第28話

 ちょうどその時だった。


「竜太、お父さん、ご飯できたわよ」


 母の、緊張感の微塵もない声。僕は母の空気の読めなさに意表を突かれたが、すぐにそれはわざとであることを察した。きっと母は、自分が関与すべき問題ではないと判断したのだろう。だから、いつも通りの自分を演じているのだ。きっと自分も、僕と父のことを心配していることを胸に押し込めながら。

『はーい』と答えながら僕は上半身を跳ね上げ、ベッドから下りる。しかし、父が母に応答する声は聞こえなかった。

 僕はしばし間を置いてから、階下のダイニングへと下りることにした。


「あら竜太、なかなか来てくれないから、お母さん呼びに行こうと思ってたのよ」

「ああ、ごめん」


 僕は素直に謝っておく。


「ねえ、母さん。ちょっと」


 晩ご飯のカレーを煮ている母に近づき、僕は手招きをした。母は『なあに?』と首を傾げながら振り返る。きょとん、とした表情を作っているが、そこに懸念の色が浮かんでいるのを僕は見逃さなかった。

 ちょうど耳打ちをするような格好で、口元にメガホンを作りながら母の耳に顔を近づける。


「父さん、何かあった?」


 すると母もひそひそ声で尋ね返してきた。


「何か、って?」

「怒ってるとか、悲しんでるとか」

「うーん……。それはないようだと思うけれど。あなたと違って、何にも答えてくれな――」


 と言いかけて、母は僕の後方に視線を遣った。


「すまない。遅くなったな、二人共」

「ああ、父さん。どうしたんだい?」


 そう言って僕は振り返った。しかし僕もまた、母同様に言葉に詰まることになる。

 父の目は真っ赤だったのだ。涙の跡こそ見られなかったが――拭き取るのが容易だったのだろう――、目の充血だけはどうにもならなかったらしい。


 すると、父はふーっ、と大きなため息をつき、僕と目を合わせた。その時の父の瞳は、強い感情を押し隠しながらも、真摯さを失わない複雑なものだった。


「竜太」

「は、はい」


 日頃の厳しい父の態度を見てきた僕は、思わず身を固くする。しかし父が取った行動は、全く予想外のものだった。

 ぴっと両手を身体の側面に当て、ゆっくりと、深々と頭を下げたのだ。


「と、父さん?」


 僕はどもりながら、父の姿に見入った。まるで僕を、一人の大人として扱っているような態度ではないか。そして、父はこう言った。


「ありがとう。そしてすまなかった」


 僕は突然の、予想だにしなかった展開に狼狽した。


「え、急にどうしたんだ、父さん……?」

「私はお前、いや失礼、竜太のことを過小評価していたらしい。お爺ちゃんのこともだ」


 過小評価? 何のことだ? それに、僕は父の言葉の語尾を正確に捉えていた。今までは『竜蔵さん』などと呼んでいた人のことを、『お爺ちゃん』だって?


「父さん、今、爺ちゃんのことを爺ちゃんって呼んだのかい?」


 我ながら意味不明な問いかけだが、父は『そうだ』と一言。それからゆっくりと、父は顔を上げた。


「伝えたいことは二つある。順番に話そう」


 一旦語り始めた父は、よくする気難しい顔に戻っていた。話が理論的なところも。


「まずは、竜太。お前が一人前に……いや、それ以上に私の希望を叶えてくれた。感謝する」

「き、希望だなんて、大げさだよ」


 僕は素早く左右に首を振ったが、父はずっと熱い視線で僕を見つめている。


「爺ちゃんにはない慎重さ、私にはない度胸。その二つを持っていればこそ、あんな映像が撮れたんだ。誰かが協力してくれたのか?」


 素直に頷く僕。


「いや、何もそれを責めるつもりはない。むしろ称えたいくらいだ。そういう協力者がいるということは、それだけお前に人徳があるということ。自信を持て」

「自信……」


 僕は父の言葉を、ゆっくりと咀嚼する。


「それと、二点目だ」


 父は突然俯いた。かと思ったら、空を仰ぐように天井に顔を向ける。


「父さん……」


 今の台詞は父のものだ。父からすれば、爺ちゃんは『父さん』ということになる。

 父は、しばし口を開けたり閉じたりしていたが、ゆっくりと首を元に戻し、僕と目を合わせた。その瞳に、きらりと光るものがある。


「ああ、すまんな竜太。父さん、いや爺ちゃんがそこまで思いやりのある人物だとは思えなくてな。それに――」

「それに?」


 僕は静かに父の言葉を促した。


「久しぶりに母さん、じゃないな、婆ちゃんの姿が見られて、嬉しかった。竜太、お前は覚えていないかんしれないが、我々が病室に着いた時、婆ちゃんは話ができる状態じゃなかった。最期に何を思っていたか、分からなかったんだ」


『それをお前が知らせてくれたんだ』と、父はしっかりとした視線を僕と交わした。


「これは婆ちゃんが亡くなった時、つまり私が中間霊域に入った時の話だが、確か人数制限があったはずだ」


 ふむ。僕は今まで考えたことがなかったけれど、女神様は僕と里香、それに岡倉先輩の三人を中間霊域に引き込んだ。もしかしたら、これ以上の人数を連れ込むのは難しいのかもしれない。


「私には相談相手がいなくてな……。結局婆ちゃんの中間霊域に入ったの私だけだった。しかし、婆ちゃんはいつも誰かを責めるようなことは言わなかったんだ。爺ちゃんのことも。私はそれを、ずっと婆ちゃんが『我慢して』伝えないだけかと思っていたが……」


『婆ちゃんは、爺ちゃんを本当に愛していたんだな』


 そう呟いた父の代わりに、僕は目頭は熱くなってしまった。

 すると、くしゃくしゃっ、と優しい掌が僕の髪を撫でた。


「ありがとう、竜太。さあ母さん、晩ご飯にしよう」


 どこかスッキリした表情で、席に着く父。そんな父を、母は温かい眼差しで見つめている。


「さ、冷めないうちにね。竜太?」

「う、うん!」


 僕はちょうど父の正面の席に着き、母がカレーライスをよそってくれるのを待った。


         ※


 翌日。学校にて。


「そうだったんだね、竜太」

「うん。ありがとう、里香」

「私はただのカメラマンだよ」


 恥ずかし気に顔を逸らす里香。僕はこれ以上、里香を持ち上げるのを止めた。

僕たち二人は教室の隅、ベランダへの出口の近くで語り合っていた。

 ちょうど今は、昨日の父のリアクションを里香に伝えたところ。里香にも当然ながら知る権利があるであろうと考え、僕が話を持ちかけたのだ。


 友梨奈の姿は、今日はまだ見かけていない。大丈夫かな、と心配にはなったものの、彼女には彼女なりに自分の道を見つけてもらうしかない。

 僕は振り返り、柱に背をつけながら教室の中央を見遣った。

 皆、楽しそうにグループを作っているが、やはり一番輝いているのは篤だった。

 久々に彼を見かけたような錯覚に囚われる。やっぱり眩しいよなあ、彼は。

 友梨奈も篤の気持ちに気づいてくれたら――。


 そんなことを考えている間に、朝のホームルームの予鈴が鳴った。


「それじゃ、里香」

「うん、竜太」


 僕はゆっくりと自席へ戻った。


 思いがけないことは、放課後に起こった。


「なあ、竜太」

「あ、どうしたんだい、篤くん?」

「今日は休みらしいんだ、柏木のやつ。何か聞いてないか?」

「え?」


 僕は思わず息を詰まらせた。

 友梨奈が休み? 珍しいことがあるものだ。一体どうしたんだろう?

 僕が彼女を振ってしまった翌日でさえ、友梨奈は休むようなことはなかった。平常心そのまんま、といったところだった。


「ごめん、よく分からないな」

「そう、か……」


 篤はポケットに両手を突っ込み、顔を逸らしながら唸りともため息ともつかない呼吸をした。


「悪いな、竜太」

「いや、こっちこそごめん」

「んじゃ」


 篤は肩を竦め、落ち着かない様子で教室を出て行った。


「竜太」


 次に声をかけてきたのは里香だ。


「昇降口まで一緒に帰ろう?」

「ああ、もちろん!」


 ガタン、と椅子を鳴らしながら、僕は立ち上がった。


「里香、今日も中間霊域に行ってみる?」

「そうだね。さっき竜太がしてくれた話、お爺さんにも伝えなくちゃ」

「うん」


 そう言って、僕と里香はシューズを鳴らしながら昇降口へと向かった。

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