第18話 再会

 ジェンドは再び歩き出していた。天空の透明回廊は見慣れた隧道へと変わっていた。

 進まなければならない。ジェンドはグリオガの言葉を信じていた。自分ならば、あの悪夢のような存在を鎮められる。自分を信じ、グリオガを信じることが、今のジェンドの歩く力となっていた。

 不安、焦燥、罪悪感、恐れ――絶え間なくやってくるそれらの感情を、一歩ずつ踏み越える。

 正面に光が見えた。人ほどの大きさのマタァが二つ、隧道に浮かんでいた。ジェンドは導かれるようにマタァの表面に触れた。すると一際光が強くなり、マタァが形を変えた。全身が黒ずくめの美しい男女が現れる。

 グリオガの使い魔――エニドゥとサラスィアであった。

『よくぞここまでたどり着いてくれました』

 サラスィアが言った。ジェンドの背中から結晶化したグリオガを受け取ると、彼女は慈しむように主を抱きしめた。ずっと感じてきた重みが消え、ジェンドはよろけた。その様子を見つめたエニドゥが冷たく言い放つ。

『我々が封印された……貴様のせいだ……しかも、我が主まで』

『エニドゥ、駄目よ。ネペイア様のご配慮を忘れてはいけないわ。本来、私たちは完全吸収されるはずだったのよ。それに、彼がいなければ再び主と会うことはできなかった』

『わかっている……この者が這い上がってくるのが条件……だが責任は取ってもらう』

 エニドゥが背を向け、歩き出す。ジェンドが荒い息継ぎをしていると、サラスィアが言った。

『行ってください。この先に神はいらっしゃいます。私はここで我が主(スティマス)を守りますから』

 ジェンドは振り返り、なぜここまでしてくれるのだ、と目で尋ねた。

『主の望みを叶えるのが私たちの使命。たとえこのような姿になったとしても、意思は伝わる。使い魔とはそういう存在です』

 結晶化したグリオガの頬を撫でる。

『いくらあなたでも、その状態では神の元までたどり着けません。エニドゥがあなたの道しるべとなります。私たちにできるのはそこまで。行ってください』

 すでにジェンドの喉は枯れ、返事をする余裕がなかったが、使い魔に己の意志を示すため、震えながら膝に手を突き、身体を起こした。数メトル先のエニドゥを追い、一歩一歩進んでいく。

 霞む視界の中で、エニドゥの背中から紋章術の靄が流れてくるのを見た。少しだけ呼吸が楽になる。

『術から離れるな……この先の圧力……凄まじい』

 隧道の色が赤から青へ、次第に変わっていく。薄暗さが増す。寒々しい光景のはずなのに、火傷しそうなほどの熱を感じる。圧を感じる。身体だけでなく、魂ごと押し潰してしまうほどの、超絶的な力。エニドゥの助けがなければ眠るように消えてしまっていたかもしれない。

 ふと、エニドゥが立ち止まった。

『このまま……溶けた方が楽だろう』

 使い魔との間は十メトル以上開いている。ジェンドは歩みを止めない。

『我が術を解けば……それが叶う……今さぞ苦しいだろう……それなのになぜ藻掻く……なぜ歩みを止めない』

 ジェンドは歩き続ける。エニドゥまであと五メトル。三メトル。一メトル。そして、隣に並ぶ。

「俺は、俺たちはこうやって生きてきたんだ。俺のせいで、皆の歩みを止めたままにできない」

 ありったけの力を振り絞って、ようやく隣に届く声が出せた。

 エニドゥを追い越す。黒の使い魔は押し黙ってジェンドの背中を見ていた。

『もう少しだ……頑張れ』

 歩幅を合わせ、エニドゥが言った。ジェンドはうなずいた。

 歩いて、歩いて、歩いて。足を一歩前に進めるたびに、胸の奥の深い場所が鍛錬されていく。

 やがて――隧道が開けた。街が収まってしまいそうなほど巨大な空洞に出る。あまりの広さに圧倒されたジェンドは足を絡ませ、その場に倒れ込んだ。水音が弾ける。途方もなく広い水場に出たのだ。

 歯を食いしばるジェンドを余所に、エニドゥは先へ進む。三メトルほど先で立ち止まり、何かを拾い上げた。踵を返し、ジェンドの前に膝を突く。

『手を』

 促されるまま掌を差し出す。エニドゥは持っていたものをジェンドの掌に落とした。

 漆黒の艶を放つ柱石であった。

 黒柱石はジェンドの手に戻った瞬間、眩い光を放った。水面がさざめく。やがて水面が穏やかになると、目の前に白い外套を羽織った老人が佇んでいた。

『スティマス』

 すぐ隣から呼びかけられた。左肩に、いつの間にか黒髪の小さな少女が腰掛けていた。ジェンドを見つめる瞳には大粒の涙がたたえられている。

『申し訳ありませんでした、スティマス。一番辛いときに、側に居ることができませんでした』

「ルテル……」

『これでまた、あなたのために力が振るえます』

 そう言って使い魔の少女はジェンドの頬に寄り添った。そして、反対の頬には白い手が添えられる。

『よくぞ。魂の欠けた身体でここまで』

「……どこに行ってたんだ。二人とも」

 俯きながらジェンドはぼやいた。声に張りが戻ってきた。手にした黒柱石から、温かい活力が流れ込んでくるのがわかる。

 白い老人――バンデスは天井を仰いだ。ジェンドもつられて顔を上げた。その拍子に目尻から涙が一筋落ちた。薄暗く光の届かない天井に向け、ルテルが小さな手を広げると、いくつもの光点が灯火となって宙に拡がった。

 まるで水面のように天井が光を照り返す。

 そこは、逆さまになった巨大な湖であった。

『ネペイアよ。お前さんには迷惑をかけたな』

 バンデスが語りかけると、天井の湖の一部が盛り上がり、女性の姿を象った。女性は無言のままジェンドたちを見つめている。ルテルが女性に向けて深く礼をした。

『あの方が、飲み込まれかけていた私たちをすくい上げ、ここで保護してくださったのです。ネペイア様の居所であるこの地で、私とバンデス様は力を分けて頂きました。もう大丈夫です』

『今度は儂らが働かなければならないな』

 バンデスがジェンドの左手を取る。エナトスの神の身体は溶け崩れ、ジェンドの腕と一体となった。掌に見慣れた痣が浮かび上がる。ジェンドの顔にようやく微笑が戻った。

 これまで黙って成り行きを見守っていたエニドゥが、羽根を広げて浮かび上がった。逆さ立ちしているネペイア神に向け、平身低頭する。

『我が主に代わり深く……お詫び申し上げる……これは我らが招いたこと……』

 ネペイア神は無言であった。彼女の視線がエニドゥとジェンドを刺す。心なしか空間の圧が増した気がした。

 ネペイア神が手を振り下ろす。天井の湖が音もなく割れ、ネペイア・アトミスの全景を映し出す。ネペイア様、とエニドゥが重ねて声をかけるが、やはり応えはなかった。

『行くぞジェンド。これは儂らが片を付けなければならない』

「わかってる」

 ルテルの身体から紋章術の靄が溢れ、ジェンドを包む。足先が地面を離れ、身体は天井へ浮き上がっていく。ほぼ同時に床の湖が大きく波打ち、水位を上げる。

 ネペイア神とすれ違うとき、ジェンドは黙礼をした。彼の背中に、女神は初めて声をかけた。

『取り戻したものは、以前と違うでしょう。心しておきなさい』

 天井に突入する。直後、眩い光がジェンドを包んだ。肌にまとわりつく霧を感じる。そこを抜けると、途端に強い風が吹き付けてきた。すかさずルテルが紋章術で風圧を和らげる。

 眼下にネペイア・アトミスの街が見えた。街の四方にそびえる塔の頂上にジェンドは立っていた。太陽の位置から、ラブロとは別の塔にいるのだとわかった。

 四つの塔は、半透明の空中回廊で繋がっていた。ラブロの塔に向かっていたときにはなかったものだ。隧道の途中で見た街の光景は、あそこから眺めたものだったのだ。

 ネペイア・アトミスの中央に黒ジェンドの姿が見える。初めて目にしたときより巨大化しており、顔形や輪郭がより人らしく整っていた。黒ジェンドの皮膚に、断続的に紋章術が炸裂しているが、効いた様子はなかった。弾ける光は黒ジェンドの身体に吸い込まれていく。

『皮肉なものだ。儂らがやろうとしていたことを、奴はとても効率的にこなしている』

「バンデス」

『わかっておる。このままでは儂らの目的はおろか、ネペイア・アトミスそのものが崩壊する』

『行きましょう。スティマス』

 ルテルが促す。ジェンドはひとつ深呼吸した。体重を前にかけ、空に身を投げ出す。

『滑空します。身体の力を抜いて、目標地点に視線を合わせてください。着地は外縁、あの場所です』

 ルテルが小さな手で指し示す。エスミア区の区境、荒野が途切れる場所であった。黒ジェンドがいる中央区までは、まだかなりの距離がある。地面は急速に近づいてくる。

『飛翔に使う力が惜しい。現状でも奴をどうにかするには足りないくらいだ。ゆえに、道中で補充する』

 バンデスが言う。

『街ではラヴァが大量に出現しているはずだ。ネペイア・アトミスそのものが黒ジェンドに侵されている。だが儂らからすれば、元々持っていた力が増幅された状態で野放しにされているのと等しい。湧士たちを救うことにも繋がるだろう』

「幻想舞台のときのようにすればいいのか」

『もっと原始的な手段を使う』

『着地します』

 砂利の平地が目の前に広がる。空中で体勢を整えると同時に、ルテルがジェンドの全身に防御の術を施す。接地した瞬間、衝撃波が周囲に散った。砂利が噴き上がり、落下の衝撃を肩代わりする。足裏が十メトル以上に渡って地面をえぐり、制動とともに強烈な反動がかかる。

 進行が止まった。顔を上げたジェンドの前に、腰丈ほどの大きさの深紅の鎚が立てられていた。

『スティマス。この鎚にはラヴァを分解する能力があります。道中のラヴァをこれで撃退し、力を蓄えましょう』

 ジェンドは鎚を掴んだ。驚くほど重さを感じない。肩に担ぎ、前方を見据えた。緩やかに蛇行する未舗装の道の上で、数体の人型ラヴァが彷徨っていた。背格好はジェンドと瓜二つである。中央区で暴れ続けている黒ジェンドの分身に違いなかった。

 ジェンドはひとつ息を吐いた。隧道をひたすら歩いていたときの、次から次へと湧きだしてくる不安や恐怖が弱まっている。心の中に空いた穴を、エナトスの神が補っているのだと感じた。

『鎚はあくまできっかけだ。自分の闘争本能の欠片を打ち倒せ。そうすれば、お前に真の戦う意志が備わるだろう。そのときこそ、エナトス復活の道が開かれるのだ』

 ジェンドはうなずいた。黒いラヴァの群れに向かって一直線に駆ける。ジェンドに気付いたラヴァたちは、吸い寄せられるように近づいてきた。柄を握る手に力を込める。剥き出しの闘争本能ではなく、確信と勇気をもって鎚を振るった。

 必ず助ける。助けることができる。

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