夕顔

 光源氏は腹心惟光の母親、自分の乳母が病気で危ないと聞き、お忍びで下町に見舞いに出かけた。光源氏には乳母が大勢いる。しかし母親の死や宮廷力図の変化によって、取り巻きたちも手のひらを返して離れたり付け加わったりする。そんななかでも変わらず愛情を注いでくれた人間を、光源氏は大切にした。乳母は乳が出るので乳母が勤まるのだが、当然自分にも同じ年頃の子供がいることになる。それが乳母子である。乳母もそうだが、子供の惟光も乳母子のうちでも縁が深かった。さっぱりとして表裏はなく堅実で、腕が立ち、教養はないが頭は良くて機転が利いた。信頼ができてしかも優秀というのは、なかなか両立しないものだが、彼は使えた。そこで光源氏は主に彼を女性の手引きに使っていた。恋文を届けたり、先方の家庭事情を調査したり、向こうの家につてを作ったり、これはこれでなかなか能力が要求されるものである。能力の無駄遣いだとよそからは見えるかもしれないが、光源氏は必要と思っているから有能な男に頼むのだし、惟光にしても光源氏に忠誠心を見せるためには、天下国家の一端を担うことであろうと、光源氏の気まぐれを満たすことであろうと、変わらず手を抜かなかった。彼はこの主人に賭けていた。空蝉が「卑しい身分だ」と嘆き続けた受領階級の中流貴族で、目標は受領である。嘆いたりはしていなかった。母が乳母の地位を引き当てて彼に用意してくれた乳母子のチャンスを、完全に生かそうとする以外に何も考えていなかった。光源氏が上がっていくときには彼を引き上げてくれるのだし、光源氏が沈むときには、その時は一緒に沈む覚悟があった。光源氏はその忠誠心の得難さをよく理解していて、地位が高まるにつれて増えていく有能な部下たちよりも惟光を信頼した。


乳母の名前は大弐の乳母といった。大宰府の大弐(次官)の妻だからで、この時代の女性は夫や父親の官職で呼ばれるのである。そうすれば身分がはっきりする。女性本人にはあまり存在価値がない。仕事もない。人に頼って生きるしかない。保護者の身分が女性の身分を決めるのである。この時代の女性が、保護者をなくした時、後を追って死のうとするのは、辛いからもあるが、生活手段がなくなって明日からどう生きていったらいいのか困るからでもある。

母が危ないというので、惟光は許可をもらって光源氏のもとを下がり、5日ほど母親のもとに詰めていた。光源氏は彼の気をそらさなかった。乳母が危ないと聞けば、わざわざ危険を冒して下町まで見舞いに来る。色男がこんなことを面倒がらないというのは、平安から平成に至るまで変わらない。

 惟光以外の者をお供にして乳母の家に来てみると、門が閉まっていた。治安が悪いところなので、(平安時代はどこも治安の悪いところばかりだが)門を開けることはないし、門番もいないのだ。お供が急いで惟光を呼びに行く。光源氏が道端に出て人目にさらされるなどとんでもない話なので、牛車ごと入らなければならない。

 下町に来るなど初めてなので、光源氏は牛車から顔を出して周りの様子をながめた。どうせ顔を知るものなどいないだろう。車も粗末なのに乗ってきたし、お供も少なめにしているからばれない。それより面白い女性がいないかと思っているのである。下町だから、女性も顔を隠さずに歩いているかもしれない。彼はようやく落とした六条の御息所が期待外れでがっかりしていた。他の女性が必要だった。


 惟光の家の隣は、つる草の茂るあばら家で、荒れ果てていたが、つる草の上にはピンク色の可憐な花が咲いていた。ただ荒れ果てた、とても小さな家ながら、すだれは青々として涼しげで、扉や垣は真新しく、きれいに作ってあった。それ以上に光源氏の目を引いたのはすだれの上にのぞく、若々しい額と黒髪だった。何人もの女房が、光源氏の姿をのぞき見しようと、すだれに張り付いているのだ。すだれの上から額がのぞくとは、どれだけ背が高いのかと思いはした。普通はすだれの下から袖だけをのぞかせるものだ。貴人を出迎えるときにはすだれを下だけ開けて、ずらりと居並ぶ女房達が豪華絢爛な袖を見せる。だからこそ、袖口の美しい十二単が宮中では流行るのである。それなのにこの家はすだれの下ではなく上にすき間がある。すだれを上げなくても額が見えるから黒髪も見えて、若くてそれなりの身だしなみの女房達がそこにいることは分かった。それもあと少しで見えるので、顔が見たいという気分にさせる。

(庭は荒れているが、女房達はいるようだ。)

 庭の手入れがされていないのは経済力の衰えた証拠だ。主家が危うくなれば転職もできる若い女房達がいるのは、食べさせてごくたまに服を支給する程度には経済力があって、今は不遇でも主に将来性があるという事である。なんだかよく分からなかったが、美しい栽培された花を見慣れた源氏の目には、這いまわるツタに咲くピンクの花が可憐で美しく見えた。名前が分からない。

「うち渡す 遠方(おちかた)人に 物申す我 そのそこに 白く咲けるは 何の花ぞも(はるか見渡す遠くの方にお尋ねしたい そのそこに 白く咲けるは 何の花かと)」

 古今集の歌を口ずさむと、お供の一人がすばやく膝をついた。

「夕顔と申します。ありふれた花で、こんな粗末な家の垣根に咲きます。」

 光源氏は古今集の歌をすぐに解したこのお供を気に入った。

「それでは一房摘んできてくれ。」


 なんとこの家の門は開いていて門番もいなかった。さっそく花を選んでいると、家の戸が開いて、黄色い袴を裾長にはいた、こんな鄙の家にいるとは思わなかった垢ぬけた格好をした童女が現れて、扇をひらひらさせた。子供のうちは人前に顔を見せてもかまわないのである。若い女房たちが出てこないのは、やはりそこそこ上流の家の証拠だった。

「家の主人からです。茎も葉もない哀れな花なので、どうぞこの扇にのせて差し上げてください。」

 随身に過ぎないお供が直接光源氏に手渡すことはできない。扇に乗せた夕顔の花はやっとでてきた惟光に渡され、惟光から光源氏に渡すというルートを経由して、源氏の手元に届いた。惟光は母の危篤で扇に関心はなかった。

「往来にお待たせして大変恐縮です。どうぞ見舞ってやってくださいませ。」


 感激して泣く乳母に、光源氏は高価な装束を身に着けたきらきら光る容姿で、優しい言葉をかけた。光源氏は帝の息子で、やがては高位につく身の上であるが、だからといって恩着せがましくはしない。彼がもっとも頼みにするのは、自分の美しさだ。そして優しい言葉だ。これこそが人を心酔させて、尽くしてくれる動機になる。光源氏のそばにいると、年を取って、病気で、さらには尼姿になった乳母はさらにみすぼらしく、看病に来た子供たちでさえ母親を「みっともない」「恥ずかしい」と思い始めたくらいだった。

「乳母は数多くいたが、お前は特別の乳母だ。早く良くなっておくれ…。」

「もったいない。寿命が延びるようでございます。尼になってしまったからにはもうお会いできないかと、そう思って最後の最後まで尼になるのをためらったのです。」

 乳母は光源氏の手を握り、涙で濡らした。わが子よりも光源氏を自慢に思っている乳母の一途で純真な気持ちは、光源氏を穏やかにした。彼はこういう下から一心に見上げてくれるような一途な気持ちが好きなのだ。そして一途だがプライドが高い正妻葵の上や、愛人六条の御息所から、こんなにも純真な思いを感じたことはない。

 来てよかったと光源氏は思った。

「私が出世する姿を見せたい。どうかそれまで長生きしてほしい。」


 祈祷の手配をして帰る前に、光源氏は隣の家の謎の主がくれた扇を広げた。焦がすほど強く香がたきしめてあって、見れば歌が書き付けてあった。


「夕顔の花に 光を添えるお方 そうではありませんか?

(心あてに それかとぞ見る 白露の 光添えたる 夕顔の花)」


(おや私のことを光源氏だと知っているのか?ならば宮中にゆかりのある女房がいたという事か。)

 それだけではない。光源氏をさりげなく持ち上げ、しかもそれをあの短時間に和歌にする、女主人のたしなみも相当なものだった。彼は気に入った。


(中流階級では素晴らしい女性を見つけた。下流の女性は見るまでもないと左馬の頭は言ったが、私がそれを見つけるたらいい気分だ。)

「惟光、隣の家の女性は何をしている人だ?」

 感謝でいっぱいになりつつ見送りに来ていた惟光は冷たく答えた。

「この5日、病人の世話で閉じこもっていましたのでわかりません。」

「そうつんけんするな。この扇に気になることが書いてあったから、素性を知りたいのだ。」

 惟光は隣の家に偵察に出かけて、門番をしている下男から話を聞き出してきた。

「職にあぶれている受領階級の家です。夫は田舎に行って留守で、妻が一人でいます。姉妹が宮中で女房をしているらしく、時々宿下がりしてくるという事です。今のところはこのくらいしかわかりません。」

「ならばその女房の方だな。私のことを知っているし、歌も詠みなれている。」

 光源氏に言い寄る浮気な女房は珍しくないしすぐに冷めるが、ここで一つ試しに会ってみるのも一興だった。

 彼は筆跡を変えて、懐紙にさらさらと手紙を書いて届けさせた。


「そばでご覧になったらどうですか。」


 例の教養のある随身に届けさせたが、返歌がすぐに来ないので、随身はあきれて返事を持たずに戻った。光源氏に興味を持たれたら、そんなチャンスは一生に一度だ。全力で返歌を出さなければ、チャンスをものにできなくても仕方ないのだ。少なくとも彼はそうしている。


 六条の御息所は尼君の家のある五条からとても近かった。光源氏は見舞いの後に行った。

 御息所はセンスがよく、庭の木の有様、花の趣、垣根、すべてが光源氏の鑑識にもたえる。さらに御息所自身もかなりの美人で、服装の趣味もよかった。あばら家のことは記憶から消えてしまって、光源氏はゆっくりと朝寝をして帰った。

 五条にある夕顔のあばら家は、帰りに牛車のすき間からのぞいたが、変化はなかった。そしてそのあとも通りがかるたびに気になった。


 惟光は参上してまずは不参の詫びを言った。

「病人はあの後もよくなりませんで。何かと看護をしておりました。申し訳ありません。」

「うむ。」

「お尋ねのありました隣の家ですが…。」

「うむ。」

 光源氏は身を乗り出した。惟光は心得ていたので、こっそり耳打ちした。

「事情を聞いてまわってみましたが、誰もよく知らないようです。今年の5月から住んでいる方があるのですが、素性は知らなくて、家の者にも分からないとのことです。

 家から見張っていましたら、すだれの陰に若い女房の影が見えますから、それなりの身分の者がいるのでしょう。上着を着ているのがかしずかれているのでこれが女主人かと思います。夕日がさしてすだれの内側がよく見えたときに手紙を書いていましたが、横顔はきれいでした。周りの者が泣いているのも見えました。」

「うむ。」

 光源氏は興味をひかれた。まだ17歳だもんなと惟光は思った。謎の美人がいると聞いたら、身分の上下なんて関係なくなる。

「もしかしたらお通いになるかもしれないと思って、おつきの女房に手紙を出して言い寄っておきました。すぐに返事が返ってきましたから、相当慣れていますね。」

「口説き落とすのだ。私が通う時までに、中の勝手が分からないと困る。」

「分かりました。」

 光源氏はあばら家の中に美女を見つけるという珍しさにわくわくしたが、このときはただの浮気のつもりだった。


 光源氏は正妻の葵の上に、愛人の六条の御息所、さらにあばら家の謎の夕顔のことも気にかけながら、空蝉のことも忘れていなかった。

 振られたまま終わるのかと思うと、悔しくて悔しくて、忘れているときはなかった。人違いと成り行きで関係を持ってしまった娘の方にも手紙をやらなければと思いつつ、小君が手紙を別の女性に持っていき、それではあの時、娘の方と関係を持ったのかと勘付いたとしても、空蝉は顔色も変えないだろうと思うと、かわいそうだが出す気になれない。今まで恋人もいなかったようだから、さぞ一途に待っているだろうが、空蝉に一矢報いるまでもう悔しい思いはしたくなかった。中流階級でこんなにも心をかき乱す女性がいるのだから、下流の夕顔と逢う日もますます楽しみである。



 そんなとき、空蝉の夫、伊予の介が任国から帰った。船旅で真っ黒になった着物で旅装も解かないまま、真っ先に庇護者である光源氏のもとにあいさつに出た。二度も息子の家を訪ねてくださったのに、そして妻の弟までおそばで使ってくださっているのに、挨拶もしなかった非礼を取り返すためである。

「なにとぞ非参をお許しくださいませ。」

 彼は平伏した。

「うむ。伊予の話を聞かせてくれ。」

 伊予の介が語るのを聞きながら、お前の娘はちゃきちゃきしていたが、お前に似たのだな、とよほど言ってやりたくなって、吹き出しそうになったがこらえた。知らないうちに大事な娘に手を付けられた実直な老人を笑ったりしたらひどすぎる。この男のために空蝉は光源氏をはねつけているのだ。伊予の介の気持ちを考えれば、それは思いやりのあるふるまいだと認めざるを得なかった。

「…娘を適当なところに嫁がせまして、妻を連れて任国に下り、より一層任国経営に取りくむ所存でございます。…」

 伊予の介の一言で、光源氏は我に返った。伊予に行かれてはもう会えない。何としてもその前にもう一度何とかして逢いたい。

 小君をせっついたが、二度も逃げた女性は「あれほど身分の高い方に焦がれても我が身が見苦しくなるだけ」と光源氏をすっぱり思い切り、夫も帰っていたし、すきはなかった。それでいて、手紙を出すと、何度かに一度は、憎たらしいほどかわいらしい返事が返ってくる。字も美しく、これだからますます忘れられないと光源氏は空蝉を思い続けた。かといって正妻と愛人と浮気候補を忘れるような男でもない。ただし、伊予の介の娘は、手紙をやれば夫がいてもいつでも光源氏を受け入れるようなどこにでもいる美女だったので、忘れておいた。空蝉の夫が左前になって空蝉が生活に困るようになってほしくないので、父親の伊予の介のことはこれまで以上に目にかけている。彼女も損はしていない。


秋になった。

光源氏は藤壺の女御のことで再び悩みぬくことがあって、正妻のところにも愛人のところにも、はかばかしく通わなくなった。他の女性のことを考えられないのだ。

左大臣は恨みがましく文句を言うものの、葵の上は正妻で、衣類万端の用事を彼のところでみているのは変わりなかったのでこの文句はいつもの愛嬌のようなものだ。

気の毒なのは六条の御息所だった。

夫に先立たれてから、恋人を持たずに過ごしてきた、その一途な愛情を一気に光源氏に向けて捧げているのに、光源氏は口説いていた時ほど熱心ではなく、訪れもだんだん間遠になってくるのだった。光源氏の来ない夜の煩悶は、恋人を持つ前とは比べ物にならない。

 前の皇太子の正妻、と独りの間は世間はそう言ってくれるが、今の自分は光源氏の愛人に過ぎない。本来なら、葵の上のように、光源氏級の身分の男性の、正妻になってもおかしくない身分だったのに。

(こんなことが世間に知られたら、いい年なのにと笑われて、もっと身分の低い男たちからでさえ、言い寄られるようになってしまう。)

 自分が今まで守ってきた名誉が崩れるのを、六条の御息所は恐ろしい気持ちで待ち受けていた。それも正妻をしのぐ勢いで大事にされているのならともかく、あきらかに飽きられているのだ。六条の御息所は現実を直視しないように周りの者には何気ない風を装っていた。


 光源氏は六条の御息所をポイ捨てしていい身分だとは思っていなかったので、内心面倒がりながらもとぎれとぎれに通っていた。六条の御息所のお屋敷は、万事美しく、センスもよく、さりげない教養に満ちていて、光源氏の鑑識眼を満足させてくれた。ただ当の本人は重たかった。「正妻にしてほしい」「葵の上より愛してほしい」「私の美しさと趣味の良さと教養の高さは誰よりも勝ってご満足いただいているはずです。見ていただければお分かりになるでしょうが使用人の教育も抜かりなくすみずみまで行き届いております。あなた様の妻にしていただけば家政全般を見事にとりしきれます。」と言葉の端々ににおわせながら、いざとなると自分より若い正妻に遠慮して違うことを言う。

光源氏は「別の女性のところに行った」と、可愛くむくれて文句を言う女性を自分の魅力と愛情表現でなだめるのがとても好きだった。ほとんど大好物だと言ってもよかった。一方この重たい女性が「私はずいぶんと年を取って醜くなりましたから」「至らないところが多くてすみません」と深刻に悲しむと、もちろん彼は六条の御息所の気持ちを傷つけないように優しく否定してやってなだめる。それは少しも好きではなかった。

 そして、六条の御息所には、何でも人より優れ、その上一途な自分の、何が悪くて光源氏が遠のいていくのか、全く分からないのだった。

(年齢だわ。年を取っているせいだわ。若いから葵の上が私より大事にされているのだ。私も若かった頃、皇太子さまは私のことを一番愛してくださっていた。)

 彼女はそう自分に言い聞かせていた。

 一方光源氏の方も、他はともかく、その一途さだけは評価せざるを得なかったので、ふりきれなくて困っていた。


 霧の深い朝、光源氏は六条の御息所に起こされた。日の出る前に帰ってもらわないと、噂になって彼女は困るのである。光源氏が寝ぼけ眼で起きると、正装をした女房達が次々にやってきて、顔を洗う手水鉢、歯を磨く楊枝を差し出し、髪を整えて着物を着せかけた。御息所はそれを監督していた。「更衣」は一段低い妃の位だが、もともと「着替えを手伝う人」という意味である。御息所は正妻格の妃だったので、光源氏の着付けを手伝ったりしたら格が下がると思っているのである。

 光源氏が文句を言いながら追い立てられるように出ていくとき、女房の一人は上の格子を上げて、几帳を半分上げた。女主人に見送るように促しているのである。

 外には出られない御息所は、顔だけ出して髪をかたむけて光源氏を見送った。

 これは人目にふれてはならない高位の女性がやる、愛嬌いっぱいの見送り方なのである。

 六条の御息所はぬけるように白くきめ細やかな肌に美しく化粧をした顔をほのぐらい室内に差し出して、光源氏を見つめた。

 光源氏はきれいに刈り込まれた植え込みにとりどりに花が咲き乱れているのに見とれながらたたずんでいた。

 見送りながら御息所の方が見とれてしまった。朝霧に包まれた光源氏の姿は、胸が締め付けられるほど美しかった。

 渡り廊下では中将の君という女房がお供した。秋らしく、表はえんじ色、裏は黄緑の重ねの下着を見せて、薄絹の裳(巻きスカート)を腰に結んだ姿は女らしくあでやかである。光源氏は振り返るなり高欄に押し付け、中将の君の手を取った。


「咲く花に   咲く花に

うつるという名は 心移りしたという悪い評判が

つつめども    立ったとしても

折らですぎゅうき 折らないで行くべきか

今朝の朝顔    このむくげの花」

 

中将の君は素早く歌を返した。

「朝霧の     朝霧の

 晴れ間も待たぬ 晴れ間も待たず

 けしきにて   帰られるご様子では

 花に心を    花にお心が

 止めぬとぞ見る 向いていないように思います」


 「むくげの花」は中将の君のことを言ったのに、訪れが間遠になっている恨み言にすり替えて女主人を立てる、行き届いた配慮に光源氏は感心した。

彼はお供をしているかわいらしい侍の子供を呼び寄せた。(女性の間に入れる男は子供だけなので、子供の侍を連れていたのである。)中将の君の見事な返しへの返礼として、自分の歌も言い寄ったのではなく花がほしかったのだということにするため、むくげの花を折ってくるように言いつけた。人形のようなかわいらしい子供が、袴の裾を露で濡らしながらむくげの花を光源氏のもとに持っていく。絵に残したいほどの光景で、こんな姿に心を奪われてわずかな間でも愛されたいと恋い焦がれる女房は山ほどいる。御息所も、光源氏と夫婦になっていつもこのお姿を拝見できたらと、捨てられかけているのに正妻になりたい望みが、募るばかりだった。どうしても、と思うほどに、心は闇にはまりこんでいく。


家に帰ると惟光が夕顔の家の様子について詳細な報告をした。十分に調べがついたのである。彼はここにいたるまで、母親の世話もそこそこにして、一日中隣屋をのぞき、隣屋の女房を口説いたのだ。

「何者か見当もつきません。」

 惟光は続けて詳しい報告をした。

「ずいぶんと人目を忍んで生活しています。女房達は南の格子のある縁側の部屋に入り浸って、車の音がしたらのぞき見しています。女主人もひっそりとですが、外から見えないようににじり出てのぞいていることがあります。はっきり見たわけではありませんが、美人なようです。」

「うむ。」

「先日、車が通るときに、子供が『頭の中将様です』と知らせると、女房達が我先に集まってきましたが、右近と言う名前のまとめ役の女房が静かにして気づかれないようにと指示をしていました。部屋の中には、なぜか板が渡してあって、その上を歩くようになっているのですが、右近は自分ものぞこうとして、急ぐあまり板に着物をひっかけて落ちていました。なぜあんな板の上を歩くのか分かりません。」

 光源氏にもなぜだか分からなかったが、女房達が異様に背が高くてすだれの上から額が見えた理由は分かった。

「頭の中将様は略式の直衣姿で随身達と小舎人童を連れておいででしたが、女房達はその名前をはっきりと知っているようでした。」

 光源氏の脳裏に浮かんだのは、「雨夜の品定め」で、頭の中将が話した「撫子の女」のことだった。

(そうにちがいない。正妻に脅されて行方をくらましたと言っていた。探しても見つからなかったと言ったが、こんなところに隠れていたのだ。

 たしか頼りなくてかわいらしい女だと言っていたな。)

 彼には親友に教えてやる気はさらさらなかった。ついでに言うならその親友は妻の兄でもあり、彼女のことを手を尽くして探していて、二人の間には子供もいるのは知っているが、親切に教えてやる義理はどこにもない。あの遊び慣れた貴公子がそれほど惹かれたという女性に、ぜひ会ってみたいのだ。教えたら当然会う機会はなくなる。全力で光源氏から隠そうとにするに決まっていた。

「頭の中将の車かどうかこの目で見たかった。」

 惟光は光源氏ががぜん興味を惹かれたのを見て取った。彼は肝心なところを話した。引き入れる段取りもできたのだ。

「例の女房は落としました。今では家の中に出入りするので間取りも人の出入りもすべて把握済みです。

 若い女房が一人、宮中にいたから誰の家来か知っている体でかまをかけてきますが知らないふりをしています。小さな女の子もいて、この子と話しているとき油断してうっかり主のことがばれかけたのですが、言い間違いだとごまかしました。源氏の君どころか、主はいないふりをしています。」

「よし。また尼君の見舞いに行くから、私も女主人の姿をのぞけるようにするように。」

「承知。」

 惟光は頭を下げた。



 気に入ったので、さっそく光源氏は夕顔のもとに通い始めた。

 手引きしたのは惟光である。子供ではなく、やり方も抜かりがないので空蝉の時のように逃げられる恐れも二人寝ているところに入れることもなかった。

 惟光は門番を抱き込み、自分の相手の眠ったすきに光源氏を引き入れて夕顔の部屋に入れてまたふすまを閉じた。現在なら「住居不法侵入および強制性行為等罪」に問われるところだ。惟光も共犯として逮捕されることは間違いない。しかし平安時代は治安が悪いので、守り切れなかった周りの者の責任である。警察も相手が有力者でなければ動かない。このあたりは現代よりも徹底していた。たとえば有力者が自分よりも落ち目の有力者に濡れ衣を着せて警察(検非違使)を差し向けることもありだった。当然下町のあばら長屋の女性の身の安全など知ったことではなかった。


 光源氏はあばら家に住む謎の女性に自分の身分が知られないようにとても注意していた。普段なら車で移動するところを徒歩で行き、隣の乳母の家にも寄らなかった。お供も少なめに惟光を含めて3人に絞った。徒歩はまずすぎると思った惟光は光源氏に自分の馬を譲って隣を走った。そもそも彼はこんなところで光源氏が夜遊びしていたと知られることの危険性をよく分かっていたので、最初から光源氏がかかわっていることを漏らさなかったのである。

 だから光源氏も顔を隠して夕顔に逢った。証拠が残らないように手紙の筆跡も変えた。

 あばら家で困窮しているらしいので、それなりの布などの贈り物を用意しておいた。

好奇心が満たされたのち、かかわりを絶てば安全だった。

 

 しかしそうはならなかった。

 光源氏は夕顔のことがいたく気に入ったのだ。気に入れば深入りして何度も通うのが、光源氏のやり方である。彼は「後朝の文」(朝別れた後に送る手紙)も送ったし、下町に気軽に行ってはならない身分なのに、次の日もまた次の日も、続けて通い詰めるようになった。

 夕顔は、高貴な人でも明らかにみすぼらしい人でも、年寄りでも若い人でも、男なら誰でも構わず心から頼りにしてしまうところがあった。こうして愛されていれば、彼女は安心できるのだ。身分の上下も、見た目ももちろん関係なかった。だから素性不明の顔を隠した光源氏にも心から尽くしたが、さすがに不審に思った。手紙の使者の後をつけさせたが、使者は心得ていてまいてしまった。

 

 上流の貴族は軽々しく下町をうろついてはいけないのだ。光源氏は今までそんなことはしたことがなかった。それは将来も不確かな不良貴族が遊びですることである。堅苦しいのが貴族の仕事なのだ。

 それが今は夕顔のことばかり考えている。朝別れた時から夕方になるまで夕顔のことばかりを思い続け、当然その夜も五条にお忍びに出る。

 「ただの身分の低い女性じゃないか。このまま縁を切ればいいのだ」と、冷静になろうとしてみるが、夕顔があまりにも無防備でよく知りもしない光源氏を頼る点はまるで子供のようだが、男女のことに関しては情が深くて大人である。考えても考えても、夕顔の魅力から抜け出る方法が見つからない。

 光源氏はお忍び用の古ぼけた簡易服(狩衣)を作らせ、顔も隠し、誰にも見られないように真夜中にそっとあばら家へ入る。部屋の中は暗いので顔も何も見えない。ただ、光源氏の着ている服の布地が、普通ではない手触りなので、「かなりの方のはずだ」とは分かるが、真夜中に来てなにがしかの物を置いて夜のうちに出ていくところはまるで中国の怪談のようである。生活は豊かになったが全部化かされているのではないかという思いが抜けずに、夕顔の女房達はどこか浮足立っていた。

全員が「惟光が引き入れたに違いない」「惟光は誰か知っているに違いない」と見抜いていたが、全く知らない僕がそんなことするわけありません風に陽気にしゃべって通ってくるばかりでらちが明かない。惟光は情報を渡すような間抜けではない。だから光源氏は一番惟光を信頼するのである。


 人目があってどうしても行けない夜は苦しいほどで、光源氏は今まで女性に対してそうしようと思ったことがないことを決意した。

「彼女を二条邸に入れる。頼り切っているように見えていても頭の中将の時のように急に消えてしまうかもしれない。そうなったら探したくても見つけられない。身分は問わない。悪い評判が立っても、それはその時だ。」

 光源氏は二条邸に恋人を入れたことはなかった。光源氏に仕える女房達は大勢いて中には関係のある女性もいるが、これは妻に入らない。正妻その他の女性から逃れるときの気楽な独身邸として、二条邸は誰も入れるつもりはなかったのだ。

「いったいどうしてこんなに夢中になってしまったのだろう。前世でよほど深い約束をしたんだろう。」

 光源氏はそう思いながら夕顔を二条邸に入れる踏ん切りがつかなかった。

 身分の問題だ。

 誰か妻を二条邸に入れれば、左大臣からも桐壺帝からも文句が出るのは分かり切っている。左大臣は、正妻葵の上をないがしろにする行為だと怒るだろうし、桐壺帝は左大臣を怒らせたら後ろ盾になってもらえなくなるからと、やはり怒るだろう。

 それが身分のある女性でも問題なのに、下町で拾ってきた女性を自邸に入れたりしたら、猛反発を食らって、光源氏にはひどい叱責が待っているだろうし、光源氏が外圧に耐えても、あの手この手で結局夕顔は追い出されてしまうだろう。それこそ、母の桐壺の更衣がいじめ抜かれて死ぬしかなかったように。たとえ一日だけでも、彼女を屋敷に入れれば、そのことはすぐに左大臣と父帝に伝わる。何も考えずに愛し合えるのはこの下町のあばら家だけだ。

 身分が足りないのに妻にするのは無理があるのだ。

(せめて夕顔の素性が分かれば。)

 しかし名前も知らない。おつきの女房に囲まれて暮らしているところや教養があって美しい文字を書くところを見ると、単なる下町の女性ではないのだが。

(頭の中将が通っていた女性ならそれなりの身分のはずだ。頭の中将の妻だった女性だとだけでも分かれば。)

 飽きて忘れられるのが一番良いのだ。しかし光源氏はあきらめられなかった。



「ねえ。もっとのんびりできるところでお話ししようよ。」

「怪しいですわ。普通でないお通いぶりですもの。怖いですわ。」

 子供のように素直に怖がるので、光源氏はほほ笑んだ。

「そうだね。僕らのどちらが狐なんだろう。化かされたらどう?」

 思いを込めてささやくと、夕顔は化かされてもいいと思いながら、光源氏に身を任せた。


 頼り切って、どこまでも光源氏に従おうとする心は、ほとんど白痴のようでもあったが、教養もあり受け答えもはっきりしている。和歌も返せる。ただどこまでも光源氏を信じ切っているというだけなのだ。どうしても頭の中将の「撫子の女性」を思い出させた。聞いてみたかったが、訳があるのだろうと思うと、強いては尋ねられなかった。

 どうしても急に姿を消してしまうようには思えない。これほど彼に任せきっているのに。

(頭の中将は通い方が途絶えがちだったから、不安になったのだろう。僕の場合は、毎日のように来ているから消えたりしないだろう。

 むしろ、不安を見せてくれる方が少し趣が変わっていいくらいだ。)

 光源氏は夕顔を信じることにした。家に入れれば失うことになるかもしれない。そうなるよりは、このまま通い続ける方がよかった。



 やがて通い続けて夏が過ぎ、9月半ばになった。満月十五夜の夜、壁のすき間から月光がさしこんで、下町の長屋の中の有様がすっかり見え、珍しく思っていたが、長居して朝までいたら、隣の住人の声が聞こえる。

「ああ、寒いなあ。今年は商売もうまくいってないし、田舎へ出張もできないから、心細いなあ。北隣さん、聞いてなさるかい?」

 朝になって人々が起きだし、生活のあれこれのざわめきが光源氏の部屋まで伝わってくる。広大な屋敷でしか生活したことのない貴公子には、隣の家の物音がするなど、考えられない世界だった。

 夕顔は恥ずかしそうにしている。気取った人なら消えてしまいたいほど恥ずかしかっただろう。しかし夕顔は気品はあるが子供っぽい人なので、これが辛いことだとかありえないことだとかも思わないのだった。なまじ卑屈になるよりも良い態度であると光源氏は思った。

 雷のような咳の音、踏みとどろかす足踏みの石臼音が枕元で聞こえる。光源氏には何の音かもわからない。白絹を打ってつやを出す砧の音、空飛ぶ雁の声、とにかく昼の下町には我慢できないことは分かった。

 庭のすぐ近くなので、戸を開けてともに庭を眺める。小さな猫の額ほどの庭に、呉竹を植えて、露が草にかかってきらめいている。虫も鳴いているが、これもお邸で間遠に聞くのとは違い、コオロギが近すぎてうるさい。

 隣では夕顔が白い綿入れに青みがかった薄紫の上着を何枚も重ねて、頼りなげに座っていた。この人がかわいいので、光源氏は他のことはすべて我慢した。

 前世からの因縁がよほど深いのだろう。明るいところで見ると、肌は美しいが、取り立てて美人というわけではない。ただどこまでも頼りなく、光源氏を信じ切る姿、何気なく言う言葉の一つ一つがいじらしくて光源氏の胸を苦しくさせるのだ。

(もっと打ち解けて逢瀬を楽しみたい。)

「この近所にもっと気楽に過ごせる場所があるから、そこで一晩過ごそう。こんなところにはいられない。」

「急ですのね。」

 夕顔は驚きも困りもせずに座っていた。

 光源氏は周りの思惑を考えないことにした。二条の屋敷には入れられないが、この近所に、相続した屋敷がある。今は荒れ果てているが、忠実な家来が今も管理しているはずだ。光源氏に強力な忠誠を誓っていて、その屋敷は荒れていても明け方に急に行っても用意してくれるだろうと断言できた。

 夕顔の腹心の右近を呼び出し、随身を呼んで車をあばら家のすぐそばまでつけるように命じた。夕顔が下町の女性で顔を見られても構わない身分だったとしても、彼は彼女が大切で、誰にも見せたくなかった。あばら家の女房達も、光源氏が女主人をずいぶんと思い入れていることを知っているので、特に止めなかった。

「来世までつづく深い契りを結ぼう。生まれ変わるなら比翼の鳥になろう。」

「私の運命は今世でさえ分からないのです。」

 光源氏が心細がる夕顔を抱き上げて、右近がお供に乗り込んだ。



 忍草の生い茂る門につくと、屋敷はうっそうと木々が生い茂って薄暗かった。

光源氏に土地を上納して、貢物を収めるほかに自分自身も家来として仕えている管理人は、呼び出されると飛んできた。車を屋敷の中に入れて、しばらく待っている間に、管理人は短時間のうちに西の対をきれいにしてしつらいを整え、光源氏が入れる状態にした。右近はその間、自分の過去の恋愛を思い出して、懐かしがっている。光源氏が車のすだれを巻き上げると、屋敷にかかる霧のために、袖までぐっしょりと濡れる。

「着いたよ。

 古人も迷ったというが、私には初めての逃避行だ。」

「私は行きつく山の端の気持ちが分からないので、迷っている空の上の月のようです。」

夕顔は屋敷が薄暗いので恐ろしがっておびえていた。

「お仕えするものもおりませんで…。」

 管理人は恐縮しながら右近を取り次ぎにして光源氏にあれやこれやを報告した。身分が低いので直接話すことはできないのだ。右近は話を聞いているうちに、謎の中国の怪談のお化けは光源氏だったのだと分かって驚愕した。

 光源氏はそのようなことはどうでもよかった。もっとましな場所で、夕顔と過ごしたかっただけなのだ。

「ご本宅に連絡して、しかるべきものを呼び寄せましょうか?」

「人が来ないからここに来たのだ。誰にも知らせないでくれ。私が来たことは誰にも言ってはならぬ。」

 左大臣にも父帝にも漏れないように口止めしてから、間に合わせの粥を食べたが、給仕もそろっていない。もちろん光源氏はそんなことどうでもよかった。



 日が高くなってから起きだし、格子を光源氏自身の手で上げた。

 庭には風情がない。秋だというのに秋らしい草花も咲いていないし、うっそうと茂る庭木の間に、同じく水草がすき間なく生い茂っている池がある。管理人の家は別棟にあって、近寄りはしない。よって少しも人気がない。夕顔は来た時この景色を怖がっていたが、これを見せたらやはり怖がるだろう。

「恐ろしい場所だが、私がいれば鬼も寄っては来ないよ。許してくれるだろう。」

 光源氏は愛しい人を慰めてから、ふと、ここに来てまで顔を隠しておくことはないのだと思いついた。覆面をはずしたことはなかった。これほど愛しているのに。夕顔も、本気ではないのだと、内心寂しいことだろう。

「夕方の露の光に夕顔の花が開くのは、通りすがりの縁が結んだものだ。」

 そして覆面をはずした。

「さあ、光の姿はどう?」

「光だと思った夕顔の上の露は夕暮れ時の見間違いでございました。」

 夕顔は嬉しそうに流し目をくれながら今まで顔を見せてくれなかった仕返しに意地悪を言った。光源氏にはそれが伝わって彼は笑った。夕顔は彼の姿や顔や地位や血筋に惹かれて彼を信じているのではない。顔を見せる前も後も、同じように光源氏を愛していた。つる草のように、男性に頼らずにはいられないのだ。そして頼って巻き付いていられるなら、顔も身分も関係なく心から好きなのである。

 打ち解けて心を許している夕顔は、何もない打ち捨てられた屋敷の中で、一層美しかった。

 光源氏はまじめになって尋ねた。

「顔を見せるつもりはなかったんだ。でもこれだけの仲になっていながら、あまりにもひどいと思ったから。

 君も名乗りなさい。ここまできてひどいぞ。」

「海女の子でございます。海辺で貝を取って暮らしております。家もないのです。」

 隠し立てしながらも、夕顔はでれでれになって光源氏に甘えかかった。光源氏は聞き出すことをあきらめた。

「あとで泣くことになっても私が招いたことだ。恨みはしない。」

 光源氏は人に見られる心配のない空き家でのアバンチュールを楽しむことにした。



 光源氏がここにいると聞いて、惟光が駆けつけた。彼はいつでもどこでも光源氏の居場所を探し当てるのである。夕顔と二人きりで小旅行を楽しみたかったのだろうと察し、そのうえあそこでは食べ物もそろっていないだろうと正しく見抜いて、果物・お菓子などの軽食を携えてきていた。

(本当にご執心だな。俺でも手に入れられた女性だったのに。譲って差し上げるとは俺も太っ腹だ。)

 彼の感想はそれだけだった。軽食を右近に渡すと、あとは右近に見つからないように隠れていた。右近も今では彼の主人が光源氏で、主人なしの身の上だというのが真っ赤な嘘だったことに気付いているだろう。顔を合わせたら文句を言われる。

 光源氏は薄暗くなったので、格子を下ろして火を灯させた。夕顔が屋敷の奥が暗くて怖いというので、なるべく庭に近い場所のすだれを上げて、静かな夕暮れの空を眺めながら、二人で寄り添って寝た。光源氏に心を許す夕顔はとても美しく、愛らしかった。幸せを味わいながら、宮中では自分を探しまわっているだろう、帝から使者が送られてどこに行ったらいいのか分からず今頃尋ねまわっているだろうと思うと、完全に幸せでもいられなかった。

 帝は、正妻葵の上は、その父の左大臣は…人の顔を思い浮かべていくと、どうしても六条の御息所に行きつく。目の前の夕顔の頼りなさに比べて、どうしてもあの人の息詰まる愛情が少し減ってくれればよいのにと思わずにはいられない。夕顔にかまけて、もう1か月近く通っていない。

(彼女もさぞ恨んでいるだろう。当然のことだ。しかしあの重たさが少し取れてくれればよいのだが…。)

 もてる男は勝手である。


 

 真夜中に彼の夢にとても美しい女性が現れた。

「私がこれほどお慕い申し上げておりますのに、少しも訪ねてくださらず、このようなありふれた女をそばにおいて寵愛なさるとは。辛いことでございます。」

 そう言うと、そばに寝ている夕顔をゆさぶって起こそうとする。

 光源氏は跳ね起きて、枕元に置いていた太刀を引き抜いた。

 貴族の男性の教養は先例儀式・漢文・漢詩だが、ほど遠いところにある弓矢・馬術・刀剣の類の武術も、できて当たり前の素養だった。いざとなれば刀を抜いて主君、家族を守る武士へと変身できなければならない。物騒な世の中だからである。とはいえ、文武の文だけ、武だけ、の人も大勢いたが、修練はしていて刀も常に身に着けていた。

 灯していた明かりも消えた。

「右近、右近。渡り廊下に宿直の侍がいるはずだ。すぐに呼んでまいれ。火を持ってこさせるのだ。」

「とてもできません。暗くて明かりが…。」

 光源氏は侍ごときに直接命令できない。女房か惟光クラスの取次が必要だ。それなのに取次役の右近はおろおろするばかりだった。

「頼りにならないな。」

 光源氏は笑って手をたたいた。広大な屋敷に手をたたくこだまが響くばかりで誰も駆けつけてこない。

 夕顔は汗をびっしょりとかいて、わなないていた。先ほどまで普通だったのに、急に生死も分からぬありさまだった。

「昔から怖がりな方で、ここが怖かったのかもしれません。」

 右近はどうしていいかわからず希望的観測を述べた。

「そういえば昼間も空ばかり眺めていた。体も弱いのに、かわいそうなことをした。

 手をたたいてもやまびこがかえってきてうるさいだけだ。私が自分で人を呼んでくる。ここに入って、夕顔のそばについていなさい。」

 光源氏が渡り廊下に足を踏み出すと、風が吹いて渡り廊下の明かりも消えた。

 暗いなか探り探り歩くと、管理人の息子と、親しく使っている子供が二人、そしていつもの随身だけが寝ていた。彼らは光源氏が呼ぶとすぐにはねおきた。

「火を持ってまいれ。それから、随身は弓の弦を鳴らして見回りをして歩くように。

 人のいない物騒な場所で寝ている奴があるか。

 惟光はどこへ行ったのだ。」

「昼間に参りました。控えていましたが、御用事がない様子でしたので、明日の朝、車を回してお迎えに来ると言って退出いたしました。」

 随身はそう答えると、さっそく弓の弦を鳴らして、「火の用心」と言いながら、管理人の家に火をもらいに向かった。弓の弦を鳴らしながら「火の用心」と言って歩くのは宮中警護の滝口の武士のしきたりである。彼は滝口の武士でもあり、取り立ててもらうために光源氏に仕えてもいたのだ。

 帰ると夕顔は寝ているままで、そばにつけていた右近も突っ伏していた。彼は右近を引き起こした。

「これは何だ。人のいないところでは狐が人を化かして怖がらせようとする。私がついているからには安心しなさい。まったく子供のような怖がりぶりだ。」

「なんだか気持ち悪くて。ご主人様も私より怖いでしょう。」

「それはそうだ。」

 光源氏が夕顔を抱き起こすと、ぐにゃぐにゃして意識がない。確かめてみると息もない。

 光源氏は血の気が引いた。

 随身が火を持ってきたが、右近が取次に動こうとしないので、彼が自分で几帳を動かして夕顔を隠し、火を受け取ろうとしたが、随身は取次なしに渡したことがないので、部屋にも入ろうとしない。

「いいから持ってまいれ。礼儀もところによるのだ。」

 受け取った火を枕元にかざすと、美しい女性の姿が浮かび上がり、すうっと消えた。

(物の怪だ。すると夕顔はどうなるのだ。)

 光源氏は夕顔を抱きしめ、声をかけ、揺さぶったが、夕顔は冷たくなっていくばかりだった。とっくの昔に息絶えていた。

 強がっていても彼は17歳の青年に過ぎなかった。夕顔が死んだらしいと分かると、泣きながら「生き返ってくれ。こんなつらい目にあわせないで。」と呼び続けたが、夕顔は冷たく青白い死体になっていき、生きていたころの女性の面影は消えていくのだった。

 死んだと分かると、右近は怖がるのをやめてひたすら泣き続けた。

「こんなことで亡くなったりはしないだろう。夜の声は大きく響くから人に聞かれたらどうするのだ。」

 光源氏がなだめても、右近は泣き止まなかった。物心ついたころから、彼女はこの主人に賭け、零落してからもひたすら信じて付き従っていたのだ。

 光源氏はこんな場合に必要なのはお坊さんだと思った。

「随身。今すぐ惟光のいる場所に行って、ただちに参上するように伝えよ。尼君のところにいるだろう。それから、惟光の兄に僧侶がいたが、それがいたら一緒に連れてくるように。尼君には知らせてはならぬ。このような忍び歩きは許さない人だ。」

 そう言いながら、この人を死なせてしまったのだという思いに、光源氏の胸はふさがった。その悲しみはたとえようもなかった。

 右近は光源氏にすがりついて震えている。夜は深く、鳥の鳴き声がする。

(私一人がしっかり者か。)

 あきれながらも、風がすうっと吹いてせっかく灯した火を揺らし、明かりの届かない四隅の真っ黒の暗がりはやたら黒いような気がしてくる。枕元にたてた屏風はぎしぎしと揺れ、そこかしこに得体のしれない足音がみしみしするような気がするのだった。なんでこんなところに泊まろうと思ったのだろうと、彼はひたすら後悔した。

(惟光、早く来い。)

 惟光は病気の母親の家に帰らず、どこかをほっつき歩いているために、随身が心当たりを走り回っても居場所不明で全然つかまらないのだった。

 帝の意向に逆らうような恋愛におぼれたことを深く悔やんでいると、やがて鳥の声がして、夜が明けて惟光が来た。



「お車をお持ちいたしました。」

「惟光…。」

 昼も夜も光源氏のそばにはせ参じる頼れる惟光の姿を見ると、いなかったことをなじるよりも先に泣けてきた。右近も惟光の声を聞くと、泣きながら夕顔のそばを離れて惟光に近寄った。

「兄の阿闍梨を連れてまいれと申しただろう。」

「兄は昨夜山へ帰りました。何かございましたか?」

 光源氏は情けなくて何から話してよいか分からなかった。ともかく惟光を招き入れ、死体を見せて事態を説明した。

 惟光は事の重大性を理解した。

 この死体と光源氏が結び付けられるようなことが断じてあってはならない。

「この遺体をここに置いておくわけにはまいりません。管理人にも絶対に知られてはなりません。車で運び出しましょう。」

「五条の家へ連れて行ってくださるのですか?」

「いや。五条の長屋は人目が多いから…。」

 惟光はしばらく考えてから光源氏を見やった。

「父の乳母だった女房が、山寺に住んでおります。そこに連れていけば、供養もできるでしょう。それに山寺なら、庶民から死体が運び込まれることなど、日常茶飯事でしょうから怪しまれません。人目も少ないです。」

「…そのようにせよ。」

 光源氏は泣いていたが知られてはならないことは分かっていた。光源氏が殺したのだと世間は考えるだろう。このような忍び歩きも彼の評判に傷をつけ、政敵に攻撃の材料を与えてしまうことになる。都中の噂になるだろう。「桐壺の更衣の息子、帝が一番目にかけている光り輝く源氏の君は下町歩きをして女を殺した。」

惟光はこれっぽっちも疑わなかった。彼は主人をよく知っていたから光源氏がこれほど入れ込んだ女性を殺したりしないことは分かっていた。心から泣いていることも分かっていた。むしろ彼ももらい泣きしそうになっていた。

 彼は車を屋敷の縁側に寄せると、夕顔の遺体を上等の畳むしろにくるんで担ぎ出した。むしろから夕顔の髪がこぼれているのをみると、光源氏は錯乱した。

「どうにかして最後まで付き添いたい。私も行く。」

「だめです。今すぐ二条のお屋敷にお戻りください。」

 惟光は右近だけを付き添いにして、車に乗せた。そして光源氏の車がなくなったので、自分の馬をお貸しして、袴の裾をくくりあげて徒歩で車に付き添った。

「私が万事見届けます。このままご主人が行方知れずになったら、主上はどれだけご心配になることか。」

 光源氏はやむを得ず、二条邸に向かった。どうやって着いたのか記憶もない。彼は自宅にたどり着くと同時に高熱で倒れた。


 心配する使用人や女房達をよそに、彼は四方を几帳で囲った寝室に入り、苦しい胸を押さえて後悔した。

(なんで最後までついて行ってやらなかったのか。生き返ったとしたら、「お見捨てになった」と思うだろうに。)

 そうこうするうち熱も上がり、体中から汗が噴き出て頭も痛い。

(私も死ぬのだ。)

 光源氏は苦しみの中でそう思った。女房達は心配して介抱する。


 昼ごろ、光源氏病と聞いた公達たちがわらわらと見舞いに訪れた。帝からは「昨日一日音沙汰なしでどこへ行っていたのか」という使い、左大臣家からは、この頃足が遠のいているので、圧力をかける意味もこめて息子たちが勢ぞろいで見舞いにやってきた。光源氏は頭の中将だけを中に入れた。気が咎めていたのだ。死んだのは彼の愛人だった女性だ。子供もいて、死んだとは知らずに今も探している女性なのだ。

「お加減はいかがですか。」

「申し訳ない。どうぞ入ってください。

 実は乳母だった者の見舞いに行ったところ、下男の死人が出て、死の穢れが移ったために、神事の妨げになってはいけないので、宮中へ参内するのをやめていたのです。」

「なるほど。

 帝がお探しでしたよ。昨夜は管弦の会がありましたから。ずいぶんご機嫌を損じられていました。」

「今朝からは風邪をひいたらしく、頭が痛く、臥せっていたのです。申し訳ないことです。」

「分かりました。それではそのように帝に申し上げます。」

 頭の中将は席を立ったが、すぐに戻ってきた。

「今言ったのはうそでしょ?本当のところはどうなんです?」

 光源氏は悲しみで胸がつぶれるかと思った。

「とにかく、穢れに触れたので参内できないとお伝えください。」

「ははあ。…では蔵人の弁を呼びましょう。」

 頭の中将は宮中で帝の秘書(蔵人の弁=5位)をしている異母弟を呼び、光源氏の前で奏上する内容を指示した。

 穢れがあるのだと分かったので、人々は帰ってあらたな来客もなかった。夕方ごろ、惟光が帰ってきた。



「明日が日がよいという事なので、ながながと読経をしても意味がないですから、明日の葬儀に決めてまいりました。知り合いの高徳の老僧に頼んでまいりました。」

「付き添いの女はどうしている?」

「それがまた生きていられないような有様です。『お供します』と言って谷に飛び込もうとするのを止めました。『せめて五条の仲間に知らせたい』というのも、何とか止めています。しばらく落ち着いてからにしなさいと言いました。」

「私も具合が悪いのだ。どうなるか分からない。」

「こんなことは万事運命です。あの女性は死ぬ運命でした。お気になさることはございません。

 とにかく人に知られてはならないと思いますから、誰も使わず私一人で手を下していますので、ご安心を。頼んだ僧侶にも、すべて違うことを言ってあります。本当のところがどうなのか、見当もつかないはずです。」

「心強い。儀式は万事手を尽くして行え。」

 二条の屋敷はどこにでも人がいて耳があるので、惟光は声を潜めて事の次第を報告した。女房達は怪しんで聞き耳を立てていたが、何も分からなかった。

「私も行きたい。行ってはならないのは分かっているが、最後だと思うと、どうしても会って別れがしたいのだ。馬で行けば怪しまれない。」

 はらはらと泣きながら言う主に、惟光はあれほど愛していたから止めても無駄だと思った。

「それでは夜が明けないうちに必ずお帰りください。人目に付いたらおしまいです。」

 光源氏は夕顔用に仕立てた粗末な狩衣(簡略服)を身にまとい、夜の道に降り立った。暗い物騒な夜の街を見ると、またぞろこんなことをしてはならないという後悔がよみがえったが、夕顔の顔を見たいという思いの方が強かった。

(今日をはずしてはもう二度とこの世で夕顔の姿を見ることはできないのだ。)

 彼は心を決めると、お供一人と惟光を従えて、馬を走らせた。


 夕顔は十七日月の差し込む板葺きの家の中に寝かされていた。中は清潔で、年老いた尼が一人と、声のよい尼の息子の僧侶が読経をし、外では数人の僧侶が寄り集まって、しめやかに念仏を唱えていた。清水の寺が近いが、ここは人気が少ない。惟光は言った通りのことをしていた。すでに十分に供養は行われて、今は夕顔の火葬を待つばかりだった。

 光源氏は夕顔の手を取って泣いた。

「どうかもう一度声を聞かせてくれ。いったいどんな前世の因縁があったのか、これほど短い間に愛情を注いだのに。後に残していくとはあまりにもひどい。」

 僧侶たちももらい泣きしながら、これほど美しい貴公子らしき人に愛された女性の素性をあれこれと推量した。

 光源氏は泣くだけ泣くと、現実に返った。ここに来た目的は別れのほかに二つある。一つ目の右近は屏風の後ろに横になっていた。この娘を路頭に迷わせるわけにはいかない。夕顔のためにも。そして野放しにしてうわさが広まるのを防ぐためにも。

「お前も二条の屋敷に来るのだ。」

「幼いころからお仕えした方に死なれてしまい、仲間にもどう言ってよいのか分かりません。きっと責められるでしょう。もういっそ一緒に煙になりたいです。」

「そうは言うが、現実に生きているものは生きていかねばならない。私たちもいずれ死ぬ身だ。二条で女房として暮らせば生活の心配はいらない。私を頼りにせよ。」

 手を差し出したが、光源氏も頼りなくつぶやいた。

「そうは言っても私も生きてはいないかもしれない。」

「そろそろ夜が明けます。お早く。」

 惟光が厳しく言った。

「分かった。」

 光源氏は最後に振り返った。

 夕顔は光源氏があらわな姿を隠すためにとっさに脱いで着せかけた赤い着物をそのまま着せられて、今も生きているような様子で寝ていた。

 その姿が目について離れず、馬にもうまく乗れない。惟光がぴったりよりそって光源氏が馬から落ちないように助けた。しかし加茂川の土手で、ついに光源氏の気力も尽きた。

「私も死ぬのだ。こんな旅の空の下で。とても屋敷まで帰れそうにない。」

 彼はがっくりと馬から降りた。

 惟光は嘆いた。

「俺がしっかりしていたら、何と言われようとご主人をこんなところに連れ出したりしなかったのに!」

 彼は加茂川の川で手を洗うと、一心不乱に清水の観音を拝んだ。

「南無観音大菩薩。清水の観音様。どうか主をお助けください。どうかしっかりさせてください。お願いします。…。」

 この姿を見ると、光源氏も何とか気力を奮い起こして、屋敷まで帰り着いた。



 2・3日の間、光源氏は人事不省に陥り、高熱とうわごとに苦しんだ。帝も左大臣も心配すること限りなく、有徳の僧という僧を集めて読経を行わせた。仏教だけでは心もとなかったので、神道のお祓いに密教の修法といった具合に、とにかくあらゆる神仏の加護を頼んだ。光源氏は良くなっていった。二十日かけて回復してからも、泣くのはやまなかったが、これを人々は「物の怪がとりついた」とみなしていて、現実の悲しみであるとは思わなかった。

 その合間にも、光源氏は夕顔のことを忘れていなかった。

 右近を招き寄せ、二条邸に部屋を与えて、女房としてそれなりの地位につけた。光源氏が大事に思って用事を言いつけたりするので、屋敷の女房達も敬意を払って仲間に迎え入れた。右近が喪服を着ながら仕事に励み、新しい環境になじんだころ、彼は二つ目の目的に取り掛かった。

「あの人の素性を知りたい。海女の子だとしか言わなかった。もう隠す必要はないだろう。」

「どうしてお隠ししたりしましょう。

 ただ源氏の君が急なことでご縁ができたうえに、顔を隠され、身元もお隠しになるので、おそらく源氏の君だろうとお思いしていましたが、『やはり深いお心ではないのだ』と、ご主人は嘆いておいでだっただけでございます。」

「私は隠し立てするつもりはなかった。ただ、下町の忍び歩きなどしては帝からおしかりを受けるから、用心に用心を重ねていただけのことだったのだ。

 あまりにも深い縁だったので、知り合ったのがうれしくもつらくも思われる。

 もう隠す必要はないだろうから、夕顔の素性を詳しく話すのだ。名前が分からなくては、七日供養もできない。」

「もちろんお話いたします。主人が話さなかったのを女房の私が話してはいけないのではないかと思っていただけでございます。

 あの方の御父上は3位の中将でした。位は3位でしたが職が上がらないまま世を過ごされ、主人をことのほかかわいがっておいででしたが、早くにお亡くなりになり、頼りがなくなったところを、15歳くらいの頃に少将だった頭の中将様に見初められて、通っていただいていたのでございます。

 3年たった去年の秋に、ご本妻から恐ろしいことを言いやってこられたので、もとから怖がりなご性格でしたから、そのまま家をお出になり、西の京に尼をしている乳母を頼って逃げていかれたのでございます。

 西の京になじめず、田舎に移ろうと思われておいででしたが、方角が悪いので、五条に仮の住まいをしているところに、源氏の君がお越しになったのでございます。」

 右近は肝心なことは言わなかった。

 夕顔の家、西の京という治安の悪い場所、五条という下町、わざと女房達の姿が往来の馬上の人からも見えるようにした家。着るもの食べるものに困れば言い寄ってきた人に手紙を書いて、夕顔はお客を呼んだのだった。遊女たちも高貴な装いで、歌の一つも詠める上臈が求められていたので、生活の手段を失った高貴な女性が、そのまま身に付いた特技を生かせる手段だったのである。夕顔は身分を隠してゆるやかな愛人になることを選んだ。住む家さえ失った高貴な女性は、飢え死にするかそうするしか生きていく道がなかったのだし、そうしていくうちに運が開けることもある。実際に開けたのだ。それを泣いていたのは右近だった。彼女は女主人がこれほど身を落とし、将来を失っていくことが痛ましかった。しかし女主人はそのことを苦にしていなかった。男性に好かれているときだけ、彼女は心が穏やかでいられた。そして関係を持った相手を、心から頼りにしていた。

 そうした一切は、もう闇に葬ってよかった。女主人は亡くなった3位の娘、頭の中将の愛人だった高貴な方だ。

「やはりそうだったのか。」

 光源氏は自分が愛した女性が氏素性の確かな人だったと知って安心した。そして二番目の目的に移った。

「あの人には子供がいたはずだ。」

「3つになる女の子でございます。とてもかわいらしい子で。」

「頭の中将には知らせるな。私に引き取らせてくれ。忘れ形見として、大切に世話をする。知らせれば夕顔の死を教えなければならず、余計な恨みを買うことになる。」

 右近が自由の身の上なら、実の父親を無視する行為に異を唱えただろうが、今は光源氏の召使の身分だ。否やはなかった。それに右近のような身分の低いものは頭の中将に近づくつてがない。近づけても扶養してもらえるか分からない。

「西の京のような場所で育つよりもその方がようございます。」

「すぐに預かっている乳母に連絡するように。」

 光源氏は立ち上がって庭を眺めた。

 庭は紅葉が終わりかけ、虫の音がほのかに響いている。下町の夕顔の庭と心の中で比べてみて、右近は我が身の幸福に顔の赤らむ思いだった。光源氏も夕顔のことを考えていた。庭のどこかでハトが鳴くのを聞いて、夕顔が死んだ夜、フクロウが鳴いていたことを思い出していた。

「あの人は年はいくつだったのだ。」

「19でございます。私は幼いころに母親を亡くしたのを、生きておいでだった主の父上がかわいそうがられて、主といっしょに育ててくださったので、こうして生きていることも申し訳ないです。

 いっそのことあのように愛情をお持ちしなければよかったのです。どんなに零落なさっても、あの頼りない方を頼みにしてひたすらお仕えしたことが悔しいです。」

「頼りないところが可愛かったのだ。頭がよくて人に従わないのは私の心にかなわない。私が心が優しく生まれついているせいか、女性はひたすら優しくて、人に姿を見られないように注意してはいるが、一度縁ができたらどんな言葉もすぐに信じる方を、自分の好みに合わせていろいろ教えて、お世話するのが親しめると思っていたのだ。」

「そんな主でした。亡くなられたことが本当に惜しいです。」

 右近は泣いた。

 曇って風が冷たい。

「あのひとの体を焼いた煙が雲になったと思うと夕暮れの空も親しみがわく。」

 光源氏は口にしたが右近は泣いていて返事ができなかった。光源氏は耳鳴りがしてうるさかった砧の音でさえ懐かしいような気がして横になった。


 空蝉は小君がお屋敷に上がることがあってももう手紙を持ってこなくなったので、「ついに源氏の君はあきらめられた」と思いながら悲しかった。それがご病気だと聞いて、いてもたってもいられなくなった。もうすぐ伊予の国に夫について下るので、もうお会いできなくなる。恨まれているうちは切なくてもうれしいが、忘れ去られてしまうのは辛かったので、

「お尋ねがないのをなぜかと尋ねることもできません。長く経つので思い乱れております。

『ねぬなわの 苦しかるらむ 人よりも 我ぞ益田の 生けるかいなき』」

((拾遺集)苦しいと口にする人よりも増す私の生き甲斐のなさ。「ねぬなわ(じゅんさい=根が長いので長々話す)」と「益田」(増す)は雰囲気に合わせた掛詞)


「生き甲斐がないとは誰が言うのか。

 空蝉のために生き甲斐のない世の中だと知ったのにまた手紙のために命がつながれました。」


 病床で震える文字でしたためた手紙を読んで空蝉はほほ笑んだ。あの持って行かれた着物を、今でも大事にしてくださっているのだ。今では光源氏に身を任せたときの自分の将来が分かっていた。女房としておそばに上がり、気まぐれが終わればみじめに捨てられる身の上になるだろう。なのでもう心惑ったりはしない。それでこんな思わせぶりな文章も書けるのだった。こうして遠くから手紙をいただくくらいが、ほどよく幸せなのだと自分の心にも言えるのだった。


 ついでに手を付けていた義理の娘の方にも「恋しくて死にそうだうんぬん」という手紙をかいて、目立つ背の高い萩の枝に結び、小君に言づけた。

「人目を避けて渡してほしいが、夫に見つかっても私だと分かれば問題はあるまい。」

娘はすでに夫のある身なのに「私も恋しくて泣いています」という返事をよこした。

(文字が下手で書きようも下品だな。返事だけは早いが。もう一人の方は忘れられないくらい品があったのに、この娘の方は心やりができていなくて簡単にいい気になる。これならまた気が向いたときに逢いに行けばいい。)

 光源氏は病床にありながらすでに女性ハントを再開していた。病は快方に向かいつつある。


 夕顔が3位の貴族の娘だと分かったので、光源氏は49日の法要を、それにふさわしく盛大に比叡山法華三昧堂で執り行わせた。惟光の兄の阿闍梨が高僧になっていたので、これを主役にして僧侶を集め、読経を行わせる。僧侶たちに渡す布施の着物も万事抜かりなく用意し、飾りつけも監督して華々しくさせた。

結願功徳の願文も自分で用意する。哀れな女性を仏さまに差し上げますので極楽に行かせてやってくださいという漢文を作り、文章博士に見せたが、お世辞ではなく「このままで直すところはありません」という返事が返ってくる見事さだった。彼は本気でこの女性を愛していたので、本気を出して文章を作ったのである。

「どこの方なのですか。うわさに上らない程度のご身分なのに、これほど源氏の君を嘆かせるとは、よほど前世からの縁があったのですね。」

 博士は不思議がった。


 光源氏は一心に数珠を繰って読経した。

 49日を過ぎると転生するというが、夕顔はどこへ行くのだろうと思われた。

別に自分が殺したのではないが殺された場所に連れて行ったし、あのとりついた女性も間違いなく自分が捨てた女性の一人が恨みに思ってやったのだろうから結局光源氏のせいなのだが、この法要を過ぎると、彼の罪悪感は大きく減った。

しかしそれからも頭の中将の姿を見るたびに「あなたの探していた幼い娘はちゃんと生きていますよ」と教えたくなったが、夕顔のことを恨まれるだろうと思うと怖くてできなかった。

夕顔のもとの住まいでは女主人と右近が帰ってこなかったので、惟光を責めてみるが、この男からは女好きだという以外の何の情報も得られない。「受領の息子が、頭の中将の意向を気にしてひそかに主を国に連れ帰ったのだろう」ということになった。それにしては右近まで連絡をしてこないのはおかしい。住まいを貸していた別の乳母の娘は、(貴人には乳母が何人もつくことがあった)「右近が一番女主人と親しかったからと言って私をつまはじきにする」と言って右近を恨んだ。

このことは右近の方にも困った結果を生んだ。光源氏の女房なので、うかつなことは言えず、連絡すれば質問攻めにあうから連絡もできないが、連絡しないと夕顔の娘を引き取れない。結局何もしないまま、月日が経って、夕顔の女房達は散り散りばらばらになり、幼い娘の居場所は分からずじまいになった。


やがて11月(旧暦10月)になり、伊予の介が空蝉を連れて任国に下るという日が来た。光源氏は高貴な人にしては細かいところにまで気が付くので、伊予の介にこまごまとした餞別を贈った。そしてついでという風にして、伊予の介の妻にも餞別に特別に作らせた櫛、扇、そして持って帰った下着を返した。


「会うまでの形見の品と思っていたので私の落とした涙で袖が濡れているだろうが。」

 空蝉は夫に知られないように弟の小君に返事を届けさせた。

「蝉の羽を     蝉の薄い羽根(=軽い衣装)

 裁ちかえてける  仕立て直した(綿を入れて夏服から冬服にした)

 夏衣       夏衣

 返すを見ても   お返しを見ても

 音は泣かれけり  声をあげて泣いています」


(人並み外れた強情さで拒み通したな。)

 光源氏は秋が終わった空を眺めた。

 今年の夏と秋はいろいろなことがあったが、愛した二人は一人は逝き、一人は遠くへ離れていく。

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