7月29日「三人」


十日目







「志乃ちゃん?」


 と長谷川誠は思わず声をかけた。志乃が手を誰かに振ってる。あれは? と思った。見間違えるはずがない。間違いない。あの後ろ姿は陽一郎だ。


「誠君!」


 と誠に気付き、寄ってくる。


「陽一郎と一緒だったの?」


「うん、これからまたバイトなんだって」


 と言った表情が少し寂しげだったが、すぐにそれは消える。誠に向かって、とびきりの笑顔を向けた。この笑顔だけは、小学校の頃から変わらないと思う。悪戯坊主だった陽一郎と誠をたしなめるのは、いつも志乃の役目だった。もっとも、それ以外では陽一郎がまるで兄のように志乃をリードしていたし、そんな陽一郎に志乃はピッタリくっくように歩いていた。


 人って生き物は次第に変わっていく。幼い頃から二人をよく知っている誠は、それを痛感していた。


 仲良しと言っても、男と女なのだ。 大きくなるにしたがって、男の子は男である事を意識して、女の子は女である自覚を持つようになる。


 陽一郎と志乃もその例に漏れず、二人が一緒にいる時間は少なくなってきていた。それに一抹の寂しさを憶えていたのは、当事者ではなく誠、本人に他ならない。


 何をするにしても、三人はいつも一緒だったから、なおさらだったと思う。


 だから志乃が違う誰かと付き合っていると聞いたとき、目の前が真っ暗になった思いだった。


 陽一郎は微塵も気付いていなかったが、志乃は不器用に、自分の気持ちを伝えていた。二人の距離が遠くなっても、志乃の目はいつも陽一郎を探していた。それに志乃自身も気付いていなかったのだと思う。


 幼なじみの恋なんて、そう実るものじゃない。お互いを知っているからこそ、恋愛対象にはならない、と知りあいが言っていた。多分、陽一郎と志乃もそうなんだろう、と思っていた。


 陽一郎に志乃を他人に取られて平気なのか? と問い詰めたかった。


 やっぱりタダの幼なじみとしか志乃を見ていなかったのか? と怒鳴りたかった。


 離れてしまえば赤の他人なのか? と罵りたかった。


 が、誠はそうはしなかった。──陽一郎は気付いたのだ、その時に。自分の気持ちに。多くは語らないが、目が全てを物語っていた。だが陽一郎は何も語らなかった。


 ごく普通に話そうと努力をしていた。


 その後だった。何もかも陽一郎の周りで上手くいかなくなってしまったのは。


 交通事故。あっさりと陽一郎の両親は死んだ。何の予告も無くだ。


 陽一郎は一人、取り残された。


 まるで抜け殻のように。捨てられた仔犬のように、あの日、陽一郎は天を仰いでいた。弟や妹達の言葉も届いていなかった。


 あの時、志乃がいてくれたら、何度もそう思った。


 虚ろな目の陽一郎を見て、懇願したかったが、それは無理だ。あの時はそう思った。志乃にそんな優しさを求めちゃいけない。そんな事をしたら、陽一郎は二度と立ち上がれ無くなる。


 そうは思ったが、誠には何もできなかった。


 雨の音に混じって聞こえた泣き声は、美樹の声だったんだろうか? 自分の声だったんだろうか?


「誠君?」


 あの日の雨音は、志乃の声でかき消された。


「あ、志乃ちゃん。珍しいね、陽一郎と一緒にいるなんて」


「え?」


 ときょとんとして、そしてクスリと笑む。


「うん、そうだね」


 と志乃は笑った。が、その笑みには何か秘密を隠すような色合いが含まれている。おや? と思った。志乃がニコニコしているのは毎度の事だが、いつにもまして表情が変わる。しばらくは見ていなかった無防備な笑顔。誠は思わず見とれてしまった。


「志乃ちゃん?」


「誠君に報告しなきゃ、いけないね」


「え?」


「私、やっぱり陽ちゃんの事が好きだったみたい」


 ストレートな言葉に誠は、唖然とする。


「あの彼氏は……?」


 その言葉はタブーだったのか、志乃の表情が翳る。それも一瞬だった。また笑顔が戻る。だがその笑顔は、自分の感情を塗りつぶす笑顔だった。それに気付き、誠は納得する。


「 別れたの?」


 志乃はコクンと頷く。また笑顔を浮かべた──痛すぎた笑顔を。


「そう」


 誠は何となくほっとした。誠が案ずる必要もなく、二人はいつのまにか元の場所に戻っていた。拍子抜けした気分と言えば、そうなるか。少し力が脱けていくのを感じる。


 だが、と志乃の顔を見て小さく笑った。二人は相変わらず、二人のままのようだ。


「相変わらず、陽一郎は鈍いんだね?」


 クスクスと笑う。志乃は小さく溜め息をついた。それが誠への答えのようだ。


「ま、陽一郎らしいよ」


「誠君、他人事のように言うね」


 少しむっとする。志乃の表情は本当にコロコロと変わる。それが何とも可笑しい。そうそう、志乃は陽一郎の側にいる時はいつも、こんなふうに忙しく笑ったり怒ったりしていたのだ。そんな表情が少なくなってきたのは、中学生になってからだ。


 どこか寂しげな刹那の表情。陽一郎と居ると途端に水を得た魚のように、世話を焼く。あの時の志乃はまるで小姑のようだ、と陽一郎が苦笑いをしていたのを思いだす。誠も確かに、と納得したものだ。


「でも気をつけた方がいいよ?」


 とわざと意地悪く言う。


「陽一郎はあれで、結構もてるからね」


「え──」


 沈黙。志乃の顔色がさっと変わる。その色に、あの時は見せなかった、嫉妬の色合いを垣間見た。ここまで感情を素直に出すようになったのか、と誠は感心すら抱く。誠は優しく微笑んだ。


「でも志乃ちゃんが陽一郎の隣にいると、しっくりくるね」


「え? そうかなぁ」


「僕にしてみれば、陽一郎と志乃ちゃんは一緒が当たり前だったからね」


 その一言に今度は志乃は俯く。その顔が赤い。誠は微笑ましい、と思う。変わらないものと変わっていくもの。陽一郎と志乃は確かに幼い時の二人ではないが、それでも、と思う。二人はやっぱり二人なのだ。


「誠君?」


「嬉しいな、と思ってね」


「え?」


「僕は陽一郎と志乃ちゃんが一緒に並んでいる姿が好きだったから」


 それは偽りの無い本心だった。志乃は不思議そうな顔をしている。誠はまた小さく、微笑んだ。


 小学校の時も、志乃は不思議そうな顔で陽一郎と誠を見ていた。


 あの時は二人だけで、廃屋となった病院を探険しようという、そんな話をしていたのだ。 蝉の鳴き声に混じって、志乃の抗議の声が響く。それでも、やっぱり志乃は二人についてきた。半泣きになりながら、陽一郎の背中にすがりついていた志乃。相変わらずマイペースな陽一郎。そして、その二人を見て苦笑を漏らす誠。あの頃から誠は二人の世話を焼いたいたのかと思うと、自分でも難儀だな、と思う。


「もし良かったら、今度三人で遊びに行こうか?」


 誠の言葉に、志乃は力強く頷いた。その素直さに思わず、また笑みがこぼれる。


「陽ちゃんに言っておくね。あらかじめ言っておかないと、バイト漬けで終っちゃうよ、夏が」


 確かに、と誠は頷いて、また笑った。こんなに何でもない事で笑えるなんて、不思議に思う。安堵してる自分がいる。もう大丈夫、陽一郎は大丈夫。志乃が隣にいてくれた。今まで気にかけていたのに、何もできなかった自分がそう囁く。本当なら笑うより、泣きだしたかった。志乃に有り難うと言いたかった。でも、それは違う。志乃は同情で接している訳じゃないし、陽一郎は同情を嫌う。


 だから、誠が言うべき言葉は一つでいい。


「そうだね、夏が終る前に絶対、遊びに行こうね」


 満面の笑みで微笑む。志乃はもう一度、大きく頷いた。

 

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