子猫のくしゃみ

月緒 桜樹

僕だって、



 僕だって、この道を渡れるようになれるんだよ!


 そう思ったけど、まだそんな英雄にはなれていない。

 生まれてから半年が経って、夏になったから、少しだけ散歩してみようと思ったのに。僕は意気地無しなのである。


 たくさんの背の高い人がここを通る。時々、セーラー服の女の子とか、僕と似た顔のストラップ付けた鞄持って、ぴしっとした服着て、背筋伸ばして歩く男の人とかが立ち止まって僕を見る。


「恥ずかしいから、そんなに見ないでよ! 急いでるんでしょ?」


と照れ隠しに(強めの口調で)言ってみたのに、ますます彼らは破顔してしまった。そんな彼らを、また人々が追い越していく。ちらりと振り返りながら。



 名残惜しそうに、彼らは駅に向かった。

 そして、僕は知っている。運良く帰路の彼らに――特にセーラー服の女の子に――会えたなら、遊んでもらえるってことを。









 た、楽しみにしているわけじゃないんです!


 皆背が高くてコワイけれど、彼女は僕の目線に合わせてしゃがんでくれるからコワくない……なんて理由で彼女が好きなわけじゃないんです!


 写真撮られるの恥ずかしいし、道草食ってないで、早く帰ればいいのにって思ってるの! だから、「日が暮れちゃうよ?」って忠告するのに――彼女は、聞かない。僕を虜にして。


「まったく、もう!」


 僕は無意味に歩き始めた。てけてけ、てけてけてけてけ、と見慣れた庭を歩く。――何周も、何周も。クールな妹は、僕を一瞥したきり、目を閉じた。足跡の上踏んで、地面をならすように歩く。ついでに、そこで寝ている妹も踏んでやりたい。

 僕が庭を回るのは、そこの(彼女も通る)道をまだ渡ることができないから。何故渡れないかって? それはね――。






「バイクや車がコワイからでしょう?」

 真横から、みゃー、と声が飛んできた。



「知ったかぶりしないでよ姉ちゃん!」

 酷いこと言ってくれる! あそこの道を渡れるのは英雄だけなんです。僕は、まだまだ修業が足りないだけなの。決してコワイわけじゃありません!

 強がり? そうです、強がりです。ちょっと見栄っ張りなのです。

 でも、どう修業したら良いかがわからない。


 僕はてけてけと庭を回り続けた。



   ***


 僕の家族が住んでいる空き家の近所の人が、毎日ご飯を置いていくらしい。おかげで、僕たちは飢えずに済んでいる。

 あまりよく覚えていないけれど、冬には暖かい室内に入れてくれるそうで。僕はその人の家で生まれたのだと言う。


 そして、今日もそんな優しさの詰まったご飯にありついた。すると、

「あら、そんなご飯で満足していていいの?」

姉ちゃんが余計なことを言った。

「姉ちゃんは、満足してないんだ?」

「当たり前じゃない!」

 姉ちゃんは、けらけらとよくわからない笑い方をして言う。


「あんたの渡れないそこの道の、向こうにはね――」


 僕はどきりとした。







「あんたの想像もつかないようなご馳走も、転がっているのよ?」


 ずがぁぁあん! と衝撃が走った。まるで雷が落ちたような。


 なんということでしょう! ご馳走だって?! 今食べているご飯よりも、おいしいものを想像した。……挫折した。

 自分でも、よく飽きないものだと思うけれど、僕は、生まれてからこれ以外のご飯を食べたことが無い。つまり、「おいしいもの」という概念がよくわからない。何と言うか、姉ちゃんが良い思いをしていることだけはわかった。癪である。


 そもそも、姉ちゃんはあの道の向こうに行ったことがあることになる。ということは、姉ちゃんは英雄なのか!

 そんなことをつらつらと考えていると、

「なぁに、真面目な顔して考えてるのよ? 似合わないわよ」

と意地の悪い笑顔で彼女は僕を見た。

「うるさいよ! 何考えてたっていいじゃんか!」

僕は、きっ、と姉ちゃんを睨んだ。


「――わたしも、似合わないと思うな」


 背後から声がして、僕は振り返る。

 妹である。

「なんだよ! お前もそんなこと言うのか?」

僕は少し、しょげてしまった。


 それで、早く、あのセーラー服の女の子が帰ってこないかなぁ……と、僕は思考を遠くに飛ばしたのでした。

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