第10話 希望はもう持てない

 翌朝。窓の外に目をやった。


「あっ……」


 ホテルの周りにはかなりの死にかけが群がっていた。囲んでるわけではないけれど、多いのは確かだ。じいちゃんも僕の横に立ってうめき声をあげた。


「外に出てきたのか、増えてるのか。二人で十も倒したら疲れちまう。どうするかな……」


 ベッドの上で寝転んで、じいちゃんが考え込んだ。


「夜まで待ってみる?」

「夜に減るってわかってりゃいいけどな」


 それもそうだ。


 このままじゃ出られない。何か手はないかとあれこれ考えた。部屋を見渡して、ホテルの便箋が目にとまった。固そうな紙だ。手に取って折ってみた。


「何してる?」

「いや、思いつき」


 便箋から紙飛行機を作ってみた。窓の二重ロックをスコップの先で壊してガラリと開けると、ヒョイっと飛ばす。階下の死にかけが目をそっちに向けた。


「なるほどな。気を逸らしてる間に逃げるか」

「うん。どうかな」


 それを聞くとじいちゃんが部屋を見まわして、隅で視線を止めた。


「その電気スタンド、コンセントから抜いてみろ」

「投げるの?」

「ああ。やってみよう」


 傘を取り外して横倒しにしてケーブルを巻き付け、二人でかつぐ。電球側を窓に向けた。


「いっせーの、せ!」


 上に向かって、二人がかりで全力で投げた。槍投げみたいに道路の反対側へ飛んで行く。ガシャンと音を立てると、死にかけが一斉に振り向いた。


「賢いぞ、邦彦」


 じいちゃんが僕の頭に手を乗せた。連中はぞろぞろ電気スタンドに集まっていく。


「目立つものにひかれるんだ」


 死にかけは、なんだろう、なんだろうとスタンドの周りにしゃがみこんでいる。じいちゃんが時間を計りはじめた。一分、二分、三分が過ぎたころになって、ようやく散らばっていった。


「人間らしさみてえなのが残ってんだ。普段コンビニには入っても、ホテルには用がねえから入らねえ。いきなりものすごく頭が悪くなったみてえだ」


 じいちゃんがごくりと喉をならす。


「残酷だな」

「何が……」

「何がだろうな。わからねえ。神様かな」


 下に散らばる死にかけたちの手足はひどく細い。彼らはもう元には戻れない。怖いと思う気持ちに加えて、可哀そうだという気持ちもある。それでも、残酷な神様の下では僕たちも残酷になるしかない。


「目立つもの。消火器……いや、発煙筒だな。地下に駐車場があるから、取ってくるか」


 僕たちは荷物を背負うと、非常階段でまっすぐ地下まで降りる。駐車場は電気が消えていたけれど、三〇台くらい並んでいるのはわかった。


「周り見ててくれ。一体だけなら戦って殺せ」

「わかった」


 車の一台へ近づく。じいちゃんは兼定の柄にタオルを巻きつけて窓を殴った。内側からロックを開ける。


「まず、一つ」


 じいちゃんが筒を取り出した。来年くらいまで使えると書いてある。


「もっとたくさん用意する?」

「そうしたいけど、防犯のブザーが鳴るとまずいんだ。うるせえからな。他の車はほとんど中でチカチカ光ってるからダメそうだ。それよりこの車そのものが使えればな……」

「フロントで鍵を探して……人が泊まってる部屋を見つけて車の鍵を探せばいい」


 じいちゃんがボンネットに座った。


「って言っても十七階建てだ。億劫だな」

「僕がやるよ」


 じいちゃんが複雑そうな顔で僕の顔を見た。ぎっと歯の音がした。それを隠すように顔を背け、一緒に行くよと言った。


 三つは空振り。四つ目に入った三階の部屋で、じいちゃんがうっと口をおさえて僕の前に手をだした。


「邦彦は入らないほうがいい」


 言うと、じいちゃんがすぐに部屋から青い顔をして出てきた。


「カギは見つかった」

「死んでたの……」

「ああ。カップルだ。男が女を紐で絞めて、同じ紐を天井から吊って死んでた」

「僕も入るよ」

「わざわざ見るもんじゃねえよ」

「ううん。お祈りしたい」


 部屋の倒れた椅子を起こし、天井からぶら下がった男の人を女の人の横に並べる。目がまだ開いていて、びくっと身を引いた。じいちゃんがそれを人差し指と中指で閉じた。


「死んだあと、なんでか知らないけど目を開けちまうことがあるんだよな。そのままにしとくと未練が残って、お彼岸に行きにくくなっちまうらしいが……」


 男の人を女の人の隣に並べ、手をつなげてあげた。二人の目を閉じる。そして死体は死者になった。


 じいちゃんがトヨタのマークが入ったキーを握りしめた。地下に降りて車を探す。いくつかの車に向けてキーのボタンを押していくと、青いアクアのウィンカーが点滅した。


「あれか……」


 車に入って、ふうと二人で息をついた。そこで僕の頭に厚い手を乗せて、じいちゃんが優しく笑った。


「なあ、邦彦」

「ん?」


「今より二年も前にこんなことになってたらな、じいちゃんは死ぬまで刀を振って、お前には絶対に殺させなかったと思うんだ。けどもう邦彦は十五だ。体もいい。頭も悪くねえ。それに気持ちもついていってる」


 言われて、思わず首を横に振った。


「剣道よわいし、勉強もできないよ?」

「試合に勝てねえの、試験ができねえの、そんなのはもういいよ。それより、頭と体を使って生きようとしてる。武道でもなんでも、それが大事なんだ。駒澤でサラに楯突いて相模原へ行こうってして、じいちゃんに手伝ってくれっても言えた。昨日も兼定を渡したときは、早いけど自信をつけさせておくかって思ってたんだ。けど、紙飛行機飛ばしてあいつらの動きかたを見たとき、十七階まで登って鍵探してくるって言ったとき、部屋に入ってお祈りしたとき。邦彦は大人だってはっきりわかったよ」


 エンジンをかける。赤白のバーを押し開けて外へ出た。外にはまだ死にかけがいた。じいちゃんが車をのろのろと進め、ぶつけながら追い散らして進む。


 窓をあけると、空気がざらざらしているような気がした。湿気がまるでなくて、夏らしくない感じがする。ちょっとした広場を見つけて、じいちゃんが車を停めた。


「兼定の振りかたを教えてやる。死にかけがいたら練習に付き合ってもらえ」

「うん」


 公園の真ん中で、僕は兼定の素振りをくりかえし、それから新しい技を教えてもらった。抜刀した勢いで相手を斬る技を、三十回くらいやらされた。


「これが、夢想神伝流居合の基本中の基本、初発刀しょはっとうだ。もともとはこめかみに刃先を当てる技なんだけど、今は喉をかっ斬る感じをつかめ。長さも意識しろよ。その剣の刃長は二尺三寸。竹刀より少し短い」

「わかった」

「次に抜いてから使う技だ。首を水平に切る組太刀は俺もやったことがねえ。ただ、袈裟がけに斬ると骨にあたって良くない。いろいろ考えたけど、新当流の中極意にある『地の角切』ってのがよさそうだ。こいつは下段に引っさげてから敵の太刀を横にはらって、すかさず水平に首を斬る技だ。中段からでも行ける。太刀の代わりに腕を払って斬ってみろ」


 じいちゃんが兼定を受けとると、横から腕を避けて首をとばす動きをくりかえした。


「最後に林崎新夢想流の技だ。納刀状態から右手で首を後ろから前におさえて、左手で半分抜刀して首を切る。抜いてないときに襲われたら使え」


 じいちゃんが兼定を僕に返す。まず十本ずつ。体が慣れてきたら、次はゆっくりやらせて姿勢をなおし、最後に速くやらせて実戦の感覚をつかませた。少しずつ、兼定が自分の体になじんでいった。

 

 その時、ゆっくりと死にかけが体を起こしてベンチのじいちゃんへ向かっているのが見えた。曇り空の下で、左手をふらふらと前に出して揺れていた。


 じいちゃんはベンチに横たわったまま、目だけをそいつに向けていた。やってみろとじいちゃんが濡れ手ぬぐいを投げてきた。じいちゃんが一度、自分の木刀で死にかけを突っついて遠ざけた。そのあいだに兼定を抜いて、手ぬぐいで刃に水を渡らせた。正眼に構えて歩み足で寄る。相手は腐っているのか、右足を引きずっている。


「横へ回って首を落とせ」

「わかった」


 息は弾まない。体がこいつらを殺すことに慣れていた。ぶんと習ったとおりに横へ刀を振る。死にかけの首からばっと血があふれて、どたっと体が転がる。残心を忘れず、周囲へ目を向けた。初めて兼定で斬ったけれど、緊張は驚くほど少なかった。


「もう一体いるね。そっちも倒すよ」


 それはトイレの陰からこっちへ近よってきている。濡れ手ぬぐいでもう一度刀を拭こうとした。そこで左手に違和感が走った。


「いって!」

「どうした?」


 拭くときに左の親指を斬ってしまった。でも浅い。ちょっと血が出ただけだ。


「大丈夫、なんともない!」


 言ったのに、じいちゃんが駆けよってきた。僕のほうへ。


 はっと前を見た。


「じいちゃん!」


 距離があると思ったのに、僕の声に反応して早足になっていた。じいちゃんの『三歩の距離』へ入っている。そいつが後ろからとびかかり、肩に噛みついた。


「くそう!」


 じいちゃんが叫びながら振りかえり、ゲンコツで死にかけの横っ面を殴りとばした。足払いで転がし、上から顔をふみつぶす。


「じいちゃん……」


 刀を納めて駆けよる。じいちゃんは右肩に手を置いて地べたに座り込んでいた。雲間から出てきた光にてらされた肩に、はっきり歯の形がついている。


 何が起きたのか考えられない。どうすればいいんだろう。どうすれば時間を巻き戻せるんだろう。誰も答えてくれるわけがなかった。景色から全ての色が消えて、真っ白な絶望が押しよせてきた。信じられなかった。こんなことで。こんなことで。


「やられた……!」


 絞りだすような声が湿った風の中に溶けていった。


 もう、助からない。

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