餞別

 世界は――揺り籠の内側なかは、七つの階層に分け隔てられている。

 最下層の地階に住むのは罪人たち、その一層上には生まれついての病人や不具の者。三層めには不信心者、四層めには貧しい者がひしめき、五層から六層にかけては信心深く財に恵まれた者たちのための豊かな場所だった。そうして螺旋を描きながら天を目指すそれらすべての階層の頂、最上階の第七層には、選ばれた者しか入ることの許されない神殿が置かれている。そこは“神の仮初めの御座所おましどころ”と呼ばれていた。

「最上階にはいないって……どういうことだ、じじい」

 手配を頼んだ得物の具合を特段の感慨もなさげに淡々と確かめていた男は、途端にそれまでとは様相を変えて不穏に凄んだ。

「まあ、わざわざご大層に“仮初めの”だのと冠してるくらいだからなあ。いないとしてもおかしくはないわな」

 白髪髭をたくわえた老人は、勘定中のボロ札から瞬時も目を離さないまま素っ気なく言い放った。紙幣をたぐる指先の正確ですばやい動きは、大柄な男の怒気に間近で晒されてもいっさい乱れることはない。

 それは第三層の、下階との境界近く。人気の少ない裏通りの一角で、外光の殆ど射し込まない半地下の、薄暗い店の奥での会話だった。

 散らかり放題の店内にはありとあらゆるがらくたが所狭しと山に積まれて、整理整頓という言葉などとは無縁のまま埃をかぶっている。店内にいったいどれだけの何があるのか、何が何処に置かれているのか、店主である老人自身にもまるきりわかっていないそうだが、それが却って、この店で手に入らないものはひとつと無いという評判を界隈で呼ぶ所以としていた。男と老人は年季の入った執務机を挟んで、向かい合って椅子に掛けている。老人の背後には店のさらに深部へと続く豪奢な飾り彫りのなされた暗い艶を持つ扉、通りに面した窓を背負って男が座している椅子は、訪れた“客”の為に用意されている場所だ。

 男がこの老人に世話になるようになったのは八歳の頃のこと。腰を痛めたという彼の代わりに力仕事を請け負ったのがそもそもで、成長し体格に恵まれ始めた十五の頃からは老人に常に帯同し、用心棒めいた仕事を始めていた。そこから十余年、力にものを言わせて他者を容赦なく踏みにじりながら稼いできた金の殆どを男は今回の相談に注ぎ込んだ。神を殺したい。前置き無しにそう告げた彼の言葉を、老人は嗤わずに受けとめた。男が此方側の椅子に掛けるのは、二十年近い二人の関係の中で初めてのことだ。

「なら、どこに居るっていうんだ。どこに行けば殺せる。上層階の奴らはどうなんだ……あいつらは神に会ったことがあるのか? 奴らを脅して屠れば居場所がわかるなら――」

「焦るなよ。話は最後まで聞け」

 まくしたてる男の勢いにうんざりした顔を見せ、老人は片手をひらひらと振って彼をいなした。男は不満げな呻きを漏らし、けれども結局は口をかたく引き結んで、むっとした顔を見せながらも黙り込んだ。

「図体がでかくなったばっかりで、中身はガキのままか?」

 ぎろりと、反抗的なまなざしで男は老人を睨みつける――黙ったままで。男のあからさまな苛立ちに老人はため息を吐くと、袖机の抽斗を乱暴に引きあけた。中を覗きもせぬまま迷いのない指づかいで奥を探って、曰くありげな鍵束をぞろりと取り出す。

「“客”の目の前でこの扉を開くのは初めてのことだし、中に入れるのも、当然初めてのことだ」

 老人は鷹揚に顎をしゃくり、男に立って此方側に来るよう促した。

「俺もどのみち、先がそれほどあるわけでもないだろうからな。俺が集めた世界のひみつをお前にくれてやるよ」

 低く重たく不穏に軋みながら、扉はひらかれる。ぐるりを取り囲む、獄に囚われてもがき苦しむ無数の表情の造形が一瞬、男を憐れんで笑ったように見えた。怪物の臓腑はらわたの中のような得体の知れない暗闇がふたりの足下から這い広がっている。

「……お前の妹の役には、最後までたってやれなかったからなあ。どんな薬草もまじないも、声を取り戻してやることは出来ず終いで……」

 老人が翳した手燭の上で、ちいさな火影がじりりと鳴いた。
















 風が唸ると心が落ち着く。

 自らの踵が、或いは爪先が、砂礫をにじってきしませると、ほっとした。

 それほどまでに何も無かった。生命の気配が、ひいては音が。

 空と、乾いた地表と、夜には星の屑。

 もう五日、そればかりを目に映して男は歩んでいた。

 今日は朝から、闇市の親爺と最後に顔を合わせた時の会話と、出立した晩にみた不思議な夢のことを延々思い返していた。

 妹の声。聞いたことのない筈の、その声を、何故自分は夢の中であれほど確かに、彼女のものと信じたのだろう。

 今ではもうすっかり、思い起こすことができなくなっていた。一度は夢に訪れた、あれほど懐かしく希求した、あのきよらかな声の響きを。

 男はふと足を止め、頭上を見上げる。太陽は天頂近くに在った。方位計を取り出し、その針の振れを見つめ、息を吐く。しかしてすぐにふたたび足を持ち上げた男のその動きを――歩み出そうとする一歩を躊躇わせたのは、彼の鼓膜を微かに刺激した、未知の音の気配だった。

 それは風にのって、彼方から這うように流れ来る。

 男のものとも女のものとも判別のつかない高低の、歌――恐らくは、歌なのだ。はっきりしない抑揚が、複雑に重なり合って、不気味な旋律をかたちづくっている。

 男は素早くあたりを見回した。が、身を潜められるような場所などある筈も無かった。腰の刀に手を添える。緊張に咽喉はごくりと上下する。風の向こうから現れるだろう世界のひみつを、そうして男は待ちわびた。

 

 


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