第二節・第一話



第二節



 廃校生活二日目の朝は、一人で迎えた。

 窓から差し込む日射しに目を痛めつつ、ベッドから身体を起こす。

 隣のベッドを見るが既に空で、くぐいの姿は保健室のどこにも見当たらない。

 ただ、応接室から拝借したテーブルの上に見慣れぬメモが置いてあった。


 “おはよう。私はたぶん、上にいます。”


 それだけ記されていた。自分はつたない字を書くため、綺麗な字を書くなとぼんやり思った。

 自分の荷物から服を取り出して着替え、保健室を出る。

 鵠は『上』にいるということで、二階、三階と上って手当たり次第に探すが、彼女の姿は見つけられない。

 声に出して呼んで回れば返事が返ってくるとも考えたが、気恥ずかしくて止めにした。

 三階でも一向に見つけられないでいると、もう一つだけ『上』に当たる場所があると思い至る。初日には軽く見るだけで、実際に足を踏み入れはしなかった。

 三階からさらに階段を上り、屋上扉の前に立つ。

 手をかければ扉が開く。元々鍵がかかっていなかったのか、それともどうにかして外したのか。いずれにせよ、屋上をへだてていた扉はわずかにきしむ音を鳴らし、道を譲った。


 視界を覆うのは天をあまねく空の色。

 下階とはどこか気配の異なる空気。

 涼風と山のさざめき。

 思わず地に足がついてるか確認するほどの、全身を襲う浮遊感。

 それらが一度に小身を駆け巡り、一時現実感を喪失する。

 たかだか三階分と扉一枚をへだてるだけでこんなにも違うものかと痛感する。

「おはよう」

 正面少し先に、鵠がいた。なにか感慨深げにたたずんでいる。

 彼女の傍には机と椅子が二組並んでおり、その上にはお馴染なじみのガスコンロや小鍋などが確認できる。昨日のうちに洗い、乾かしていたものだ。

「おはよう」

 とりあえず挨拶を返せた。

 鵠は頷くと頭上の空を見上げ、「今日は露草つゆくさ色かな」と呟く。どうやら空の色のことを言っているようだ。

 鵠につられて空を仰ぎ見る。

 露草とはなに色でどんな花を咲かす植物かは覚えがなかったが、青い吹き抜けの中に、空想の花を思い浮かべる。

 それは名前に引っ張られて、朝露に濡れたアサガオの姿をとった。

 青いアサガオが、空一面に咲き誇っている。


「お腹も減ったし、ご飯にしようか」

 そう言って鵠がガスコンロに火を点ける。

 火にかけられた小鍋には水が張ってあり、中にはレトルトパックが二つ浸かっていた。近付いて見てみると、それはおかゆのパックらしかった。

「朝食は、消化にいいものを選んでみたんだけど、どうかな」

 食事を作ってもらっている身で文句などあるはずもなく、軽く頷いて応えた。後から「悪い、毎回」と付け加える。

「ううん、平気だよ」

 会話している最中も、鵠は新たに缶詰を取り出し、それを器に盛り付けていった。

 見ている限り手伝えることは少なかったが、湯煎ゆせんを終えたお粥を取り出し、お椀に注ぐ役だけは請け負った。左手について気付かれまいと、少々神経を割く必要はあったが。

 青空の下、屋上にぽつんとくっついた二台一組の机を前に、二人は「いただきます」と声を合わす。

 献立はレトルトのお粥(中華風味)に缶詰の鯖の味噌煮とおでん、それから湯煎の残り湯を活用したインスタント味噌汁と保存食尽くしだった。

 だが別段なんの不満もなく、たとえばお粥なんかも、療養食で味気ないという先入観に囚われがちだが、口にしてみると味付けもしっかりと施されており、飲み込みやすさも相まって食事の手がとどこおることはなかった。

 青空をさかなに、慎ましくも温かい食事をとる。

 朝食も平らげ、片付けをしている際に「なぜ屋上で?」と訊いてみたが、返ってきた答えは「空が青いから」なんていう掴みどころのないものだった。

 最初の屋上でもそんな台詞を言っていたなと思い出す。


 食休みを兼ねてしばし椅子に座り周囲の景色を眺めていると、鵠が椅子から立ち上がり、手招きをしてくる。

 腰を上げそれに応じると、鵠は屋上の端へ向けて歩き出す。

 かすかに胸がざわつく。

 しかしなにが起きるでもなく、彼女は柵に手をかけ寄りかかるだけだった。

 茉代ましろ中学校屋上の柵はいささか丈が低く、せいぜい鵠の肩ほどまでしかない。落下防止用としては心もとない代物だ。

「綺麗な眺めでしょ」

 柵の上から顔を出して、鵠が話しかける。

 隣に立って、屋上からの景色を望む。

 茉代ましろ中学校屋上からは、なににさまたげられることなく、茉代ましろの土地の全貌を見渡せた。

 茉代ましろ駅よりも高度は高く、昨日見た景色よりさらに町並みが矮小わいしょうに見える。視界の左右両端は山が壁のようにそびえたっているが、正面の風景は空洞のように吹き抜けになっている。

 露草色の空が、地平線までまっすぐ伸びている。その有様は開け放たれた門を連想させた。

 一陣の風が二人を迎える。大自然によってろ過された空気を吸うと視界が拡張し、身が軽くなり、自分がなにか空気に溶けていくような錯覚を覚える。

 これが地平線の空気かと、理由もなく想像する。

 風にあおられた髪を抑えつつ、鵠が言葉を紡ぐ。


「この景色を、私は今まで知らなかったの」


 そうして鵠は滔々とうとうと、落ち着いた声音で語る。

「たとえばこの町、この学校にいた人たちは、これを見て生きてきた。私が今、ようやく辿り着いた景色を日常の一部として、当たり前に生きてきた」

 綺麗だと思ったんだ。この景色を。

 でも、この感動を、この驚きを、この切なさを、私は知らないまま生きてきた。

 そして世界中には、こんな綺麗な場所がいくつもあって、私はどれひとつとして掴めないまま、ここまできた。

「私は、この景色に出会わず生きてきたんだ」

 それまで虚空へ注がれていた視線が、こちらへ向けられる。

 彼女の顔には、空気に消え入りそうな微笑が浮かんでいた。

「つまりね」


 ここに来れてよかった、ってこと。

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