関屋(せきや)

 かつて光源氏の心に留まった空蝉の年の離れた夫は、「伊予介」(伊予国の次官)である。

 光源氏が妻に言い寄る手紙を寄越し、過分な餞別を寄越すので、思し召しがあることは分かっていたが、空蝉は関係を持ったことはおくびにも出さなかった。気の利いた返事を、光源氏はいたく気に入り、安定してよりよい職を与えてもらえるようになったので、夫はむしろ妻を自慢に思い、今まで以上に大事にするようになっていた。何不自由のないように大勢の女房をつけ、受領階級には過ぎたぜいたくを許した。


 このようにして彼は、常陸国(現在の茨城県)に職を得ることに成功し、妻とともに下り、素晴らしい日々を送っていたが、やがて光源氏の威光が薄れる日がやってきた。

 桐壺院の崩御である。そして続く光源氏の朧月夜事件という不始末である。


 かつては急な光源氏の来訪にも、一族全員を別棟に押し込んでピリピリしながらお供の人々も含めた全員を宴で接待しきったり、任国から帰れば旅装も解かずに駆け付けて平伏しながら報告を行っていた彼だったが、これを機に光源氏から距離を取った。妻の弟の小君は、光源氏に一時的に寵愛されたこともあって、そのまま側近くで仕えていたのだが、右大臣一派ににらまれることを恐れて、呼び戻した。跡取り息子の河内守(大阪東部の長官)もそれにならって寄り付かなくなった。弟息子の右近の尉だけは、光源氏から離れず、須磨にまでつき従ったが、それ以外の一族は右大臣一派に乗り換え、ご機嫌をうかがうことで常陸の職を失わずに済んだ。


 空蝉は遠く常陸で光源氏の凋落を聞き、今は須磨に住んでいるという事を知ったが、顔に出して心配することもできず、こっそり手紙を送る伝手もあるわけではなく、筑波嶺の山を越えて吹く風を見て、「こんな風にあの御方にお手紙を送る伝手さえあれば」と、心の中で思うだけの日々を送っていた。年老いた夫は、「光源氏様はもう戻ってこられまい」とすっかり記憶から消している。だから空蝉は、手紙を送る使者を出すことができなかった。

 ところが光源氏は彼ら夫婦が常陸にいる間に政界にカムバックを果たした。

 強大な権力を得て戻った翌年、伊予介夫婦の常陸の仕事は任期満了した。

 帰るしかないが、合わせる顔がない。



 伊予介夫婦が大坂の関に入る日が、くしくも光源氏も大坂の石山寺にお礼参りに来ている日だった。方向は逆だが、同じ道の上で確実にすれ違うことになる。迎えに来ていた息子たちが「源氏の君が来る日だ」と知らせていたので、道が混むことを予想し、朝早くに日の出前から出発したが、一族に仕える女房達の女車がたくさん広がって通るので、うまく急げず日も高くなる。

「源氏の君が粟田山を越えられたぞ。」

 源氏の先触れの使者が来て、伊予介一行はすぐに牛車を降りて、牛を外し、木陰に牛車を駐車して、ひざまずいて源氏の君の一行が通り過ぎるのを待った。女たちは牛車の中にいる。

 見苦しい車は先に行かせたり、後から来るようにさせたりして、10台ほど見栄えの良い車だけを残し、女車で、どの車からも両手をつく女性たちの華やかな袖口がこぼれて見える。色の合わせ方が田舎びていない。空蝉は常陸の国でも、都の粋を守っていたのである。成功した受領一族の財力と文化的程度の高さが、そこに示されていた。

 斎宮の下向の際のような大事の際の見物車を思い出させて、数知れぬ光源氏の先触れたちは、皆その車を見ながら通った。


 10月月末(旧暦9月つごもり)、紅葉は赤や黄色をこきまぜて、広がる枯草の野原は物悲しくも美しい。

そんな中、光源氏一行は関守の建物から出てくる。

お供たちは旅崩れした狩衣(簡易服)だが、趣向を凝らした色の裏の合わせ方、色に季節にぴったりした刺繍や絞り染めのデザインのすばらしさ、一見の価値がある。

光源氏の姿は車の中で御簾を下していて見えないが、伊予介・空蝉の一行に、昔かわいがった小君がいるのを認めて招き寄せた。


「関まで出迎えに来た私の真心を忘れはしないだろうね。」


 そう姉(空蝉)に伝えるように、彼は言いつけた。

 光源氏が大坂の関から出るのを、通りすがるのが失礼すぎるのでかしこまって待っていたのであるが、ただのねぎらいの挨拶ではあるが、真心が足りなかった伊予介たちには、鞭のように痛かった。


 しかしその言葉は、空蝉にむけては、つれなくし続けている空蝉への軽い恨み言になる。空蝉にだけ、それが分かる。

 昔のこと、そして思い悩んだかつての思慕で、彼女の胸の内はいっぱいになったが、光源氏に手紙を差し上げることも、何か言伝を伝えることも、できない。年の離れた男に嫁ぎ、嫌だと思う心を殺しながら夫に仕えつつ、自分の胸一つに押し込めている恋情が再び湧き上がってくる。


「行くと来と せきとめがたき 涙をや 絶えぬ清水と 人は見るらむ

(行き来をせきとめることの難しい 大阪の関で せきとめがたい 涙を 湧き出して途絶えぬ清水のように 人は見るでしょう(それほど涙があふれて止まりません))」



 光源氏が石山寺を参詣し終わって寺を出ると、出迎えと称して空蝉の弟、小君が参上していた。


「参上が一日遅れまして、申し訳もございませぬ。」

 都風に婉曲に、「もちろんはせ参じるつもりだった。今でもあなた様の部下です。何事もなかったものとしてお供に戻してください」と小君は主張する。


 光源氏は機嫌を悪くしたような様子は見せないようにしたが、内心ではとっくの昔に切り捨てた部下だった。

 かわいがって従5位下の官位も与えられるようにしてやった恩を忘れ、光源氏の威光に陰りが出た途端に右大臣一族の怒りに触れることを恐れて、常陸に行ってしまった軽薄な青年だ。

 同じ伊予介一族でも、近くで仕えている右近の尉は職を失うことになっても源氏について須磨まで仕えた結果、今は出世している。これが忠誠心というのだ。少しでも思慮深い者ならば、主をころころ変えたりはしないものである。小君はそこまで賢くなかったし、伊予介一族も後悔することしきりだった。

 以前は身近で使っていた小君を何食わぬ顔でふたたび売り込んでくるのは、その受領の地位が危うい受領一族の、遠回りで厚顔無恥な謝罪なき謝罪である。

 無視して追い返すのはたやすいし、当然の報いであるが、身近に置いて親しく使い、一時は関係を持ったこともあり、無下にできない。それにこれを断れば伊予介一族での小君の立場はなくなる。姉の空蝉も立場が弱くなる。


(二度と前のように使ってもらえると思うなよ。)

 そう思いながら光源氏は寛大に元のように、側近くでの共入りを許した。やがて小君も自分の立場に気付くだろう。小君に前ほど用事を言いつけないようにするつもりである。

 これでふたたび空蝉を光源氏の庇護のもとに入れてやることができた。

 

 彼はさっそく小君に言づけて、空蝉に手紙を送った。

「長い間手紙を出さなかったから少し気後れがするが、心ではいつも思っていたから、手紙をやり取りしていたことがつい昨日のことのように思ってしまうたちなのだ。

 空蝉は私をさぞ女好きだと思って嫌うかもしれぬな。」

(もうとっくに忘れているのが普通なのにまだ思っていらっしゃるのか。12年も昔のことなのに気の長い方だな。)

 


「わくらばに 行きあふ道を 頼みしも なほかひなしや 塩ならぬ海

(たまたま 行き会う道、近江路に 頼みをかけたのに やはりかいがない貝のない 塩のない海(琵琶湖―逢坂の関の近くにある))


 関守(=空蝉を守る夫)がうらやましく、分不相応に思えてならないよ。」


 小君はその手紙をうやうやしく受け取り、捧げ持って姉に届けた。

「これはお返事なさってください。昔よりは遠ざけられるだろうと覚悟していたのに、昔と同じようにお側近くにおいてくださるのです。あんな素晴らしい方はありません。

 姉上はこんなことは源氏の君の戯れごとだとおっしゃって、手紙を届けるとお叱りになりますが、その場できっぱりとお断りなどできませんでした。

 姉上は心弱い女なのですから、ほだされても罪はありません。」


 空蝉は今まで以上に恥ずかしかった。気後れがした。しかし、めったにない手紙を送る機会を逃せなかった。


「あふさかの 関やいかなる 関なれば 茂き嘆きの 中をわくらむ

(大阪の関 逢瀬の関 どういう関だというので 生い茂る木の中を 嘆きの仲を かき分けていくのでしょうか)


 お会いできたことは夢の様でした。」


光源氏への忍びつつ変わらぬ愛情、そして愛情を訴えながら身をかわす憎たらしさを、光源氏はうきうきして見た。空蝉は忘れがたいと思っていた昔のままだ。

そこで時々手紙をやっては空蝉に揺さぶりをかけ、落とせないか試してみるのだった。



 こんなことをしているうちに、伊予介は年のせいか病がちになり、そろそろ危ないのではないかと誰の目にも思われ始めた。子供たちにはひたすら空蝉のことを頼む。

「何もかもこの人を女主人と思って言う通りにするのだ。私が生きているときと変わらずにお仕えしろ。分かったな。」

 明けても暮れても空蝉の今の生活を守るようにと子供たちに命じる。

「辛い運命に悩み、この人にすらも先立たれて、私はこれからどんな目に遭ってどこにさまようことになってしまうのか。」

 空蝉が思い悩んで悲しむのを見て、伊予介はなんとしても長生きしたいと思うが、命だけはままならない。

「どうにかしてこの人のために魂だけでも残していきたい。子供たちの本心は分からない。私が死ねば、空蝉を女主人のままにしておかないだろう。」

 気がかりで悲しいと思いながら命を長らえることはかなわず、伊予介は他界した。


 しばらくの間は、「遺言だったから」と、空蝉を立てるが、うわべだけで、もう空蝉には前のような権限は与えられず、女房を何人も持って華やかに過ごしていた空蝉には、余計に苦しいことが多かった。でも今は守らなければならない弟もいないので、辛くても耐えればそれですむ。それに子供を持たない後妻が、先妻の子供たちから親の扱いを受けるはずもない。もう有名無実の女主人で、屋敷の中で厄介者になってしまっているのに空蝉は耐えた。

 

ただ、義理の息子の河内の守だけは、昔から空蝉に言い寄っていたので、この機会にしきりに同情してくれる。

「父が遺言でよくよく頼んでいきましたから。取るに足りないわたくしではございますが、ご希望はどんなことでも遠慮なくおっしゃってください。」

 寄り付くありさまは、少しでも油断すれば入り込んで愛人になろうとする下心が見えて、もちろん賢い空蝉は近づかせないようにしていたが、同じ家の中にいて、養われている身の上では、それは時間の問題だった。女房達も、すでに空蝉は義理の息子の愛人になるものと、決めてかかっている。


(ひどい運命に耐えてまで生きながらえて、その上こんな醜聞まで受け入れなければならないのか。)

 空蝉は誰にも言わずに、突然髪を下して尼になった。

 これで義理の息子は空蝉に手を出せない。もう光源氏も、他の誰も、空蝉と逢瀬を結ぶことはないのだ。


 周りの女房達は、「なんとみじめだ」と嘆く。

 義理の息子は「私をそこまで嫌うとは。これからも人生は長いのに、どうやって生きていくつもりだ?」と気に入らない。

「むだに賢いと、いらぬ苦労をするな。先どうなるのか全く分かっておらぬ。」

 そこまで拒絶されているのに、これ以上生活の世話をする気はない。空蝉にも自分が何を投げだしたのか、おいおい分かるはずだった。

  

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