第11話

 僕は思わず、喚きたてるのを止めて聞き入った。どこかのコンサートの時の音源らしく、時折掠れたり、間奏で拍手が入ったりしている。

 だが、僕はそれを決して不快だとは思わなかった。むしろ、自分がそのコンサートホールにいるような臨場感すら覚える。それほどの吸引力が、この歌にはあったのだ。

 しばしの歌唱の後、ざーーーっ、という、しかし砂嵐とは異なる暖かい拍手の波が押し寄せた。


《はい。今回のリクエスト『見上げてごらん夜の星を』でした。では次に――》


 ラジオはニュース報道に入ったが、僕は身動きせず、ニュースも聞かずに佇んでいた。

 余韻に浸っていたのだ。音楽を聞くのは大好きだけれど、こんなに心動かされることがあっただろうか。

 そう言えば、僕の最初のラジカセは、祖父が僕の誕生日にくれたものだったっけ。


「ねえ、爺ちゃん――」


 僕は明るい、しかし落ち着きのある口調で祖父の方を振り返った。だが、


「……」


 祖父は黙り込み、微かに顔を逸らしていた。僕の位置からは、祖父の表情までは読み取れない。しかし、祖父の片頬にすっ、と一筋の涙が流れ落ちるのははっきりと見えた。

 これ以上、ここにいても申し訳ない。今の祖父は、そっとしておいてあげた方がいい。

 そう思った僕は、少しだけラジオのヴォリュームを絞り、


「明日の放課後、また来るよ」


 と言ってロッジを出た。振り返った時、祖父がそっと指先で目尻を拭うのが見えた。

 思い出の一曲だったんだろうな。

 そしてもう一つ、僕は気づいた。今、僕は祖父に『また来る』と告げたのだ。無意識だったけれど、どうやら僕には祖父の願いを叶えたい、という気持ちがあるようだ。

 これからも大変な目に遭うだろうけれど、祖父のためならば。


 ――さて。

 僕は直近の問題について考え始めた。


「どうやったら帰れるんだ……?」


 夕日を浴び、仁王立ちになり、腕を組みながら考える。前回は睡魔に襲われて、一体どうなったのかは分からなかったしなあ……。


 その時、


(竜太さん、目を閉じてください)

「あ、その声……」


 女神様だ。僕は目を閉じ、腕で頭の上半分を覆った。


(あ、今は顕現するわけではないので、そんなに眩しくはないですよ)

「え?」


 腕を下ろして薄く目を開けると、夕日を逆光にしながら緑色のゴルフボール大の光球が下りてくるところだった。


(今回はご苦労様でした、竜太さん)

「あ、はい」


 僕は短く答えた。


(いかがでしたか? お爺様の手助けは?)

「そんな、手助けなんてほどのことは、僕は何も……」


 腕を後ろに遣りながら、僕は俯いた。しかし女神様は


(確かにラジオを修理したのはあなたではなかったかもしれません。でも、それができる人を見つけ、修理してもらい、再びここに戻ってきたのはあなたの遺志であり、良心の表れです。もっと自信を持っていいのですよ)


 僕は返答に窮した。


「自信、ですか」


 女神様が頷くような気配が伝わってくる。顕現していないのに、不思議と察せられたのだ。


(取り敢えず、今日はもうお帰りになるのでしょう?)

「はい、でもその方法が――」

(それでしたら、心の中で私を呼んでください。すぐに参ります)

「送ってもらえるんですか?」


 僕が首を捻ると、


(それが中間霊域の管理人としての私の仕事ですから。それでは)


 すると、唐突に僕の下の地面がなくなった。いや、僕が浮き上がったのだ。慌てて足をバタつかせそうになったが、女神様のやることだ、ミスはあり得まい。

 白い光に包まれる。それに合わせるようにして、僕はゆっくりと目を閉じた。


         ※


 そっと、絨毯の上に横たえられる感触がした。


「ん……」


 僕は胎児のように身を縮め、目を閉じた姿勢でいた。夕日が入らない書斎は薄暗い。目を開いても大丈夫だと判断して、僕はそっと瞼を上げた。絨毯の微かな黴臭さが漂い、カラスの鳴き声が聞こえてくる。

 僕は自分の手足が動くのを確認してから、ゆっくりと立ち上がった。手を後ろに遣り、軽く後頭部を掻く。念のためあたりを見回したが、トランジスタラジオはない。きちんと中間霊域に置いてきたということだ。

 今日は帰るとしよう。


「ただいま」

「あら竜太、お帰り」

「うん」


 昨日と同様に、台所から顔を出す母。


「母さん、今日はハンバーグ焦がさないでよ?」

「言われなくても分かってるわよぉ」


 菜箸を手に、顔を引っ込める母。僕は軽いため息をついて、自室のある二階へと登る階段に足をかけた、その時だった。


「お爺ちゃんの遺品整理、進んでる?」


 ギクッ。僕は胸が軋むような感覚を覚えた。


「あ、ああ。まだ時間はかかりそうだけど」

「そう。これからもよろしくね」

「分かってるって」


 僕は足早に階段に足をかけ、ぐいぐいと身体を運んでいった。

 これは学校にいた時も思ったことだけれど、『祖父の成仏を手伝っている』とは言えない。気が狂ったと思われる様子がありありと想像されてしまう。

 ただ、『明日も来る』と祖父に言ってしまったこと、女神様に諭されたこともあり、今更無下に断るわけにもいかない。

 これから先、何をすべきなのかは分からないけれど。

 その日は特にこれといった祖父関連の話題もなく、夕食を摂って風呂に入り、冷房を調整してからベッドへとダイブした。


         ※


 翌日。登校して教室に入り、自分の席に着くと


「あの、高峰くん」

「あっ、牧山さん」


 おずおずと、里香が僕に声をかけてきた。相変わらずおっとりとした様子だが、どこか緊張している様子でもある。

 僕は一瞬、心臓が飛び出るかと思ったけれど、里香の姿を認識して自らを落ち着けた。


「おはよう。どうしたの、牧山さん?」

「あのね、高峰くん」


 里香は一瞬俯いてから、


「昨日のあの子――トランジスタラジオのことだけど――、ちゃんと動いた?」

「ああ、うん。よく聞こえるようになったよ。牧山さんのお陰だ。ありがとう」

「本当に!?」

「!」


 突然身を乗り出し、ぐっと顔を近づけてきた里香。僕は狼狽えた。近い、近いって。

 かと思えば、里香はすぐに顔を引っ込め、


「よかったあー!」


 と、周囲の目も気にせずに回りだした。どうやら三半規管には自信があるらしい。

 ふと、何の前触れもなく、里香はぴたりと回転を止めた。


「じゃあ、またね、竜太くん」

「あ、うん」


 すると里香は、再び無口で大人しい、いかにも『優等生』の姿に戻り、自席へ向かっていった。


 その日はそれなりにきちんと勉強する必要があった。期末テストが近いのだ。今日も祖父の元へ行くつもりではあるけれど、だからこそ授業はよく聞いておかなければ。

 その緊張感が上手く働いたのか、僕はそれなりに授業内容を頭に叩き込むことができた。


「ふう……」


 僕がため息をつき、椅子の背もたれに身体を預けていると、


「おうい、竜太!」

「ああ、篤くん」

「柏木が呼んでるぜ」


 教室の入り口を見ると、友梨奈がこちらに手をぶんぶんと振っていた。


「ありがとう、篤くん」

「なあに、気にすんなよ」


 と、いう言葉の中に、微かな棘が含まれているのを僕は察した。

『どうかしたの?』と尋ねようとしたが、流石にそれは躊躇われた。何故なら、篤は苦虫を噛み潰したような顔をしていたからだ。

 こういう時に気の利いたことが言えればいいのだろうが、僕にはそんな自信がなかった。

 女神様は『自信を持って』と言ってくれていたけれど、全く、簡単に言ってくれるものだ。


「言われてできれば苦労はしないよ……」

「ん? どうしたんだ、竜太?」

「え、ああいや、何でもないんだ。ありがとう、篤くん」


 すると篤は、変な顔をしたままで教室から出て行った。

 それを見送った僕は、机の上を片づけて鞄に突っ込み、友梨奈の方へと向かった。


「どうかしたの、友梨奈?」

「どうかしたの、じゃないわよ。毎日一緒に帰るって話だったでしょ」

「あ、うん」


 友梨奈は眉間に手を遣った。そんなに苦労をかけているのだろうか。


「まあいいわ。宿題もたくさん出たし、早く帰りましょ」


 その日の話題は興味深かった。友梨奈のお兄さんの進学先が決まった。お坊さんを養成する大学に進むのだそうだ。


「そう言えば、友梨奈の家ってお寺だったよね」

「まあね。私はそれほど意識してるわけじゃないけど。それでも、昨日頭を丸刈りにして帰ってきた兄貴を見たら、ああ、やっぱり家はお寺なんだな、なんて思ったわね」

「ふうん……」


 伝統を継ぐ覚悟を持っているんだなあ、友梨奈のお兄さんは。僕なんかとは大違いだ。

 そうこうしている間に、僕たちはいつもの駅前で別れた。

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