8.涼宮ハルヒになりたかった女の子
土曜の部活解散後、市川さんが追加の自主練習を提案した。それぞれ不安を抱えていた皆は賛同し、日曜日、校外練習では通例となっている中央公園野外ステージに、朝から集まることになった。衣装も本番に見立てた、制服着用での集合だ。
そうして日曜日。一年生の間に漂う雰囲気はやはり決して心地いいものではない。思うように進まない完成度に苛立つ高橋。そんな苛立ちは、誰かの些細な失敗にも敏感になる。
遅刻してきた安藤を怒鳴りつけることから始まった練習。演技力にも結構な差があり、一年の中では演技のできる側の高橋は、そのことにも不満があるようだった。
「――いい加減にしろよ!」
夕刻。それぞれに疲れも見え始め、しかし完成させなければという焦りも募り、険悪になっていた空気の中。
こんな時期になってもまだ、優位に立つ自分、特別な自分を誇示したがっている田中真由子に対し、限界がきたらしい高橋はついに叫んだ。
全員がびくりと身をすくめる。野外ステージ上、一対一で向かい合って、互いに睨みつけ合っている二人。ざわ、と風が木々を不穏に揺らす。
「どうしてそう自分勝手に搔き回すんだよ! 自分の思い通りに進めようとするんだよ! なんとなく思いついただけのやり方で、皆が作ってきたもん壊すんじゃねぇよ! あんだけ言われてまだ懲りないのかよ!」
激情。溜め込んだ苛立ちの発露。高橋は本気だった。田中真由子は何も言い返さない。
もはや俺にも、そこまでする彼女の行動原理が分からなかった。
「もういいよ、限界だよ。むしろよく耐えた方だろ。……部活辞めろよ、お前。邪魔なだけだよ。協調性のない奴は迷惑なだけだから。帰ってくれ。ムカつく。お前みたいな奴と関わってると鳥肌が立つ。俺までくだらない人間に成り下がる。つまらない人間に成り下がる。恥ずかしい。一緒の空間にいたくない。なあ、もう消えてくれよ俺の目の前から!」
言い放つ。鉛玉のような言葉、それは俺にまで、被弾する。
「――――」
言葉を返す代わりに、田中真由子は、手に持っていた台本を地面に投げつけた。堪えていたものを吐きつけるようにして、乾いた音がステージに響いた。大きく肩で息をしている。
全員が黙り込んだ。
口を堅く結んだまま、しばらくの沈黙。やがて振り返って――田中真由子は駆け出した。
「あっ、ちょっ、田中さ――」
「あんなやつもう放っとけよ!」
高橋が憤慨を抑えず叫ぶ。驚いた全員が、遠ざかる彼女から高橋に視線を向け直す。
「限界だよ。もうあいつとはやっていけねぇ。無理だろ、あんなん普通に考えて。なあ、俺たちは馴れ合いがしたいんじゃねえよなぁ⁉ 三年にも見せる公演に向けて練習してんだよなあ! だったら芝居のこと最優先に考えてやっていくべきじゃねぇのかよ!」
その通りだった。反論は誰もできない。明らかに、田中真由子に非があった。
「で、でもさ……」
安藤が言いにくそうに言葉を発する。
「でもなんだよ、協調性のない中二病だから大目に見てやれってか?」
「……違うよ、そんなことが言いたいんじゃなくて」
「部長に報告して、対応を考えてもらう。元々は七人の台本だ。上手いこと削ることだってできるだろ。事情を説明すれば手を加える許可ももらえるはずだ。――俺たちにはもう時間がねぇんだよ、最善を考えたらこれしかないだろ」
再び重い沈黙。気づけば陽が傾き始めていた。木々に囲まれた円形劇場は、薄暗く陰る。
足元、数メートル先。叩きつけられ、折れ曲がった台本。拾い上げ、砂埃を払う。
真由子と書かれた台本。自分の台詞にはマーカーが引かれ、小さな文字でたくさんの書き込みがなされている。紙の端は折れてつぶれ、両の表紙は使用感のあるくすみも見て取れる。
それは間違いなく「努力」の跡だった。「歩み寄り」の跡だった。
どこまで不器用なんだよ、お前は。
「……ごめん、ちょっと行ってくる」
何かあったら連絡して、と言い残し俺は、田中真由子が駆けていった方向へ走り出す。背中でなにやら声が聞こえた。関係ない。俺は走る。
稚拙な自己顕示を、
未熟な精神を、
いびつな自己表現を、
憐れな同一化を、
勘違いの全能感を、
拭い切れない劣等感を、
痛々しいその全てを。
――俺は笑わないから。
公園の西側に出る。中央公園のすぐ西側には川が流れていて、この街が面している海に続いている。川沿いを南に向かって走る。道を下ってトンネルをくぐると、橋を跨いだ先にある整備された河原に出る。辺りを見回すと――走り去った彼女は、対岸のベンチに座っていた。もう一度俺は足を動かす。陽が傾く世界。橙色は少しずつ深まっていく。
「……何やってんだよ」
呼吸を整えつつ、ベンチに座る田中真由子に声をかける。彼女は黙ったまま、俯いている。
その表情は、垂れる髪で窺い知ることができない。
「SSS以外でワガママやってどーすんだ。あいつらは俺じゃないんだぞ」
「…………」
「……なんでこういう時ばっか黙るかなぁ」
田中真由子はわずかに顔を上げ、じろりとこちらを一瞥し、再び視線を落とす。
「思い描く通りには進まない。それが現実ってもんだろう。いつまでそれを理解しないんだ、できないんだお前は。なあ、この現実で、ハルヒと同じように行動したって、誰もついてはこないんだよ」
美貌があれば別かもしれない、とは、今は言わない。
「この人といたら楽しい、成長できる、そんな風に思える相手じゃなきゃ、誰も集まってはこないんだ。今のお前はどうだ。あんな風に振る舞って、誰かと心を通わせることができるのか? そんなんで、お前が憧れる〝彼女〟に、近づけると思うか?」
「………………」
「現実の集団活動ってのは、ああいうもんだ。ぶつかるし、すれ違うし、ちゃんと言葉を交わし合って、伝え合える最大限の意思疎通を行って、どうにかやっと成立するものなんだよ。全部すっ飛ばして因果律で繋がっているだなんて、そんなことは絶対にないんだよ」いや、もしかしたらあるかもしれないけれど、「それを認めていかないと、お前はこれからも誰かと衝突し続ける。孤独であり続ける。それでいいのか? そんなんで、お前の望む青――」
「……現実現実って、またその話?」
――ようやく口にしたその言葉は、相変わらずの田中真由子だった。
「……ああ、その話だよ。耳を塞ぎたいだろうけれど、あいにく何度だってする。だってこの現実は、逃げようが、塞ぎ込もうが、逆らおうが、抗おうが、どこまでだって憑いてくるものなんだから」
「現実……」
田中真由子は顔を伏したまま、ゆっくりと立ち上がる。
「そう、結局何をしたって現実は退屈。思い通りにはいかないし、理解はされないし、〝現実だから〟って冷めきった人間ばかりが溢れている。希望は消え失せている、それが現実。……心が躍るような、そんな物語なんて、非日常なんて何処にもない!」
彼女は叫ぶ。
違う。
何をしたって退屈なのも、思い通りにいかないのも、理解されないのも、それは全部、
「……やっぱり世界は、狭量なんじゃない」
〝世界は狭量?〟
「――違う。狭量なのは世界じゃない」
世界じゃない。
「お前自身だ」
「――――ッ!」
田中真由子は目を見開いて、こちらを向く。眉間に皺を寄せ、固く口を結び、大きく息を吸う所作、何かを叫ぼうとして――止まる。目を逸らして、ぼそりと、呟く。
「セキヤはついてきてくれると思ってた」
「……はあ?」
何を、何を勘違いしている? 違う、そういうことじゃない。そんなことじゃ、ない。
「……何言ってんだよ。今だって追っかけてきただろ、俺は、ずっとお前に――」
「うるさい!」
うるさい? ――うるさい、ってなんだよ。うるさいじゃねぇよ。
「なんだよ……俺の忠告さえも聞けないっていうのかよ! お前のことを想って、お前のことを考えて、何度も、何度も! 俺は、俺はお前のことを――!」
「もういい! もうセキヤなんて――SSS団にはいらない‼」
目の前の影が、勢いよく揺らぐ。
田中真由子は俺の脇を走り抜け、来た方向へ駆けていく。
「ッ――おい!」
掴み損ねた手。追いかけようとして、俺は、――――自らの足を止めた。
田中真由子はどんどん離れていく。川に架かる橋へ上がる階段へ、消えていく。
波の音。橋を渡る車の音。それだけしか聴こえない。
訳もなく、彼女が走っていった方向に背を向けて、そうして俺は立ち尽くした。
ふと、全てがなんだか、馬鹿馬鹿しいと思えた。
空を仰ぐ。
セキヤなんてSSS団にはいらない。――まったく、何様のつもりなんだか。
笑えてくる。SSS団だなんて、思い出したように言っちゃってさ。
演劇部に入ってから、まるで口に出さなかったじゃないか。
そんなもんかよ、なあ。
自分の都合が悪くなったら、間違っている自分を否定されたら、誰かと対立したら、自分の非は認めず、周りが悪いと当たり散らし、分かってくれないのならそれでいいと開き直り、お前はそうやってこれまで生きてきたんだろう。だから友達もいなくて、楽しい学校生活もなくて、自分の殻に閉じ籠って、奇行だけで注目されて過ごしてきたんだろう。
ああ、お前はこれからもそうやって生きていけばいい。生きていけばいいさ。悠歩先輩や智佳先輩の優しさも無駄にして、俺と一緒に目にしてきた色々だって……全部忘れて!
何の音も聴こえない。
夕陽が傾く。世界は橙色で静止する。
そうだ。ここであいつをいい加減見限ることだって、俺にはできるんだ。
だって、いい迷惑じゃないか。冷静になって考えてみろよ。自分の評判を落としてまで、あいつと関わる必要がどこにある。飛び火した陰口や噂話に悩む必要が、どこにある。大体なぁ、高校生にもなって、SOS団の真似事なんて、夢見すぎなんだよ。痛々しすぎるんだよ。ああそうさ。このままあいつは身勝手に、演劇部を退部して、クラスからも孤立したままで、独り寂しく団員募集、次第にそれすらもしなくなって、教室の隅で黙りこくって、何の思い出もないまま卒業していくんだ。一方で俺は、失いかけた信頼もすっかり取り戻して、そのまま演劇部に入って二年間、密な毎日を過ごして、引退公演で寂しくも晴れやかに笑うことだって、できる。できるはずなんだ。彼女を作ったり、唯一無二の親友ができたり、忘れられない最高の思い出を、作れるはずなんだ。何度も夢に見た〝青春〟を、描けるはずなんだ。
どうだ、いい案だと思わないか?
重荷みたいになったその後ろめたさ全部、目の前の川に投げ捨てちまえよ。
なに、今からでも遅くはないさ。高一の頭二ヶ月なんて、簡単に取り戻せるさ。
ちょっと血迷った時期がありました。中学生気分で痛々しいことしちゃいました。それで笑って終わらせることができるじゃないか。いいさ、なんなら「黒歴史」だって、ネタにしてしまえばいいんだから。
なあどうだ、悪くない提案だとは思わないか?
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