第8話闇のうねり

 ヴァーゼル等の第二軍に、レアンドル公からの書簡が届けられたのは、それから一ヶ月が過ぎた頃。季節はもうすっかり夏の気配を見せていた。

 北領公麾下の先鋒隊も南西の砦の奪取に成功し、ブリアス城市の包囲は順調に進んでいる。

 そんな折、送りつけられたその書簡は、これまでの作戦の根底を覆す様な内容が書かれていた。

「……陛下が、摂政家への親征を決められた、だと?」

 ヴァーゼルが読み上げたその内容に、陣営の誰もが言葉を失う。

「なぜ、その様なこととなったのだ……」

 アイゼルは、理解の範疇を超えたその内容に思わず天を仰いだ。

 その書簡に書かれていた内容を要約すると、こうである。


 遂に、大帝陛下から我等、南北公家とその大連合軍に、摂政ボーグタス家を討てとの勅許が下された。

 そして此度、陛下自らの御親征が発布されることとなり、全ての中原諸侯に『逆賊ボーグタス家を討て』との檄文が送られた。

 すでに東藩王家、南藩王家も大連合への参加を表明しており、近いうちに西藩王家や大藩王家も参加を表明することになるであろう。

 陛下の本陣はブリアス城市の南東に置かれ、ブリアス城市への攻撃指揮は我等、南北公家が自ら務めることとする。

 ヴァーゼル隊は先鋒隊と合力し、敵の増援を阻む為にブリアス城市の南西方面を守備、摂政家の本隊が現れたら直ちに撃退せよ。


 ヴァーゼルやアイゼルの目算では、あと一万の兵もあれば摂政家が援軍を出す前に、ブリアス城市の攻略は成るはずであった。

 ところが、大帝自らの親征が行われるとなると、呼びかけに応じた全ての諸侯軍を待たねばならず、それまでブリアス城市に対する攻撃も行えない。

 しかも、大帝陛下の御前で改めて全軍団の配置、攻撃隊の編成を行い、その裁決を仰いだ上でないとブリアス城市への総攻撃は許されないのだ。

 それは早くても二ヶ月……遅ければ、三ヶ月も先のこととなるだろう。

 しかも、その御前会議の席には、前線の砦の守備を命じられているドルフ、ヴァーゼル両帥将が参加することすら難しい。

 ヴァーゼルは、突然足元の梯子を外された思いに、激しい徒労感に襲われた。

「いったい、誰がこのような愚策を進言したのだ……」

「どうやら、未だに我等の功を妬む奸臣、佞臣がいるらしい」

 ヴァーゼルの嘆きに、アイゼルが脱力したような声で答える。

 その発案者が何者かは分からぬが……実に、南領公や北領公が自らの権威を高められると喜ばせるだけの、下策中の下策である。

「宰相や書記官がついていながら、どうして彼の君を抑えることが出来ないのか……」

 すでに包囲はほとんど完了しており、あとは少しづつ、包囲の輪を縮めていけば良かったのだ。

 そもそも、勅許などはこのブリアス城市を落とせば、求めずとも向こうから勝手にやってくる。

 それによって摂政家の劣勢が決定的となれば、大藩王家や西藩王家との和平工作も無となり、彼らも我先にと参戦を表明してくるだろう。

 そうなれば、摂政家は三方より攻めたてられ、たちまち滅亡の憂き目にあうはずだった。

 ようやくガイゼル卿の亡き後、失われていたこの中原の秩序と平和が取り戻せるはずだったのだ……。

「(最早、我等の望んだ最上の勝利はありえない……)」

 三年という忍従の末、ようやくここまでたどり着いた道のりが、ガラガラと音を立てて崩れていく。

 ヴァーゼル・フォントーラは言葉もなく、その場に立ち尽くす。

 カゼルは、そんな覇気を失った父の背中を、胸が締め付けられる思いで見つめることしか出来なかった……。


        *         *         *


 それから、フォントーラ親子にとって長く、無為な時間が流れた……。

 熱い夏の日差しは翳り、夜はセミの鳴き声からコオロギの鳴き声に移り変わろうとしている。

 そんな折、ようやく大帝を始めとする東南諸侯等がこのブリアス城市に到着したと知らせが届いた。

「ようやく、お出ましになられたか……」

 ヴァーゼル率いる第二軍は、この三ヶ月の間に先鋒隊が陥落させたブリアス城市西南の砦、エイル砦に連なる小高い山に新たな砦を築き、そこを拠点としていた。

 両砦と対面する高台には、先代ジルヴァの跡を継いだばかりの新摂政ダルヴァ・ボーグタスの旗印がはためいている。

 どうにか西藩王家との停戦に扱ぎ付けた摂政家は、当主である摂政ダルヴァ自ら精兵一万を率いてブリアス城市の救援に向かってきたのだ。

 ヴァーゼルはそれを眺めながら、参謀である父アイゼルの読み上げるレアンドル公からの書簡の内容を無言のまま、聞いていた。

「結局、秋になってしもうたな。本来ならばとっくに、ブリアス城市に我等の旗がはためいていたであろうに」

 レアンドル公からの書簡には、近日中に行われる御前会議にて、ブリアス城市への総攻撃が裁決される。その際、先鋒隊と第二軍は摂政ダルヴァの本隊の釘付けに専念し、当会議へは名代の参加も不要であると書かれていた。

「……要するに、我々抜きでブリアス城市を奪還したいという訳か」

 ブリアス城市攻略の栄誉は、総指揮を務める南北公の二人に与えられ、古今無双の名将と称えられることになる。

 そして親征を行った大帝もまた、この乱世を収めた英雄として、その名が歴史に刻まれるのだろう。

 誰の栄誉であってもいい……。

 誰が英雄と称えられてもいいのだ。

 勝利しなければ、これまで勝ち進んできた全ては、水泡に喫する。

 先鋒のドルフ隊やヴァーゼル隊以外の者達には、どうやらそのことがまるで分かってないらしい。

 大連合軍の本陣にいる者達の多くは、まだ始まってもいないその戦いに勝利したものと思いこんでいるに違いなく、ヴァーゼル等の耳に届くのは連日連夜の乱痴気騒ぎだけ。

「陛下のおわす後陣など、商売人や娼婦共が集まって、即席の町まで作られているそうだ。まったく何をしにきているのやら……」

 参謀アイゼルは首を振って、その書簡を机の上に置いて深い溜息をつく。

 ちなみに今回の勅許を受けた結果、新たに参陣を果たしたのは以下の諸侯達である。


 大帝親征軍・大帝レイモン・ラバンディエ

   〃  ・衛将フェンディス・ロイ・マウェストン卿(近衛兵一千)

   〃  ・大宰相ベランジュ・オードラン公(兵三千)

   〃  ・へラルド・バンデーラ侯(兵五千)

   〃  ・ディドロ・アラマンサ伯(兵三千・ヘラルド侯の実子)

   〃  ・アラン・ルヴァリエ伯(兵三千)

   〃  ・ダリオ・ベルターニ伯(兵三千)

   〃  ・カッファロ・バトーニ(兵三千・ベルターニ家の家宰)

   〃  ・サヴィーノ・カラージ(兵一千・ベルターニ家麾下)

   〃  ・アンティオ・ブロディ(兵一千・ベルターニ家麾下)


 東藩王軍 ・東藩王ライムンド・ファリノス(兵一万)

   〃  ・レイナード・フェリアス(本陣付き参謀)東藩王ライムンドの庶弟

   〃  ・宰相バハルド・メンガル伯(兵三千)

   〃  ・レギン・オルトローヴ伯(兵二千)

   〃  ・ガウデン・ベルトーネ伯(兵一千五百・ルジェーロとは同族)

   〃  ・モーゼス・カントローブ伯(兵一千五百)

   〃  ・ロランド・オルトラン卿(兵一千)

   〃  ・シモン・サルガド卿(兵一千)


 東南諸侯軍・アルノー・マールブランシュ公(兵五千・帝位継承権第四位)

   〃  ・ロイク・ハルトナーグ侯(兵三千)

   〃  ・ダルヴィス・オルトナーグ卿(兵二千・ハルトナーグ家の分家)

   〃  ・アロイ・オルトネーラ卿(兵一千・ハルトナーグ家の分家)


 北東諸侯軍・トリンダール・アルボス公(兵五千)

   〃  ・ティオバルト・バラハス侯(兵三千)


 南藩王軍 ・南海王マクシム・ラバンディエ(兵三千・帝位継承権第三位)

   〃  ・宰相アーヴィン・ブロドリック侯(兵三千)

   〃  ・帥将ジュード・アルバーン卿(兵五千)

   〃  ・ルジェーロ・ベルトーネ伯(兵二千・ガウデンとは同族)

   〃  ・ウィーベルト・ブロディ卿(兵一千・アンティオとは親類)


 これで、ブリアス城市以東の近隣諸侯は全ての家が出揃ったと言っても過言ではない。

 この後発組だけで約7万もの兵が集まっており、これに元々の連合軍三万を併せると、総勢十万までに膨れ上がっていた。

 そして御前会議の結果、大親征軍と命名され、諸侯等は各々決められた場所へと陣を移していくのだが、ここでまた大きな問題が発生する。

 その問題の要因となったのは諸侯等の配置。それぞれの家格をかけての大騒ぎとなり、三日三晩紛糾したあげく、大帝の命により公正なるくじ引きで決められることとなった。

 最早、軍略や兵数を鑑みての配置ですらなく、くじ運の悪かった諸侯などは陣を張るに不向きな地勢に腹を立て、勝手に別の場所に陣取ってしまう有様……。

 更には、互いに過去の因縁を持ちだし、味方内で諍いを始めてしまったのである。

 諸侯等を仲裁出来るのは、大帝より大総督に任じられた二人、すなわち南北領家だけであり、連日の様に南領家レアンドル公と、北領家クレマン公の元には連日、諸侯等の訴えが舞い込んできた。

 しかし、当人達は日夜酒宴を開いて騒ぐことしかせず、その対応はそれぞれの宰相が行うこととなり、中でも年老いた宰相ロズナー伯の負担は大きく、日増しに顔色が悪くなりつつあった。

 また、その配置問題は前線のヴァーゼル達にも飛び火した。

 南北公が揃って、両帥将麾下の諸侯部隊を本陣に戻せというのである。

 摂政家の援軍一万には同数あれば十分であり、前線への補給の負担も今のままでは大きいからだと言う。

 無論それは建前であり、本音は、総攻撃に参加するおいて自分の命で動かせる手元の兵力の多い方が、後々の戦功論賞にも影響してくるからだ。

 特にレアンドル公は、新たに任じられた大総督の武威を諸侯等に見せつけんと、抜け駆けしてでも攻め落とそうと目論んでいる。

 ヴァーゼル、ドルフの両帥将は何も反論せず、配下の諸侯軍を本隊に戻した。

「いっそ、この方が戦いやすくていいやも知れぬ」

 年長のドルフがそう言って笑うと、ヴァーゼルも僅かに口元を緩めた。

 二人の帥将はこの三ヶ月を共に過ごしたことにより、互いを認め合う盟友となり、以前にもまして親しくなっていた。

 また、カゼルの方も本陣に戻った友人ラウロスからの手紙で、多くの学友が無事であり、この大親征軍にも多くが参加してきていることを知った。

 カゼルが生涯の盟友と誓い合ったトラヴィス、そして良き仲間だった他の面々も一通り揃っていると教えられ、居ても立っても居られない気分となる。

「……それにしても驚きよね~。あのレイナードが、本当に王子様だったなんて」

 姉リーゼルは、王族と言ってもせいぜい分家の庶子くらいにしか思ってなかったらしく、それが父ヴァーゼルの記憶にあった通り、現東藩王の末弟であり、今では分家フェリアス家の当主として、東藩王軍の参謀として参陣してきていることにひどく驚いていた。

「そう思うと、あの学院って結構凄いところだったのよね~」

 リーゼルの言う通り、あの学院生活での交友関係はそれぞれの立場が変わったとしても、この後、ずっと続いていくものである。

 カゼルは、僅か半年前のことなのに……そんな学友達の名を聞くと、とても懐かしい気持ちになった。


 そんな穏やかな日々は、突然終わりを告げた。

 摂政ダルヴァが、エイル砦の兵力が半減したのを知って、猛然と攻めかかってきたのである。

 ダルヴァとしては、大親征軍の総攻撃が始まる前にどうしてもこの砦を抜いておきたかった。そんな焦りが、僅かに見えた勝機の様なものに飛びついてしまったのである。

 しかし、相手は百戦錬磨のドルフ、ヴァーゼルの両帥将である。容易く抜けるとも思っていない。

 ダルヴァは摂政家自慢の七獅軍の中でも生え抜きとも言える銀獅軍を自ら率いると、敢えて自身の本隊を砦の面前に晒し、ヴァーゼル等を誘った。

 もちろんその後背には、金獅軍と並び称されるほどの精強さを誇る赤獅軍一千騎が控えている。その陣容を山頂の砦から眺めていた二人の帥将は、不敵な笑みを浮かべていた。

「ふふふ、獅子の異名を持つ摂政ダルヴァともあろうものが、らしくない真似を。さて、どちらが釣り餌となるか、これで決めるとするか?」

 ドルフが紙のくじ引きを見せると、ヴァーゼルも快く応じた。

 結果は、守りの戦においてはヴァーゼルも舌を巻くほどの戦巧者でもあるドルフが釣り餌役となる。

「では、新しい摂政のお手並み拝見といきましょうか」

 ヴァーゼルは、レアルヴとリアルグにそれぞれ一千の手勢を率いさせると、密かに作っておいた地下道を通って、砦下の雑木林にその身を伏せさせた。

 摂政ダルヴァの率いる銀獅軍が、猛然と砦の正門を目指す。

 その目前に帥将ドルフの率いる三千の兵が、敢然と立ちはだかった。

「このダルヴァの首が欲しくて、『守りのドルフ』ともあろう者がのこのこ砦を出てくるとは愚かなり! とくと我が銀獅軍の恐ろしさを見るがいい!!」

 摂政ダルヴァは、老獪な策略家であった父ジルヴァとは違って自ら先陣で立って戦う猛将であり、その剛勇は金獅軍大将バルデスに勝るとも劣らぬと言われていた。

 しかし、老練な帥将ドルフは勝負を急ぐ摂政ダルヴァの焦りを見抜き、巧みな押し引きで銀獅軍を巧みに誘い、ずるずると正門前に引き出していく。

「む? これはしたりっ!?」

 摂政ダルヴァが気付いた時には、正門前の雑木林の中から、無数の矢弾が雨霰と銀獅子軍に降り注いでいた。

 ダルヴァ自身にも次々と矢弾が襲い掛かってきたが、その剛槍から繰り出された竜巻の様な旋風を放つと、まとめてそれを薙ぎ払う。

「やりおる。だが、これは防げるかっ!」

 正門内で部隊を反転させていたドルフは、逆落としとばかりに自らの精兵一千騎を正門下の銀獅軍に突撃させた。

 重武装で精強な銀獅軍ではあったが、正門横の雑木林からも同時に槍衾を揃えて出てきたレアルヴ隊、リアルグ隊の三方からの挟撃を受けると、流石に支えきれず後退し始めた。

 ガリガリと岩肌が削られる様に、一人、また一人と銀獅軍の精兵が倒れていく。

「退けい、退けい!!」

 必死に撤退を命じる摂政ダルヴァの目前に、剛勇を誇るダルヴァさえも恐れる一人の騎馬武者が姿を現した。

「……これは、摂政殿下であられたか。久しぶりにお手合わせ願いたい」

 一人、ドルフの騎馬隊から、ぽんと飛び出してきたその騎馬武者は、まるで紙でも切り裂く様にダルヴァの前を守る郎党をまとめて、十字槍から繰り出した剣風で鉄甲ごと鮮やかに両断する!

「剣聖、リックハルド……ここで来るかっ!?」

 ダルヴァは渾身の神気を発するとそれを鎧に見立ててまとい、剣聖リックハルドを上段から押し潰さんとばかりに、その剛槍を振りおろした!

 剣聖リックハルドは、それを同じく神気を巡らせた十字槍で受け流す。そこから、互いの旋風のごとき激しい打ち合いが巻き起こっていく!

「おぉぉぉ……!」

「離れろ、巻き込まれるぞっ!」

 達人同士の剣戟の渦には、最早、誰一人として近付くことは出来ない。

 互いに位置を入れ替え、時にすれ違い、そして再び交錯する!

 周囲の者は、暫し戦うことすら忘れ、その凄まじい一騎打ちに見入っていた。

 やがて、その戦いに突然の終止符が打たれる。

 二つの神気が交錯した次の瞬間、摂政ダルヴァは後方に吹き飛ばされていた……。

「ぐおぅ……!」

 後方に宙返りして地面に降り立ったダルヴァだが、兜は弾かれてどこかへ飛んでいた。左の肩当ても切断され、二の腕からは、止め処もなく血が流れている。

「今のを堪えるとは……お見事!」

 渾身の一撃で仕留め損なった自らの未熟さを、ふっと口元に浮かべた剣聖リックハルドは、勝負はここまでと馬首を返す。

「待ていっ!」

「彼奴を逃すなっ!」

 その左右からダルヴァを守ろうと、怒涛のように押し寄せる郎党達を大槍で薙ぎ払いながら、剣聖リックハルドは疾風のように離脱していく。

「うぬぬっ……おのれっ!」

 自分の力に絶対の自信を持つダルヴァだったが、ここまで決定的な敗北を味わったのは初めてのこと。

 思わず、どんっと地面に拳を打ち付ける。その目の前には、絶命した愛馬と両断された剛槍の柄が転がっていた……。

 そんな感傷の暇も与えぬとばかりに、ドルフ率いる騎馬隊が辺り構わず銀獅軍を薙ぎ倒しながらダルヴァに迫ってくる。

「閣下を守れーっ!!」

 銀獅軍の将軍の声に、その郎党達が決死の表情で迫りくるドルフの騎馬隊の前に立ちはだかるも、その一撃は来なかった。

 砦の上から退却の銅鑼が、激しく打ち鳴らされるのが聞こえる……。

 そして、押し寄せてきた大波が引くように、ドルフ隊はあっという間に正門の中に消えていった。

「殿下、お怪我をされていますな」

 いつの間にか、傍らには赤獅軍の騎馬武者が、ダルヴァを守り固めていた。

 後背に備えていた赤獅軍は、ドルフ隊の誘いに載せられた銀獅軍を危ういと見て全力で駆けつけてきていたのだった。

「よい、かすり傷よ。それより、こちらも引くぞ」

 ダルヴァは、自らの焦りが招いたその敗北に、押し寄せる激しい怒りをどうにか堪えると、傷ついた自軍をまとめて本陣へと戻っていくのだった。


 その夜、エイル砦では久しぶりの勝利に兵達は湧いていた。

 中でも剣聖リックハルドと摂政ダルヴァの一騎打ちには、目の当たりにした者達が身振り手振りを交え、講談よろしく解説を交えて、まるで自分のことの様に自慢している。

「くそ、オレもこっそりどちらかの伏兵隊に着いていけば良かったぜ」

 砦の守備隊であった浪人衆の部将ガーヴァスなどは、超大物二人の一騎打ちの顛末を聞きつけ、地団駄を踏んで悔しがっていた。

 当然、主だった将を集めて酒宴を開いた大館でもその話題で持ちきりだった。

「いや、実に惜しかった。あと一歩で、あの妖怪めを討ち取れたのにのぅ」

 参謀のアイゼルまでもが、そう言って勝利の美酒に酔いしれている。

 まさかの大帝陛下出陣となり、何ヶ月も無為な時を過ごしたドルフ、ヴァーゼル両先鋒隊の面々にとっては、それだけ此度の勝利が喜ばしいことであったのだ。

 そんな話題の中心であった当の本人は、酔い覚ましにと一人大広間の外で涼を取っていた。

 日中は残暑が厳しいが、夜になると心地よい風が、山肌を撫でる様に流れていく。

「……先生。軍にお戻りになられているとは、知りませんでした」

 あれから帝国学院は、最大の支援者でもある摂政ボーグタス家の意向により、閉校となっていた。

 臨時講師として招かれたばかりのリックハルドも御役御免となり、故郷へ戻ったところに主家である帥将ドルフの招聘を受け、約一か月遅れで参陣してきていたのだった。

「おお、カゼル君ではないか。いや、もう部隊を率いる部将になったのだったな。失礼、カゼル殿と呼ぶべきであった」

 まともに会話も交わしたこともないのに、中原最高位の剣士であるリックハルドが自分のことを覚えていてくれたことに、カゼルは感激していた。

「いえ、自分などまだまだ井の中の蛙であると、日々思い知らされております」

「ふふふ、素直であるのは君の美徳の一つだ。常に、初心忘るべからずの心掛けを忘れずにいれば、父上にも負けぬ立派な武人になれよう」

「はいっ!」

 カゼルは、剣聖の前に立っただけでもその凄さの一端を感じていた。

 体格は細身であるのに、巨漢である摂政ダルヴァ渾身の一撃を軽々といなしたという。一体、どこにそんな力があるのか不思議であった。

「全ては、流れに逆らわぬこと。無理に力の流れを止めようとはせず、その流れに自分を併せる柔軟さを身に着けることだ。さすれば、この様な細腕でも剣の高みを目指すことが出来る……」

 剣聖リックハルドは、超人的な腕前を持ちながら、まだそこから先に見えているものがあるという。

 カゼルは、僅かでもその境地を垣間見てみたいと思うのだった。


        *         *         *


 それから三日後、ドルフ、ヴァーゼル両先鋒隊が摂政ダルヴァの本隊に大勝利との報を受けた大親征軍はその勢いに乗り、包囲したブリアス城市に立てこもる兵力に対し、十倍以上の戦力を持って総攻撃を開始した。

 しかし、それぞれの攻撃に連携は全く取れておらず、レアンドル公麾下の部隊に至っては、抜け駆けで攻撃を仕掛ける有様であった。

 そんな散漫な攻撃では、たとえ十倍以上の兵力差があろうと剛将バルデスの下、一糸乱れぬ統率を見せる金獅軍とまともに戦えるはずもなく、見る見るうちに攻城部隊は被害を大きくしていく。

 初日から大きな被害を出した包囲軍だったが、翌日もそのまた翌日も、繰り返し攻撃を行った。

 兵力に余裕のある包囲軍は日替わりに交代しながら攻撃を行えるのに対し、城兵は常に総力で対抗しなければならず、疲労は蓄積していく。

 それでも、バルデス・バランディーンは諦めてはいなかった。

 自身も城兵同様、夜間の見張りなどにも率先して立ち、一兵卒にまで声を掛けて回りながら、城兵達を鼓舞していく。

「必ずや援軍は来る。我等が耐え抜くことが、摂政家に勝利をもたらすのだ! このバルデスに今一度、皆の力を貸してくれ! 共にこの苦難を乗り越え、我等の強さを帝国中に知らしめるのだ!」

 決して勝利を諦めない主君の姿に城兵達は「我等が金獅軍、バルデス将軍の名を辱めるな!」と互いを叱咤し、励まし合いながら、共にその困難に耐え抜くことを誓い合う。

 やがて、一週間も過ぎてくると戦いの様相にも変化が現れ始めた。

 包囲軍の諸侯等は自軍の被害を抑えんとし、形だけの攻撃を行う様になってきたのである。

 散漫な攻撃のお蔭で、ブリアス城市の城兵はようやく一息つくことが出来る様になった。

 兵糧の蓄えは残り少ないが、城兵の士気はまだまだ盛んである。

 そんな金獅軍の奮戦を無駄にせんと、摂政ダルヴァは様々な手を打っていた。

 手強い二人の帥将の籠るエイル砦には、無理押しをしようとはせず、大親征軍の弱点を付こうと画策していたのである。

「大藩王家に次いで、ようやく西藩王家も停戦に応じてくれたか……」

 摂政ダルヴァは、腕に受けた傷の手当をしながら本国からの使者の報告を聞いていた。

「あちらはあちらで、後継者争いの火種がくすぶっている様ですからな」

 そんなダルヴァに応えるのは、僧帥そうすいイヴァン・ファーロフである。

 僧帥イヴァンは摂政ボーグタス家独自の役職であり、多くの参謀を統括する立場にあり、巷では影の宰相とも呼ばれていた。

 先代より摂政ボーグタス家に仕え、家中での信頼は厚く、当主ダルヴァを始め、多くの者が師と仰いでいる人物でもある。

 摂政ダルヴァは、この僧帥イヴァンと二人で、連日密議を繰り返していた。

「これで、ようやくあと一万は兵を動かせる。金獅軍もよく持ちこたえているが、あと一ヶ月が限界であろう。次の作戦は、絶対に失敗出来ぬ……」

 この前の苦い敗戦を受けた摂政ダルヴァは、力押しによるエイル砦の攻略を諦め、別の方策をずっと探っていた。

「……こちらが影士えいし隊の調べ上げた、現在の敵陣の配置になります」

 フォントーラ家の誇る密偵『闇士あんし』に対し、このボーグタス家の密偵は『影士えいし』と呼ばれている。

 その影士を統括する黒獅軍大将を兼ねる僧帥イヴァンは、摂政ボーグタス家の興隆を背後から支えてきた盟友とも言える存在であったのだ。

 その僧帥イヴァンが広げた地図には、その影士が調べ上げたそれぞれの陣地の紋章、そして兵数が事細かに記されていた。その背後から一本の線が、とある諸侯の陣屋の裏に引かれている。

「狙うは、この陣が最適と思われます」

 僧帥イヴァンに示された陣屋の紋章は、アルノー・マールブランシュ公のもの。

 このマールブランシュ家は、摂政ダルヴァの祖父であるゼルヴァ・ボーグタスが西方を逃れる際、窮地から救い出してこの中原まで保護して連れてきた皇子の起こした家であり、現在の当主アルノー公はその皇子の子に当たる。

 今の大帝よりも、血筋としては西方帝国の嫡流に近いことから、アルノー公は自身こそがこの帝国を継ぐにふさわしいと常々思っているのは公然の秘密……。

 そして、その秘めたる野望を成就させる為には、摂政家とのつながりは切っても切れぬものと考えている。ダルヴァの手元にも、アルノー公から和平を薦める密書が密かに届けられていたりもするのだ。

 ダルヴァとイヴァンは、この状況を打開するにあたり、このアルノー公を徹底的に利用するつもりであった。その作戦とはこうである。


 まず第一に、ブリアス城市の無血開城と、摂政位の返還を条件に、停戦の斡旋をアルノー公に依頼する。

 実際は条件付きの降伏であり、ボーグタス家にとっては威信に大きな傷がつくが、家の断絶や滅亡することに比べれば余程マシである。

 これによってボーグタス家は覇道を断念し、家名存続の道を選んだ……そう思わせることで、もう戦は終わったと思わせるのが狙い。


 第二に、この和平交渉で敵を油断させると同時に、こちらの増援部隊の到着までの時間を稼ぐ。

 増援部隊は、海から大河を遡って密かにアルノー公の背後を突かせる。

 アルノー公の陣を占拠し、旗印や装備などを奪うことで、敵に気付かれぬまま敵中でも自由に動ける。

 あとは一気に後陣の大帝を捕らえ、本陣にいる南北公の二人を討てば指揮系統を失い、十万の大親征軍は自動的に瓦解する。


「……但し、この作戦を成功させるには、問題が一点あります」

 僧帥イヴァンがそう言うと、摂政ダルヴァは頷いた。

「まずは、この和平交渉を大帝が受け入れてくれるかどうか。少なくとも、南領公は是が非でも自分でブリアス城市を落とそうと目論んでいるはず。当然、彼奴は反対するであろう……」

「陛下自身は、連中にこれ以上大きな顔をさせたくないはず。停戦には乗ってくるでしょう。問題は、我等を父の仇とし、血気に逸っているであろうレアンドルに、どうやって停戦を認めさせるかですが……」

 僧帥イヴァンは、ここで一旦話題を変えた。

「ところで、閣下はあの男を覚えておりますか?」

「なんだ、藪から棒に……あの男とは誰のことだ?」

「コーゼルに付けて、フォントーラ家に送り込んだあの男のことですよ」

 ダルヴァは、ようやくイヴァンが何を企んでいるから読めてきた。

「……今、あの男はどこに潜んでいる?」

「無論、レアンドル公の下です」

 僧帥イヴァンが笑みを浮かべると、摂政ダルヴァも釣られて愉快そうに笑いだす。

「はっはっはっ! 我が師は、実に悪党であるな」

「謀将として、お褒めの言葉として受け取っておきましょうぞ」

「そうか、あの男なら少し餌を捲いてやれば、喜んで飛びつくであろう」

「破門とした弟子ながら、あやつは人を陥れることに関してだけは天才的でありますからな……」

 全て、やれることには手を打った。あとは、天命にゆだねるより他はない。

 それでもダルヴァには、ある確信的な予感があった。

「見ているがいい。ドルフ、そしてヴァーゼルよ。たとえ貴様らがあのガイゼル卿に比肩する名将であったとしても、愚かな主君を仰げば、貴様等の勝利など、灰燼に帰してしまうのだ」

「フッフッフッ……己らの知らぬところで世界は変わってしまうということの恐ろしさを、彼奴等に思い知らせてやりましょうぞ」

 摂政ダルヴァと僧帥イヴァンによって練り上げられた恐るべき謀略が、暗雲となってブリアス城市の周囲を覆いつくそうとしていた……。


 一方その頃、南領公の本陣では、諸侯等を慰労すると称して、もう何度目になったか分からぬ酒宴が、日も高いうちから開かれていた。

 ブリアス城市への攻撃は、日に日に散漫となり、少しでも空の雲行きが怪しいとレアンドル公自身が攻撃の中止を伝えることもあった。

 この日もそんな調子であり、すっかり将兵は緩みきっており、日中の見張りなども暢気に昼寝をしていても、誰もとがめる者もいない。

 どうせ、敵は城を出てこないと高をくくり、夜になるとこっそり自陣を抜け出しては後陣周辺で賑わう娼婦宿へと赴く将官や郎党も少なくなかった。

 上から下までこんな調子であることに嘆く者もいたが、宰相ロズナー伯が体調を崩してからというもの、まともに取り合う者もいない有様……。

 そんな本陣の近くにある林の猟師小屋の中で、密かに逢瀬を重ねる一組の男女がいた。レアンドルの愛妾セヴァリーヌと、その叔父リゴーラである。

 二人は、レアンドル公がこうして昼間から酒宴を開いている隙に、こうして密会を続けていた。

「私、御子を授かったかも知れませぬ……」

「……それは、閣下の子か? それとも私の子かな?」

「ふふふ、それは貴方様が一番良く御存じなはずでしょう? ねぇ、叔父様……」

 セヴァリーヌはレアンドルに抱かれる際、必ずある薬を飲んでいる。

 それは、彼女の様な高級娼婦を装った闇士が用いる避妊薬。毒性は低いが、服用すると昂揚感が続くのだ。

 レアンドルはそんな彼女の体に溺れ、いつも気を失う様にして先に果ててゆく。

 その後、収まりきらぬ欲情をリゴーラがその都度、こうして慰めてやるのだ。

 セヴァリーヌは未通の頃からこのリゴーラによって、その体を開発されていた。無論、本当の叔父などではない。

 彼女は、貧しさに堪えかねて売られた農民の子であり、大抵の娼婦は彼女の様に幼い頃から男を狂わす術を、その体に教え込まれていた。

 セヴァリーヌの様に、密偵として育てられた娘は、他にも様々な薬を服用する。

 どれも強い中毒性があり、早ければ三十を迎える前に身体と精神が壊れる。

 しかし、そんな自らの野望の為に消費されていく哀れな娘をリゴーラは愛していた。主従でありながら縁者と騙り、そして愛人という複雑な関係の二人はその歪んだ愛の結晶を次の世代に繋ごうとしていた。

「いつか……私達の子が、この中原世界の覇者となるのだ」

 セヴァリーヌは、その言葉を聞くと嬉しそうにほほ笑んだ。

 彼女を囲うレアンドル公には、まだ正室も居らず、子もいない。

 たとえ妾の子であろうと、長子となれば様々な可能性が生まれてくる。

 そして、密偵である彼女を抱くたびに、その体にしみこんだ無数の薬物は確実にレアンドル公の体を蝕んでいく。

 ただでさえ、荒淫で酒好きなあの男ならば、あと十年持たないのではないか。

 リゴーラはそんな風に考えていた。

 もちろん、リゴーラ自身は彼女の毒性を中和する薬を服用している。それでも、やがてその毒が回ってくる。自分の愛した女の毒にかかって死ねるなら、それもまた本望だと考えている。

 リゴーラ自身も、この歪んだ愛に蝕まれているのだ……。

 そんな二人のいる猟師小屋の戸に、突然何かが差し込まれた音がした。

 衣服をはだけたまま、咄嗟にリゴーラは小刀を手に取る。

 自身も多少の心得はあるが、相手がフォントーラ家の闇士であったなら、おそらく勝負になるまい。

 リゴーラは己の命を守る為に、手段を選ぶつもりはない。当然、セヴァリーヌもその覚悟があった。たとえ、その身を盾にしようとも主人の命を守らんと、その前に立ちはだかる。

 ……しかし、そこからは何も起こらなかった。

 戸の外を確かめるが、もう何者の気配は感じられない。

「どういうことだ……?」

 訝しむリゴーラは、開いた戸の下に残されていた小さな紙片を拾い上げる。それは、折りたたまれた密書であった。

「……まさか、御師おんしからなのかっ!?」

 リゴーラは小屋の外に出ると、木漏れ日に照らされたその密書を食い入る様に、何度も声を出さずに読み返す。

 そして、小屋に戻ると、小さな灯でその密書に火を付ける。

「リゴーラ様……?」

「事情が変わった。だが、その腹の子にはまだ使い道がある」

 そんな主人の言葉に安堵したのか、セヴァリーヌは愛おしそうに腹の子を撫でていく。

「我はまだ、御師おんしたなどころから、逃れることが出来ぬのか……」

 リゴーラは暗い瞳で、燃え落ちていく密書をじっと見つめ続けていた。


        *         *         *


 その日、アルノー・マールブランシュ公はある書簡を持って大宰相ベランジュ・オードラン侯の下へと訪れていた。

 二人は傍付きの者を遠ざけると、早速、密議に入る。

「……なるほど、遂に摂政殿も根を上げられたという訳ですか」

「無理もあるまい。ただでさえ大藩王家と西藩王家という後背の憂いがあるのに、そこに此度の大親征ですからな」

 二人が論じているのは、摂政ダルヴァ直筆からの密書でありブリアス城市の無血開城と引き換えに、城兵およびバルデス将軍の助命要請である。

 その条件が認められるならば、旧南領公家の領地を全て返却するとあった。

 賠償金については三年の猶予が必要であり、その代償に摂政位を返還しても良いとまであった。

「やはり、先代ジルヴァ殿の様な老獪さは持ち合わせておらぬ様だな。ダルヴァ殿には……」

 ふと、残念そうにアルノー公がつぶやく。

 この男は、まだ大帝位に未練を持っているのか……それを知りつつ、大宰相ベランジュ公はそのつぶやきを聞かなかったふりをした。

「しかし、これで得をするのは南領公だけではないか。賠償金だけでは此度の参陣の穴埋めにしかならず、それも守られるかどうかは正直、怪しいものだ」

 そう言いつつも大宰相ベランジュ侯は、内心この停戦には乗り気である。

 あと二ヶ月もすれば収穫の時期であり、多くの諸侯がそれ以上の在陣を望んでいないことは、重々承知しているからである。

 そもそも、ここまで時間はかかるまいと高をくくっていた者が多く、兵糧もそこが限界なのだ。

 この大親征軍の本陣には、東南諸侯等が参陣してから一ヶ月ほどになるのだが、連日各所で開かれている酒宴で将兵は弛みきっている。

 この調子では、一ヶ月どころか、二ヶ月経ってもブリアス城市を落とすことなど出来ないと、密かに危うんでいる者もいた。

 アルノー公は、そんな諸侯等の内情を百も承知であり、穏健派と目される大宰相ベランジュ侯にこの密書を開示してきたのだ。

 もちろん、それはあくまで表向きの話であり、この二人にとって重要なのは摂政家亡き後、誰がこの中原帝国の実権を握るかであった。

 仮にもし、この大親征軍が摂政ダルヴァを討ち取る、あるいは摂政家を滅ぼすことが出来た場合、一番の功績は間違いなく連合の旗頭となったレアンドル南領公であろう。

 そうなると南北公が実権を握っていた三十年前に戻るだけで、再び南北公が権勢を争い続けることは明白である。

 その昔に戻ることは大帝レイモン・ラバンディエも、この二人も望んでいない。

「……やはり、南北両公らの増長を抑える為にも、ボーグタス家の存続は許すしかあるまい」

 ボーグタス家との講和をまとめ、無事にこの大親征を成功に導けば、それだけで大帝の威信は大きく回復する。そして、それを斡旋した自分達にも十分な見返りが期待出来る。

 例えば、アルノー公には南北公に匹敵する権限が与えられ、現在の帝位継承権を自身の子に引き継がせることも可能だろう。

 また、摂政位が返還されれば、大宰相ベランジュ公が家臣での最高位を持つこととなり、実質的なこの中原の為政者となる。

 二人にとっては、それこそが自らが夢想する世界であり、正しき中原帝国の姿でもあった……。

「よし……レアンドル公の方はともかく、陛下への具申は承った。兵の士気や兵糧の話を持ち出せば、他の諸侯等も納得しよう」

「講和となれば、ダルヴァ自身が出向いて来ることになる。そちらの段取りはワシに任せて貰おう」

 アルノー公は密議を終えると、足早にその場を去っていく。

「さて、こちらも明朝までに色々と準備しておかねばな……」

 大宰相ベランジュ侯はそうつぶやくと、傍付きの者を呼んで日々のささやかな楽しみでもある香茶の支度をさせるのであった。


 それから程なくして、大親征軍本陣では御前会議にて重大な発表が行われた。

「……摂政ボーグタス家は、陛下の御威光と我等諸侯等の陣容の前に、遂に刀を折り、膝を屈して降伏を申し入れてきた。陛下は寛容にも彼の家を許し、その罪を償わせることを約束させた」

 大宰相ベランジュ侯が諸侯等に向かって勝利を宣言すると、大きなどよめきが上がる。

 そんな中、諸侯等の視線は玉座の下に設けられた席のレアンドル公に集まった。仇敵である摂政家を、彼の御仁が許すとは誰も思っておらず、当然、反論が出ると思っていたからである。

 しかし、意外なことにレアンドル公は御意のままにと大帝に拝礼しただけで、諸侯等一同は拍子抜けしてしまった。

 反摂政家の急先鋒であったレアンドル公が素直に従ったので、クレマン北領公を始め、他の藩王等も異論は唱えず、その議はそのまま裁決となる。

 陣屋に戻ったレアンドル公の下に麾下の諸侯が詰め寄せたが、彼はこう言っただけだった。

「ここで、我が父の仇を取れぬのは痛恨の至りではあるが、何しろ陛下の御意向でもある。それに我等は他の諸侯等と違い、出陣して、すでに四ヶ月が経っている。諸君等の忠誠は嬉しく思うが、ここは一旦矛を収め、取り返したこの地に安息を与えよう。そして近い将来、必ずやあのボーグタス家を共に討ち滅ぼそうぞ」

 普段のレアンドル公らしくない、妙に分別のある君主然としたその対応に、諸侯等は思わず顔を見合わせた。確かに言われてみればその通りではあると、釈然としないながらも了承した。

 きっとレアンドル公も、この長き陣屋での生活にて大人になられたのだろう。そう自分を納得させる様にして、諸侯等はそれぞれ自陣に戻っていく。

 そんな中、レアンドル公の突然の豹変に、内心驚きを禁じ得なかった者がいた。書記官ユーグ・ベルトランである。

「(まさか、あの短絡的で人の意見など聞こうとしない独善者が、急にこんなことを言いだすなどありえない。一体、何があった……?)」

 その日は勝利の祝宴も開かず、自分の寝所へと戻っていく主君の後ろ姿にユーグは、ある種の疑念を抱かずにはおれなかった。


 その夜遅く……ユーグは人目につかぬ様、密かに宰相ロズナー伯の宿舎を訪れていた。

「……なんだと? なぜ、すぐワシに知らせなかったっ!?」

 体調を崩し、ここ三日ほど寝たきりであったロズナー伯は、ユーグから本日緊急で開かれた御前会議にて、摂政家の降伏の受け入れが決まったことを知らされると跳びあがる様にしてその身を起こした。

「宰相殿、無理をされてはお体に障りますゆえ、どうぞ床に休まれたままで……」

 ふらつく体をユーグに支えられると、ロズナー伯はどうにか椅子に腰を落ち着けた。

「ヴァーゼル殿や、ドルフ殿は何と言っている!?」

「……何しろ急な話であった故、前線の二人には、まだ……」

「ばかなっ! 摂政ダルヴァと対陣する二人の帥将の了承を得ずに、勝手にそんな重要な決議をしたと言うのか!?」

「陛下は大宰相ベランジュ侯、ご親族のアルノー公等と共に、事前に示し合わされていた御様子で……南北公の御二方も、その説得に応じたらしく」

 ロズナー伯は、これまで南領公家をずっと支えてきた自分達に一言の相談もなく、そんな重大な密議に応じてしまった主君の振舞いに、愕然としていた。

 そして、情けなさのあまり、滂沱の涙が頬を伝って落ちていく。

「何と愚かな……あと一ヶ月もすれば、ブリアス城市の兵糧は尽き果てる。黙っていても、確実な勝利が見えていたと言うのに。これでは、亡き先代様と同じ過ちを繰り返すだけではないか……」

 これまで、あれだけ摂政家を憎んできたレアンドル公が、ここに来ての突然の掌返しに、ユーグは何か不吉な影を感じていた。

「(あの女、もしや……? すると、あの男の仕業かっ!?)」

 そこに思い当たったユーグは急ぎ自身の宿舎に戻ると、客間の戸を乱暴に開く。

 その部屋の中にはその男リゴーラが、まるでユーグを待っていたかの様に悠然と佇んでいた。

「これは書記官殿。一体、こんな夜更けにどうなされたというのです?」

「……どうなされたのではない。貴様、さてはあの女を使って、閣下に何やら吹き込みおったな?」

 血相を変え、掴みかかってくるユーグを軽くいなして押しのけると、リゴーラはぞっとする様な笑みを口元に浮かべていた。

「何か誤解なされている様ですが、私めには何のことやら、さっぱり……」

「黙れっ、調べればすぐに分かる。誰か出会え! この曲者を引っ捕らえよっ!」

 しかし、誰もその呼びかけに応じず、虚しくユーグの声だけが響く。

 次の瞬間、ユーグの腹に激しい衝撃が一つ。

「がっ……!?」

「あまり騒がれても困りますな。貴公は殺しませんから、どうぞご安心を……」

 そう言って、リゴーラはもう一発ユーグの腹に蹴りを入れると、ユーグは何かを嘔吐し、そのまま気を失った。

「少しだけ、感づかれるのが早かったな……」

 そう言って、部屋に現れたのは痩身の男。

「ああ、あの身の程知らずとは違って、それなりには出来る男の様ですから」

 痩身の男は、そんなリゴーラの言葉を無視したままユーグを縛りあげると、続いて部屋に入ってきた猟師姿の男達に、気絶したままのユーグを外へと運ばせた。

「明後日の夜明けまで、この男の不在を隠し通せ」

 痩身の男はそれだけ言い残すと、音も立てずにその部屋を立ち去っていく。

「……相変わらず、御師おんしは恐ろしい人間をよこしてくれる」

 リゴーラは、いつの間にか自身の手足に鳥肌が立っていたことに気付くと、思わず身震いをした。

 あと二日……すでに、リゴーラの描いていた闇とは、まるで別の巨大な闇がすぐそこまで迫っている。

 最早、それを止める術はなく、リゴーラ自身もその奔流に逆らわぬ様、その身を委ねるしかなかったのであった……。


 翌日、大親征軍の本陣では、昨夜、各所で行われていた祝宴の名残が、ブリアス城市の楼閣の上からも見て取れていた。

「あと、兵糧は持って五日……」

 既に城内では、城外に出れぬ市民達の不満も限界に来ており、これ以上の徴発を行った途端、暴動が起きるのは目に見えていた。

 兵の士気は、こんな状況でもまだまだ旺盛であるが、いかんせん、兵糧が無いと分かれば瞬く間にそれも失われる。

 討って出るなら、兵糧が切れる前でなくては全力で戦えない……。

 この数日間、金獅軍大将のバルデス・バランディーンは、刻々と近付きつつあるその時を静かに受け入れようとしていた。

 まだ金獅軍の誇る一千騎の騎馬隊は、ほぼ無傷のまま健在である。これと共に守りの脆い陣を狙って突撃すれば、あるいは敵中突破出来るやもしれぬ。

 しかし、それは同時にブリアス城市に赴任してからの二年間を共にした残り四千の部下を見殺しにすることになる。

 かと言って、敵にこの首を差し出そうとすれば、誇り高き部下達の多くが、自決の道を選ぶに違いない。

 やはり最後は金獅軍全部隊を持って、華々しく討って出るしかない。

「(閣下……お預かりしたこのブリアス城市を守れず、摂政家の切り札であったこの金獅軍を御役に立てることも叶わず、申し訳ありませぬ……)」

 バルデスの知る主君ダルヴァならば、この城から見えずとも、すぐ近くまで援軍を率いて来ているに違いなく、間に合わなかったことを恨むつもりは毛頭ない。

 ただ、最後にこの金獅軍の戦いぶりを見せたかった。この中原最強と称されたその名に恥じぬ最後の戦う姿を……。

 ふと気付くと、東南の敵陣よりただ一騎駆けてくる騎馬武者の姿が目に入った。

「んっ? 何のつもりだ、あれは……」

 よく見れば、白旗を掲げており、使者の様ではあるが、どうも様子がおかしい。

 疾走して来るのはただ一騎のみ。他の兵は途中で立ち止まり、その騎馬武者を見送っている様にも見える。

 周囲の陣でも、何事が起ったのかとざわめきが起こっていた。

 そして、その騎馬武者が近付いてきた時に、ようやくバルデスは、それが何者であるかに気が付いた。

「お、おおおっ! あのきらびやかな白銀の華武者は、まさか、まさか、我が弟であるかっ!!」

 バルデスは楼閣の窓からその身を迫り出して、ありったけの大声で開門を命じると、自身も本城から城門へと走り出す。

「うおっ? ありゃ城主様じゃねえか!?」

「ほんとじゃ、あの金色の大鎧、間違いないわい」

 ガンガンと石畳の道を砕かん勢いで駆けてくるバルデスのその威容に驚いた市民が、騎馬武者までの道を開ける。

 何事かと集まる市民達の人だかりを、まるで花道の様にして現れたその騎馬武者は、本城から駆けてくる金色の鎧武者の姿を認めると、その目の前までゆっくりと馬を進めていく。

 眩いばかりの逆光と共に颯爽と姿を現したのは、まぎれもなくバルデスの弟、シルヴィス・バランディーンその人である。

 シルヴィスは、兄バルデスの前で馬を止めると顔を覆っていた鉄兜を脱いで小脇に抱えて一礼をした。

 輝く銀色の鎧に純白の外套。掲げていた旗は、マールブランシュ家のものだが、鎧や外套に刻まれた紋章はボーグタス家のもの。

 兜の下から覗かせた素顔は、まるで講談で語られる美しき華武者。

 西方人らしい長い金髪がたなびくと、周囲の市民達から思わず、ほぅと溜息が漏れた。

「兄上、よくぞこれまで御無事で」

「なんの、お主が来てくれたのなら、もう恐れるものなど、何もないわ!」

 城内の兵達は、金と銀の鎧武者ががっちりと手を取り合って、笑い合うその姿にそれまでの気分がどこかへ飛んで行ってしまったかの様に歓声を上げていた。

 二人が本城に戻ると、さっそく主だった者を集めて軍議が開かれる。

「そうか、やはり閣下は来てくださっていたのだな!」

 バルデスが、覇気に満ちた笑顔でそう叫ぶと各隊の部将や郎党の表情にも明るさが灯る。

「しかし、シルヴィス。お主はどうして敵陣の中から使者として出てきたのだ?」

「……全ては、我が殿下の命に御座います」

 シルヴィスは、主君である摂政ダルヴァ・ボーグタスからの命を、口頭で一同に伝えた。

 バルデスを始め、一同は皆、その策に驚きつつもそれが現実であることに喜び、消えかかっていた闘志に、再び火を灯したのである。


 そんな謎の騎馬武者を敵城へと送りだしたアルノー公は、諸侯からの質疑に、摂政ダルヴァからの開城の命を伝える使者を送りつけたまでと説明した。

 それは、確かに嘘ではない。あの銀鎧の騎馬武者は、そう自分に告げたのだから。

 たとえ、それが嘘であると思っていても、自分がそれを説明する義務などはない。

 そして、アルノー公は、その使者であるシルヴィスが、一体どこからやってきたかは誰にも教えようとはしなかった。

「(まさか……このようなことになるとは……)」

 内心では、激しく動揺している自分を悟られまいと、昼にならぬうちから自分の宿舎に閉じこもる。

「そう、それでいい。貴殿はただ、明日の夜明けまで我が主の命に従っていればそれでいい……」

 どこからともなく、アルノー公の耳にその声が届く。

 何の感情もない声……逆に、それが恐ろしくて堪らなかった。

「(自分は何故、忘れてしまっていたのだろうか?)」

 まだ若年の頃にそれを知り、ただ見ない振りをしていた。

 しかし、それは誤りだった。

 ボーグタス家の真の恐ろしさを、忘れてはいけなかったのだと……。

 昨夜、突然送りつけられた密書の中にあったのは、妻と娘が愛用する髪飾り。

 そして密書に書かれてあった要求は、ただ一つ。

 ボーグタス家から送られてきた当家の使者シルヴィスを、ブリアス城市に確実に入城させること……。

 あとは、何がどうなっているのかも分からず、気が付けばあの声に怯える自分がいた。

 最早、アルノー公には、この先何が起こるかなど知りたくもない。

 ただ、床の中で震えることしか出来ない自分に、涙する他はなかった……。


        *         *         *


 その日の深夜。遂に作戦は敢行された。

 始まりの口火を切ったのは、海から大河を遡る船団。

 突如、岸部に現れた船団から続々と黒い人影が下りてくる。

 その数、約一万……。

 彼らが密かに目指したのは、大河を背にした小高い丘の上にあるアルノー公の陣屋。

 不思議なことにアルノー公の陣屋の中には誰の人影も居らず、ただ、篝火だけが夜風に吹かれて揺れていた。

「よし……本当に、誰もいない様だな。それでは手筈通りに行くぞ」

 彼らは、軍勢が進んでいるとは思えぬ小さな音で、うねる波のごとく無人の陣屋を進んで行く。

 それこそが、神出鬼没と恐れられる摂政家の水軍衆、緑獅軍の一団であった。

 彼らはそのまま、マールブランシュ家の陣屋の中で静かに時を待つ。

 やがて東の空から日が昇り始めると、ブリアス城市の南東に広がる大親征軍の陣容が、彼らの眼下に一望出来る様になった。

「よし、時間だ。始めるぞ」

 緑獅軍大将ドナン・バドーラの号令と共に、二つの部隊が動き始める。

 各諸侯等の陣屋では、ちらほらと朝餉の水煙が上がり始め、夜通し見張りをしていた兵達が眠りについても、交代の兵はのんびりと朝餉を楽しんでいた。

 そんな中、一千ほどの軍勢が本陣後方を移動しているのが目に映った。

「なにやってんだ、あいつら……?」

「もう、戦は終わりだってぇのに、こんな朝っぱらから御苦労なこって」

 すでに講和が成立したのは、本陣にいる全ての将兵が知っている。彼らにまるで緊張感と言うものがなかったとしても、一体、誰がそれを責められようか。

「……ありゃあ、マールブランシュ公の軍勢だな」

「あそこは、持ち場が気に入らなくて、何度も陣替えしてたからな。またそれじゃないのか?」

 訳知り顔で一人の兵士がそう言うと、他の者もその軍勢に興味を失った。

 そんな軍勢がもう一つ、本陣中央にも進んでいるのを見ても、多くの兵士達はさほど不信には思わえず、すぐに関心を失う。

 敵陣を悠然と進む緑獅軍は、空となった陣屋に残されていたマールブランシュ家の軍装を身に着けていた。ぱっと見では、それを見破れる者などまずいない。

 そして、そこから更に四半刻ほどたったその時、事態は急変する。

 突如として、本陣のあちこちから、明らかに水煙とは違う、黒々とした煙が立ち昇っていたのだ。

「火事だーーーっ!!」

 誰かが大声でそう叫ぶと、たちまち本陣内に怒声が木霊する。

「何だ? 一体何事だっ!?」

 まだ就寝中だったある将官は、余りの騒々しさに天幕から顔を覗かせた。視界に飛び込んできたのは、辺り一面に立ち昇っている黒煙と炎の爆ぜる音。そんな中を、縦横無人に駆けまわる完全武装した兵士達の姿……!

 彼らは、陣屋に立ち並ぶ兵士達の天幕に、次々と槍を突き刺し、仮設されていた木造の家屋などには火を放っていた。

「て、ててて、敵っ」

 そう叫ぼうとした瞬間、哀れにもその将官は複数の槍に突き刺されて、天蓋の中に倒れた。

 中には、いち早くその非常事態に駆けつけてくる者もいた。後陣中央の大帝宿舎を警護する衛将フェンディス・ロイ・マウェストンである。

「造反かっ! それとも敵の奇襲かっ!?」

「わ、わかりません!」

「すぐに衛士達を叩き起こせ! 陛下をお守りするのだ!!」

 まだ二十代半ばでありながら大帝の近衛隊長を務めるロイは、夜明けと共に目覚めていた。何やら妙な胸騒ぎがして、陣屋の見回りをしていたところで、急変に気付いたのである。

 フェンディスは、大帝の宿舎へと進む軍勢を見つけると、たった一人でその行く手を阻んだ。

 押し寄せてきたのは、緑獅軍副将のガレイの隊である。

 その荒々しい風貌に焼けた肌は、見るからに海の漢の匂いを漂わせていた。

 ガレイの家は、西方帝国時代から水軍衆を率いていた一族で、先代ジルヴァの時よりボーグタス家に仕え、猛者揃いの緑獅軍の中でも名の知れた武人であった。

「ここから先へは、一歩たりとも進ませぬぞっ!」

 多勢に無勢……。

 衛将フェンディスは死を覚悟していた。おそらくは、時間稼ぎにすらならないだろう。

 それでもフェンディスは大帝陛下を守護する衛将として、そして自らの生き様を穢さぬ為にとその場に踏みとどまる。

「おっと、たった一人で立ちはだかるとは、いい根性してやがるな。せめて名乗りくらいは聞いてやるぜ」

 ガレイはそう言って兵士達を左右に展開させると、火矢を準備させた。

 目の前のこの男は、強い……。

 がっちりとした体形だが、その動きに無駄はなく、相当戦慣れしている。

 対する自分は大帝の近衛隊を率いる衛将という要職にあるが、実戦経験などありはしない。

 いくら武道の試合で優秀な戦績を収めていたとしても、それが実戦で通じるとは限らない……。

 それでも、フェンディスは自身の最初で最後となるであろうこの戦いに、全てを捧げんと闘志を燃え上がらせた。

「衛将フェンディス・ロイ・マウェストンだ。願わくば、貴殿と一騎打ちを所望したいところではあるが……」

 その名を聞いたガレイは一瞬、呆けた様にあんぐりと口を上げる。そして何を思ったのか、突然兜を脱ぎ棄て、短く刈りそろえた黒い頭髪の上から、バリバリと頭を掻きむしった。

「うっそだろっ! なあ、まさかその名……あのロイ・マウェストン譲りとか言うなよ……?」

「そうだ……中原への大遠征以前の昔、西方で古今無双の豪傑と謳われたロイ・マウェストン卿より、私は十五代目の当主として、その名を受け継ぐ者だ」

 それを聞いて、ガレイは思わず天を仰いだ。

「……それじゃあ仕方ねえ。お望み通り相手してやるよ。ちなみに、オレの名はガレイ・マウェストン。あんたと同じマウェストンの血を引く者さ。まあ、本家はこっちなんだけどな……」

「そうであったか……いや、むしろこれは僥倖なのかも知れぬ」

 フェンディスはそう言って槍を手放すと、晴れやかな顔で太刀を抜いた。

「……かもな。オレ以外の誰かに、あんたをやらせるワケにはいかねえし」

 ガレイもまた、部下に後は任せると言って槍を放り投げ、刃厚で大振りの打刀を抜く。

 その刀身は刀というより、むしろ鉈に近く、先端は大きなのこぎりの歯のように複雑な形状をしていた。

「珍しい獲物をお持ちで」

「悪いな、本家は海賊だからお行儀が悪くてよ」

 対峙した二人は、互いに笑っていた。

 次の瞬間、神気を纏った両者は激しく打ち合い、竜巻の様に互いの鎧甲を切り刻んでいく!

 均衡が崩れたのは二十合を数えた時。

 はじけ飛ぶ様にして宙を舞っていたのは、折れた太刀の刀身。

 フェンディスの左肩口には深く、ガレイの打刀が食い込んでいた……。 

「お見事……」

 肺にまで刃が食い込んだのか、フェンディスは大量の吐血で、それ以上言葉を発することが出来なかった。

「(すまぬ、スティーナ……我が愛しき妻よ……)」

 フェンディスは、消えゆく意識の中で懐に抱いていた髪飾りを取り出すと、自分を倒した目の前の男にそれを差し出し、そこでこと切れた。

「もったいねえ……これからだってぇのに、もったいねえよ、あんた……」

 もし、命乞いなどしてきたら何の躊躇いもなく即座に打ち殺していただろう。

 しかし、この若者は……実に気持ちのいい武人であった。

「本当なら、栄光の一族との再会に祝杯を挙げるもんだろ。なのに、何でこうなっちまうんだよぉ……」

 ロイ・マウェストンの名に恥じることない立派な武人であり、出来れば助けてやりたかった。

 だからといって、自分は手加減など出来る人間ではない。

 せめて、本気で相手をしてやることが、この若者への手向けであった。

 ガレイは、一族の誇りであった英傑の名を受け継ぎ、儚く散っていった目の前の若者の手にあった髪飾りを、震えるその手で受け取った。

 鼈甲で出来たその髪飾りには、美しい黒髪が一房と、藤の花に見立てた紙細工。

 これが乱世であり、世の無常と言うものだと分かっていても、堪え切れぬ憤りで天に向かって吼える!

「……なんでだっ! これが天の差配というヤツなのかよ……」

 ガレイは堪え切れず、声も上げずにその場に泣き崩れた。

「……大帝を捕えたぞっーーー!」

「他の者は要らぬ! 逆らう者は残らず、斬り捨てよーーーっ!!」

 そんな勝利の雄たけびも、今のガレイにはどこか遠く感じられていた……。


 同じ頃、緑獅軍大将ドナン・バドーラの率いる一千の部隊は、本陣の中枢である南領家レアンドル公の陣屋に襲い掛かっていた。

 ここは真っ先に火の手が上がった場所であり、緑獅軍が突入する前から見張りの一部は、夜明け前の時点で始末されていた。

 ドナン隊の突入を見届けると、陣屋裏の山林に潜んでいた猟師姿の男達は、足早に立ち去っていく。

「ふん。その女は使い捨てではないのか」

 痩身の男が、肩で息を付くリゴーラを凍り付く様な目で見降ろしている。

「この女には、まだ働いて貰わねばならぬ……」

 薬で意識が朦朧としているセヴァリーヌは、とても自分の足で歩けそうにない。

「手助けはせぬ。勝手に死ね」

 そう言い残すと、痩身の男はリゴーラの目の前から掻き消えた。

「旦那……様……」

「心配いたすな。お前を置きざりなどにはせぬ」

 ここで、ぐずぐずしている訳にも行かない。

 やがてこの山林も、陣屋の炎に飲みこまれるのだから。

「(この程度のことで、諦めはせぬ……)」

 此度のはかりごとは、御師おんしの掌の上で弄ばれたが、次こそは出し抜いて見せる。

 リゴーラは、朦朧としたままのセヴァリーヌを背負い直すと、道無き道に活路を求めて歩き出すのだった……。


 一方、血相を代えて寝室に飛び込んできた側近に叩き起こされたレアンドル公は、目前の地獄の様な光景に錯乱していた。

「だ、誰の仕業かっ! さては奴か、裏切ったのはヴァーゼルかっ! そうなんだなっ!!」

 レアンドルの曇った目には、朝焼けの中に黒く蠢く兵士達が、フォントーラ軍にしか見えなかった。

「そうだ、奴ならばやりかねん。フォントーラ一族が、ガイゼル卿の恨みを忘れるはずがない……」

 いつもヴァーゼルは、自分のことをそんな目で見つめていた。

 癇に障る視線だった……。

 自分は主君なのだ。気に入らぬ部下を処断して、何が悪いというのだ!

「ならば、この手で奴を返り討ちにしてくれる。鎧を持てっ! 兵を集めよ!!」

 常軌を逸した主君の言葉に、急報を知らせた側近は言葉を失う。

「(真っ先に、最も忠義なる部下を疑うとは、なんと情けない君主であろうか……)」

 思わず、腰の物に手をかけようとするも、他の側近が部屋に飛び込んできたことで、ふと我に返った。

「しっかりなさりませっ! あれは敵です! 摂政軍の奇襲ですっ!!」

「敵だと……一体、どうやってだ!?」

「知りませぬ! いいから、お早くっ!!」

 痺れを切らした側近に、追い出される様にしてレアンドルが宿舎の外に出てみると、辺り一面、火の手が上がり、剣戟と怒号が飛び交っていた。

 降り注ぐ無数の火矢が宿舎の屋根や塀に、次々燃え移っていく。

「……これは夢だ。なんという悪夢だ。はは、はははは……」

 自分をこんな目に合わせるのは、ヴァーゼルしかいないはずなのに……。

 摂政軍なら、あのブリアス城市の中で、余の威光に震えているはずではないか。

 レアンドルが視線を眼下のブリアス城市に向けると、猛然と出撃していく金獅軍の姿が見えた。

「そんなはず……そんなはずが、ない……」 

 レアンドルは宿舎の壁を背に、足元からずるずると崩れ落ちていく。

 主君の情けない姿に失望した側近達は、顔を見合わせると互いに首を振る。

 そんな、自失茫然といった風のレアンドルの前に現れたのは、宰相ロズナー伯とその兵達であった。

「おおおっ! 御無事であられたかっ!!」

 不意に、聞き覚えのある声に呼ばれて、レアンドルはふと我を取り戻す。

「なんだ、宰相か……驚かすでない」

「さぁさ、急ぎここを脱出せねば。敵兵がすぐそこまで迫っております!」

 側近に抱えられて立ち上がるレアンドルだが、この期に及んで思い出したのは、昨夜同衾していた女のこと。

「セヴァリーヌ、セヴァリーヌはどうしたっ!? 誰か早く探して参れ!!」

 その言葉が終わる前に、宰相ロズナー伯は主君レアンドル公の頬を、皺枯れたその手で力一杯打っていた。

「貴方は、それでも南領公大総督ですかっ! 先代と同じ様に無様な死が御望みならば、今、この手であの世に送って差し上げますぞ!!」

 宰相ロズナー伯は怒りの形相のまま、滂沱の涙を流していた。

 そうこうする間に、彼らの背後に敵兵が押し寄せてくる。

「ここは、我等にお任せを!」

 トゥアルグ家の兵士達が、レアンドル公やロズナー伯を隠す様に通路に固まり、敵兵を迎え撃つ。

 背後で彼らの断末魔を聞きながら、宰相ロズナー伯は、腰砕けの主君を側近達に引きずせて通路の奥へと逃げた。

 しかし、その先にも敵兵の声。

 別の道を探し、宿舎の隙間を抜けた先にあったのは、もう使われていない枯れ井戸……。

「駄目です。ここは行き止まりです!」

 しかし、引き返せば敵兵に見つかる。どの道、もう走る力も残ってはいないのだ。

 ロズナー伯は、今こそ主家への最後の恩義を示す時と、覚悟を決める。

「閣下、どうやらここでお別れです。せめて、最後の御奉公をさせて頂きます……」

 そう言って、ロズナーは枯れ井戸の蓋を主君の側近達に外させた。

「今から、私がこの中に身を投げます。閣下は、あとに続いて下され。何、この老骨を下敷きとすれば、閣下は足の骨一本くらいで済むやも知れませぬ」

 そう言い残すとロズナーは、枯れ井戸にその身を躍らせてしまった!

 ゴキリという嫌な音が、レアンドル達の耳に届く。

「ば、馬鹿な。そんなことをしたって、何の足しにもならぬわっ」

 茫然とするレアンドルの前で、側近の一人もまた、枯れ井戸にその手を掛ける。

「……蓋を占めるに、二人は要りませぬ。では、おさらば!」

 言うが早いが、その側近もあっという間に、井戸の底に吸い込まれていく。

 レアンドルはそのあまりの凄惨な光景に、目を瞑り、耳を両手で塞いだ。

「何をしておられる! 早く、飛び込みなされっ!!」

 残った側近が、レアンドルの肩を激しく揺さぶった。

「まだ足りぬ……」

 大総督レアンドル・ブリアス南領公は、すでに正気を失っていた。

 一人残った側近の首を両手で掴むと、枯れ井戸に突き落とそうとしたのだ。

「な、何を……!」

「お前も落ちろ! そして、私の下敷きとなれ!!」

 井戸の縁で、二人はもみ合う。

「うぐあっ!?」

 必死に抵抗する側近は、偶然にもレアンドルの急所を蹴り上げると、どうにかそれを振り払う。

 悶絶してのたうちまわるレアンドルを後目に、その側近は突然何を思ったのか、敵兵のいる通路に向かってこう叫んだのだ!

「こっちに大将首がいるぞーーーっ!!!」

「き、貴様っ、何を!?」

 目を白黒させたレアンドルに、冷酷な目をした側近が残酷な現実を知らせる。

「お前のような愚か者に尽くす忠義など、ないっ! 死ねっ! 私の目の前で、無様に死んで逝けっ!!」

 そう叫びながら、レアンドルの足元に太刀を突き刺す!

「が、がぎぎぐ……ぐが……ひ、ひぎぃいいいっ!!」

 レアンドルは、言葉すらままならぬ無様な恰好のまま、押し寄せる敵兵の恐怖に耐え切れず、ついには発狂してしまった。

「ぎひひひ……ヴァーゼル、このうらぎりものめぇ……ころしてやる、ころしてやるぞぉ……うぃひひひひっ!」

 だらしなく口元からあぶくを吐き、小便を垂れ流すその姿に、最早、高貴な血筋も見るべくもない……

 それを取り巻く緑獅軍の兵士達も、お互いに顔を見合わせながら、槍を着けるのを躊躇う。

 狂人という存在は不吉であり、それに関わること事態、不幸になると恐れられているからだ。

「頼む、どうかその狂人を殺してやってくれ……そして哀れな忠臣達を、その井戸から引き揚げてやって欲しい……」

 ただ一人、残されたその側近は涙をはらはらと流しつつ、敵の将校にそう懇願するのだった……。

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