっとする。


 完全な山奥。緑が眩しい。蔦が駅の構内にまで伸びている。虫の鳴き声。たまに走る車を除いて、文明の息吹は無い。線路の向こう側には完全に反りたった崖。ここが崩れたら、この駅もひとたまりもない。人よりも虫や鳥、植物の息吹の方が多く感じられる。未開の地域に飛び込んでしまったような、そんな第一印象。


「本当にど田舎で嫌になる」


 と日向は独り言を呟く。日向はこの田舎が嫌いだった。夏目グループの中枢が此処にはあるが、それ以外を除けば文化もメディアも無い。夏目のテクノロジー以外は、時間を忘れたかのように農業牧畜が主たる産業だ。それも年寄り達がひっそりと行う見捨てられた地区と言ってもいい。だからこそ、夏目はここに目をつけた。夏目の本職であるコンピューターテクノロジーの開発は、情報の激戦と言ってもいい。主たる開発内容を外に流出させられない。最高経営責任者・夏目照。「サマーアイズ」はPCメーカーの中でも急成長株でオシャレ家電の異名を女の子達から頂戴している。


 もう一つの主力分野が薬学で今は亡き前会長夏目太陽が力をいれていた分野だ。夏目グループはそもそも薬剤研究員であった夏目太陽の趣味から始まった企業だ。太平洋戦争後、有力な貴族の位置にあった夏目家は衰退の一歩をたどり、過疎化の地でしかない「夏目」に息吹きをもたらした。表向きは発展しようのない田舎だが、夏目本家の屋敷には世界最先端のパソコン技術と薬剤テクノロジーが集結している。


 だがあくまで「夏目」を最先端の「街」ではなく「町」であり続けたのも、夏目太陽の意志だった。夏目の自然の素晴らしさを日向も実感している。だからこそ、若かった日向は外の世界に出たかった。これは当然の欲求とも言える。


「で」


 と朝倉は日向に聞いた。


「これからどうする?」


「さぁ」


 と肩をすくめた。到着時刻は照には伝えていたが、それ以降の予定は何も聞いていない。


「おい、ちょっと待て!」


「何よ?」


「ここまで来て、立ち往生なんか勘弁しろよ! 105人でこの駅にずっといろ、と言うのか!」


「そんな事私に言われても困る」


 もっともその他の面々は話しに花が咲いて、あまり次の行動に頓着もしてないが。


「困るのはこっちだよ!」


「酔い覚ましにはいいんじゃない?」


 ニヤリと嫌味を突きつけて、日向は陽一郎と志乃を観察した。志乃は離れまいと、ぴとりと寄り添っている。


「陽一郎と志乃、どうしたんだ?」


 朝倉が不思議そうに聞く。


「若いっていいわね。陽と茜ちゃんの事を思い出すわ」


「ああ、分かる。あの二人を見てるとそうだよな」


 これが父親の台詞かと日向は呆れるが、朝倉は小さく笑った。


「あの二人をずっと見てきてきたからな。父親としての幻想もある」


「は?」


「志乃が結婚する相手が陽一郎なら許せる。祝福してあげれると思う」


「でもあなたはね」


 隣で妻がクスクス笑った。


「絶対、泣きますよ。陽ちゃんは『俺の息子だからな!』って言ってね」


 その物言いに朝倉は憮然とし、日向は思わず笑みをこぼした。


 そんな事を言い合っていると、駅にむかって五台のバスが走ってくるのが見えた。バスでのお出迎え。それなりの礼儀は尽くす。夏目照にぬかりは無いらしい。本家もきっと迎賓館の位置づけにあたる「仙梁庵」を全面開放するに違いない。近くに露天風呂──混浴だが──『陽だまり温泉』もあるし、少し湯は熱めだがこの街の連中ならおおいに楽しんでくれる事は間違いない。


 先頭のバスから黒のスーツの老人が降りてきた。びしっと決めているが、頭皮にも眉にも毛一本無い。先代の会長秘書であり現薬剤部門の代理経営責任者、楠壮次郎と呼ぶ。サングラスのおかげで暴力団関係者のようだが、生まれつき毛髪の生えないだけだ。サングラスの下は童顔で大きな瞳が犬のようである。長い付き合いだからこそ言えることだが、街の連中は緊張感でいっぱいだ。朝倉をのぞいては。


「ようこそ」


 無愛想に楠は言う。精一杯、これでも彼は愛想をこめている。


「少しだけ愛想よくなったな、おっさん」


 とすでにおっさん世代になっている朝倉が言っても何だか違和感がある。そう言えば朝倉は楠と対峙しても何の物怖じもしなかった。普通は気味悪がるのだが。楠は陽と朝倉対しては、好意の眼差しを送っていたことを日向は思い出す。


「お元気そうで」


「年なんだからあんまり働くな。こんな出迎えくらい照にやらせろ」


 朝倉に言われて晃がドキッとした顔をする。それに気付いて朝倉は微苦笑して、首を横に振った。


「お前じゃないさ。にこりとも笑わない愛想の悪い奴がいるんだ」


 酷い物言いだ。日向はつい苦笑する。楠も唇の端にかすかな微笑を浮かべたが、すぐに消した。


「バスの方へどうぞ、皆様。長旅お疲れ様でした」


 一礼。それぞれ困惑しながら、人混みの流れの中、バスに乗り込んでいく。夏目兄弟もバスに乗り込んで最後に長兄が乗ろうとした矢先、陽一郎の姿が消えた。


「え?」


 陽大が身を乗り出す。陽一郎がいない。志乃もだ。


「大アニ?」


 美樹も目をこらすが、陽一郎がいない。


「委員長!」


 と弥生が声を上げた。もの凄いスピードで黒のベンツがバスの間を縫って疾走していく。


「晃! お前の視力ならナンバー見えるな?」


 現代人に珍しく視力両目2.0の晃だ。もっとも実際の数値は2.0をはるかに超えていると陽大は踏んでいる。


「大アニ、【岩手さ21-254】だよ。間違いない」


「よくやった」


 と紙に書き記す。


「何があったのですか?」


 と楠が判然としない表情で聞く。陽大はこれ以上無い殺意をたたえている。


「兄さんと志乃ちゃんを、よくも」


「は?」


 陽大は敵意を剥き出しにしている。


「私には何の──」


「五月蠅い、喧嘩を売るのなら買うよ。警察に電話する」


「は?」


「公然と誘拐された、ってね。このナンバーを調べてもらう。たぶん、お宅の所有車なんじゃないか? まぁ調べれば分かる」


 楠の額に汗が滲む。中学生の思考能力じゃない。この思考判断の素早さといい、敵は排他しようとする意志といい確かに夏目の遺伝子を受け継いでいる。夏目照の遺伝子を。だが、全く心当たりが無い。照からもそんな命令はきていない。こんなちゃちな誘拐劇をするほど、夏目照は阿呆じゃない。とすると-------楠は頭痛がする。


 朝倉もまた小さく笑んだ。


「虚をつかれたが、これからどうする、楠?」


「どうすると言われても私めには全く存ぜぬ──」


「あのな」


 ぐいっとネクタイを引っ張る。満面の笑顔で。


「志乃は俺の娘だ。陽一郎は俺の息子だ。俺の子ども達に手を出してみろ、山の肥やしにしてやる」


 冷たい空気が流れる。夏目照が危惧していた事だ。こには100人の味方が夏目陽一郎を守っている。


「美樹、カメラあるよな。兄さんの荷物に」


「あ、ある」


「こいつの写真も撮っておけ。警察に突き出す。マスコミに写真は送る」


「……お、お待ち下さい。日向様!」


 助けを請うも無駄だ。日向もまた陽一郎を本家に戻したいとは思ってない面子の一人だから。何より姑息な手段が許せない。


「どこに夏目はいるんだ?」


 と楠の目を吉崎は覗き込む。陽大といい吉崎といい最近の若者は血気盛んだ。それはそれで若さの躍動を感じると朝倉は思う。むしろ陽一郎が年寄りじみて達観しすぎているのだ。


「本家本邸に……多分」


 絞り出す。多分、そうとしか思えない。夏目の末端達の計画であるにせよ、夏目照の独断にせよ──


「そこへ連れて行け」


 と朝倉は命令した。事実上の命令だ。拒否権は無い。与えるつもりもない。陽一郎を孤立させたりしない。絶対に、一人で決断させたりしない。その選択がどんなものであれ、決断するのは陽一郎と夏目兄弟だから。その為に今、俺たちはいる。


 陽の時と同じように。

 今度もみんなで陽一郎達を守り通す──

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