第20話 決断
「……なんですって」
「前に見たときよりも埋もれてしまっている……それで誰もスピアースがいると気付かなかったんだ。術を使えば彼ごと吹き飛ばしてしまうかもしれない」
「なんでそんな大事なことを黙ってたのよ!」
『ネペイア様は、キクノたちに伝えていなかったのですか』
激昂してつかみかかろうとしたキクノの顔が凍り付く。
「神様は……ジェンドのために道を開いて欲しいと。筆頭がそう聞いたって」
『敵を打ち倒すことをすべてスティマスに任せた。なのにスピアースのことがわかるとスティマスを責める。それは理不尽ではないですか』
「ルテル、よせ」
『私は悔しいのです。スティマスがどれほどの痛みを背負ってここまで来たか。たとえ一時でも、スティマスの苦しみに寄り添えなかったことが悔しいのです』
小さな身体を怒りと悔恨で震わせ、ルテルは叫んだ。ジェンドの襟首に伸ばしていたキクノの手が落ちる。彼女は眉間に皺を寄せ、首を振った。
「あの紋章術はもう止められない。兄さんの身体が一部でも残れば、またグリオガ様に生き返してもらうこともできるだろうけど」
「グリオガは……石になってしまった。元に戻れるかどうかわからない」
「……あはは。じゃあもう、兄さんが無事である奇跡を祈るしかないのね。それも望み薄かしら」
キクノは自嘲した。ルテルはうつむいている。ピオテースは緩やかに羽ばたいている。ジェンドは口元を引き締め黒ジェンドを見据えている。
「お前たち、何をしている。一度退避だ。紋章術に巻き込まれるぞ」
エザフォスが声をかけにきた。すでに仲間たちのほとんどは退いていて、周囲には他に翼竜の姿はない。眼下の街からは断続的に雄叫びが湧き上がっていた。街全体がざわついている。
左腕が鈍く痛んだ。手を開くとバンデスの顔が浮き上がった。
『時がきたようだ。ジェンド、行くのだ。己の本能の中へ』
黒ジェンドは四つの太陽に気を取られている。紋章術の球体に向かって、徐々に強い風が吹き込み始めている。今突撃すれば、間違いなく術に巻き込まれる。だがバンデスは強い口調を崩さなかった。
『この術こそ好機。逆に今を逃せば、両方を喪うぞ。エナトスも、この街も』
「あの紋章術でも倒せないのか」
ジェンドの声にキクノが振り返る。
『黒い巨人は闘争本能の塊だ。剥き出しの敵意を込めた術は、奴にとっての格好の餌になろう。変えることができるのはお前だけなのだ。ジェンド。進め。お前の心は、すでに前に進むだけの強さを身につけたはずだ』
緋色の鎚を握る手に力を込める。主の意志に触れて、ルテルの身体が靄を発する。
『今こそ、エナトスを復活させるための力を手にするときだ』
バンデスの顔が皮膚の下に消えた。ジェンドとルテルの様子に困惑するエザフォスへ言う。
「キクノを連れて退避してくれ。俺は奴のところへ行く」
「おい、何を言い出す。さっきも言っただろう。ここから先は危険だ」
「だから行くんだ。この先に、俺の……俺たちの求めたものがある」
キクノと顔を合わせる。エザフォスの翼竜へ乗り移るよう目で促した。しかし彼女は顔を逸らすと、ピオテースの手綱を握り直した。
「いくらあなたでも、片手が塞がっていたら満足に竜を操れないでしょう。私も行く」
「キクノ。でもそれは」
「いいの。行かせて。こうなったら最後まで足掻く。あなたの道を作るわ。きっと、それが今の私の、神様から与えられた役割」
振り返った彼女は不敵な笑みを浮かべていた。
エザフォスの嘆息が聞こえた。
「道を作れというのは、こういうことなのかね」
「筆頭。行ってきます。あとよろしく」
「わかったよ。何が起こっても対処できるようにしておく。だから安心して暴れてこい。そして必ず戻ってくるんだ。いいな」
「了解」
敬礼を交わす。エザフォスは翼竜を反転させた。
「ピオテース。頼むわよ。ネペイア・アトミス一の竜だってこと、見せつけてやりましょう」
キクノが翼竜の首を叩くと、ピオテースは鼻息荒く応えた。
「キクノ、ピオテース。額のところまで最速で飛ばしてくれ。後は俺が奴に飛び移る。キクノたちはそのまま離脱を」
「紋章術の発動と威力を考えると本当にギリギリね。でも任せて。代わりに兄さんのこと、お願いね。ジェンド」
「わかってる」
「よし。ピオテース!」
掛け声に呼応し、ピオテースが大きく翼を広げる。加速に備え身を低く構えるジェンドとキクノ。翼竜が全身に力を漲らせる様を肌で感じる。
緋色の靄が辺りを覆う。ルテルだった。
『支援します』
ピオテースが滞空のために翼を動かす。一度、二度――そして三度目の羽ばたきで前進する。
――空気が炸裂した。
鏃となったピオテースは、緋色の尾を引き黒ジェンドへ突撃する。その速度はキクノですら恐怖を覚えるほど速く、翼竜の限界をはるかに超えるものであった。ルテルの紋章術がピオテースとジェンドたちの身体を守り、力を引き上げているのだ。風切り音。黒ジェンドの頭部が凄まじい勢いで迫ってくる。
視界の端が輝いた。四方の紋章術――黒い太陽が完成したのだ。黒い太陽は包囲網を狭めてくる。
ジェンドは、自分の闘争本能の化身から目を離さない。黒い巨人は口元を大きく引き上げた。歓喜に震えているのだ。緋色の鎚を両手で持つ。翼竜の背で片膝を立てる。
『合図します。あと十。九。八――』
ジェンドもキクノも言葉を返す余裕はない。
『――三。二。一。今です』
スピアースの背中を蹴る。同時に翼竜は高度を上げ、黒ジェンドの頭上を飛び越えて行く。
ジェンドの視界は黒一色だった。あまりにも相手が巨大すぎて、目鼻すら判別できない。しかしジェンドは確信を持っていた。この先に目的の場所がある。
果たして――真正面に人の手を見つけた。まるで救いを求めるように差し出されている。手首以外は、すでに完全に黒ジェンドの中に埋没してしまっている。
ジェンドは全身全霊を込めて鎚を振るった。確かな手応えとともに緋色の波紋が黒ジェンドの皮膚を駆ける。黒が沸騰し、
二人を、液化した闘争本能が包み、取り込んだ。
ひどく粘性の高い液体の中を沈んでいく。火傷しそうなほど熱い。だがその熱は胸の中のスピアースには伝わっていなかった。彼は冷たいまま、微動だにしない。自分の鼓動ばかりが大きく聞こえる。
漆黒の視界に白い光点が浮かぶ。ひとつ、ふたつ、みっつ――瞬く間に数え切れない量になり、一斉に動き出す。光点の軌跡が建物の、川の、人の輪郭を描いていく。それは以前に、ジェンドが白昼夢で見た光景であった。
線だけのエナトス。取り戻したい故郷の、悪意ある似姿。
『やはり、ここにあったか』
バンデスの声がはっきりと聞こえた。
『ジェンドよ。よくぞたどり着いた。これが儂が封じたエナトスだ』
これまで黙っていたルテルが困惑する。
『バンデス様。しかし、この姿は明らかに異常です。なぜ輪郭だけしかないのですか』
『中身は、奴が持っている』
沈降が止まる。地面は柔らかく、肌を刺す熱は高く、空気は重い。
足音がした。世界が一気に赤黒く染まる。
輪郭だけの町を手で押しのけながら、漆黒の男が歩いてくる。ジェンドと同じ背格好、同じ顔付きが近づいてくる。
黒ジェンドの胸元には黒柱石が揺れている。ジェンドはつぶやく。
「あれが、中身だったのか」
『そうだ。そして奴がお前の魂の欠片、闘争本能だ』
「どうすればいい」
『そう難しいことはない。黒柱石を手に入れるのだ。奴を倒す必要はない。ただ石に触れればよい。後は儂がやろう』
黒ジェンドが立ち止まる。空間はさらに赤く輝き、溶かした鉄に包まれているような錯覚に陥る。
『待ってください』
ルテルが左手に取り付いた。
『あの黒いスティマスをそのままにしておくのですか』
『心配するな。スピアースという核がこちらにある以上、奴は姿を維持できずいずれ霧散し、ジェンドの魂に還る。これまでジェンドが蓄えた力、そしてネペイア・アトミスの者たちが今まさにぶつけている紋章術の力を合わせれば、エナトス復活に十分な熱量を得られる。すでに闘争本能は不要になったのだ。奴を相手にすることはない』
『あれが消滅するまでの間、ネペイア・アトミスはどうなりますか』
『暴力に
黒ジェンドの口元が裂けた。あり得ない位置まで口角が上がる。バンデスは嘆息した。
『奴は望まれず生み落とされた存在。せめて最期は思い通りにさせるとしよう。むしろ、暴走の余波で地上が
「駄目だ。そんなの駄目だ!」
『お前ならそう言うと思っていたが、それはできんぞ、ジェンド。蓄えた力を使えるのは一度きり。今ここで黒を完全消滅させようとすれば、黒柱石もろともエナトスは永遠に消え去ることになるだろう。もちろん、お前の精神にも何らかの後遺症が残るはずだ。儂はそんなことは望まん。ほれ、ルテル。スピアースの身体を防護せよ。ジェンドが黒柱石に触れるまでは、黒の奴に渡すわけにはいかんからな』
『バンデス様。もしかしてスピアースも、エナトスが復活すればこのまま……』
『仕方なかろう。彼はネペイア神の贄と考えるのだ。四人の神たちは、程度の差はあれど、住人たちに対して怒りと失望を抱いている。いっときでも彼女らの側にいたお前ならわかるだろう。ルテル』
使い魔の少女は口を閉ざす。そして、雷に打たれたように顔を上げた。
『スティマス。今、何を考えていたのですか』
頬にすがりついたルテルを、ジェンドは柔らかく撫でた。
「お前はスピアースを連れて脱出するんだ。そして、彼らを守れ」
『いけません。私はスティマスの一部なのです』
「ならばなおさら、俺が何を望んでいるかわかるだろう」
輪郭だけのエナトスの町を、輪郭だけとなった親しい人たちが歩いている。
「今度こそ、俺が元に戻す。取り戻すと決めたんだ。行け、ルテル!」
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