第18話

 翌日。学校の教室にて。


「おはよう、里香」

「あ、おはよう、竜太」


 ゆっくりと視線を正面に戻し、笑顔を見せる里香。だが、すぐに俯いてしまった。やはり不安なのだろう。僕はそっと里香の机に手をつき、


「だ、大丈夫だよ! この学校で、いじめや暴力沙汰なんて聞いたことないだろう?」

「うん」

「なんにも危険なことなんてないって!」


 とは言いながらも、僕は理解していた。理由のない不安に苛まれるのは、誰しもあることだと。そしてそれを胸中から抹消することは、決してできないことであると。

 だからこそ、行かなければならないのだ。二人で。

 

 しかし、緊張しっぱなしでは今日一日ともたないだろう。頭では分かってるんだけどなあ、心配ないって。それでも心というか、本能的な何かが僕の行動力を削いでいく。まあ、そもそもあってないような行動力だけれど。

 

 授業中、僕は何度か里香の方を窺った。里香は、頬を掌に当ててぼんやり外を眺めている。いつもどんな姿勢で授業に臨んでいるのかは気にしていなかったけれど、少なくとも今は集中できていないことは分かる。

 僕は授業中に指される危険性を感じ、黒板へと顔を戻した。


         ※


 放課後。

 僕は頭の中で、岡倉先輩に何と言えばいいのか、幾度も想定を繰り返していた。中間霊域まで来てもらう以上、祖父のことについては語らなければなるまい。信じてもらえるだろうか? あ、それは問題ないか。信じようと信じまいと、あの先輩は興味本位で動く人だ。生と死の境目など、是非とも行ってみたいに違いない。


 そこまで考えをまとめた時だった。

 後ろからぽん、と肩を叩かれた。振り返ると、


「なあ、竜太……」

「あ、やあ、篤くん」


 篤が、何やら神妙な顔つきで僕を覗き込んでいた。こんな複雑な表情ができるとは思わなかった――と言うと篤に失礼だが、とにかく妙な雰囲気だった。普段の彼からは想像もつかない。


 すると篤は、僕の肩に手を載せたまま大きなため息をついた。


「ど、どうしたの……?」


 篤は周囲を見回した。友人たちが近くにいないことを確かめたのだろう。そして再び僕と目を合わせてから、


「柏木のやつ、どうかしたのか?」

「っ!」


 僕は返答に窮した。何だか最近、答えづらい質問を投げかけられてばかりだ。


「あいつ、いっつも元気に振る舞ってるだろ? そのくせに、今日はぼんやりしてるっていうか、気が抜けてるっていうか……とにかくいつもの柏木じゃねえんだよ」


『お前、何か知らないか?』と問いかけられて、僕はいよいよ追い詰められた。

『昨日僕が彼女を振ってしまったからだ』とは口が裂けても言えない。と、言うか。

 そうか、篤は友梨奈のことが気になっていたのか。恋愛という意味で。三角関係を超えて、四角関係になってしまった。


「ご、ごめん、よく分からないな」


 僕は軽くあとずさりしながら答えた。


「そう、か……」


 すると、篤は自分の額に手を遣って俯いてしまった。


「ったく、あいつがパッとしねえと、俺もなんつうか、調子が出ねえっつうか……」

「そうなんだ」


 と僕が相槌を打つと、篤は慌てて首を左右に振った。


「い、いや! 別に気にしてるわけじゃないからな!」


 思いっきり意識してるじゃないか。


「まあいいや、竜太にも分からないってんならしょうがねえよな。忘れてくれ。他言無用で頼む」

「ああ、うん」


 するとちょうど、篤の友人が彼の背後から忍び寄り、腕を篤の首に遣った。


「ぐえっ!」

「なーにを気にしてるのかな? 篤くん?」

「バッ、何でもねえよ、何でも!」


 綺麗なチョークスリーパーから脱出しながら、篤は喚いた。


「悪かったな竜太、時間喰っちまって」

「いや、気にしないでよ」


『んじゃまた明日』と、どこかぶすっとした顔つきで篤は教室を後にした。


 さて。僕たちは僕たちのミッションを遂行しなければ。

 僕が自分の鞄を取りに自席に戻ると、ちょうど教室出入り口で里香が待っているのが見えた。

 

「里香、大丈夫?」

「うん。一人じゃないから」

「そっか」


『一人じゃないから』か。里香は、少しは僕をあてにしてくれているようだ。僕は少し元気を貰ったような気分で、里香とともに教室を出た。


         ※


「いよいよ、だね……」

「……」


 唾を飲む僕と、無言を貫く里香。

 僕たち二人は今、二階から三階へと上がる階段の前にいる。僕は強がって、

『なあに、三年生ったって二年しか歳変わらないんだから!』と言ってみせていたけれど、いざこの場に至ってみると、不安と恐怖が全身にまとわりついてくる。


「じゃあ、行こうか……」

「……」


 ただ階段に足をかけるだけなのに、僕たちは何度も唾を飲み、無言で佇み……を繰り返している。周囲の視線がやや気になったが、とにかく進むしかない。


「あ、あのさ」

「な、何?」

「せーので一緒に一段上がってみようか? 二人同時なら、まだ恐怖が和らぐかも」


 無言で頷く里香。僕も頷き返す。


「せーのっ!」


 ダン、と音がするほどの勢いで、僕は一段目に足をかけた。ふう、この調子だな。全く未知の領域に足を踏み入れたことをきっかけに、ここからゆっくり上っていこうと思った、その時のことだった。


 ズダダダダダダダッ!! と、凄まじい『打撃音』がした。リノリウムの床を、屋内シューズが打ちつける『打撃』だ。


「ちょ、里香!?」


 里香は一段一段のことなど考えず、ものすごい勢いで階段を駆け上っていた。半ばパニックになったのか、やけっぱちになったのか、はたまたその両方か。詳細は不明だが、風を起こすほどの勢いで、里香は階段を上りきってしまった。


「待ってよ、里香!!」


 こうなったら、周囲の目など構ってはいられない。僕は一段飛ばしで駆け上がり、三階の廊下を疾走する里香の背中を追った。


「はあ、はあ、はあ、はあ……」


 里香は美術室前へと辿り着き、両手を膝に当てて荒い息をついていた。

 非難というよりは心配げな視線が、周囲から里香を追っている。僕も早く駆けつけて、美術室の中に避難しなければ。


「すみません! ごめんなさい! 失礼します!」


 僕は自分の貧弱なボキャブラリーを最大限活用しながら、廊下を一直線に駆け抜けた。誰にもぶつからなかったのは、僥倖というべきだろう。


「里香、突然駆け出さないでよ! はあ……」

「ご、ごめんなさい、竜太。一歩踏み出そうとしたら、足が勝手に……」


 その時、僕は思い出していた。トランジスタラジオを握りしめ、大喜びしていた里香の姿を。

 改めて話をするまで、ぼくはずっと彼女の『大人しい』面しか知らなかった。

 でも、人間誰しも一枚岩ではないということなのだろう。いくら普段『大人しく』見えたとしても、自分を制御できずに突っ走ることもあるし、それが幸いになることもある。


「と、とにかく中に入ろうか」

「ええ……」


 改めて視線を上げ、ここが美術室であることを確認する。

 僕は握った拳をゆっくりと肩まで上げ、美術室の出入り口をノックした。

 しかし、反応はない。人がいるのかどうか、ここからではその気配を察することもできない。

 頭上にクエスチョンマークを浮かべながら、再びノックをしようとした、その時だった。

 バン! と音がして、勢いよくスライド式の扉が引き開けられた。

 続けざまに、何かが僕の頭上から振り下ろされ、脳天を直撃した。


「痛っ!!」

「何者だ! 我輩の創作の邪魔をするのは! 場合によってはこの場で息の根を……って、ん?」


 僕は理解した。僕の頭上から振り下ろされたのは絵筆だ。見たことがないほど大きなものだったが。

 竹刀より少し小さいくらいだろうか。先端部からじとっ、とした感触が髪、頭部、顔、首筋と流れてくる。これは絵具か。ん? 絵具だって?


「うわわわっ!?」


 僕は慌てて後ずさった。窓の方を見る。するとそこには、ちょうど脳天から色とりどりの絵具を滴らせた僕が映っていた。


「おお、何者かと思ったら、いつぞやのプリティ・ボーイじゃないかね!」

「プ、プリティって……」


 この前は『純真ボーイ』だったのに。この人の基準で『プリティ』と呼ばれると、何とも言えない気分になる。悪い意味で。


「芸術に目覚めたのだね! 素晴らしいことだ! さ、入ってくれ。おや? 君は……」


 必死に絵具を拭おうとしている僕。何とか目を上げると、先輩は僕から目を逸らし、里香の方を見つめていた。

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