第41話 羽衣伝説

 ある所に一人の男がいました。

 彼は山へ行く途中の泉で水浴びをする女たちを見つけました。


(ここは温泉じゃない、と教えた方がいいのか?)


 女たちは裸です。

 必然的に垂れる鼻血を拭き拭き、男はその光景に釘付けになりながら考えます。


(でも変質者と思われても困る。覗きを非難されてもなお困る)


 声を掛けるか否かで迷っている男の視界の端に、風にたなびく白っぽい布が映ります。

 枝に掛けられたそれは、女たちの着物と羽衣でした。


(きれいな羽衣だな。って事は彼女たちは天女か)


 どうしても気になってそっとそれを手に取った男は、くわっと目を見開きます。


(こ、これは……!?)


 それは見た事も触った事もない上質な薄布でした。

 男は手の中の布に急激にとある欲求が湧くのを自覚します。


(駄目だよせ、よすんだ! しかし、ああ、もうこれはだめだ、抑えきれない……!!)


 男はそれを両手で持ち上げると勢いよく顔に当てました。


 ち――――――――ん!!!!


 そして思い切りよく、鼻をかんだのでした。

 彼は通年での鼻炎持ちでしたので、鼻の下が擦れてヒリ付くなんて日常茶飯事。ティッシュの質には長年頭を悩まされてきました。

 それが高じてティッシュ開発の研究員として日々研究に勤しみ、時々山に登っては良い木や材料となる物質はないかと探し回っています。ほとんど何事も自然界の中に真の最適解はあると男は思っているのです。

 自分と切っても切れないティッシュのためなら火の中水の中、植物動物鉱物資源何でも試してやると意気込んでいました。

 今日も自然界の新物質を探しに山へ……というそんな矢先の出来事だったのです。


(なっ何という気持ち良さ! 至高シリーズもカシミヤも贅沢保湿も鼻セレブもコットンフィールも様々なローションティッシュもその他高品質のティッシュもこの域には――ない、だと!? これは一体何なんだ!?)


 因みに、庶民派な五連一セットの通常ネピアやスコッティー、エルモアなどもちょっとかむ時や、普段使いとしてのコスパは捨てがたいと思う男です。


(更には見た目の美しさも取り入れたい。目にも楽しく美しい色の付いた十二単や七宝といった高級ティッシュさながらにしてこの品質なら、まさに申し分ないな!)


 毎日鼻をたくさんかむ彼は、ティッシュの品質と価格の間で常に揺れ動いています。しかし今は天女の羽衣で鼻をかむと言う緊張と興奮の間で揺れています。

 その時、鼻かみ音から男の存在に気付いた天女たちが悲鳴を上げ、一人を残して皆羽衣を纏うと天に逃げて行ってしまいました。

 見つかって慄いた男は、羽衣を握り締めると逃げ出します。


(き、究極の商品開発のために……ッ)


 いけない事だとはわかっていました。しかし、自分を止められなかったのです。





 翌日、昨日の山の麓の男の実家に一人の女がやってきました。


(あの時の……!)


 男はすぐさま気付きましたが、女の方は男の後ろ姿だけだったのでそうとは気付かなかったようです。

 話を聞けば、家に帰れなくなり途方に暮れているとのこと。

 ズキリとした罪悪感と同時に、男はその美しい女に見惚れていました。

 山での時は動転もしていたのでよくよく感じる余裕もなかったのですが、女は絶世の美女でした。

 羽衣の事は語らず彼女を保護した男は、ティッシュ研究の傍ら一緒に暮らすうちに良い仲になっていきました。

 結婚し一男一女をもうけ、家庭は順風満帆。

 しかしティッシュ開発の方は遅々として進まず、男はよく鼻の下を赤くしていました。

 その度に妻となった天女が優しく軟膏を塗ってくれたりしました。


 ただ、秘密はいつか暴かれるもの。


 ある日妻は見つけてしまったのです。

 ベッドの下に厳重に隠された、羽衣を。

 夫のエロ本やエロDⅤDを処分してやろうと奮起した結果でした。


「そうだったのね、あなた……ッ」


 そうして妻は証拠を突き付け、まずはどうしようもないエログッズを処分させ、次に羽衣を身に纏いました。


「わたくし、天に帰ります」

「なっ!? ま、待ってくれ僕が悪かった! 子供たちもいるんだ、考え直してくれ! もうエロは買わない!!」

「その前に言う事があるでしょうに、あなたったら!」

「そうだな。おまえを帰れなくしたのも黙っていたのも、本当に済まなかった……! でも僕はお前がいない生活なんてもう想像できない! 頼む、僕のためにも行かないでくれ!!」


 妻は憂えるようにため息をつきました。


「反省しているのならいいのです。わたくしあなたを恨んではいません。十分幸せでしたもの。でもごめんなさい。わたくしもあなたや子供たちと離れるなんて本当は嫌です。けれど天がそれを許してはくれないでしょう。今まではわたくしが気付いていなかったとして見逃してくれていたのです。ですがもうわたくしがこの羽衣を見つけてしまったからには、そうもいきません」

「そんな……」

「わたくしは帰らねばならないのです」


 そう涙を流しながら天女は天に帰って行きました。

 幼い子供たちと残された男は、悲しみと自責の念を呑み込むように研究開発にのめり込むようになりました。


「お兄ちゃん、お父さん大丈夫かな」

「そうだな。でも俺たちじゃ何もできない」


 子供たちはそんな父親をいつも心配していました。

 庭の木が見上げる程に伸びた分だけ月日は流れ、そしてついに、男の念願が叶う瞬間が訪れます。


「――究極のティッシュができたあああっ!!」


 出来上がって来た製品を手についつい叫んでしまった男でしたが、広い室内の声の反響音がすっかり止む頃、けれどどうしてか肩を落とします。


「……なんてな」


 完成した究極の品の上に、ポタポタと滴が落ちました。

 それを握り締め、何かを探すように窓から天を仰ぎます。


 ち――――ん!


 無駄にせず、きちんとそれで鼻もかみました。


 望みの品が完成したのにちっとも嬉しそうじゃない日々を送る父親を陰から眺める子供たち。

 二人にはもう幼さは見当たりません。

 時の流れは早いもので、兄の方はもう成人しています。


「お兄ちゃん、このティッシュはいい品だよね」

「ああ」

「きっと羽衣よりも勝ってるよね」

「当然だろ。父さんが人生を掛けて結実させたものだからな」

「ママが天女なら、私たちにも天女パワーってあると思わない?」

「どうだかな。でも何かはあるかもな。……妹よ、何か策があるのか?」

「可能性、だけどね」


 妹は、ティシュとペンを手に頷きました。


 その日、男の家から一筋の光が天に昇ったとか。


 それから何日したでしょう。男が子供たちと朝食を摂っていると空から光が降りてきました。光は庭先に達します。


「何だ!? おまえたちは下がっていなさい!」


 子供たちの前に立って庭先へと険しい双眸を向ける男。

 そこに現れた人影に、子供たちから歓声が上がりました。


「母さん!」

「ママ!」


 そう叫んで庭先へとすっ飛んで行きます。

 男はまだ自分の目が信じられず口をパクパクさせていましたが、慌てたように子供たちを追い掛けて庭に出ました。


「お、まえ……なのか?」


 子供たちを抱きしめていたその人は、男の方を見て小さく頷き微笑みました。


「あなた、ただいま」

「お、おまえ……!」


 会いたくて会いたくて仕方がなかったけれど叶わないと諦めていた男は、涙を堪えて降臨した天女――妻へと駆け寄りました。


「ありがとう。あなたたちのおかげで地上暮らしを許してもらえたのよ」

「俺たちの?」

「ママどういう事? あ、まさか!」


 妹の発案で、兄妹は父親の努力の結晶たるティッシュに手紙を記し、それに天女パワーを込めて天上まで送ったのです。

 幸い二人にはそれくらいの天女パワーはあったようです。

 天上の母親に手紙が届けばいいと願ってやった事でしたが、どういうわけか母親を取り戻すきっかけになりました。


「ひ、久しぶりだな。元気そうで何よりだよ」

「ええ。あなたも」

「しかし今の話はどういう意味だい?」


 天女は袖の中からするりとした布のような物を取り出しました。


「あっそれお兄ちゃんと一緒に送ったティッシュ!」

「ええ。嬉しくて泣きながら読ませてもらったわ」


 成功にハイタッチし合う子供たちの傍で、男が首を傾げます。


「僕には何が何だか……」

「実は、子供たちが手紙を書いて天女というか天上パワーで送ってくれた物なのです。この紙はあなたが開発した究極のティッシュですよね」


 妻が差し出す手紙を手に取った男はその材質を瞬時に見抜き頷きました。


「確かに僕が開発したティッシュだが。それがおまえの帰還とどう関係が?」


 天女は夫のこの尤もな疑問に、返してもらった手紙をあでやかな手つきで舞わせます。

 まるで羽衣そのもののように。


「実は天上でたまたまこの手紙に触れた長老様が、いたく感動してしまって……」

「え……?」


 何でも、天上には羽衣織りの職人不足という、何とも「天上にも担い手不足があるのかよ!」と突っ込みたくなる現実があったようです。けれどもそこに偶然届いたのが「ティッシュ便り」だったのです。

 加えて、従来の羽衣よりも肌触り、吸湿性、色味、どれをとっても優れていました。

 これはどこの織り職人の品だと問われ、地上の夫の努力の産物だと答えれば、地上から技術や商品を輸入したいと言い出したそうです。


「ええと、どうやって羽衣にするんだい?」

「それが、裁断前のティッシュのシートを羽衣型に成形して、長老様が天上パワーを与えれば羽衣が出来上がると、そう言っておりました」


 世にも不思議な羽衣が実は鼻かみティッシュでいいのだろうか、長老様もしやボケてないか、と男は親切心から懸念しましたが、天の者の不興を買って妻に帰られたくなかったので口には出しませんでした。


「まあそういう交渉事も含めてわたくしには地上降臨許可が下りたのです。うふふこれからはずっとあなたと子供たちの傍に居られて嬉しい限りです」

「ああ、そうだな。随分と子供たちも大きくなっただろう? ずっと寂しがっていたんだ。だから会えなかった時間を今からゆっくり取り戻すといい」

「ええ。たっぷり愛情を注ぎますね。あなたにも」

「え? いや僕は別に……」

「わたくしの帰りを喜んでは下さらないのですか?」

「いやそんな事はない。これでも十分心が躍るように喜んでいるさ」


 かつてよりしわが増え、人間としての深みを増した男。

 それはつまりは老いたと言う事です。きっとあと二、三十年もすれば白髪が普通になる程度には。

 感情の起伏も大らかになって、若い頃のように羽衣で衝動的に鼻をかんで挙句盗んだりなんてもうしません。

 優しく見守る大人の笑みを浮かべる夫へと、妻は不満そうににじり寄りました。


「……本当ですか?」

「本当だとも」

「でしたら、ここでわたくしに口付けして下さいな」

「口付け!?」


 明らかに気まずそうに動揺してしまった夫を、妻は拗ねたように見つめました。


「あなたにはわたくしの事なんて、最早過去の女なのですね。もしかして再婚を……?」

「いやいやいや僕は今までもこれからも死ぬまでおまえ一筋だよ!」


 慌てる様が余計に怪しく見えるかもと思えば更に焦りつつ、男は俯く妻を覗き込み……。


 ――ちゅ。


「うふふ引っ掛かりましたわね、あなた」

「……ッ」


 不意打ちで口付けをされた男は、頬を染め口元に手の甲を当てて目を丸くしています。

 けれど、堪えるようにきつく目を瞑ると、左右に首を振りました。


「こういうのは、やめてくれ」

「あなた、どうして?」


 天女の悲哀を秘めた双眸が、男には自分の心臓に穴を開けられるように感じました。


「一目再会したおまえを見て思ったんだ。おまえは若く美しいままだというのに、僕は随分と歳を取った……」

「それのどこがわたくしを遠ざける理由なのですか? 人間歳を取るなんて当然ではありませんか!」


 男は小さな吐息と共に微苦笑します。


「こうして横に立って見てもわかるように、おまえには不釣り合いだよ」


 子供たちが何か掛ける言葉を躊躇するくらい、男の表情は確信に満ちていて誰にも覆せないような固い信念に染まっているようにみえました。


「家は自由に使ってくれて構わない。子供たちも喜ぶ。だが僕との関係は忘れてくれていいんだ」

「――いいえっ!」


 天女はブンブンと大きく左右に首を振ります。


「わたくしは天女ですから、年齢的な事は初めからどうしようもないと諦めておりました」


 天女が何歳かを訊ねた事はなかったものの、歳上かもしれないとは思っていた男です。けれど、諦めるとは……?と男はいぶかしみました。


「ですが外見的には、もう、今のあなたは……その――バッッッッチリなのですうううっ!!」


 天女の澄んだ高い声が天高く響き渡りました。

 男も子供たちも目を点にしました。

 しばし、特大の静けさが横たわっていました。


「えぇ、と……? な、何がバッチリなんだい?」


 面食らって戸惑った声を出す夫へと、天女はその世にも美しい細面を真っ赤に染めて、男が彼女と仲睦まじく過ごしていた若い時分ですら見た事のない心の底からうっとりした眼差しを向けてきます。

 じーっとおよそ二十年近くは時の流れた夫の姿を見つめています。

 そんな眼差しに内心でドキリとしつつ、男は歳の功で平静さを保ちつつ妻の続きの言葉を待ちました。

 果たして妻は、黒真珠の瞳を潤ませて夫の両手を自身の両手で包みこみハッキリと言いました。


「わたくし実は歳上が好みなのです。枯れ専とまではいきませんが、おじ専なのです。勿論昔のあなたも好きでしたけれど、今のあなたはもっともっと押し倒し……コホン、お慕いしております。もう本当にドストレートなのです!」

「え……」

「あなた、イケおじに育って下さってありがとうございますッ!」

「あ、え? 育……?」


 男は突然自分が育成ゲームのキャラになったような微妙な気分なり、酷く困惑した目で妻を窺い見ます。けれどしかしそこには屈託一つない満面の笑みが。


「ああ、うん、喜んでもらえたなら、よかった」


 赤面して答えれば、妻がしなだれかかって来たではないですか。


「お、おいちょっと子供たちの前だぞ」


 いい歳して理性が飛ぶーッと焦りながら窘めると、妻は天女らしい清廉な微笑を浮かべました。


「あらふふふ、いつまで経っても変わらずうぶな方ね。けれどもう子供たちだって子供じゃありませんもの。大丈夫ですよ。ねえ二人共?」


 母親から向けられた柔らかな眼差しに、久しぶりの再会を喜んでいた子供たちは顔を見合わせます。

 そして同時に両親を見てにこりとしました。


「もちろんいいぜ。あと三人くらい弟妹きょうだいができても」

「頑張ってねパパ!」

「ええっ!?」

「……だ、そうですよ、あなた?」


 絶句する男を余所に、いつのまにやら新たな家族計画が決定された模様です。


「さてと、そろそろ家に入りましょうか」

「そうだな。朝食の途中だし」

「うん」


 子供たちはさっさと家へ爪先を向けます。

 呆気に取られて突っ立つ男の腕を引き、誘惑する気200%で胸を押し付けながら、天女は囁きます。


「わたくしの方が究極のティッシュよりも触り心地はきっと抜群ですよ。夢中にさせて差し上げますわ、あ・な・た」

「馬っ……何言って! 子供たちに聞かれるだろうっ」


 子供たちは聞こえていましたが聞こえないふりです。


(どうしよう腹上死したら……。ああでもその時は一緒に天上に逝けるからいいのか?)


 とか何とか混乱つつも、降参して隣の妻の腰にそっと手を回す男なのでした。




おしまい

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