3(少し、わたしのこと)

 ――ここで、わたしのことについて少し話しておこうと思う。

 とりあえず、ちびだ。中学の頃から身長が変わっていなくて、クラスでは一番低い。たぶん、学年でもそうなんじゃないかと思う。少なくとも今までのところ、わたしより身長の低い人にはお目にかかったことがない。

 顔立ちも、取り立てて言うほどのことはない。地味で目立たない。木星の輪と同じくらいに。鏡を見るたびに、わたしは頬をつまんでそれが自分の顔かどうか確かめる。

 中学までは眼鏡をしていたけど、高校に入るときにコンタクトにした。髪型も変えて、雑誌で見たようなさっぱりしておしゃれなものにしてもらった。ふんわりしたショートボブに仕上げてもらったのだけど、母親にはロップイヤーに似ていると言われた。ロップイヤーというのは耳のたれたウサギのことなのだけど。

 先に白状しておくと、わたしはいわゆる高校デビューというものを狙っていた。人並みに可愛い女の子に憧れていたわたしは、中学時代のぱっとしない自分に訣別すべく、気合を入れてイメージチェンジをした。

 髪を切って、目立たない程度に眉を整え、鏡の前で表情を作る練習をした。それはなかなかうんざりする過程ではあったけど、わたしは我慢して乗りきった。そしておしまいには、自分でもなかなか見られたものになったんじゃないかと思った。鏡の中にはいかにも女子高生といった風情の女の子が映っている。

 それで、運命の初登校日。

 クラスではお決まりの自己紹介があった。お決まりとはいえ、それはわたしにとっては地球のはじまりよりも重大な儀式だった。

 わたしは一週間も前から考えていた自己紹介文を口にした。どこに出しても恥ずかしくないような、達意の文章だ。わたしの番が終わると、何事もなかったように次の生徒の順番に回った。わたしはそのあいだ、ずっとにこにこしていた。

 ……ここまでの話でもう分かっているとは思うけれど、手短に言ってわたしの高校デビューは失敗に終わった。最初の休み時間、わたしに話しかけてくる人は誰もいなかった。

 そして気づいたときには、もうクラスの中にはいくつかのグループができあがっていて、わたしはそのどれにも入ることができなかった。何だかまごまごしているうちに、そこにあったはずの可能性は跡形もなく消えてなくなってしまっていた。

 わたしはいつの間にか、一人になった。


 いつだったか、ういちゃんがこんなことを言ったことがある。

「わたしはね、鏡を見るのが大嫌いなんだよね」

「鏡?」

「そう、鏡」

 いつもの、森のベンチだった気もするけど、帰りの駅まで歩いている途中だったかもしれない。わたしが覚えているのは、その時ういちゃんが計算のうまくいかない数学者みたいに、苦りきった表情をしていた、ということだけ。

「どうして鏡を見るのが嫌なの?」

 と、わたしは訊いてみた。ういちゃんは美人さんだったし、わたしはういちゃんがどんな格好をしても絵になると思っていたから。

 そう言ってみると、ういちゃんは珍しい機械でも眺めるみたいにわたしのことを見た。

「ユズノは鏡を見るのが好きなの?」

「そうじゃないけど……」

 どっちかというと、あまり好きじゃない。それを見るたびに、ちっちゃな自分が映っているから。

「わたしは鏡を見るっていう行為そのものに耐えられない」

「行為そのもの?」

「つまりさ、そこに自分が映っているわけだよね」

「うん……」

 別人の顔が映っていたらびっくりするだろうな。

「でもね、それは見覚えのない顔でしょ」

 わたしはよく分からなくて、首を傾げた。ういちゃんはそのまま続けた。

「つまり自分の顔は、自分の目で直接見ることはできない。鏡に映しでもしないかぎりは、絶対にね。わたしたちはそんな自分を世界にさらしている。自分をもっともよく見ることができるのはわたし自身じゃなくて、なの。だけが、を見ることができる。鏡を見るたびに、わたしはそのことを思い出すんだ。鏡を見るとき、わたしはわたしにとって他人になる」

「…………」

 わたしは必ずしもういちゃんの言ったことが分かったわけじゃなかったけど、でも何となく黙ったままでいた。ういちゃん自身が、必ずしもそれを人に分かってもらおうとしているわけじゃなかったみたいだから。

 ひび割れた世界を眺めるようなその時のういちゃんの目を、わたしは今でもよく覚えている。


 わたしとういちゃんは、時々いっしょに帰るようなこともあった。帰りの電車は同じ路線で、わたしのほうが二駅くらい前で降りる。

 帰りが同じになるのは、いつも偶然だった。たまたま帰り際に出会ったときにだけ、いっしょになって下校する。偶然といえば、森のベンチで会うのだって、偶然だとはいえた。わたしたちは結局、一度も会うことを約束したりはしなかったから。

 そんなわけで、駅の改札口のところだった。

 その日、わたしは駅まで向かう途中で、ういちゃんを見つけた。確か、雨が降っていたような気がする。ういちゃんの桜色の髪は目立つとはいえ、傘をさしていたのだろうから、自分でもよく気づいたものだと思う。

 雨のせいか、駅の構内は湿っぽかった。たたんだ傘からはぽたぽたと滴が落ちている。

 改札口の前に、そろいの服を着た三人が立っていた。一人が大きな箱を持って、一人がのぼりを手にし、一人が通行人に呼びかけている。白いのぼりには〝海外の難民救済にご協力を〟とゴシック体で書かれていた。

 わたしは何となく、ポケットに入っていた百円を募金箱に入れた。募金の集まりはあまりよくないみたいで、百円硬貨は不必要なくらい大きな音を立てた。

 ホームに出て、時刻表の付近に立っていると、ずっと黙ったままでいたういちゃんが口を開いた。

「わたし、ああいうのは嫌いだな」

 開口一番が、まずそれだった。とはいえ、ういちゃんの表情は降りしきる雨を眺めたまま、特に変化はない。

「ああいうのって?」わたしはどれのことだか分からなくて訊いた。「わたしだけお金を入れたこと?」

「まさか」

 ういちゃんは笑ったけれど、何だかそれは少し自嘲気味な感じがした。それから、見えないものの手触りを確かめるような、そんな口調でういちゃんは言った。

「……チャリティーって、何なのかな?」

「無償の善意、かな?」

 わたしは思いついたことを適当に言ってみる。

「それは正しいもの?」

「えっと……」

 正しいって、どういうことだろう。

「もしもそれが本当なら、そうかもしれない」

 電車が風を運びながら構内に入ってきた。音がしてドアが閉まると、電車は行ってしまう。わたしとういちゃんは同じ場所に立ったままだった。

「でも本当の善意なんて、存在するのかな?」

 ういちゃんは疑わしげな訪問販売を眺めるような目をしていた。

「それは難しいとは思うけど……」

 わたしはどう答えていいかよく分からなかった。

「もしもそんなものがあるとしたら、それは何も持っていない人による行為でないとおかしい。聖書にもある通りにね。本当の善意は余りものや、何かのついでに行われるようなものじゃないから。でも実際には、そんな人はいない。だけど、慈善活動そのものは存在する。天国に徳を積むため、情けは人のためならず、そんな言い訳までして。それがどうしてだと、ユズノは思う?」

 わたしは首を振った。分かるわけがない。

「みんな、生きているのが辛いからよ。それを罪みたいに考えているから。少しでもそのことを忘れたくて、少しでも気が楽になりたくて、形だけでもいいから善意というのを確認したがっている。そうすれば、少しでも罪が軽くなるような気がして。まるで、預金通帳の残高でも調べるみたいに。だからわたしは、賽銭箱にだって絶対お金は入れない」

 ういちゃんは不機嫌そうにはっきりと言った。

「わたしは自分の存在を、自分以外のものに頼りたくないんだよね」


 ――いつのことだったかはっきり覚えていないけど、わたしとういちゃんはいつもみたいに森の中にいた。

 お昼の食事も終わって、でもわたしもういちゃんも特に何もしない。口もきかないし、本を読んだりもしない。ただぼんやりしていただけ。

 天気が良くて、気持ちのいい風が吹いていた。森の中は静かで、時間の一滴一滴が目に見えるみたいだった。神様が手を加えるのを忘れたみたいな、きれいなガラス玉みたいな一日。

 そのうち学校の予鈴が遠くから聞こえてきたけれど、わたしもういちゃんも座ったままじっとしていた。まだ眠たい、朝の布団の中にいるみたいに。

 結局、その日は午後の授業に出ることはなかった。さぼってしまったということ。わたしは一人だったらたぶんそんなことはしなかったと思うけど、でもういちゃんといるとそれはすごく自然なことに思えた。

 太陽の光や、森の緑を眺めていると、チャイムの音は遠くの列車みたいにぼんやりと通りすぎて行った。時間は普段とは違う、不思議な速さで流れていく。

 不意に、ういちゃんが立ちあがった。

「そろそろ帰ろうか」

 そう言ったのは、もう夕方になりかけている頃だった。

「暗くなったらさすがに困るからね」

「でも何だかずっとこうしていたいな」

 わたしは布団の中で学校に行くのをぐずる子供みたいに言った。

「そしてわたしたちはこの森で暮らすわけだ」とういちゃんは笑った。「ハックルベリー・フィンみたいに」

 結局それから十分くらいして、わたしたちは校舎のほうへ戻った。静かで、ほかに人の姿はなくて、知らないうちに世界が終わってしまったみたいだった。

 その時、ういちゃんが壊れた時間の一欠片みたいにぽつりと言った。

「どうしてみんな、平気でいられるんだろう」

「え?」

 うまく聞きとれなかった気がして、訊き返した。でもういちゃんは気にしたふうもなく、そのまま歩いていく。

 よく分からないままそのあとを追いかけると、小さく口笛の音が聞こえた。それはボビー・マクファーリンの『Don't Worry, Be Happy』だった。口笛は世界を柔らかく切り裂いていく。

 教室まで荷物を取りに戻ろうとすると、ういちゃんは玄関のところで立ちどまって、何かの気配に耳を澄ますみたいにあらぬ方向に顔を向けていた。

 ちょっと気になったけれど、わたしはそのまま教室に向かった。誰もいない教室で、机からカバンを取り、玄関に戻る。

 でもそこにはもう、ういちゃんの姿はなかった。

 どうしてだかういちゃんがもうそこにはいないんだということが、わたしには分かっていた。世界の終わりにまぎれこんでしまったみたいに、もうその姿を消してしまったんだということが。

 でも――

 それでもわたしは、ういちゃんの姿を求めずにはいられなかった。遠くの自動車の音の気配や、校舎の長い影の中に。

 今にも口笛の音が聞こえるんじゃないかと、わたしは泣き出しそうな心細い気持ちで、ただ立ちつくしていた。

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