第14話 崩壊の始まり

 岩だらけの荒涼とした土地に突如としてできた漆黒の穴を、二人はしばらく呆然と見下ろした。穴は、不自然なほど美しい真円に開いていた。

「なんてこと。どうして。いったい、誰が……兄さん。せっかく……」

 前に座ったキクノが肩を震わせている。ジェンドは左手を見た。火傷痕は完全に消えている。故郷の神の声はしない。こういうときに励ましてくれる使い魔もおらず、それどころか、常に感じていたルテルとの繋がりまでもあやふやになってしまっている。

 すがるものを探して胸元を掴む。直後、ジェンドは背筋が凍った。肌身離さず持っていたはずの御守りが、なくなっていたのだ。

 ――失った? 全部?

 嘘だと言って欲しかった。

 それが無理なら、せめて、どうすればよいのか教えて欲しいと思った。教えてくれるならば、全力でそれを成し遂げるのにと――

 うつむくキクノのうなじが目に入る。いつも強気で自信に溢れている彼女が、今はとても小さくなっている。

 グリオガの言葉が、幻影舞台の戦いが、異臭の風が吹き荒ぶ故郷の残骸が、唐突に脳裏を駆け巡った。

 ――違う。今、俺が考えるべきはそういうことじゃない。

「ピオテース。あの穴の中に入ってくれ。ゆっくりとでいい」

 キクノが顔を上げた。ジェンドは彼女の肩に手を置く。

「紋章術、使えるか」

「……ええ。ただ、いつも携行してる小瓶しかないから、使える術は限られるけど。灯りくらいなら」

「頼む」

 ピオテースが首を巡らしてこちらを伺ってくる。ジェンドは再度、穴を見据え、自分の頬を両手で張った。まったく同時に同じ仕草をしたキクノが「よし」とつぶやく。二人は視線を交わし、少しだけ笑い合った。

「行こう」

 翼竜がひと鳴きして、ゆっくりと降下を始める。キクノは携帯容器を開けて術を構築する。穴に入ると同時に小さな光の球を生み出して掲げた。右から左へ灯りを向け、目を凝らした。二人は固唾を呑んだ。

「やっぱりただの空洞じゃない」

 紋章術の照明は穴の暗闇に吸い込まれ、底はおろか壁面さえ照らすことができなかった。真円に切り取られた入口の光が小さくなっていく。もうかなり降下したはずだが、何の手がかりも見つからない。

「ルテル! スピアース! どこだ。いたら返事をしてくれ!」

 ジェンドは声を張り上げた。灯りで探ることはできなくても、音の反響があればおおよその広さがわかるかもしれないと思った。だが、期待は外れた。この空間は光だけでなく音も吸い込んでいる。

 キクノの息が荒くなってきた。照明紋章術に照らされた彼女の肩に、汗で湿った衣服が張り付いていた。ジェンドは内心で歯噛みする。この熱と息苦しさ。ジェンドが慣れ親しんだ鉱山の空気だった。

 頭上の光は、もう点になっている。ジェンドは迷った。決断は経験に頼った。

「ピオテース、もういい。上がってくれ」

 翼竜は羽ばたき方を変えた。キクノが汗だくの顔を向けてくる。ジェンドは首を横に振った。

「これ以上は危険だ。意識を失ったらおしまいだ。残念だが、出直そう」

「悔しいわ」

「俺もだよ」

 上昇する。入口の光が近づくにつれ、肌にまとわりつく空気が軽くなり、適度な冷たさが肺を洗う。ジェンドは持っていた手拭いをキクノに渡した。

「ネペイア・アトミスの地盤はどうなっているんだろう。外から見たときはこんな構造だとは思わなかった」

「もしかしたら、紋章術で作られた空間なのかもしれないわ。幻影舞台みたいに」

「だとしたら、いったい誰が何のために」

 キクノから手拭いを受け取る。

「誰かが仕掛けたのか、それとも私たちが知らないだけで元々こういう場所だったのか。改めて考えると、この街の構造はわからないことが多いわ」

「知っていそうなのは、あの人か」

 首筋の汗を拭き取り、手拭いをしまう。真円の穴を抜けると、視界が広がった。ピオテースが安堵したようにひと鳴きした。翼竜の首筋をキクノが撫でる。

「ピオテース。このままラプティス区まで飛んで。グリオガ様の元に急ぐの」

「待った。お前は休んでた方がいい。あの空間にいて消耗してる」

「兄さんの安否が不明なのよ。じっとしていられない。ジェンドの方こそ休んでなさいよ。あなた、このところずっと戦ってるじゃない」

「身体は頑丈なんだ」

「強情」

「人のこと言えないだろ」

「そうね。急ぎましょう」

 キクノが風除けの紋章術を使う。騎乗者の意を汲んだピオテースは、勢いをつけるように大きく一度羽ばたき、加速した。直下の荒野が高速で後方に流れていき、岩陰が陰影となって、巨大な砂色の絵に見えた。

「ねえジェンド。あなたは今回のこと、何が原因だと思う?」

 キクノが疑問を蒸し返した。

「相当な実力者――おそらく、鏡湖リンミ級以上の人物の仕業だと私は見てるのだけど」

「急なことでわからない」

 ジェンドは正直に答えた。

「そもそも、これは人間の仕業なのか」

「ああいう空間が自然にできるなんて考えられないのよ」

 落ち着かないのか、キクノはしきりに話しかけてくる。

「第一、あんな硬い地面が勝手に落ちるなんてあるわけないわ。地面は地面。岩は岩。ただそこにあるだけよ」

「……それは違う」

「そうかしら」

「キクノは自然の力を甘く見てる。自然は、特に大地の力は、人間なんかがどうにかできるものじゃない」

「ずいぶんはっきりと言うのね」

「俺の故郷じゃ常識だった。大地は生きてる。怒りに触れ、落盤に巻き込まれたらまず助からない。何もかも飲み込んで、人間に抵抗する機会すら与えない」

「不吉なこと言わないでよ」

「……悪い。そうだよな。今は無事を信じて行動するんだ」

「そうよ。行動するの。まあ、仮にジェンドの言う通りだったとしても、バンデス様のような神様もいらっしゃるんだし、きっと何とかなるわ。そう思うわ」

 最後は自分に言い聞かせるようであった。

 バンデス様と言えば――とキクノがジェンドを振り返る。

「ジェンドの左手の痣、綺麗になってるわよね。そこにバンデス様が宿っていると聞いていたけど、何かあったの」

「わからないんだ。急に消えた。ただ、地面に大穴が空くのとほぼ同時だった。何か関係があるのかもしれないが」

 ジェンドはそこで口をつぐんだ。紋章術を失い、無力な存在になってしまった不安が徐々に精神を締め付けてくる。

 エスミア区を越えると、眼下の様子が大きく変わった。緑が増え、民家も目立つようになる。均された道路が蛇行しながら走っている。

 ジェンドは目を細めた。キクノの肩を叩く。

「下を。同じような穴が見える」

「どこ? ……本当だ。人も集まってるのかしら。それにしてもあんな小さいもの、よく見つけたわね。私なんか、目を細めてやっとわかるくらいなのに」

 道が大きく左に曲がっている場所の脇で、真円の黒い穴が空いていた。周りを囲む数人の住人と比較して、穴の直径は数メトルほどと思われた。

 その後もひと区画を飛び越える間に、小規模な穴を数個見かけた。野次馬が多く集まっていたところもあれば、誰もいない路地裏にひっそりと空いていたところもあった。

「この様子だと、街全体に同じこと起きてるわね。教会が調査に動いてくれるといいけど」

 教会とはネペイア・アトミスの中心に建つ建物と、そこに属する組織体をいう。この街で最も権威ある人々の集まりだとキクノは説明した。

「だったら教会に手伝ってもらえばいい」

「無理よ。あそこは高位の湧士しか入れないし、相手にされないわ。行くだけ時間の無駄。それより先に頼るべき方がいるでしょ。そろそろ見えてくるわよ」

 進行方向に、小高い丘が見えてきた。グリオガの屋敷が近づいてくる。

 ジェンドは周囲の違和感に気付いた。以前、ここにやってきたときは人通りが少なかったのに、今は人垣ができている。彼らは敷地の外から様子をうかがっているようだった。

「ピオテース。高度をできるだけ下げてくれ」

「ちょっとジェンド。どうしたの」

「庭の様子がおかしい」

 キクノは目を凝らす。傷だらけの木製長椅子や迫持せりもちが点々と設えられている。「どこもおかしなところはないわよ」とキクノが告げた直後、前方の長椅子が二脚、地面に沈んだ。内出血した皮膚のように庭が赤黒く滲み、液状化していた。見渡せば、あちこちで同じ光景が繰り返されていた。ジェンドたちは息を呑んだ。

「あなたが言いたかったことって、まさか」

「この広大な敷地全体が、巨大な穴に変わろうとしているんだ。急がないと屋敷も飲み込まれる」

「けど、地面に降りるのは危険だわ。何とか屋根に止まれないかしら」

 ジェンドは素早く建物を観察した。そしてある一カ所に目星を付け、ピオテースの首筋を叩く。

「あそこだ。三階の西側。迫り出した台がある。窓も開いてる」

「ちょっと。屋根付きの広縁ひろえんじゃない。あんな狭い空間にピオテースを滑り込ませるなんて無茶よ」

 ジェンドは手綱に力を込める。ピオテースは一度高度を上げた後、身体の軸をかしぎながら降下する。急速に近づく広縁。翼竜と呼吸を合わせることを意識しつつ、柱の間隔と速度とを感覚で計る。数メトルに迫り、キクノが短く悲鳴を上げ目を閉じる。その瞬間、ジェンドは手綱を少しだけ引いた。騎乗者の意図を正確に読み取り、ピオテースは身体を半回転させた。風の抵抗を受けた身体は急減速し、広縁の中にちょうどよく収まった。

 恐る恐る目を開けたキクノは、屋根梁までの近さに呻いた。

「まったくいい腕をしてるわね」

「ピオテースのおかげだよ」

「そういうところも相変わらず。本当に翼竜を操ったことがなかったのか、疑ってしまう」

 けど――と翼竜の背から降りる。「おかげでいい感じに肩の力が抜けたわ」

 ピオテースを広縁で待機させ、ジェンドとキクノは窓から内部の様子を伺った。部屋の中は薄暗かったが、まったく見えないということはなかった。波紋を象った絨毯が床一面に敷き詰められ、まるで深山しんざんの水源地のような趣がある。ただ、部屋にあるのはそれだけだ。戸棚も寝台も机も、椅子の一脚すらない。

「おかしいわ、ここ」

「何もないな。がらんどうだ」

「そうじゃなくて。グリオガ様の屋敷に初めて入ったときのこと、忘れたの。異世界みたいな空間だったのに、今は普通の部屋になってる。屋敷に巡らされていた紋章術が消えてるんだ」

 ジェンドは窓枠に手をかけ、開こうとした。しかし取っ手がない上、錆び付いているのか動かない。

 後ろからキクノの足蹴が飛んできた。硝子を容赦なく破壊する。立ち尽くすジェンドをキクノは睨み上げた。

「大きな図体して、遠慮しすぎ。今は緊急事態なんだからね。ほら手伝って」

 窓枠を半壊させ、ジェンドたちは部屋の中に侵入した。毛深い絨毯は靴音を吸収するが、その下の床板は激しく軋みを上げた。心なしか部屋全体が揺れているように感じる。前を行くキクノが小さく悲鳴を上げ、体勢を崩した。右足が踝まで絨毯に埋まっている。床を踏み抜いてしまったのだ。ジェンドは足裏に神経を集中し、滑らかな身のこなしで彼女の後に続く。

 出入り口の扉まで着いた。取っ手を回し、扉を押す。そのまま木製の扉は向こう側へといった。キクノが素早く灯りの紋章術を発動させ、前方を照らす。

 廊下は崩落し、一階部分まで吹き抜けになっていた。床や柱の一部が残骸となって、うずたかく積み上がっていた。一階の床に漆黒の穴が複数空いているのが、残骸の隙間から見えた。

 灯りで左右を確認していたキクノが、ふいに硬直する。動揺が術に伝播し、灯りが不規則に明滅する。彼女は、折れた柱を這う赤黒い半固形物を見た。

「まさか、どうしてラヴァがここに」

 震えるキクノの肩を抱き、ジェンドは素早く辺りに目を走らせた。幸い、手の届く範囲にラヴァはいない。

 ふいにキクノが叫ぶ。

「……グリオガ様!」

「なんだって。どこだ」

「あそこよ。左手、柱時計の隣!」

 キクノが灯りを向け、ジェンドは目を細めた。剃髪の男がよろめきながら走っているのが見えた。「グリオガ様」ともう一度キクノが叫ぶ。祭壇師は足を止め、こちらを振り返った。

 グリオガの数メトル手前に、ラヴァが迫っている。危険を報せようとキクノが身を乗り出した瞬間、部屋の床が大きく傾いた。木板が裂ける嫌な音が鼓膜を叩く。割れた木片とともに階下へ落ちそうになったキクノを、すんでの所で繋ぎ止めた。そのまま強引に部屋の中に引き戻す。

「ピオテースのところまで戻れ! 俺が行く」

「ジェンド! 待って」

 ジェンドは振り返らなかった。

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