8月8日「明日も晴れて」


二十日目







 微睡むとたまに、昔の事を夢の中で思い出す。


 あの人がおもちゃのかわりにいじっていたカメラ。自分より年上のくせに、カメラをいじっているその顔は、どことなく年下を連想させる。だからかもしれない。年上という感じがしなかったのは。


 友達。


 そういう表現がぴったりと合う。


 何をするにも、どこに行くにも、まるで友達のようだった。いつからだろう。いつからそんな感覚が狂いだしたんだろう。年齢の差は埋められない。でも目一杯の背伸びで、その隙間を埋められると信じていた私は子どもだった。本当の意味で。


 埋められない──否定形。だから、どんなに無理しても埋められない。それを悟ったのは、つい最近。ようやく達観して、そう思える。そう気付くまでに、どれくらいの時間がかかったのか分からない。それでも、あの人によく似た彼を、今まで追いかけてきた。


 同じく写真をやっていた人だった。笑い方まであの人にそっくりだった。その微笑みを見て、なぜか私はドキドキしたから、きっとあの人以外を好きになれるんじゃないか、と思った。


 でも違った。


 彼はカメラをおもちゃのようにはいじらなかった。大切な大切な宝物として、そっとあつかった。


 あの人と違って、何でもかんでも無差別に撮らなかった。


 あの人よりも、背は大きかった。


 あの人よりも、口数も多かった。


 あの人よりも、目が優しかった。


 だけど、あの人よりも素直じゃなかった。悲しみの混ざった微笑みで取り繕う瞬間を見るのが痛かった。演技の微笑で、心配させまいとする態度が痛かった。


 あの時、彼を救いたいと心から思ったのに、彼は誰からも救いの手を拒んだ。私は何の力にもなれなかった。それは誰もが同じだったけど。その彼が少し元気な姿を見た時、ああ私でなくても力になる人がいる、と思った。


 彼は今日もすれ違った。


 手を挙げて、私に笑う。


 バイトなの? 私は聞く。そうだよ、と彼は答える。忙しそうだね、と私は聞く。まぁね、と彼は答える。そして、みんなに心配かけたなぁ、と照れた表情で言う。


 みんなの中に私は入っている。でも、彼の救いの手として、私は入っていない。届かない距離は辛い。でも、対象外と言われるのは、もっと悲しい。


 散歩を口実に私は彼に会いに行く。


 彼が一番気を許している女の子に手を振った瞬間を見計らって、私は彼の前に出る。女の子が完全に、視界から消えた事を見計らって。こそこそと。


 彼にとって私は今はもう、ただの友達。学校が同じで、クラスが同じというだけのただの友達。手を繋いで、一緒に共有した時間も過去のものになった。


 だから──

 一線を飛び越そうとすると、あの人のように彼も背を向ける。


 夢の中で、そんな気持ちだけが切なくリフレインする。


 あの人が私に笑ってくれたら。

 彼が私に笑ってくれたら。


 それだけで満たされるのに、あの人によく似た微笑みを浮かべる彼は、私に向かって心から笑ってはくれない。彼とよく似た微笑を浮かべるあの人は、私の傍にはいない。距離はますます遠くなる一方だ。その距離を埋める事はできない。どんな奇跡がおこっても。


 現実であの人と彼の事を思い浮かべると砂嵐に遮られたように顔がぶれるのに、夢の中ではどうしてこんなにも鮮明なんだろう。あの人がどんな笑い方をしていたかなんて、実はよく覚えていない。でも、夢の中でのあの人は、これでもかというくらい、鮮明にはっきりと笑う。


 彼は夢の中では演技の笑顔を見せない。純粋に私に笑いかけてくれる。


 でも、それは嘘なのを私は知っている。だから冷めた表情で、二人の笑顔を見ている。私はこんな夢なんか覚めちゃえ、と喚き散らす。でも、夢は終わらない。終わらない笑顔を二人は私に向ける。棘のように、私を締め付ける。それでも夢は終わらない。


 私が逃げ出したいくらい弱気な時──死ぬほど、あの人と会いたい時、夢はあっさりと終わる。


 まるで蜃気楼のように。


 あの人はいない。彼は帰る場所に帰る。それだけの現実に気付いて、私は小さく笑う。目を覚ますと、冷静に夢の中の事をなぞる自分がいる。


 私は誰の背中を追いかけているんだろう。たまに、それが分からなくなる。分からなくてもいいから、あの人に会いたいと思う。今までずっとそう思ってきた。それが叶わないのなら、彼に嘘でもいいから、笑って欲しいと思う。夢の中では、あんなに自然に笑ってくれるのに。現実の君は家族を守るために奔走している。たった一人の私の知らない女の子に笑いかけている。


 不公平だ、と思う。理不尽に呟いてる自分に気付いて、私は笑う。その笑いはすぐに消える。振り絞っても、唇に笑みが浮かばない。逆にとても悲しくなる。「好きだよ」の言葉をもう一度、彼の口から聞きたいと思う。愚かだ、と思う。浅ましいとすら思う。それが叶わない事を私は知っている。


 追いかけても、追いかけても、追いつかない。それじゃ、追いかけなきゃいいのに。そう思うけど、結局、夢の中では追いかけて、すがりつく自分がいる。甘えている自分がいる。泣き出している目覚めた自分がいる。


 でも──今日は違った。


 夢の中で、あの人の顔は見えなかった。


 あの人は笑っていなかった。


 砂嵐が静かに舞った。


 彼は、私の知らない女の子と背を向けて、歩いていた。そのまま、真っ暗になって消えていく。


 悲しくなかった。何も感じなかった。距離の事すら頭になかった。そのかわり、安心して眠り続けていた。優しい光が、私の体を包む。手のひらが私の頬に触れた。暖かくて気持ちよかった。私はその温もりに身を任せていた。ふわふわと空を漂うみたいに気持ちよかった。


 誰の背中も追いかけないで、私はただ、その優しい感触に身を委ねていた。






 


 

 瞼を開ける。スケッチブックを閉じて、君はうたた寝をしていた。私は自分の頬に手を当てる。


 夢なのか現実なのか判別がつかない。でも、あの感触は君が触れていたんじゃないかと思うと、なんだか少しドキドキした。


 あの人や、あの人に良く似た彼とは違うドキドキだった。冷静になろうとすればするほど、心臓の鼓動は暴れ狂う。それを押さえる為、何回も深呼吸をした。おかしい。変だ。私は変だ。彼に会う口実でしかなかったのに、いつのまにか君の絵の虜なっている。──絵を描く君の姿が瞼の裏に焼き付いている。


 同情だったんだと思う。顔の無い女の子ばかり描き続けていた君に対する。


 でも、そうじゃない絵を描き出した君を見て、私は言葉に出せなかった。


 君は本当に素敵な感性をもっている。私は惚れ惚れとそう言うと、君は少しくすぐったそうに、はにかんで笑う。そんな君が可愛いと私は言うと、君は少し膨れて、男に可愛いは無いんじゃないか? と言う。どうやら学校でも君は可愛いと言われているらしい。それを想像して、私は少し可笑しくなった。君は不本意なのかもしれないが、確かに君は少し童顔で、女性的だ。私より女性的かもしれない。繊細に見た世界を、君色のフィルターを通過させて変換させていく。その魔法のような作業を、私は興味津々に見つめていた。


 君は不思議だ、と思う。まるで大人のように冷静な言葉で私を諭すかと思えば、脆い一面を見せる。ちょっとした私の一言で、少しだけ悲しそうな顔を見せる。そんな顔を見せられると、私は何だか切なくなる。君の名前すら知らないのに、変な話しだ。


 脆いくらい綺麗な青空を描く。そんな青空を描く君が、今度は私を描いてくれるという。私は少し照れてみせた程度にとどめたが、本当死ぬほど嬉しかった。君は私をどんな目で見ているのか。とても気になったから。


 私は君を起こさないように、スケッチブックに手を伸ばした。


 私は静かにページをめくる。

 ページを破った跡。このページに描いてあったスケッチを私は知っている。その絵が無い事に、ほっしている自分がいる。何枚かの白紙があって、一枚の絵が飛び込んできた。


 君が昨日塗っていた、青空、噴水、水飛沫、子供達。青。青よりも青い青。綺麗で消えそうな青。完成されたその絵を見て、私は嘆息を漏らした。綺麗で壊れそうで、でも力強くて。こんな世界を描ける君の内面をもっとのぞいてみたいと思う。私は自分がモデルとなった絵よりも何よりも、この絵に見惚れていた。


 そして、ようやく次のページに手をかける。


「え?」

 眠っている私だった。ラフだが、私の特徴を捉えている。ベンチに座って、少し首を傾けて寝ている姿。そして肩までしか描かれていない君の存在。


 ただ、どことなくその寝顔に無防備な安堵が垣間見える。そんにずっと寝ていたわけじゃない。ただ、君と話している間に、心地よい睡魔が襲ってきたんだ。君は起こせばいいのに、そのまま眠った私を描き続けていたなんて。なんだが、少しずるいと思う。


「起きたんだ」


 私は顔を上げる。君は小さく欠伸をしつつ、背伸びしている。


「これ、どういう事?」


「え?」


 私の投げかけに、君は言葉を詰まらせた。


「どういう事って?」


「何も私の寝ている姿なんか、描かなくてもいいじゃないの」


「だって寝ちゃったじゃないか」


「それは、そーだけどっ!」


 確かにその通りなので、反論できない。


「それにね、他人の前で無防備に寝られる人って、そうそういないじゃない? たからさ、なんか無性に寝顔を描きたくなったんだよね。寝顔、可愛かったし」


 何気に恥ずかしい一言を言う。私は自分の顔が紅くなるのを感じて、顔を反らす。それを君は、私が怒ったととったらしい。


「いや、勝手に描いたのは謝るけどさ」


「私の頬、触ったくせに」


「え?」


 今度は紅くなって慌てるのは、君の番だった。言葉にならない弁解を繰り返して、必死に説明しようとする。


「べ、別に邪な事、考えていたわけじゃないんだよっ!」


「じゃ、何を考えていたの?」


 私は乗り出すように、君の目を覗き込んだ。君の目は濁りの無い黒だ。視線を反らすことなく、私を見返してくれる。変だ、と思う。君の目が怖いくらい綺麗だと思う。恥ずかしくて、本当は今すぐ目を反らしたいのに、君から目を離せない。


「何を考えていたの?」


 私はじっと君を見た。君の唇が、かすかに動く。


 私は言葉を待つ。


 時間が止まりそうなくらい、その刹那が永遠に思えた。


「消えそうだって思ったから」


「え?」


 私は目をぱちくりさせた。そんな言葉が返ってくるとは思っていなかった。


「綺麗だったよ。でも、そのまま目を覚まさないんじゃないか、って思って」


 小さな声で言う。私はじっと彼の言い訳めいた言葉を聞いていた。


 消えそうだ、って思ったから。


 夢の中でなら、消えてもいいと思っていた──あの人との距離を埋められるんだったら。彼がもっと笑ってくれたら。でも、それは違う。違うんだよね?


「君ってさ」


 私は無理して笑って見せた。


「結構、寂しがり屋さんなんだね」


 精一杯、笑った。私の気持ちを悟られないように。動揺している自分を見破られないように。君は困ったような照れたような表情を浮かべていた。


「そうかもしれない」


 頷く。そうじゃないよ。心の中で呟く。それは私、私なの。寂しくて仕方ないのに、あの人の後ろ姿を誰かと重ね合わせる恋しかしてこなかったのに。あの人と一つも似ていない君に安堵しているだなんて。おかしい。変だ、おかしすぎる。何か変だよ、絶対。


 と君は私の持っていたスケッチブックを手に取り、立ち上がる。


「明日は色を塗ろうか、今日と同じ場所で」


「それは約束?」


 私はじっと君を見た。あの人は約束を果たしてくれなかった。彼は約束を交わすこともなかった。


「そうだね」


 にっこりと笑う。


「明日ね」


「うん、明日」


「明日だよ」


「分かってるって」


 君はまた笑った。私も少しだけ笑った。


 変でもいい。おかしくてもいい。私は背を向けて、歩き出した。悟られないように悟られないように。


 神様、明日も晴れにして下さい。

 明日も君と会わせてください。


 明日も君の絵を見せて下さい。

 明日、今日の私に色を塗って下さい。


 明日また──君に会えるよ、ね?

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