第11話 酒場の女

 二人は部屋を取った宿に併設されている酒場で食事を摂った。

 酒場はたくさんのお客でにぎわっている。常に誰かの話し声や食器同士がぶつかる音、様々な種類の音で溢れていた。人混みの間を縫うように、ウエイターたちが忙しく歩き回っている。

 アネットはまた、現実に打ちのめされていた。メニュー見ても、文字が全く読めない。見たこともない文字が並ぶメニューに、そしてその事にこれまで気が付かなかったことに、アネットはまた気が遠くなりそうだった。

 アネットが長年慣れ親しんだ日本語など、もちろんどこにも書かれていない。英語やその他の言語には決して明るくはないが、仮に知識があったとしても、全く役に立ちそうにはなかった。


「あのう、オウエン。私の分も適当に注文してもらってもいいかしら」

「それは構わないが、どうした? 食べたい物があれば遠慮しないでいい。ここまで随分魔物を倒してきたし、換金もできた。まだ余裕はあるぞ」


 オウエンは「安心してくれ」とアネットへ目線を寄越した。アネットは、居たたまれない気持ちがむくむくと膨れていく。


「ありがとう、オウエン。でも、そうじゃないの。わたし、今更気が付いたんだけど、ここの文字が読めなくて……」


 オウエンは狐に摘まれたような表情で一瞬皆目し、すぐに顔つきを元に戻した。アネットはこれからの生活を思うと、ますます気が重くなった。


「そうか、わかった。文字はまた教えよう。読めないと、何かと不便だろう」


 オウエンはアネットに書かれている料理の説明しながら、幾つかの料理と酒を注文した。


 オウエンはザルであった。飲み過ぎる前にやめてしまうだけで、その気になればどんな酒でもいくらでも飲める。アネットが甘いサワーをようやく一杯飲む間に、彼はワインをグラスに四杯飲んでもケロリとしていた。


 こちらの世界のアルコール飲料は、アネットの世界と同じ様な物だった。ビール、ワイン、サワー、リキュールなど、アネットも見知ったものばかりだ。ただ、日本酒だけはヤマシロ酒と呼ばれており、名称が違った。ちなみに、ヤマシロはエズメの故郷だ。

 ちなみに、ヤマシロ酒とよく似たもので、オーツ酒というのもある。こちらはヤマシロ酒よりも辛口である。いずれにせよ、オウエンに飲めぬ酒はない。


 久し振りのまともな食事に、二人は舌鼓を打った。ただし、注文して運ばれて来た物はアネットにとって少しグロテスクではあった。

 アーツの宮殿で出されたものや、トリスタンのアジトで食べていた物は、アネットにとってごく普通の食事だった。それで彼女は少し油断していたのだ。

 まず、コールリッジ名物だというスクワイヤという名の魚のムニエルだ。この魚の皮は黄緑色をしていて、身の色は鮮やかな水色だった。しかも、猫科の動物のような目が四つも付いている。調理法はアネットもよく知るムニエルと同様のようだったが、とにかく見た目が怖い。

 アネットはスクワイヤの外見に、思わず食べるのを躊躇した。けれど、『空腹に勝る調味料はない』とはよく言ったものだ。意を決して一口食べると頬が落ちるほどおいしく、結局ぺろりと食べてしまった。

 他にはパプリカを小さくしたような実と、真っ青なレタスのような葉のサラダ、カボチャのような味のする赤いスープ、米の味がするピンク色のフランスパンのようなバケットなど、見た目に違和感のある料理が並んだ。一見クセのありそうなものばかりだとアネットは思ったが、どの料理も想像以上においしかった。


 一通り食べた後、アネットはトイレに立った。オウエンはナッツのような実をつまみに、食後の一杯を楽しんでいる。ほろ酔いで、鼻歌まで歌いそうなほど上機嫌だ。そこへ派手な身なりの女がひとり、オウエン達のテーブルへ近づいて来た。

 女は身体の線にぴったり沿う、真っ赤な衣装を纏っている。煌びやかで大振りなイヤリングを揺らしながら、女はオウエンの真横に立った。少し屈んで赤く潤んだ唇をオウエンの耳元に寄せると、囁くように声をかけた。


「ねえ、お兄さん。楽しんでる? 」


 女は香水の匂いを漂わせながら、オウエンにシナを作って寄りかかる。オウエンは不愉快そうに眉をひそめ、持っていたグラスをテーブルに置いた。ナッツをつまんで口に放り込むと、身体ごと背けて女を視界から外す。

 女はオウエンの様子など意にも介さず、無造作に長い前髪をかき揚げた。オウエンを追うように脇に回り込んで、彼の腕を抱き込んだ。

 女は唇を少し緩ませて、扇情的に彩られた悩ましい目でオウエンを上目遣いに見上げる。胸元が大きく開いた衣装のせいで、豊満な身体が嫌でもオウエンの目に入った。

 オウエンは顔だけを女に向けると、淡々と言った。


「あいにくだが、妻子のある身だ。他を当たってくれ」

「もう、つれないんだから。でも、お堅いのも、わたし嫌いじゃないの」


 女はオウエンの腕を離すと、次は背にもたれかかった。手で軽く押しのけて抵抗するオウエンだったが、女はそのまま細いを腕を彼の背から腹に伸ばそうとしている。アドルフだったなら、喜んで誘いに乗っただろうなとオウエンは頭の隅で考えた。


「おい、いい加減に──」

「オウエン……え? あ、あの……」


 オウエンと女がはっとして声の主を見上げた。アネットが戻ってきている。しかし、色仕掛けの最中だ。アネットは随分居心地の悪そうな顔をしていた。


「ア、アネット、これは──」


 オウエンは立ち上がった拍子にワイングラスを倒し、テーブルクロスがぶどう色に染まった。面白いほど動揺し狼狽えるオウエンに、女は興醒めした。女は自らさっと離れると、アネットを睨みつける。


「フン、本当にいたのかい。とんだ無駄足だよ」


 心底つまらなそうな表情で捨てぜりふを残し、女は酒場の喧騒に消えていった。詳細はよくわからなかったものの、アネットはあっけに取られながら女を見送る。そして、いまだ落ち着かないオウエンに視線を戻した。


「大丈夫……? 」

「あ、ああ……すまなかったな」


 オウエンは一気に酔いが覚めた。疲れた顔で倒れたグラスを掴み、ボトルから残りの酒注ぐと一気に飲み干した。

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