青い僕らの夏

高瀬拓実

第1話

「ねえ、キスしてみよっか」と彼女が言ったのは、きっと単なる好奇心だったんだと思う。小学三年生の僕らにとって、キスという言葉は果てしなくオトナの雰囲気に溢れていて、僕らがそれを口にすると、どうしようもなく、不釣り合いに感じられた。彼女がそう言った時も僕は変なのって思ったし、彼女の方だって、変な風に笑っていた。

 僕らは体育館裏にある倉庫の、さらにその奥の方で鬼役の友達から隠れているところだった。夏休みが始まったばかりの、七月下旬。僕らのすぐそばに濃い緑の葉をつけた木が一本だけ立っていて、辺りは伸びきった雑草でいっぱいだった。元々狭い空間なのに、そのせいで僕は窮屈に感じた。

 植物の匂いが、夏の暑さと混じり合って鼻に飛び込んでくる。僕と同じように、彼女は隣で倉庫に背中を預けていた。彼女の髪は長くて、首元なんか暑苦しそうに見えた。でも僕のそんな心配とは裏腹に、彼女は爽やかな笑顔を僕に向け続けていた。光る汗も好印象に映るくらいだった。

 頬っぺたがちょっと赤くなっているのは、「キス」と言ったせいか、それとも夏のせいか、僕には一切わからなかった。どちらか片方のせいかもしれないし、両方かもしれない。もしかしたら、何か別のことで赤くなっていたのかもしれない。

「ねえ、キスしてみよっか」と彼女が言ってから、僕らは見つめ合ったままだった。彼女の方は僕が何か言うのを待っていたはずだ。僕だってそれが一番自然な時間の流れだと思っていた。でもどういうわけか、僕は何も言えなかった。「いいよ」も「いやだ」も「いきなりどうしたの」さえ言えなかったし、流れ落ちる汗も拭えなかった。

 僕の頭の中は、キスの文字でいっぱいだった。頭の中にあったいくつものキスの文字は、やがて写真や映像に変わっていった。最初に浮かんだのは、両親がキスをしているところだった。父さんは黒い服をビシッと決め込んで、母さんは華やかなウェディングドレスを身に纏っていた。二人は「愛している」のキスをしていた。次は映像だった。人気の役者さんたちがキスをしている。二人は役者で、だから二人がするキスは「演技」だ。次はアニメだった。制服を着たコウコウセイの二人は、夕暮れの川を背景に目を閉じてキスをする。好きだよ、と言っていたから、これは「好き」のキス。

 愛してるのキス、演技のキス、好きのキス。

 僕が知っているのはこの三つだった。それじゃあ、目の前の彼女は一体どのキスをしようとしているのだろうか。僕にはわからなかった。僕たちは愛しているわけでも、演技をしているわけでもない。ただ、最後の一つだけはどうも判断に困るものだった。

 愛することも演技をすることも否定できたのに、好きということは否定できなかった。同時に、肯定することもできなかった。

 僕と彼女は、小学三年の時に同じクラスになった。いつから仲良くなったかは憶えていなくて、気づけばいつも一緒にいた。彼女に抱いていたのはきっと好意で、でも今となってはそれが恋愛感情でないことは分かる。その当時の僕に理解できたことは、彼女のことが好きだけど、でも具体的にどう好きなのかが分からないということだった。

 彼女がしようとしているキスは……。と、雑草がわさりと音を立てた。いつもの優しく微笑んだ顔で、彼女が僕の方へ一歩近寄ってきた。そこで僕はようやく反応できた。

「いいよ、しよう。……キス」やっぱり似合わない。

「うん」

 歩いてくる彼女と向かい合うように、僕は倉庫から背中を離した。不思議とドキドキしなかった。僕は彼女の目だけを見つめていて、彼女も僕の目だけを見つめていた。僕らは大体同じくらいの身長だった。体格も似ていた。顔だけが違った。

 本当に、目と鼻の先に彼女が来た。間近で見る彼女は、いくら近くても間違いなく彼女だった。ただその瞳に宿る輝きは、よく見るといつもとは違って、これから未知の経験をするという喜びと、どうなるんだろうという好奇に揺れていた。僕は、彼女と同じ目をしていただろうか。

「じゃあ、するね」と彼女が小さな声で言った。

「うん」と僕は答えた。 彼女が僕の両頬に手を添えた。まるで割れ物を扱うような、丁寧な動きだった。僕の頬っぺたも彼女の手も汗をかいていて、ぺた、と音がした。濡れた感触と冷たい感触とが同時に伝わってきた。それから彼女は薄く開いていた口を完全に閉じた。真っ赤な唇が、夏の太陽に光っていた。

 最初は近づいてくる唇を見ていた。でも、彼女が目を閉じるところが見えたから、僕も最後にそれをまぶたの裏に閉じ込めることにした。

 目からの情報が来なくなって、他の感覚が冴えてくるようだった。

 他の友達の声が聞こえないことに気づいたのはその時だった。でもそれだけだった。何も不思議に思わなかった。そんなこと、今この瞬間においては重要じゃなかったからだ。

 唇が触れる前に、鼻が触れた。だから彼女は顔を斜めにした。すると上手い具合に唇同士が触れ合った。

 唇って、予想以上に柔らかい。そしてしょっぱい。それが僕の感想だった。

 人の体には柔らかい部分がいくつかある。手のひらだったり、腕だったり、お腹だったり。その中でも頬っぺたが一番柔らかいと思っていたけど、唇は、それ以上だった。僕らの体は基本的に肌色をしていて、でも唇だけは赤い。その理由は体の中で一番柔らかいからなんだと思った瞬間だった。

 僕らは確かめるように唇を引っ付けていた。これがキスの感触。これがキスの味。目をつぶっている分、唇からの情報は素早く多く、だからそれほど長くキスをする必要はなかった。ものの三秒ほどで、僕らは唇を離した。

 僕らのキスに、音は一切なかった。無音そのもの。その時僕は世界で誰よりもキスが上手いかもしれないと、妙に誇らしくなった。

 僕から離れるとき、彼女の手にわずかな力が加わった。そして、手が離された。キスをしている最中にこもった頬っぺたの熱が、そよ風に吹かれて冷まされた。

 目を開ける。二人同時だった。そんなに長くつむっていたわけではないのに、夏の景色に目が眩みそうになった。何度か瞬きを繰り返して、キスをする前と同じように視線を交わす。 目を閉じたことで、彼女の瞳全体に涙が行き渡り、滑らかな輝きを湛えていた。さっきよりも大きく見開いているみたいだ。

 そして彼女はおもむろに右手を持ち上げた。そして人指し指を伸ばして自分の唇に触れた。さっき僕の唇と触れ合った唇。彼女は下の方だけを、左から右へ、そして折り返してなぞった。一往復だけすると、唇から人指し指を離して腕を下ろした。

 その時だった。僕がドキドキしたのは。キスの時は全く何も感じなかったのに、彼女のその動作によって、体全体が夏とは違う熱さに支配された。胸がつまるような気がして、それを悟られないように目を反らして呼吸した。

「どうだった?」ささやくような声音で彼女が聞いてきた。

「そっちは? どうだった?」僕は答えずに聞き返した。

「しょっぱかった」

「うん、僕も」

「それと……柔らかかった」

「それも同じ」

 僕らはそれだけを伝え合うと、くすぐったそうに笑った。遠くから風に乗って風鈴の音が聞こえてきた。今にも消え入りそうなその音は、予想通りすぐに消えた。そばの木から、今まで聞こえなかったセミの鳴き声が聞こえて耳が過度にそれを拾う。吹く風は夏の午後らしく生ぬるかった。

 僕らはそれを、秘密にした。「このことは、みんなには内緒だよ」と笑う彼女に、僕は大きく頷いた。二人だけの秘密。二人だけの、あの夏の秘密。

 そして秘密を作った彼女は、唐突に僕の前から姿を消した。


 それから七年後。僕は高校一年生になった。おそらく彼女も、どこかで高校生をやっているだろう。……でももう七年も会っていないから、それは推測というよりも、期待に近い。そしてさらに期待することは、僕が願っているように、彼女もまた、僕と会いたいと願っているということだ。何も言わずに転校したことはもう怒っていないから、会って話したかった。

 テスト最終日の今日はすぐに帰る必要はなくて、だから友人たちとテストのできの悪さを誇張して言い合っていた。一学期中間では勉強なんかしなくたって八十、九十がぽんぽん出てきてしまった化学についてはみんな同じようなことを言っていた。難しすぎ、絶対平均欠点。それは僕たちだけじゃなく、テストが終わった瞬間にもどよめきが起こった。

 僕たちは空腹を覚えると家に帰ることにした。僕は自転車通学で、他のみんなは電車通学。進行方向も真逆なので、校門のところで別れる。

 七月が始まってまだ間もない。それなのに世界のいたるところは夏の装いに変わりつつある。空は青く高く、街路樹や庭木の葉は深緑色。日差しがアスファルトやフェンスにぶつかって、触ると火傷しそうだ。

 暑いのは嫌いだ。特に今日は、今年で一番暑いかもしれない――最も、夏は始まったばかりで、これからどんどん暑くなると思うとこの季節を飛ばしてくれと願ってしまう。

 少しでも日差しを避けようと、僕は遠まわりしてでもなるべく陰のできた道を行くことにした。並木道を駆け下り、マンションの陰を走って、十分ほどで神社に着いた。手水舎で口をすすごうかと一瞬考えたけど、我慢した。

 神社を抜けて左右を確認し、ハンドルを右に切ろうとしたその時だった。僕はブレーキを握った。そして振り返った。六十メートルほど先。くすんで色の落ちかけた青い庇。それから「山内商店」と白い字で書かれた幟。ああ、小学生の頃、よく通っていたな。彼女と。

 僕が一秒にも満たない時間で捉えたのは、かつて通っていた駄菓子屋だった。もう何年も入ったことがなかったのに、一目見ただけであの頃の記憶がまざまざと思い出される。駄菓子屋前の曲がり角から、今にも小学生の僕と彼女が手を繋いで飛び出してきそうなほど鮮やかだった。

 僕は右に向けた自転車を反対方向に向け直した。予定の道を行かず、山内商店に向かった。 店の前で自転車を止め、店内を眺める。変わらない。店とは言いにくい狭さと暗さは、年月を経てもそのままだった。漂う空気も涼しさと懐かしさに満ちていて、あの頃「奢る」ということにオトナの雰囲気を見出だしていたことを思い出した。僕らはよくお互いに「奢り」合った。

 僕はそこに一分ほど佇むと、再び走り出した。何も買わなかったけど、懐かしさが全身を巡り続けた。頭は常に過去を見つめ、過ぎ去る景色が心地いい。彼女との思い出が浮かんでは消えてを繰り返す。

 今、どこで何をしているんだろう……。もう一度会いたい。

 彼女との一番の思い出は、やっぱり別れる前のキスだった。今となってはそれがどういう価値を持つものか、理解できるようになった。

 僕らは彼女と過ごした後の残りの小学生活と、三年間の中学生活を通して異性のことを知り、そしてキスの価値を知ったのだ。それは純粋に、大人に向かっていくための通過点にすぎない。みんなそうやって大人になっていく。

 でも……。でも、僕は何となく、違う気がする。僕らのあのキスは、大人になるためのものなんかじゃなかった。僕らがしたあの時のキスは……。

 気づけば小学校に来ていた。白い外壁に埋め込まれた学校のプレートは、どうやら最近新しく取り換えられたもののようだ。きれいなのに、どこか悲しい。

 他は何も変わっていないように見えた。変わったのは、プレートくらいだ。

 僕は壁に沿ってゆっくりと自転車を走らせた。首を伸ばしてその内側を見る。職員室があって、ゴミ置き場があって、結局最後まで目的不明の小屋があって。

 そして、僕は導かれるようにしてあの場所に向かった。

 外壁はずっと格子状のフェンスだったのに、途中からコンクリートに変わっていた。そのコンクリートの外壁で、僕らがキスをした体育館横の空間はほとんど隠れていた。これじゃああの場所が今どうなっているのか、確認できない。どこかよく見えるポイントはないかと首を動かした。

 ふと、フェンスの先で何かが動く気配がした。草の動く音だ。風は吹いていない。僕は自転車を降りて、フェンスに近寄った。フェンスを掴むと、蓄積されていた熱が伝わってきた。それでも手は離さない。格子の隙間に顔を突っ込む勢いで中を確認する。

 誰が……誰がいるんだ……。

 また、草の動く音がした。今度は長く続いた。やがて僕の視界に映る草が小刻みに揺れ出した。もしかして……彼女がいる……?

 そんな期待に、僕は顔をさらに格子の間に押し込もうとする。

 ……あっ、何かが見えた気がした。白い服のような……まさか本当に……。

「おい君。そこで何してる」

 はっとして顔を上げた。左上に、人がいた。いや、学校の中にいるのだから先生だ。

 気づかれた。やばいと思った。

 高校生が今にも乗り越えそうな勢いで学校の敷地内を凝視していたんだ。怪しい奴に思われたに違いない。現にその先生だって、きっと怪訝な目つきで僕を見ているはずだ(僕は先生を見ると、すぐに顔を逸らしていた)。

「あの……えっと……」

 どう言い訳をすればいい。何か、名案は……。

「あれ、もしかして小野くん? 小野恵人くんだよね?」

「へ?」

 どうして僕の名前を? 疑問に思って顔を上げた。

「……伊南……先生?」

「久し振りだなあ!」

 そこにいたのは僕の三、五、六年生の時の担任、伊南英雄先生だった。六年生の時に三十歳後半だったからもう四十歳になっているだろう。それでも先生の顔は昔とそんなに変わっていなくて、何だか安心した。

「どうも」と僕は挨拶した。

「大きくなったなー。今年で高校生だっけ。いやー早いなー」

 そうですね、と僕は愛想笑いをした。

 このまま上手いこと家に帰る方向に持っていきたい。何をしていたか聞かれるのは避けたかった。しかし僕の願いは、全く想像もしない形で砕かれることになった。

「あ、そうだ。小野くん、これから時間ある? ちょっと手伝ってほしいんだけど……」

「へ?」


 僕は先生の背中に心の中でありがとうと言った。まさか学校に入れてくれるなんて! 先生の後に続いて連絡通路を進んで、体育館横のフェンスに向かった。その先に、例の場所がある。

「いいところに来たよ、ほんと」

 先生は扉を開けて僕を中に誘導した。

「倉庫に、何か用があるんですか?」

「うん。この前児童の椅子が抜けたんだ。危険だからって、古いものは予備のものと変えることになったんだけど……。予想以上に多くてさ。一人が言い出したら他のやつも言い出す始末。椅子だけじゃなくて、机がガタガタするとか、穴空いてるとか。きりがないんだよね」

 と先生は苦笑する。

「全部交換するんですか?」

「まあ本当に使いにくいものは新品に換えるけど、まだ使えそうなのは空き教室のものと交換ってことになってる。全く一学期ももう終わりだっていうのに」

「大変ですね……」

「本当に。だから藤井さんにも手伝ってもらってるんだ。ほら、小野くんと仲良かった」

 僕の足は、ぴたりと止まった。

「え……?」

 藤井? 藤井って……もしかして……。

 急に立ち止まった僕に、先生は訝しげな表情を見せる。

「小野くん?」

「あの、先生。藤井って……もしかして藤井愛理奈の……ことですか?」

「そうだよ。藤井愛理奈ちゃん。あの頃いつも二人で一緒に遊んでて、兄妹みたいに仲良かったよね」

 そう言って先生は笑う。でも、すぐに寂しそうな笑みに変わった。

「彼女の転校はつらかっただろう。僕も突然だったからびっくりしたよ」

「はい……そうですね」

 あまりの衝撃に、声音に気を配る余裕がない。

 えりちゃんが……今ここにいる?

 何かの冗談だと思った。先生が冗談を言う理由がないと頭では分かっていても、どうしても信じられない。

 何で……急に……。まるでキスをしたあの時と同じみたいじゃないか。

「あの……えりちゃ……藤井さんは今どこに?」

 半ばうわ言のように僕は訊ねた。

「えーっと確かさっき一組の分が終わったって言ってたから、今二組の教室にいるかな。あ、三年二組ね」

「そうですか」

「会いに行く?」

「え、えと……」

 すぐ近くにえりちゃんがいる。まるで現実味がなくて、僕は返答に困る。会いたいはずなのに。高校生になったえりちゃんの姿を見たいと思っていたはずなのに。いざ会えるとなると、どうして躊躇いが出てきてしまうんだろう。

『伊南先生、伊南先生。間もなく職員会議が始まります。職員室に戻ってきてください。繰り返します――』

 突然聞こえてきた放送に、伊南先生は腕時計に目を落として飛び上がった。

「うわっもう行かなきゃ。えーと、小野君。今すぐに藤井さんに会いに行かないのなら、倉庫にある机を三年二組の教室まで運んでってもらえると助かるな」

「は、はい……」

「ありがとう。会議が終わったらすぐ戻って来るから。じゃ!」

 先生は言い終わらないうちから駆け出していた。その姿は階段の陰にすぐに消えてしまった。

 一気に静まり返った体育館脇のスペースで、僕は壁にもたれかかって空を見上げた。ここから見る空には入道雲がなくて、季節に関係のない普通の雲が浮かんでいた。

 すー……と息を吸い込んで、少し溜めてゆっくり吐き出す。

 緊張、しているわけではないと思う。かと言って決して落ち着いているわけでもない。心臓がやけに早く動いていて、疲労感にも似た感覚が訪れている。

 僕はもう一度深呼吸をしてみる。目を閉じた拍子に、えりちゃんの姿が浮かんだ。僕はすぐに目を開けて彼女の影を追い出す。そこで、気づいてしまった。

 僕は、どこかで怖がっているんじゃないか。そう感じる必要なんてないはずなのに、こうして彼女の元へ足を踏み出せていないというのは、怖がっているとしか考えられない。

 へたれ。臆病者。

 ずっと望んできたことじゃないか。こんな奇跡にも近いことが、もう一度起こる保証なんてどこにもない。

 ちょうど頬に蚊か何かが止まった気配がして、僕は思いきり頬を叩いた。乾いた音がその場に反響して、叩いた箇所がジンジンと痛み出す。きっと赤くなっているだろう。だけど、臆病者の僕にはこれくらいがベストだろう。

 壁から背中を離して、校舎に向かおうとした。

 扉の向こう、階段の陰から白い何かがちらついた。と次の瞬間には、長い黒髪と紺色のスカートが見え、それが一人の少女であることに気づいた。彼女は制服の袖を折り目正しくまくって、その白い肌を夏の日差しにさらしていた。

 えりちゃんだ。としか考えられなかった。久し振りって声をかけることも、倉庫の陰に隠れることも、何もできなくて、ただあれから七年の歳月を経た彼女の姿を見つめることしかできなかった。

 昔より少し髪が伸びたみたいだ。毛先が胸元まで垂れさがっている。

 身長も、女子にしては高い方かな。

 俯いているからはっきりとはわからないけど、顔はそんなに変わっていないと思う。

 あと二十メートル、というところで、彼女はすっと顔を上げた。まるで元々僕を見るつもりだったみたいにすぐ目が合って、心臓が一際強く跳ねた。

 そして彼女の方は、びっくりしたように急に足を止めた。幽霊か何かを見てしまったみたいな表情で、僕から目を離さない。

 静かだった。僕らがキスをしたときと同じような静けさが、二人の間に流れた。本当なら風に草木が揺れる音や、すぐそばの木からセミの鳴き声が聞こえてくるんだろうけど、このときばかりは、周りの音という音が一切耳に入ってこなかった。

 昔の面影を残している、というほど顔は変わっていなくて、でも昔のままというわけでもない。一言で言うなら、大人っぽくなった。

 その大人っぽさが、不意に増した。彼女が目を逸らしたのだ。薄く開けていた唇をきゅっと閉じ、その形は笑ったようにも見えるし、どうしてだろう、泣いたようにも見える。

 目を伏せたまま、彼女は歩み寄ってくる。ローファーが固い地面に触れる度、コツ、と音が反響する。そして開いたままの扉を通って、彼女は目の前に来た。

 遠目からはわからなかったけど、えりちゃんは顔に汗を滲ませていた。つー……と顔を伝って、顎の先でわずかに止まったあと、音もなく落ちた。だけどその顔から、それまでの疲れや夏の暑さは感じない。

 気まずさを感じて、何か言わなくちゃと焦った。だけど何を言っていいやら分からず、でくの棒みたいに突っ立っていた。

 僕が何も言わないことにしびれを切らしたのか、えりちゃんが瞬きをして、閉じていた口を開けようとした。急に僕はなぜか先に彼女に喋らせてはいけないと思って、慌てて言った。

「憶えてる……?」

 えりちゃんはそっと口を閉じた。そして僕の目から視線を外し、少し俯いて言った。

「憶えてる。小野恵人くん」

 彼女が僕の名前を呼んだ瞬間、嬉しさや切なさが魔法で何か別の感情になって、涙が出てきそうになった。彼女を見ていたらもう止められそうにもなかったから、ふっと目を逸らした。

「ひ、久し振りだね、えりちゃん」

 早口でそう言うと、彼女はさっきと同じ速度、同じトーンで「うん」と返してきた。

 少し沈黙があって、彼女は言った。

「どうして、ここに?」

「学校帰りにたまたま学校のそばを通ったら、伊南先生に出くわしたんだ」

「そうなんだ」

 そこで会話が途切れた。彼女を見ていても再開する気配がなかったから、僕から口を開いた。

「戻ってきたんだね……」

 僕の言葉に、えりちゃんが顔を上げる。しばらく僕を見た後、彼女はごく短い間笑顔を作った。

「伊南先生、知らない? 机運ぶの手伝ってて」

「うん、先生に聞いた。職員会議だって。今職員室」

「そっか」

「うん」

 またしても沈黙が降りた。次に何を話せばいいのか分からなくて、頭をぐるぐる回す。そうして会話の種を引き出すことに夢中になっていた僕は、えりちゃんが何か喋っていたのに、遅れて気づくことになってしまった。

「えっ、あ、ごめん……。聞いてなかった」

「私、まだ仕事残ってるから」

「ああ、うん。僕も手伝うよ」

「ありがとう」

 僕らは奥に移動して倉庫から新品の机を取り出した。えりちゃんを先頭に通路を歩いて、開け放してあった扉から校舎に入った。

「うわ、懐かしいな」

 思わず声に出してしまった。だけどえりちゃんは何も言わずに、半ば振り返って僕を確認するだけしてから、廊下を進んでいく。僕は歩くたびに揺れる彼女の後ろ髪をただ見つめて歩いた。何もその背中から無言を求めるような雰囲気があるというわけではない。話したくてもどう話題を切り出せばいいのか分からないのは、きっと七年という長い空白の時間のためだ。それでももう少し話せると思っていたから、やっぱりもどかしい。

 階段上り切って右に曲がると、三年二組のプレートが見えた。

「そう言えば僕たちって三年二組だったよね」

 共通の話題を得た僕は、期待を膨らませてえりちゃんに話しかけた。

「うん」

 彼女はプレートを見上げて言った。そして開いたままの扉に机をぶつけないよう慎重に入った。

 教室は配置予定のためのスペースが前の方に作られている他は、変わりなかった。えりちゃんが置いた横に、自分の運んできた机を置く。

 ふっと小さく息を吐いて教室を出ようとするえりちゃんに、僕は声をかけた。

「僕たち、どの席だったか憶えてる?」

 振り返ったえりちゃんは、さっと教室を見回した。そして廊下側の端の方を指差す。

「そこらへんかな」

「すごい」

「ううん、わかんない。もしかしたら小野くんの席で、私がよく行ってたから憶えてるのかも」

 そう言ってえりちゃんはうっすらと笑った。彼女の言葉が、その笑顔が、ただただ嬉しかった。七年経った今でも、こうして彼女の記憶の中に僕がいる。それがこんなにも嬉しい気持ちにさせるなんて。でも残念なことに、言い出しっぺでもある僕の方は、本当にそこが僕の席だったか憶えていない。だから僕が彼女に返せる言葉は、「そっか」が限界だ。

 えりちゃんは小学三年生のあの日々を思い出しているみたいに遠くを見つめていて、その瞳の中で光がちらちら揺れていた。

「えりちゃん?」

 そこから動き出そうとする気配を見せなかったのでそっと声をかけると、思いのほかえりちゃんは反応を示した。

「ごめん。続き、しよっか」

 振り返る間際にえりちゃんの頬から汗が流れた。彼女はそれを拭おうともしないで教室を出ようとする。

「えりちゃん、少し休んだら?」

 僕はその後ろ姿に声をかける。扉に手をかけた彼女はぴたりとその足を止める。

「心配しないで、大丈夫だよ」

 次の言葉をかける間もなく、彼女は扉の向こうに消えていった。

 僕らはそれから二、三回教室と倉庫を往復した。そして最後の机を運び込むために倉庫に向かった時、ちょうど会議の終わったらしい先生が戻ってきた。

「いや、ごめんごめん。ちょっと遅くなっちゃった」

「いえ」

「どこまでやってくれたの?」

「これで机が終わります。あとは椅子だけです」

「そっか。助かったよ、二人とも。あとは僕がやっておくから、もう帰ってもいいよ」

 僕らはどちらからともなく顔を見合わせた。ただそれだけだったけど、お互いに同じことを考えているなと直感した。

「せっかくだから、この机だけ運びますよ」

「そ、そう? なんだか助けてもらってばかりで……ほんとにありがとう」

「いえ」

 僕らは先生をその場に残して再び教室まで机を運びに向かった。

「小野君、藤井さん、今日は本当に助かったよ。どうもありがとう。何もお礼できなくて申し訳ない」

「そんな。もう一度小学校に入れてよかったです」

「いつでも来ていいからね。また顔見せに来てよ」

「はい」

「それじゃあ、失礼します」

 僕らは手を振る先生に別れを告げて学校を出た。太陽は依然として空高くに昇り、世界を焦がしていた。

 外の眩しさに目を細めていると、不意に重要なことに思い当たった。ちらりとえりちゃんを見てみると、黒い鞄を手に持ったまま太陽から顔をそむけるようにして立っていた。全く動く気配を見せない。

 そう、僕らは数分前までは同じ目的のもとに行動していたけど、それを果たしてしまった今、お互い思い通りの行動を取ることができる。それは二人が別々の道を行くことも十分に考えられるということだ。

 横目でちらちらとえりちゃんの様子を確認していても、彼女はまるで僕の次の行動を待っているみたいに動こうとしない。

「あの、さ……」

 言いよどみながらも何とか口にする。するとえりちゃんはわずかに顔を上げた。

「……公園行かない? ほら、昔よく遊んだタコ公園」

「……うん。いいよ」

 彼女の黒髪が頷くのに合わせて揺れる。胸を撫で下ろしてたい思いで、僕は「じゃあ、行こっか」と言った。

 公園では、名前の通りタコを模した遊具が中央にあって、そこで数人の小学生たちがわあわあはしゃいでいる。

「それじゃ、お疲れ様」

 僕らはタコの遊具、ブランコ、そして砂場を隔てたところにある木陰のベンチに腰を下ろして乾杯をした。本当は僕が奢るつもりだったけど、彼女がどうしても自分の分は自分で買うと譲らなかったから、僕は折れるしかなかった。

 僕はサイダーを、彼女はりんごジュースを一口飲んで、そして次を待った。

 えりちゃんを連れてここまで来たはいいものの、次に何をすればいいのか手詰まりだった。聞きたいことはもちろんある。だけど、直感的にそれを僕から聞いていいものとは思えなかった。だから僕ができることと言えば、彼女が話し出すのを待つだけだった。

 誰も使っていない目の前の砂場をぼんやりと眺め出して少し経った時、隣で身動きする気配を感じた。僕は悟られないように、依然として砂場を見つめたまま彼女に意識を向ける。

「小野くんの学校って、テストいつまで?」

「今日で終わったよ」

「そっか」

「えりちゃんは?」

「私も今日で終わり」

「どうだった?」

「平均以上取れていれば、それでいいかな」

「えりちゃん、賢そうだから大丈夫なんじゃないかな」

「そうかな……」とえりちゃんは少し笑う。

「そうだよ」そして僕はここぞとばかりに聞きたかったことの一つを聞いてみることにした。「あの……えりちゃんは何高に通ってるの?」

「私は……」

 これくらいなら問題ないだろうと思っていたけど、えりちゃんは口ごもった。不安になって表情を見てみると、一瞬僕に目を合わせた後、すぐ前に向き直った。横顔からは何も読み取れなかった。

「小野くんは……知りたい、よね……。きっと」最後の言葉は、なぜか彼女自身に向けられているように感じた。声のトーン、表情から、彼女はあのことを言おうとしているのだとわかった。

「私が――」

「知りたいよ」

 えりちゃんの言葉を遮るようにして言ったものだから、彼女は驚いて僕を見た。

「知りたいよ」

 僕はもう一度はっきりと同じ言葉を繰り返した。緊張したけど、真っ直ぐに彼女の目を見続けた。

「うん」と彼女は頷いた。手に持ったペットボトルに微妙に力が加わるのが見えた。彼女の方も、僕が悟ったことを理解したみたいだ。

「私が転校したのね、親の都合だったんだ」えりちゃんの表情はそれほど悲しんでいるようには見えなかった。むしろそれを受け入れているように見えた。もう七年前のことだし、時間が解決したんだろうか。

「両親、仕事人でよく家を空けるの。三年生の時、すでにお父さんは単身赴任してて、お母さんも転勤が決まって、それで」

「そう、だったんだ……」

「近くにおばあちゃん家があって、二人がいないときはよく遊びに行っていたんだけど、やっぱりついて行く方がいいかなって思って」

「そっか」

「うん」

「急にいなくなって、ごめんね」

「えっ!?」

 えりちゃんが謝るなんて全く想像もしていなかった僕は、過剰気味に反応してしまった。彼女も僕の驚き振りに驚いたらしく、動揺していた。

「何で、えりちゃんが謝るんだよ」

「だって、突然引っ越しちゃったわけだし」

「謝る必要なんてないよ。仕方ないよ、それは」

 そう。それは仕方のないことだ。えりちゃんだけじゃなくて、他にも転校したり転入してきたクラスメイトは何人かいた。その何人かが親の都合だったかはわからないけど、親の都合というのはよくあることで、そして小学生にとってはどうしようもないことだ。

「でも私、そのことをずっと後悔してきたの。家を飛び出して、さよならを言いたかった。それができなくても、引っ越し先から電車を乗り継いでまたここに戻ってくればって。でも、どっちもできなかった……」

 えりちゃんは悲しそうな表情になった。

「あの日のこと……憶えてる? 私たちがその――」

 彼女が何を言おうとしているのかわかった僕は、彼女にその言葉を言わせまいとして「憶えてる」と早口で言った。

 えりちゃんは笑ったように唇を細め、そして開いた。

「あの日ね、家に帰ったらもう出発する直前だったの。私、引っ越しすることその時に聞かされて、驚く暇もなくて、気づけば車に乗せられてた」

「そんな……」

「二人ともいつも時間に追われてたから、仕方なかったんだけどね」

 と、えりちゃんは何かをかばうみたいに付け加える。

「それで引っ越し先から会いに行こうと思ったんだけど、場所、福岡で。行き方は人に訊ねれば何とかなるだろうけど、お金はどうにもならないから……」

「確かに……福岡ってなると難しいよね」

 えりちゃんは困ったように笑顔を作った。

 その笑顔を見た途端、一つの疑問が湧き上がってきた。

「え、ちょっと待って、福岡ってことは福岡からここに来たの?」

「ううん、違うよ。私一人暮らししてるんだ、隣の町に。北高に通ってるんだけど、知ってるかな。隣町だから知らないかな」

「知ってるよ。有名だもん。すごい、やっぱり頭いいんじゃん」

「たまたまだよ。試験前にやってた問題とおんなじのがよく出たから」

「それでもすごい。僕なんて千里が丘だよ。この辺じゃ平均ってとこ」

「でも何だか楽しそうに見えるよ」

「そうかな」

「うん、何か眩しいよ、小野くん」

「大げさだな」

 そして沈黙が降りた。僕はそれを利用して今のえりちゃんの言葉を整理する。

 そっか……そういうことだったんだ。何か彼女の手には負えないことが起きたんだとは思っていたけど、聞いてみると、結構強引だなというのが彼女の両親に対する率直な感想だ。彼女の言葉を借りるなら、二人は仕事人で、だからやっぱり転勤も仕方がないのかもしれないけど、もう少しえりちゃんのことを考えてほしかった。

 そして彼女は再びこの町にやって来た。正確には、隣の町だけど、それでもまたこうして話をすることができた。この辺では進学校として有名な一高に通っていて、そして一人暮らしだ。と、そこまで考えが及んだ時、またしても疑問が膨れ上がってきた。

「ねえ、えりちゃん。どうしてこの町に――」

「ああー! カップルだあー!!」

 声のする方を見ると、砂場を取り囲む低木の陰から、タコの遊具で遊んでいた小学生たちがにやにやしながら僕らのことを指差していた。えりちゃんはびっくりしたまま目をパチパチさせている。

「チューしろー!」

「キス! キス!」

 軽く睨めば怯えて散っていくと思っていたのに、僕の予想とは反対に、くすくす笑いに混じって手拍子が加わる。「キース! キース! キース!!」

 ここまで小学生に煽られると、さすがの僕も黙っているわけにはいかなくなった。

「高校生をおちょくるのもいい加減にしろよ」

 立ち上がりながらそう言うと、小学生たちは「逃げろ!」という声を合図に蜘蛛の子を散らすように逃げていった。その姿を見るともう追う気力はなくなって、小さなため息を吐いてベンチに座り直した。

「僕たちも昔はあんなに生意気だったのかな」と僕は苦笑交じりに言った。

 でも僕の言葉に対する返答はなくて、代わりに沈黙が流れようとしていた。僕がえりちゃんを見る寸前、彼女は「あの日」と消え入りそうな声で言った。

「え?」

 少し間があって、彼女は「キスしたことある?」と聞いてきた。その目は足元の一点を見つめたままで、僕が彼女のことを見ていてもその姿勢を貫いていた。

 さっきの会話の中で、彼女はそのことを匂わせてはいた。僕も理解して、口には出さなかったけど、遠まわしに憶えていると言った。彼女もそれで理解したはずだ。だけどこうして、そのことに対して真っ直ぐな疑問をぶつけてくるのには何か理由があるんだろう。

「……あるよ」

 えりちゃんはわずかに肩を動かした。

「それって……私?」

「……うん」

 それは嘘じゃない。事実、最初に浮かんできたのは彼女とのキスだった。だけど……。もう一人別の顔が浮かんでくるのも否定できなかった。えりちゃんと付き合っているわけではないんだから、別に悪いことではないと思う。それなのに、どういうわけかはっきりとした罪悪感を感じる。

 そのことも言うべきかと一人で迷っていると、えりちゃんが目元を拭うような動作をした。不思議に思った僕は、今しがた迷っていたことも忘れて彼女の名前を呼んでいた。

「ううん、何でもないの、大丈夫」

 それでも僕はなおも心配で、彼女の様子を窺がっていた。

 するとどこからか、くぐもったメロディと振動が聞こえてきた。えりちゃんははっとして鞄に手を入れる。素早く取り出した携帯に「あっ」と小さな声で反応すると、慌ただしく立ち上がった。

「ごめんなさい、私これからバイトなの」

「え、ごめん。時間間に合う?」

「走れば何とか」

「じゃ、じゃあ送ってくよ」きょとんとする彼女に、僕は自転車の荷台を叩いて示す。「乗って」

「でも……」

 しぶる彼女に、少し苛立ちを覚える。

「いいから! 急がないといけないんでしょ!?」

 えりちゃんは頷く。そしてすでに自転車にまたがっている僕の後ろに回り込んで、荷台に腰を下ろした。彼女の体重が加わった分、握ったハンドルが重くなる。

「駅まででいい?」

「うん」

「しっかり掴まってて」

 僕がペダルを踏み始めて、彼女が遠慮がちにシャツを掴むのはほとんど同時だった。しっかり掴まってと言っておきながら、前かがみになっていた僕は、サドルに座り直して彼女が掴まりやすいようにした。だけどえりちゃんがシャツの裾を掴み直す仕草は感じられなくて、気になりながらも駅を目指した。

 駅に到着した。自転車から下りると、彼女は「ありがとう」と頭を下げた。

「気にしないで。ほら、遅れるよ」

「うん、それじゃ」

 僕から鞄を受け取って、改札を目指す。その瞬間、どういうわけかあの時の光景がよみがえってきた。翌日、いつもの場所に彼女はいなくて、次の日も、その次の日も彼女の姿はなかった。そして九月一日、担任の伊南先生から衝撃的な事実を告げられた。あの時の喪失感が、再び、全身を支配してくるみたいだった。

「えりちゃん!」

 僕は離れて行く彼女の後ろ姿に叫んだ。

「メアド、教えてくれない!? あと、番号も」

 言いながら僕は距離を詰める。

 えりちゃんは目を瞬かせていたけど、頷いて鞄から携帯を取り出した。僕も慌てて自分の携帯のアドレスを表示させる。

「じゃあ、僕から送るね」

「うん」

 送信ボタンを押してえりちゃんの携帯にアドレスと番号を送る。

「届いたよ。次は私が送るね」

「うん」

 そしてえりちゃんのアドレスと番号が送られてくる。彼女のそれをしばらく目に焼き付けることで、あの喪失感みたいなものが薄れていく気がした。

「ありがとう」

「ううん、こっちこそ」

「メールするね」

「うん」

「バイト、いつ終わるの?」

「今日は最後まであるから、十一時くらいかな」

「じゃあ、その後にメールするよ」

「わかった」

「あ、引き留めてごめん」

「心配しないで、大丈夫」

「バイト頑張って」

「ありがとう。バイバイ」

 彼女は胸の前で僕にしか見えないような小さな動作で手を振って、改札を通っていった。その後ろ姿はやがて行き交う人の陰に隠れて見えなくなった。それでも僕はその場に突っ立ったまえりちゃんが消えた辺りの場所をぼんやりと見つめていた。

 無意識に、深呼吸した。

 まだ太陽は空の高い位置にあって、夕暮れの気配はなかった。直接日の当たる場所で身動きしていないものだから、露出した腕や首筋がかすかに痛みを訴えている。

 と、首筋に強烈な冷たさを感じて上ずった声を上げてしまった。何事かと振り返ると、そこにいたのは、背の低い女の子だった。

「ふふふ、先輩驚きすぎ」

 基本の表情が快活な彼女が、こぼれそうなほどの笑顔で僕を見る。笑った拍子に彼女の頭の後ろで一つに結んだ髪が揺れて見え隠れする。

「浅田」

 僕が名前を呼ぶと、浅田はむっと膨れ出した。

「もう、恵人先輩。名前で呼んでって言ってるじゃないですか」

「いや……何か恥ずかしいっていうか、浅田は浅田だからそれでよくない?」

「よくない! 私たちカレカノなんですよ!? 名前で呼び合うのは当たり前じゃないですか!」

 浅田の声に熱が帯び始める。それと比例して、彼女の動作も激しさを増す。背伸びして僕に迫ってきている。

「分かった、分かったよ。浅田千可」

「フルネーム! 違うー!」

 彼女のツッコミに、僕は吹き出した。

「ほら、こんなとこにいても暑いだけだからさ、帰ろうぜ」

「むー……」

 浅田は睨んでいるつもりだろうけど、眩しそうに目を細めているようにしか見えない。「ちっ」と舌打ちすると、手に持っていたサイダーを胸に押しつけてきた。そのとき彼女が僕の自転車のかごに転がっている同じ缶を見つけた。でも気にしなかったふうに言う。

「ほら、買ってあげたんだから二本目でも喜んで受け取ってください」

「あ、ありがとう」

 胸に押しつけられたそれを受け取ると、浅田はちょっと気にしているような表情をする。公園を出る前に捨ててくればよかった。

「そんなに気にしなくていいよ。夏って喉乾いて仕方ないし。それに同じやつでも彼女にもらって嬉しくないものなんてない」

 すると浅田は少し晴れやかになった。基本の表情にはまだ足りないけど、そのうち戻るだろう。僕たちは家を目指して歩き出した。


 浅田とは同じ中学出身で、一つ下の後輩だ。つまり彼女は今年受験生だ。僕と同じ高校を受験すると言ってはいるけど、親や担任からは二つ、三つ上の高校を目指せと、彼女が言うには強制させられているらしい。

 僕たちが出会ったのは、一昨年の夏前だった。僕はバスケ部で、浅田が所属しているバレー部は反対側のコートを使っていた。元々二つの部活は仲がよくて、自然とバレー部の一年生とも交流するようになっていった。

 浅田と直接話をしたのは、お互い罰ゲームで後片付けをしているときだった。その日から彼女とは廊下ですれ違ったときや部活の休憩中などに少し話をする仲になった。付き合うことになったのは、去年の春だ。彼女の方から告白してきて、一緒にいて楽しかったから「うん」と返事をした。

 だけど僕は、彼女に対して後ろめたさを感じている……。僕は……――

「ねえ、先輩、聞いてます?」

「あ、ごめん。何?」

 訝しげな表情をして、浅田は顔を覗き込んでくる。

「だぁーかぁーらぁー。竹内と奥平が殴り合いのケンカをして、二人とも二週間部活禁止になったんですよ」

「嘘!?」

「嘘じゃないですよー。もうほんとにすごかったんですから」

「あいつら何やってんだよ……。キャプテンと副キャプだろ? 試合、今月末じゃなかったっけ」

「そうなんですよ! ほんとバカですよね」

「あいつらいっつもいがみ合ってたもんなぁ……」

「自分たちが三年になるとますます険悪になりましたよ」

「バカだなぁ」

「バカですねぇ」と浅田は呆れたように笑った。「ところで先輩、バスケ部はどうなったんですか?」

「んーまあ、入る予定はないかな」

「入ったらいいのに」

「前から言ってるだろ? バスケ部に入ったのは安達に誘われたからだって。高校の部活ってさ、真剣にやってないと迷惑になるんだよ。だからやらないの」

「中学のときは真剣じゃなかったんですか?」

「そうとは限らないけど……。でも、何か高校と中学って違うんだよ。分かんないかな?」

 ふるふると首を振って、浅田は「分かりますよ、何となく」と言った。「でも、バスケやってる先輩かっこよかったですよ」

 その言葉の裏には、「だからバスケ続けてほしかったです」という本音が隠されているのだと、僕には分かった。彼女の口調や唇を尖らせ気味な表情がそれを物語っていた。これまでも似たような会話をしていたし、僕が考えを改めないことも彼女は知っている。だから、この話は何の余韻も残さずに打ち切ることができる。

「そう言えば先輩」

 話題を変えてきたのは、浅田の方だった。

「さっき駅で何してたんですか?」

「何って……」

 彼女にえりちゃんのことを話したことはなかった。それもそうだ。今まで一度もえりちゃんと連絡を取れたことはなくて、もう過去の人物になっていたんだから。

 でも、それはそうとして浅田には何て言えばいいだろう。知り合いに会っていた、と言っても何だか上手くごまかせない気がする。彼女の視線から逃れるようにして、僕は代わりとなる答えを探す。

「何となく、いつもとは違う道で帰ろうとしてたんだ」

 浅田は少し間を空けてから「そうですか」と言った。気づかれてない……よね?

 結局、僕は彼女の心の内を読めないまま家までの道を歩いていった。その間も浅田はテストのことや進路のことなどを話していたけど、頭では別のことを――えりちゃんのことを考えていて、無難な受け答えしかできなかった。そして分かれ道に差しかかったとき、「恵人先輩」と浅田がシャツを引っ張ってきた。何だろうと思いつつも、引っぱられるままに彼女について行く。

 車一台が何とか通れるくらいの住宅街に入り込む。背の高い家々が建ち並んで、そこら中に影を落としている。人の通る気配はなくて、周囲を囲む家からも何の音も聞こえない。僕らは道の端に立っていて、急に浅田が距離を詰めてきた。

「先輩」と浅田は笑う。上目遣いでそうやって嬉しそうな表情を見せるのは、彼女のキスの合図だった。

 僕は「うん」と返事をして、自転車のハンドルを握ったまま体を屈める。制汗剤の爽やかな香りがした途端、不意にえりちゃんの姿がよみがえってきた。不思議なことに、それはいつもよりも鮮明で、いつもより長く続いた。

 すでに目を閉じていた浅田は、僕がキスしてこないことに気づいたらしく、薄目を開けた。

「先輩?」

「え、ああ、ううん。何でもない……」

 浅田は「そうですか」とも言わずに、もう一度目を閉じた。僕は彼女の左頬に一秒にも満たないキスをする。そして何かから逃げるようにさっと体を離した。

 目を開けた浅田はむくれて不満げな表情を見せた。

「先輩は……」

 元々小さかった彼女の声は、そこで途切れた。通りを走る車の音が遠ざかるほどの間があって、彼女は言った。

「何でもないです。じゃあ私こっちですから」

「うん」

「それじゃ、また今度」

 浅田は手を振って小走りに狭い道を進んでいった。僕はその後ろ姿を見ながら、疑いようのない後ろめたさを感じていた。


 夜になって、風呂から上がった僕はベッドに横になって目を閉じていた。浅田とのことを思い出していた。

 初めてキスをしたのは、今年の冬だった。今日みたいに学校から帰る途中でキスをした。そのときのキスは、えりちゃんと同じ唇同士のキスだった。その瞬間、僕の中で何かが変わった。雷に打たれたとでも言えるほど、決定的に何かが変わった。だけどその時はまだ封印が解かれたばかりのような段階で、その中身を僕は理解できていなかった。それを自覚するようになったのはいつ頃だろうか。きっかけは分からない。具体的なきっかけがあれば憶えているはずだろうけど、全く憶えていないから、おそらく時間とともに自然と気づいたのかもしれない。

 浅田とのキスで、僕は初めて「好き」のキスを知った。いつか見たアニメで制服を着たカップルのキスを、僕たちもしたということだ。くすぐったいようで、明らかに甘いキスだった。と同時に、僕は思い出すことになった。

 あの夏、えりちゃんとしたキスはなんだったんだろうか。ということを。

 あの日彼女としたキスは特別だった。それは、浅田と会う前からそうだった。運動会の徒競走で一位を取ったり、修学旅行でした恋バナなんかと似たようなものだったはずだ。それが、浅田と出会って、付き合って、そしてえりちゃんと同じキスをしたことで、確実にそれとは全く別の意味を持つものになった。決していい意味ではない。むしろ引っかかりを覚えるような奇妙なものとして捉えられるようになった。

 どうしてえりちゃんはキスをしようと言ったのだろうか。

 その疑問が、今年になって急速に膨れ上がっていった。

 彼女と再会するまでは、その理由を単なる好奇心だと片付けてきた。だけどそれは、自分がそうだったから彼女もきっとそうに違いないというただの押しつけだ。僕らのかわした言葉は、キスをしようという提案と、それを受け入れる返事、感想、そして秘密にするという約束だけだった。今さらになって、キスをしようとした理由を訊いていなかったことに気づく。

 えりちゃんとのキスを考えれば考えるほど、浅田とのキスがかけ離れていくようだった。僕たちは結局、初めてのキス以来一度も唇を触れ合わせたことはない。僕の方からそれを拒んだからだ。たとえ頬っぺただったとしても、浅田にキスをするというだけで、僕の頭にはあの日の光景が再生される。何度も……何度も……。唇にしてほしいと言われ、それに応じようとしたこともあった。だけど決まって、一定の距離まで近づくと、そこから体が動こうとしない。

 高いところに行くと足がすくんでしまうように、尖ったものを突きつけられて目をそむけたくなるように、僕が唇にキスできないのは、大げさに言えば恐怖症だからかもしれない。

 唇へのキスを拒み始めた頃は、浅田も強く抗議してきた。だけど、僕が頑なにそのわけを話さないでいると、今日みたいに諦めるようになっていった。そんな彼女に申し訳なさを感じてはいるものの、僕はまだ、浅田に何も言えずにいる……。

 何もかもが中途半端で、そう考えをまとめた途端、自分に嫌気がさしてきた。僕は一体何がしたいんだろう。

 息を吐き出して、つばを飲み込むと喉が渇いていたことに気づく。リビングに向かおうと体を起こした拍子にベッドから携帯が落ちた。弾みでアドレス帳が開く。携帯を取り上げて画面をスクロールする。『藤井愛理奈』。目は自然とその文字を捉える。ベッドに腰を下ろして名前を押す。彼女のプロフィールが詳細に表示される。

 メール、してみようか。

 画面の右端をちらと確認してみると、十一時十分前だった。彼女の話によると、バイトは十一時に終わるとのことだ。

 彼女の名前を見ていると、何か連絡をしなくちゃいけないような気がして、僕はメール作成画面を開いた。そして文章を作り上げる。バイトの労いの言葉と、これから時間があるかの確認する旨を書いただけの簡単なメールだ。送信して部屋を出た。

 リビングで麦茶を飲んでそのまま部屋に戻って来ると、携帯のメール受信ランプが点滅していた。確認するとえりちゃんからだった。メールには、バイトが早く終わったことと、時間はあるけど、ちょうど帰宅途中だから折り返し連絡するということが書いてあった。僕は「分かった。気をつけてね」とだけ打って送った。

 そのメールを送ってから十数分後に僕らはやり取りを再開した。

 ――ごめんね、今帰りました。

 ――お疲れ様。そう言えば昼間聞きそびれたんだけど、何のバイトやってるの?

 ――喫茶店だよ。週四から週五で働いてる。

 ――週五? 一人暮らししてるんだよね。大丈夫なの?

 ――うん。何とかね。

 えりちゃんは絵文字も顔文字も一切使わずに、文章だけを返してくる。浅田とは正反対だ。

 ――すごいなぁ、えりちゃんは。

 ――全然。全然すごくないよ。

 とえりちゃんは否定する。

 また新たにメールの作成画面を立ち上げる。そして、意識的に一呼吸する。夕方、僕は一度あることを聞こうとして、結局聞けなかった。それを聞きたいがために、こうしてメールを始めた。会話の流れ的にも、聞くなら今だ。

 ――あの、一つだけ聞いてもいいかな。

 ――何?

 返信はすぐに来た。僕はあらかじめ用意していた言葉を文章に起こす。

 ――どうして、またこの町に戻ってきたの?

 送信を押す。メールのマークが何度か向こう側へ小さくなって、「送信完了」の文字が画面に現れる。

 じっと画面を見つめていると、右上の時計が一分進んだ。メールボックスを更新してみる……何も届いていない。もしかしたら、届いていないのかもしれない。そう思って下書きボックスを開く。空だった。

 その後、また時間が一分過ぎた。疲れて眠ってしまったんだろうか。それとも、電話か何か急用が入ったのだろうか。別の友達とも同時にメールをしているかもしれない。そうやってすぐに返信してこない理由をいくつか並べ立てたけど、何となく、どれもしっくり来なかった――僕の頭には、唯一、聞いてはいけなかったのかもしれないという考えだけが、はっきりと居座っていた。

 再会したばかりのくせに、少し踏み込み過ぎたかもしれない。彼女はこの町に戻ってきたけど、それにはまた深い事情があって、だから話せないのかもしれない。

 さらに時間が経過して、なおも返信が来ないことから、僕の考えはより強固なものとなっていった。今度は返信からメールを作るのではなく、完全に新しいメールから作った。

 ――ごめん、今のは何でもない。忘れて。

 そして、一行空けて、こう付け加える。

 ――明日、もしよかったら会えないかな?

 三回確認して、送信した。傷つけてしまったんじゃないかという不安は際限なく膨れていった。もう一度受信してみたけど、何も来なかった。

 えりちゃんと再会したその日、僕は眠りにつくまで後ろめたさを感じたままでいた。

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