第28話 これ以上近づくことができない距離

何の前触れもなくふらりとやって来た社長が、来年の春に広島駅の駅ビルに出店をする計画がある事を教えてくれたのは広島カープが日本一になり損ねた後だった。

駅ビルの地下一階の食料品コーナーに空きスペースがあり、そこに出店して欲しいとの話が舞い込んだみたいだった。

「駅前は今からスゴイぞ」と社長は言った。

今からスゴいと言うか、再開発エリアとして随分前から騒がれて、新しいビルやマンションが次から次へと立てられ続けているのだから、今からスゴいぞと強調されても、今さら何を言ってるんだろうという感じもしたが、社長がかなり興奮している様子だったので、広島駅周辺の状況なんて今社長から教えられて初めて知りました的な驚きの表情を、顔だけでなく全身を使って表した。

無表情な山口さんはサンドからのヘルプの婆さんにキツい口調で指示を出しながら、社長と寸劇を演じる僕を冷ややかな目で見ていた。

僕はサラリーマンだから仕方ないんだよと山口さんに笑いかけたけど、無視された。

陳列棚や冷蔵ケースはそのまま使用出来るという事で出店費用があまりかからないことも社長的には大満足のようだった。

「新しいことをはじめんと。いつまでも人が足らんけえ何も出来んとは言うとられん。チャンスを逃すだけじゃ。少々無理しても、やらんといけん時なんよ」

社長は僕に力説したけど、元々僕は社長の言うことに反対などしないから、そんなに力まなくても大丈夫だ。

社長は駅前の商業施設への出店への思いを満足いくまで語り尽くした。

今日の社長は機嫌が良い。

帰り際に「そういや、友達申請したんじゃけど、まだ承認してくれとらんが」と社長は僕に言った。

どうやらSNSアプリを通して友達申請を行ったみたいだった。

僕はしばらくそのSNSアプリとはご無沙汰だったので、確認などしていなかった。

て、言うか今ごろそんなアプリとも思ったが、意外に社長が真剣な顔つきだったので適当にごまかすのも難しそうだった。

「確認して、すぐ承認しときます」と社長に言った。

「ほうよ。店長はもっとみんなとつながらんと」と社長は言った。「社内でも一匹オオカミじゃあつまらんよ。」

つまらん。つまり役に立たないって意味だろう。

それに僕はオオカミみたいに強くもない。

「すぐ押しときます」と僕はよく人馴れしたペットの犬のようにハアハアと舌を出しながら尻尾を振った。

社長はニコニコ笑って、「新しいスタートよ。あさひ町も店長も」と僕の肩を力強く一度叩いた。「期待しとるで。」

社長からそう言われて、僕も笑った。

山口さんはもう僕を見ていなかった。

山口さんとサンドからのヘルプさんは忙しそうに働いていた。


すぐにとは言ったものの、僕がそのSNSを立ち上げたのは閉店した後だった。

本当に社長から僕に「友達になりたい」のメッセージが入っていた。

友達になってやるよ。

僕は社長を承認した。

承認するとすぐに、もしかしたら知り合いでは?と社長とこのSNSでつながっている人たちのリストが表示された。

「HISATOSHI NISHIOさんは知り合いですか?」とSNSは僕に尋ねてきた。

下田さんが着替えて降りてきた。

「帰らんの?」

「ん?ちょっと・・・」

「ちょっとなに?」

「ちょっと掃除がまだ」と僕は答えた。

いつもなら閉店までには裏の後片付けと掃除は終わらせておくのだけど、今日は本当にまだ終わらせてなかった。

「で、掃除も終わらせてないおっちゃんが、何を呑気にスマホをいじとるんよ。」

下田さんが僕のスマホの画面を覗き込もうとした。

「社長から友達になってくれって申請があってね」

僕はそう言って彼女からスマホを裏返した。

「社長、まだそんなのやっとるんじゃ」と下田さんは笑った。「友達になったん?」

「生き残らんといけんけえね」と僕は言った。「あと、10年もないけど」

「10年ない?」

「まあ息子が就職するまではここで働かせてもらわんとね。」

今、息子は高1だ。大学へ進学しまっとうに卒業して就職してくれたらあと6年ってとこだ。

「10年もないわ。意外とあっと言う間かも」と僕はあと6年と言う時間しかない事に驚いた。

「6年後は35歳よ」と下田さんは微妙な嘘をついた。

僕はあえて突っ込まなかった。

「店長は55歳?」

「54歳」とここはしっかり訂正させてもらった。

「なんかあっと言う間じゃね」と下田さんは溜息交じりに言った。「どうなるんかね?」

「どうなる?何が?」僕は聞き返した。

下田さんは少しだけ笑うと「お先に」とおじぎをした。

彼女が帰ると僕は隠していたらスマホを再び表にした。

HISATOSHI NISHIOさんは知り合いだ。

そして西尾君は僕よりも先に社長の「友達」だった。

西尾君の投稿を読んでいった。

彼の歴史を遡っていった。

彼の投稿した記事の中から何かを探そうとしていた。

SNSに投稿された断片的な彼の情報の中に僕は関さんを探していた。

いるのかいないのかわからない関さんを探すために画面をスワイプし続けた。

彼が写した写真の景色を同じ場所で関さんも見ていたのではないか。

この山は、この海は、この街は、この店は。

僕は何を探してるんだ。

でも、スワイプする指が止まらない。

彼がこの店に配属になる前の時代にまで僕は関さんを探していた。

そしてまたそこから今へと向けて彼女を探した。

いつまでこんな事を続けるんだろう。

僕はあの日、関さんからの電話を自分で切った。

彼女ともう一度つながる事が出来たかもしれない可能性を自ら断ったのだ。

納得したとかしていないではなく、それが僕の選択だった。

なのにまたこうして彼女を探している。

SNSを閉じ、関さんとのLINEを立ち上げた。

あの日から何の更新もされないまま。

ここには確かに彼女はいた。

ここには僕と関さんが確実に存在していた。

画面をスワイプし、二人で交わした短い会話のやりとりを遡っていった。

「おはよう」

「お疲れ様です」

「ありがとう」

「おやすみなさい」

ほぼ毎日のようにスタンプがつけられている。

タイムマシーンに乗ったみたいに僕は関さんと過ごした過去を再び訪れる。

僕は今よりも少しだけ若くて、確実に今よりも毎日が楽しく輝いていたように思える。

日付と短い言葉のやりとりで、その日の記憶が甦ってくる。

既読のつかない時間。

返信のない時間。

あなたは何をしてたんだろう。

僕のことを少しは考えてくれましたか?

八つ当たりをしてしまった事を謝ったりもした。なかなか既読がつかなかったから、返信が来るまで何度も「ごめんなさい」とスタンプを送り続けた。

そして彼女からようやく「気にしてないですよ」との返信をもらい、僕は自分の言葉で「ほんとうにごめんなさい」と打ち込んだ。

彼女から笑顔のスタンプをもらう。

彼女から笑顔をもらう事で今まで頑張ってこれた。

信用できない飼い主からでも生きるためには尻尾を振り続けていた。それでも彼女に理解してもらえていると信じてこれたから、どんな不味いエサを与えられても我慢できた。

閉店してからもう30分以上も経っていた。

今さらLINEの古い履歴を遡ってみたところでやりなおせるわけでも、取り戻せるわけでもないのに。

ただ僕が彼女と一緒に過ごしていると信じていた時間は、彼女にとっては、短い時間の些細な出来事で、僕が感じていたつながりとはあまりにも違っているのかもしれない。

こんな事をしても仕方ない。

こんな事をしていても仕方ないんだ。

何度も繰り返しそう自分を言い聞かせる。

いつか何も思い出さなくなるのだろうか。

もっと時間が必要なのか。

水に濡らしたモップは思ったよりも自由が効かない。

考えるよりも前にやらなきゃいけない事はいくらでもある。

擦っても擦っても防水加工された床は傷の中に汚れが染み込み、そんなにはキレイにならない。

擦るのではなく削り取る必要があるのかもしれないし、それよりも新たに床をやり替えた方がいいのかもしれない。

「お疲れです」と声がした。

声の方向を見た。

声の主は西尾君だった。

思いもかけないことで、僕は見られてはいけない姿を見られてしまったかのように一瞬体が固まった。

濃いグレーの細身のスーツを着た彼は僕がモップで拭いたばかりの床に黒い足跡をつけながら僕に近づいてきた。

「ご無沙汰しています」と西尾君は会釈した。

「久しぶりじゃね」と僕は少し笑いかけた。

しかし彼は表情ひとつ変えずに、掃除中の僕をじっと見つめるだけだった。

あの日以来彼に会うのは初めてだった。

立派に見えるのはスーツを着ているせいなのか。

エプロンを着け、モップを手に床を擦る僕とは違う世界の人間に思える。

彼と目を合わすことが出来ない。

「たまたま通りがかったんですが、まだ明かりがついてたんで。もしかしたらと。」

「今日はちょっと遅くなってね。」

まさか西尾君のSNSをチェックしてたんだとも、関さんとのLINEを読み返していたんだとも言えるはずもない。

「先週、友達に誘われて再就職したんですよ。」と西尾君は言った。「車の営業なんですけどね。」

「よかったじゃん。早く決まって。」

「今は売り手市場ですから。」西尾君は少し笑った。「いいとこ沢山ありますよ。」

そうだろうねと僕も彼の言葉に頷いた。

「店長は?」

「ん?」

「頑張ってらっしゃるみたいですね。」西尾君は僕がモップがけした床を見渡した。

「相変わらずね。」

「ほんと。」西尾君は笑った。「相変わらずですね。」

僕は再びモップで床を擦り始めた。

西尾君の足跡も消さなければならない。

「永遠に下っ端ですよね。」西尾君は言った。「店長って名前の永遠の下っ端ですよ。」

汚れたモップをバケツの中の洗剤入りの液体に漬けた。

バケツは濡れたモップの毛を絞れる仕組みになっている。

このモップ用のバケツを考えた人は成功したんだろうか?

「僕の代わりは入ってきましたか?」

「いいや。まだ入ってないよ。」

「入れないんですか?」

「本社が募集しとるじゃろ。」

「また下が出来ますね。」

「入ってくればね。」

「そして、その子もまた辞める」と西尾君は言った。「そしてどこにもいけない店長だけがずっとここに残る。永遠に下っ端としてね。」

「モップがけも少しはうまくなるかね?」

「なに余裕かましてるんですか。」西尾君は鼻で笑った。「永遠に下っ端が。」

彼の言葉に傷つかないわけではなかったし、腹が立たなかったわけでもない。

でも、彼の言う通りだと頷いた。

僕はモップがけを続けた。

彼を避けるようにモップをかけた。

故意にかどうかはらわからないが、彼が動いてまた床に新たな足跡をつける。

随分汚れた靴底だ。

もしかしたら、今日1日営業で駆けずり回っていたのかもしれない。

彼には新しい生活が始まっている。

僕はどうなんだろう。

僕は新しいスタートを切れたのだろうか。

環境は変わったはずだった。

西尾君もいない。

関さんも。

「みじめじゃないですか?」西尾君が僕に言った。「こんな会社で終わるんですよ。それもあんなバカ社長にいいように使われて。完全に足元見られてるんですよ。こいつは他に行くとこないから、安い給料でこき使えるって。」

「正解じゃね。社長はよくわかってる。」

「正解じゃねじゃなくて。悔しくないんですか?」

「悔しがっても仕方ないじゃろ。生活していかんといけんのんじゃけ。こんな会社でもちゃんと毎月給料くれるんじゃし。」

「満足ですか?」

「お前の前の子も辞める時にそんなことを言っとったな。」

「大森さんですよね。」

「ああ。お前と同じようなことを言っとったよ。」

「店長は何も変わらないんですね。下のもんは、この会社のおかしいとこに気づいてどんどん辞めてくのに。」

「辞めれるヤツは辞めればいいんじゃない。」

「店長は辞めれんヤツってわけですよね。ここでしか通用しないヤツってことで。」

「そうじゃね。」

「腹立たないんですか?」

「誰に?」

「僕にですよ。バカにされて悔しくないんですか?」

「ここを辞めてしもうたら、お前だってお客さんじゃけえね。」

「ここでパンなんか買いませんよ」と西尾君は言った。

「そりゃあ残念じゃ」

モップ掛けが終わった。

「帰ろうかね」と僕は西尾君に言った。

もう話すことは何もない。

「店長、関さんのこと好きだったでしょ」西尾君が僕に言った。

僕は無視してモップを流しで洗った。

「店長が関さんのことを特別に気に入ってるってみんな知ってますよ」

シンクの中でモップの毛からにじみ出る汚れた水が次第に透明に変わっていく。

「好きだったんでしょ」

「好きだったら、なに?」

「僕、関さんと付き合ってたんですよ」と西尾君は言った。

水を止めた。

これ以上はきれいになりそうもない。

「悔しいでしょ」と西尾君は言った。

答を考えるまでもなかった。

僕は頷いた。

彼の言葉を認めた。

僕は今ははじめて心の中でだけど関さんに好きだと言えたのかもしれない。

もちろんここに彼女はいない。

「店長が関さんのことを好きそうだったから、手を出したんですよ」と彼は言った。「まあ、その後は本気で好きになりましたけど。」

早く帰ろう。

もう今日の仕事は終わったのだから。

「よく関さんにLINEしてましたよね」

帰ろう。

お願いだからもう帰らせてくれ。

「僕と一緒にいる時にもよく店長からLINEが来てましたよ。しつこいって嫌がってましたよ」と西尾君は楽しそうに笑った。「僕の部屋でね。一緒に店長からのメッセージを読んでました。ふたりっきりでね。」

彼は本当に楽しそうだった。

僕は喉が渇いた。

「みじめですね」と彼は僕に言った。

すべての思い出が無残にも踏みにじられる感覚だった。

そして僕は何の抵抗も出来ないままだった。

床を汚したその靴底で僕は体が千切れるまで踏みにじられる害虫のようだ。

そこに存在しただけで抹殺の対象になる。

彼は僕を殺すつもりなのだ。

西尾君は僕に勝ったのだ。

今まで認めてこなかっただけで、ずっと昔から彼は僕に勝っていたのだ。

彼は僕を自由に出来た。

「ザマ見ろって感じですよ。店長。」西尾君は笑い続けた。「みじめですね。店長はずっと僕の彼女に夢中だったんですよ。かっこ悪くないですか?死にたくないですか?死ねばいいのに。僕なら恥ずかしくて死んでしまいますよ。店長、死ねばいいのに。」

今すぐこの場で死ねるのなら、それも構わなかった。

意外と、死ぬのって生き続けることよりもつらくもないのかもしれない。

「死ねよ」と西尾君が言った。「死んでくれるんなら、最後にいいもん見せてあげますよ。関さんの写真。いろいろありますよ。見たいでしょ?死んでくれるんなら、見せてあげますよ。」

西尾君の顔を見ることが出来ない。

僕は目を逸らしたまま。

その時、ドアが開く音がした。

「私も見たい。」

そう言ったのは僕ではなかった。

「でも、おばさんの汚い裸なんか見てもしょうがないわ。」

ドアを開けて中に入ってきたのは、ずいぶん前に帰宅したはずの下田さんだった。

「てか、あんたが死ねばいいじゃん」と下田さんは西尾君に詰め寄った。「なにを不倫自慢しとん。この変態が。写真やビデオが自慢なわけ?あんた変態じゃん。それにそんなん他人に見せるの犯罪じゃん。関さんの旦那に詰め寄られてビビりまくっとったくせに。ただの間男のくせに何をかっこつけとん。」

下田さんは僕の手からモップを奪うと、その先を西尾君に向けた。

「はよ帰ったら。あんたクビになったんじゃけ。ここ部外者立ち入り禁止なんよ」

「クビじゃないですよ。自分から辞めたんですけど」と西尾君は言った。

「不倫はするわ、店の売り上げもよう上げんわで社長から見捨てられたんじゃろ」と下田さんは西尾君を嘲笑した。「で、40過ぎの子持ちのおばさんとやりましたって威張っとるん?若い子に相手にされんけえ、おばさんに手を出しただけじゃん。みじめなんはアンタじゃん。」

「わけわからん。」西尾君は口ごもった。

言い返す言葉を探してるみたいだが、うまい言葉が見つからないみたいだ。

「あんた、仕事は出来んし、考えることもしょうもないし。みじめじゃって店長のことを言うたけえって、結局この会社でこの店長より上にはなれんかったんじゃん。店長に怒鳴られて、小さくなっとっただけの男じゃん。あんたが店長よりえろうなって辞めたんならまだしも、あんた、うちと大して変わらん立場で終わっただけじゃん。で、おばちゃんに手を出して、その旦那に会社に乗り込まれただけじゃん。みじめなんはあんたの方じゃろ。この変態。」

下田さんは西尾君の前に立ちはだかり、僕から彼を遠ざけようとしてくれた。

「下田さんに守ってもらえて良かったですね」と西尾君は下田さんの肩越しに僕に向かって言った。「関さんじゃなく、下田さんにすりゃあいいんですよ。この人、店長が好きみたいだから。」

「じゃろ。あんなおばさんよりゃ、うちの方がエエわいね。あんたみたいなクソからちゃんと守ってあげれるしね」と下田さんはまったく動じることなく西尾君に言った。「はよ帰りんさいや。もう店長に用はないじゃろ。はよ、おばさんでも呼び出して年寄り臭いからだで遊ばせてもらいんさいや。」

「お前、バカじゃないか」と西尾君は捨て台詞を吐いた。

「そう言えば、ひとつ教えてあげる。」下田さんは帰ろうとした西尾君に向かって言った。「社長にあんたらの不倫チクったの私なんよ」

僕は下田さんを見た。

西尾君も振り返って下田さんを見た。

「ざまあ」と下田さんは西尾君に言った。「見ろ」

「で、そんなことしてあんたに何かええことあったんか?」と西尾君は下田さんに尋ねた。

「ええことあったよ。」下田さんは冷たく言い放った。「あんたらがおらんようになったんよ」

西尾君はわけがわからんと言い残してこの場を後にした。

床は乾いて、もう彼の足跡が残ることはなかった。

下田さんは彼が建物から出たのを確認し、二度と彼が戻って来ないようにと建物のシャッターを閉めた。

床につく瞬間の大きな音を響かして鉄製の古いシャッターは閉じられた。

建物の中は僕と下田さんの二人きりになった。

「なんで戻ってきたん?」と僕は下田さんに尋ねた。

「モップ、一緒にやろうと思って」と彼女は言った。

「モップ、1本しかないけえ」と僕は言った。「なんでなん?」

「戻ってきちゃいけんかった?」

彼女の問いかけに僕は首を横に振った。

紛れもなく僕は彼女に助けてもらったのだ。

「ありがとう」と僕は下田さんに言った。

「怒っとるじゃろ」と彼女は言った。

「何を怒るん。」

「私が社長に言ったんよ。西尾君と関さんが付き合っとるって」と彼女は言った。「そのせいでこんな事になったんよ」

「下田さんのせいじゃないよ」

「関さんの旦那さんにも」と下田さんは言った。「私が言った。」

僕は下田さんの顔をじっと見つめた。

彼女は顔をそらさなかった。

「怒ったじゃろ」と彼女は僕に確かめた。

怒ってないと僕は首を横に振った。

怒ってもないし、そんな行動をとった彼女に落胆などもしていない。

そんな感情はまったく沸いてこなかった。

「ごめんなさい」と彼女は言った。

その言葉はあの日、関さんのマンションの傍のバス停の前で言ったのと同じ響きだった。

「ごめんなさい」と彼女は言った。

謝る必要はない。

彼女が謝る必要などないのだ。

僕は彼女に手を伸ばしかけて止めた。

そんなことをお互い望んではいないはずだった。

「強いね」と彼女は言った。

「強い?」

「手を出さない強さが店長にはある。」

「手を出さない強さ?」

「感情を隠せる強さがある」と彼女は僕について評した。「それは私にはない」

「そんな事はない。僕は・・・」

関係のない人に八つ当たりもするし、感情的になって怒鳴り散らすことだってあった。

その結果として今があるのかもしれない。

その結果として「永遠の下っ端」としてここにいるのかもしれない。

やること全てが裏目に出たみたいな感じだ。

こうなるはずじゃなかったのに。

その連続が今につながっている。

例えタイムマシーンに乗って過去にさかのぼることが出来たとしても、例え今の記憶を持って過去に行ったとしても、僕はやはり同じ間違いを繰り返すような気がした。

その間違いの繰り返しの結果、今、僕の目の前には下田さんがいた。

「もしも僕が、関さんに好きだと言えてたら何かが変わったんかね」と僕は下田さんに尋ねた。

こんな事を彼女に聞くべきではないのかもしれないけれど、僕にはどうしても彼女からの答が欲しかったのだ。

例えその質問が彼女を傷つけてしまうとしても。

「何かが変わったんかね」と僕は確かめた。

もう帰らなくちゃいけない。

今日の仕事は遠の昔に終わっているのだ。

明日も早い。

「そんなんで何かが変わるんかね」と下田さんは逆に尋ねてきた。「そんな言葉で何かが変わる?」

僕は首を傾げた。

聞いてるのは僕の方だ。

そんな短いひとことを言えなかったから今がある。

でももしも好きだと言えたとしても何も変わらないままの今があったのかもしれない。

結局、今は僕が望んだ未来ではない。

「帰ろうか」と僕は彼女に言った。

もうじゅうぶんだった。

きっと明日も僕は関さんのことを考えるに違いない。

明日も明後日も、その次の日も彼女のことを考えるのかもしれない。

でも、もしかしたら、関さんのことよりももっと考えなければならない出来事が明日起こるかもしれない。もっと悩まなくてはならなくなるような出来事が待っているのかもしれない。

今はまだそれを知らないだけで。

まだ知らないだけで、もう何も起こらないわけではない。

「変わるんかね」と下田さんはひとりごとでも言うように僕に言った。「そんな言葉で何かが変わるんかね」

僕はわからないと首を傾げた。

「そんな言葉で何かが変わるんなら」彼女は僕に一歩近づいた。「私が変えてあげる」

彼女と僕との距離はあまりにも近すぎた。

「私は店長みたいに強くないかもしれん」と彼女は言った。

少なくとも彼女は僕とは違って自分から何かを変えようとしている。

僕が強い人間ではないことを彼女だってわかってるはずだ。

「そんな言葉ひとつで人生を変えられるんなら私があなたの人生を変えてあげる」と彼女は言った。

これ以上近づくことができない距離に僕たちはいた。

「好きよ」

今、彼女はそのひとことを言うことが出来た。

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