第三節・第六話

 薄っすらと、鋭い痛みを感じて目を覚ました。

 精神的な疲弊ひへいと中途半端な眠気により、身体の感覚や意識はまだおぼつかない。実感できている痛みも、最初は出処でどころが分からなかった。ひどく他人事に感じられる。

 痛みは数回に分けてその箇所かしょから発信され、およそ三度目で発信源が左手からだと気付く。

 当然の話だ。痛みを訴えるのは他ならぬ自分の身体、それに苦しむのも本人だけだ。共有も代理もありはしない。

 思い出すのは、父によってコップやさけびんで指を潰された記憶。

 やられた跡が時々腫れて、その度に氷水で冷やした。

 冷たくなるごとに痛みがやわらぐ様子に、なら全身の温度を失えば楽になれるだろうかと、そんなことを考えていた。


 そんな過去の経験と共に、意識が覚醒する。

 視界に入るのは、やや薄くなった青色と、左手の白色。それから彼女の姿。

「……どうして」

 ここにいるんだ。

 口の中が乾ききっている。舌がしおれてしまってはいないかと懸念する。そんな口から漏れる声は、幾分しわがれていた。

 鵠は、俺の左手に包帯を巻いていた。

「お昼になっても、下りてこなかったから」

 そう彼女が言っているうちに、応急手当は済んだらしい。

 残った包帯を、消毒液やガーゼ、ピンセットなどが一緒に入ったビニールパックへしまう。

「左手、化膿しちゃうよ。消毒はしておいたけど、あとで病院に行こうね」

 屋上で寝ている俺を見かねて、鵠が手当てをしてくれたようだ。先程の痛みは、消毒液によるものか。

 いざ彼女を目の前にして、どう接すればよいかと迷う。

 今まで通りというわけにはいかない。かつて以上に慎重な距離感が必要だ。言葉遣いや、仕草にも注意を払わなければならない。

 なにせ彼女は俺の本性を知ってしまったのだ。無闇な言動は、恐怖と危機感を生みだす元となる。

「ああ……その」

 つい、鵠から目を逸らしてしまう。

 意識的に深呼吸をする。

 緊張を気取られないよう、静かに。

「……わるい」

 声は予想外に低く、小さくなってしまった。

 しかし鵠の耳に届きはしたようで、「いいえ」と彼女が返事をする。なんとなく、彼女なら微笑を浮かべている気がした。

「でも、ここにいてよかった」

 まさか、なんて考えちゃった。

 それじゃ、困るもんね。

 存外、鵠の声は明るい。普段よりも口調は弾み、どこか陽気にさえ思える。

 なにかいいことでもあったのだろうか、と暢気のんきな思考をする。

 そして彼女の言葉を受け、反省する。あの状況なら、自暴自棄になった俺が身を投げ出していると想像しても無理はない。鵠にはいらぬ心配をかけてしまった。

 深い溜め息がこぼれる。

 ただ、それでも気にかかることがある。

「……鵠」

 どうして、離れないんだ。

 なんで、逃げない。

 そういった問いを投げる。

 常識的に考えて、俺みたいな人間と人気のない廃墟で二人きりというのは、あまりに危険だ。それも男女であれば、どんな間違いだって起きうる。起きえてしまう。

 鵠がいくら変わった人間だとしても、そのくらいの判断はできるはずだ。

「大丈夫だよ」

 だって、私はなにもされてないよ。

 一昨日も昨日も、今朝も。

 あなたはそんなことしなかった。

 素振りだって見せなかった。

「だから、大丈夫だよ」

 きっとね。

 鵠はよどみなく、涼しい声音でそう言う。

 根拠としてはあまりに脆弱ぜいじゃくだ。今まで問題なくても、次の瞬間には取り返しのつかないことになるかもしれない。

 どう足掻あがいてもなんと取りつくろっても、他人という存在は悲しいくらい自分からかけ離れているのだ。

 ――鵠は、それを知っていたはずなのに、俺を置いていくことはしなかった。


「それにね、分かったことがあるの」

 鵠はポケットから、あるものを取り出す。それはオセロのこまだった。

「私たちはきっと、これみたいなものなんだよ」

 私が黒で、あなたが白。

 またはその反対。

 裏返せば、どちらかが顔を見せる。

 逆に言えば、表になるのは片方だけ。

 そして、なによりも近い存在だけど、黒が白になることも、白が黒になることもない。

 きっと、私たちはそういうものなんだよ。

「だから、私はあなたとここに来たんだね」

 また、鵠がなにか妙なことを言っている。

 嬉しそうにオセロを手許てもとでひっくり返す彼女。

 その表情には無垢な笑みを浮かべている。思わぬ不意打ちに、相好が崩れかける。 それではいかんと、緊張を取り戻す。

「それは、どういう……」

 鵠の言葉は、時々詩的にすぎる。はたして、あれだけの台詞で真意を理解できるものなのだろうか。

「俺と鵠が近い……?」

 お互いにいささか常道から外れてはいるが、似た者同士というわけではない気がした。

 そして、それがこの出奔しゅっぽんの動機に繋がるというのも、想像が追いつかなかった。

「そうなんだよ」

 いつか教えるから、待っててね。

 鵠はそれだけ答えて、立ち上がる。

「保険証は持ってる?」

 丈が長めのスカートを数回払う仕草をしながら、彼女が訊いてくる。手当てをする際、膝立ちで事に当たったんだろう。

「一応は……でも、大丈夫か?」

「なにが?」

「その、捜索願いとか、足がつくとか」

 念のため、そこは考慮したほうがいいだろうと思い、確認する。

 けれど鵠はあかぬけた様子で「大丈夫じゃない?」と言ってのける。

「案外、人って他人のこと見えてないから。それに、見つかっても逃げちゃえばいいよ」

「そんなものか?」

 言われてみれば、大した問題でもない気がしてくる。少し、神経質になっていただろうか。

「そうだよ、そんなものだよ」

 立てる?

 そう言って鵠が手を差し出してくる。ふと最初の朝を思い出す。

 断るのも座りが悪いと思い、若干の躊躇ためらいと共に頷き、手を取る。

 なんだか、彼女の前だと自分が子供に戻った気がしてくる。


「よし、じゃあ行こっか」

 そのまま、二人連れだって屋上入口へ向かう。

 依然、手を繋いだまま。

「待って」

 さすがに看過できなかった。

「なに?」

「いや……手、さ」

 いまだに彼女は俺の手を掴んだままだ。

 俺たちは家族でも恋人でもない。手を繋いで歩くのは不自然だ。

 鵠は笑ってみせる。悪戯めいた表情だ。

「せっかくだし、ね」

 どういうわけか、首をかしいでさえみせる彼女。

 なにがどう『せっかく』なのか、まるで分からない。

「鵠……?」

 先刻までのやり取りの中で感じつつあったが、そこで確信に繋がった。

 たしかに鵠椎名は個性的な人間だ。

 しかし、その時の彼女の態度は普段とも異なり、知らぬ間に大人しく控えめな豹変ひょうへんを遂げていた。

「行こう行こう」

 いつもよりも身軽に、積極的な様子で俺を引っ張る鵠。

 その変化に気後れ、彼女の為すがまま引っ張られていく。

 絶対におかしい。

 一緒に過ごした鵠椎名とは、どうにも気風が違う。

 この短時間のうちに、彼女の中でなにが起こったのか。

 なにが彼女を変貌へんぼうさせたのか。

 変化にとぼしい廃校のどこにそうさせるものがあるのか。

 目ぼしいきっかけは思いつかない。

 もし唯一あるとすれば、それは今朝の出来事だろうか。

 すたれた身の上話が、どう作用したのか。

 ますます、鵠椎名のことが分からなくなった。

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