第10話疾駆、ロンシャン競馬場

 9月の1日2日、夏競馬、最後の札幌新潟小倉開催は無事に終わり、その翌週、サマーシリーズ最後のレースセントウルSが行われ、藤村師の見立て通り穴馬が勝ち、これによって、シリーズすべての優勝馬とジョッキーが確定した。

 優勝馬とジョッキーには賞金が出た。しかし、何と言っても、涼が目を剥いたのはリーディングジョッキーである。現在1位に堂々と「美浦・神代涼」と表示されている。

 そんなある日、望からメールが来た。

『兄さん! 僕、マジシャンズナイトで凱旋門賞に乗ることになったよ!』

 東よりの吉報とはこのことだったのかと思う涼であった、それと同時に、ついに海外の地で兄弟対決をすることになったのだ。これを和尭が知ったら大層喜ぶだろう。

 マジシャンズナイト、ブライアンズハート、そのどちらも欧州適正がある。どちらとも雨の中の施行だったダービーと宝塚記念を圧勝している。

「ああ……無敗の重圧が……」

 これ程までに重いものだったのか、頭の中がぐるぐると回転する。

 トウカイテイオー、ミホノブルボン、トキノミノルのようにダービーの後に不幸があるか、コダマのように古馬になっても大レースを勝てるか。無敗の二冠馬は不幸度合いが高い。それでもトウカイテイオーは最後に有終を飾ったが。

 そうしている間に、今週はもうフランスに発たねばならない。

 今週末、フランス時間の9月16日はフォア賞とニエル賞と牝限ヴェルメイユ賞がロンシャン競馬場で施行される。

 それ故に、涼は二冠牝馬ロサプリンセスが出走する予定だった秋華賞トライアル・ローズSに騎乗できない。間の悪いことに、オークスで代わりに乗った吉川尊が先約で中山のレースに出てしまう。乗り手がいなくなったため、ロサプリンセスは秋華賞直行となった。なぜ、同じ秋華賞トライアルの紫苑ステークスを使わなかったのかというと、潤が桜花賞に合わせようとして結局春を棒に振ってしまった馬が当レースに出走したためである。藤村厩舎は基本的に使い分ける。潤が担当していた馬はめでたく紫苑ステークスを2着し、秋華賞優先出走権を得た。

 トライアル関連の話題だと、遥乃が厩務員を担当しているシンザヴレイブが来週の神戸新聞杯に涼が鞍上で出走する予定だ。その他、菊花賞トライアルセントライト記念にはローゼンリッターが出走予定だ、万全の状態で臨んでくるだろう。

 とにかく、今は凱旋門賞ステップだ——と気合いを入れる。

 涼の部屋に咲良と遥乃が上がり込んで、涼の荷造りの邪魔……否、手伝いをしている。

「アメニティグッズは多めの方が良いですよねえ。遥乃ちゃん、勝負服見せて見せて」

 咲良が遥乃から勝負服を受け取り、バッと広げてみた。

「この白い十字の模様が人気なんですよ〜。東京でこの模様のTシャツを着ている人見ましたもん」

「……えっと、ハートフルの勝負服はかっこよくて人気なんです」

 紺地に白の十字襷、袖には白の一本輪。爽やかなイメージを持たれているらしい。

「大切に扱ってね。それ週末おれが着るんだから」

 この勝負服を着て、海外の競馬場に立つ涼を咲良と遥乃は想像してしまった。

「まいど〜、俺も手伝いに来たぜ〜。よう咲良、遥乃」

 潤が現れた。しかし二人は惚けて気がつかない。

「おいおい、二人はなんで勝負服持ってぼーっとしてるんだ?」

「知らね」

 着替えとリクルートスーツをキャリーバッグに入れる涼。

「それより、聞いたか? ロビンソンもムーンライトセレナーデもニエル賞らしいぜ」

「どっちとも3歳だからそうじゃないか?」

「いや、どっちかは直行だと思ってたんだよ。特にロビンソンはブライアンズハートと対戦済みだし……」

「コンチハー、リョー作戦会議しよー」

「今度はアルスか。ご苦労さん」

 アルス・ローマンが勢いよく玄関を開けて入ってきた。その手には、大学ノートと筆箱が携えられている。

「作戦会議って言っても、シャッフルハートは当日、カドラン賞だろ? そっちはそっちで人気してるみたいじゃないか」

 シャッフルハートは凱旋門賞ウィークエンドのうちカドラン賞に登録されている。前年に続き2回目の挑戦だ。キングジョージでの好走が評価されてブックメーカーでも高いオッズをつけられている。

「僕だって緊張してるんだから、こういう時くらい和ませてヨ」

「だからアニキの部屋に来たのか。みんな集まってると思って」

「うん。思った通りダ」

「それでサア、シャッフルがいないレースでブライアンがどうやって勝つかダヨネ」

 涼もそこを心配していた。うんうんと頷く。

 キングジョージをテレビ観戦していた潤もそれは口にする。

「シャッフルがペースメーカーだったからな。今度ばかりはロビンソンがハナを切りそうだ」

 続けて言う。

「ロビンソンだけ気にしているとムーンライトセレナーデが追い込んでくるぞ。アレはものズゴイ豪脚だから」

 ムーンライトセレナーデはその豪脚をもって二冠を制した。

「ハナを切るのはロビンソンだけじゃないかもな。日本のマジシャンズナイトだって逃げ先行馬だ」

 涼は先ほどのメールを潤とアルスに見せた。

「ええっ、ノゾムが凱旋門に!?」

「望には悪いが、前で潰しあってくれると嬉しい」

「性格悪いなアニキ。日本の悲願的にはどちらかに勝ってほしいが……」

「おれが勝ちたい」

 悪い顔をしながら、和尭のステッキをキャリーケースに入れた。

「さてフォア賞、ニエル賞ともに今週末だが、俺的には、ここは叩きでいいと思うけど」

 潤が物申す。涼はうん、と頷いて同意した。そこまで目一杯走らせなくて良い、勝てば儲けものといったところだ。

「マジシャンズナイトはフォア賞を勝つと思うけど、ブライアンズハートはねえ……ニエル賞激戦区だから」

 アルスも同意した。

「勝ったとしても、本番でムーンライトセレナーデあたりに負けたりして」

「おい、アルス、冗談はよしてくれよ」

「とりえず、まずはニエル賞だ。荷造りは終わったな? 飛行機のチケットは取ったな? 忘れ物はないな? 何か言い残したことはあるか? 海外渡航届けは?」

 潤が次々とまくしたてる。

 妄想の世界から帰ってきた咲良が一言。

「無事が一番ですよね」

「私も……咲良さんと同じ意見」

 遥乃も賛同する。涼はうん、うん、と皆の意見をしっかりと頭に入れて、旅支度を整えた。今夜、フランスに向けて旅立つ。今度は涼の単独行だ。現地には藤村師がすでに到着しているが、一人で海外に行くのは初めてである。

 旅立ちの門出、和尭と潤は口をすっぱくして言う。

「いいか? 今回はステップだからな? 皐月トライアル弥生賞を思い出せよ?」

「分かっているよ。英国牝馬二冠馬とダービー馬の胸を借りるつもりで行ってくる」

 遥乃と咲良が一歩前に出て、涼の手をそれぞれ握る。念を送っているらしい。

「……どうか無事で」

「涼くん、フォア賞もニエル賞もテレビでやるそうなのでちゃんとこの目に焼き付けますね」

「……咲良、遥ちゃん、分かった。行ってきます」

 そう言って、涼は出国ロビーに消えていった。

 飛行機に搭乗し落ち着いてから、涼は手に持っていた凱旋門賞特集雑誌を広げた。雑誌には歴代の凱旋門賞馬、日本からの挑戦馬とその着順が事細かに記載されていた。

 スピードシンボリから始まったこの挑戦は未だ到達者がいない。日本の悲願となっている。

 あの三冠馬ディープインパクトやオルフェーヴルでさえ敗れているのだ。ディープインパクトは体調不良、オルフェーヴルはヤネ(騎手)がテン乗りで当馬は癖馬と懸念材料はあったのだが、やはり期待する声は出ていた。

 凱旋門の頂点は高きに在り。然りとて挑戦馬は消えず。栄誉のため、挑戦し続ける。

 無敗の二冠馬が父系の悲願、そして、日本競馬の夢を背負ってロンシャン競馬場のターフに立つ、そんなことを思うと歴史の奥深さに気が遠くなりそうだ。

 特集雑誌にはブライアンズハートのことも書いてあり、ブックメーカーの人気も記載されていた。

 無敗で二冠を達成したあと、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスを優勝した有力馬の人気は現時点で3番人気。キングジョージ以前と比べて人気は上がっていた。

 1番は英国ダービー馬ロビンソン、2番に二冠牝馬ムーンライトセレナーデ、3番は無敗二冠馬ブライアンズハート——と圧倒的に3歳勢が人気をしていた。同じ日本馬の4歳マジシャンズナイトは父系ダンシングブレーヴの関係か、意外な穴人気を見せていた。

 血統に、欧州適性があるサドラーズウェルズを持つブライアンズハートか、凱旋門賞馬ダンシングブレーヴの末裔マジシャンズナイトか、どちらが勝つか日本人は盛り上がっていた。

「ニエル賞で大勢が決するかな」

 1、2、3人気の三頭が早くも激突するニエル賞はプレ凱旋門賞と雑誌やネットニュースに書かれている。

「おれ、ロンシャン初めてなんだけどなあ」

 騎手の腕より血統か。

 ふと、フォア賞の出走予定馬を見る。マジシャンズナイトは8頭立ての5番人気。1番人気に支持されているのは昨年のキングジョージとドバイシーマクラシックを勝っているフランスの5歳牡馬ウィザーズディサイプル。当馬は昨年の凱旋門賞で3着にきているらしい。その後は香港ヴァーズで2着と好走が続いている。なぜこのような実績馬が一番人気ではないのか涼は疑問に思った。

 余程、ロビンソンの英ダービーの勝ち方がエゲツなかったのだろう。エプソム競馬場で逃げて10馬身は尋常ではない。

 ウィザーズディサイプルが仏ダービーや愛ダービー英ダービーに不出走なのも拍車をかけているのかもしれない。

 ウィザーズディサイプルはケープクロスの父系で孫にあたる。母は英国G1を2勝している短距離の晩成馬だ。

「ふーん……相手にとって不足無し、か」

 飛行機が離陸する。

 向こうで、ブライアンズハートは約1ヶ月休息した、そして9月に入り追い切りを始めた。

 先週のニエル賞1週前追い切りでは、抜群の時計を出していたと聞く。

 涼はフランスに着いたら直ちに調整ルームに入る。初めてのロンシャン競馬場はどのような馬場かと胸を躍らせていた。ロンシャン競馬場でブライアンズハートに乗り、凱旋門の頂点を目指す——硬く胸に誓ってシャルル・ド・ゴールまでの空路を過ごすのであった。

  ///

 フランス時間9月16日・14時50分のニエル賞発走時刻の数時間前——。

 ロンシャン競馬場の厩舎で、出陣式を終えた陣営の元に謎の人物が現れた。

「ふむ……これがブライアンズハートか」

 その人物は男性で、どうも日系人のように見えた。

「あ、あなたは? どちらさまですか?」

 藤村師が怪しげな男性に声をかける。男性は藤村師と涼を交互に見て頷いた。

「僕は、ここ、フランスでオーナー向けの競走馬のアドバイザーをしている者です。フランスではムッシュギャロと呼ばれています」

 男はそう言って、名刺を見せた。名刺にはミスターKと記されていた。

(これじゃ誰か分からないじゃん……)

 涼は心の中でツッコミを入れた。

 ミスターKはブライアンズハートを見るや否や、驚くべきことを言った。

「悪いことは言いません、この馬に凱旋門は厳しすぎる。今からでも出走を取り消して日本に帰るべきだ」

 周りにいた一同は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。それもそのはず、ニエル賞上位人気に支持されているブライアンズハートが直前も直前に出走を取り消して日本に帰れというのだ。

 務めて冷静に藤村師は説明を求める。

「ミスターはなぜそう思ったのですか?」

「この馬が日本で無敗の二冠に輝き、その足でキングジョージに飛んだのは知っています。ろくな休みも無しにクラシックディスタンスを走りすぎです。2400に拘るなら日本に帰ってジャパンカップに備えるべきです、でないとそのうちエビになりますよ?」

 エビ——屈腱炎(くっけんえん)のことである。競走馬の怪我の一つであり、発症すると競走馬生命も脅かしかねない。発症し腫れ上がった脚の外観が海老に似ていることからエビ、エビハラ、などと呼ばれている。簡単にいうと腱が一部断裂し患部が発熱し膨張する状態のことを言う。発症する原因ははっきりとはしていないが、継続的な運動負荷で起こるとされている。

「ご忠告痛み入ります。ですが、このレースも凱旋門も出させていただきます。ミスターの懇意のオーナーさんがいるのかもしれませんが、これは勝負なので」

「そうですか……凱旋門出走は日本の為ですか?」

 藤村師は一瞬考えるそぶりを見せる。

「普通はそうかも知れません。しかし我々の目的はナリタブライアン系の確立のための出走です」

 藤村師の答えに涼は、ハッとした。心田オーナーは自分の持ち馬でナリタブライアン系を確立させようとしているのか、そうでなければ貴重な産駒を持たないか、と思い至る。

「このブライアンズハートには下に3頭全兄弟がいます。ブライアンズハートとその兄弟たちが海外の大レースを席巻させれば、ナリタブライアンの強さの証明ができるのです」

「そこまでして、終わった系統を盛り上げたいのですか……私には分からない。真に強い馬こそが残るべき競馬の世界に、終わった弱い血はいらないです」

 そこまで言うのか。内心、涼は一言言いたい程はらわたが煮え繰り返っていたが藤村師が代弁する。

「終わりではありません。新たな始まりの血です」

 藤村師の反論は涼の胸にストンと落ちた。

「ブライアンズハートからまた新たに血が広がっていくのです」

「それならば、尚のこと、馬を大事にしてこのフランスから立ち去ることです」

 ミスターKはそう言い残して去って行った。

「何だったんでしょう……先生」

「私にはあの人の考えが少しわかる、だが、認めたくはないね。貴重な血は残していくべきだ」

「さあ、時間だパドックに行こう」藤村師と担当厩務員はブライアンズハートを引き連れてロンシャン競馬場のパドックへ向かって行った。

 涼は直ちに騎手待機所へ向かった。

 そしてフランス時間14時50分。

『今年も凱旋門賞の季節が近づいてまいりました。その前哨戦ニエル賞には日本の二冠馬ブライアンズハートが出走します。今年は6頭立て、日本のブライアンズハートは3番人気。1番人気はブライアンズハートと前走キングジョージ6世&クイーンエリザベスSで戦った英国ダービー馬ロビンソンです。ブライアンズハートは馬番1番、枠は3枠スタートとなります。ロビンソンは馬番4番、枠は6枠スタートです。続々と出走馬が枠入りをしていきます。2番人気ムーンライトセレナーデ入りました、ブライアンズハートも入って、残るロビンソンも……入りました!』

 アナウンサーは息を入れる。

『体制完了! ニエル賞G2スタートです! 6頭一気に出ました! さあ何がいく? ロビンソンやはり行く! 初めてのロンシャンで逃げを打ちます! 日本のブライアンズハートは前から3番手の位置、先頭ロビンソンはそれほど逃げていません! 向正面、先団は隊列を形成して進んでおります。前から見てみましょう、先頭は逃げているロビンソン、その後ろ3馬身差に仏ダービー馬アトモスフェール、その後ろにいました! 日本の二冠馬ブライアンズハート、鞍上神代涼抑えている。その後ろには仏2000ギニー馬エクスプロジオン、その半馬身後ろに仏1000ギニー馬ヴィエルジュ、最後方に英国二冠牝馬ムーンライトセレナーデ!』

『先頭は1000mを通過、タイムは63秒、だいぶ遅いペースです』

『第3コーナーを各馬回ります! 依然として先頭はロビンソン! 続いてアトモスフェール。ブライアンズハートはまだ3番手に控えています! 3コーナーを回り終えて、さあ偽りの直線フォルスストレートに差し掛かります! ブライアンズハート、神代涼まだ行くな!』

 涼は後方をみる。そろそろ動きがありそうだ、そう感じた涼は、少しずつ手綱をしごいていく。フォルスストレートが終わりに差し掛かって、いよいよ4コーナーを回り終えロンシャン競馬場最後の533mの直線だ。

(この直線、府中と似たような長さだ……ってことは)

『さあ直線向いて、馬群がばらけます! ロビンソン逃げる逃げる! アトモスフェール一杯か?! さあ来た! さあ来た! 日本の二冠馬ブライアンズハート、ロビンソンに再び迫ります!!』

『二頭が並ぶか!!? さらに大外からムウウウンライトセレナアアデーー』

『三頭並んだ! やはり三強の一騎打ち! ブライアンズハート躱してくれ!! ブライアンズハート! クビ差凌いだか今ゴーーールインッ!!』

 久しぶりに、自分でも分かる会心の騎乗だった。たとえ負けていても、凱旋門賞に向けて良い経験になった。結果は二の次である。

 その日の凱旋門賞の前哨戦3レースはニエル賞をクビ差凌いだブライアンズハート、フランス牝馬クラシック最終戦にして凱旋門の前哨ヴェルメイユ賞は春にディアヌ賞を勝ち結果的に牝馬二冠に輝いたエンジェルフォール。そして古馬限定フォア賞はマジシャンズナイトが1番人気のウィザーズディサイプルを退け勝利した。

 日本馬がフランスの重賞を2勝したことになる。

 日本のインターネットでは祭りが起こっていた。やれオルフェーヴルの敵討ちをしてくれ、日本馬ワンツー頼む、だの、言いたい放題だった。

「もしもし? アルス? うん、勝ったよ。望には会えなかったんだけどあっちも勝ったみたいだ」

『ヨカッタ、心配していたんダ。さあ、後は本番だネ。あ、でもその前に日本で菊花賞トライアルかあ』

「そうだな。菊花賞……シンザヴレイブの調子はどう?」

 日本に残して来た懸念の一つ、菊花賞だ。遥乃が厩務員として担当しているシンザヴレイブで当レースに出走することになっていて、まずはトライアル神戸新聞杯を使う予定だった。

『それがネ、ダービー二着のローゼンリッターがセントライト記念を使うらしいから、シンザヴレイブは逃げたって言われているんだヨ』

「またそのパターンか。ヴレイブは菊に行ける賞金持ってるんだし、どうせ本番戦うんだから逃げるも何も無いのにな」

『ちなみに僕のナギサボーイはセントライト記念ダヨ』

「だろうね」

 他愛のない話をアルスと交わす。フランス時間20時、日本時間だと9月17日午前3時、よく電話に出てくれたなあと感謝する涼。アルスは、絶対に涼から電話がかかってくるから、できるだけ寝ずに待とうとしていたのだ。

 しかしながら日本では9月17日月曜日は敬老の日で、競馬開催日である。

 アルスが言ったようにセントライト記念が中山競馬場で施行される日だ。

 公正競馬のため、これ以降携帯電話は使えない。最後のチャンスだった。涼の思いの丈を聞ききったアルスは安心して眠りについた。

 ブライアンズハート陣営は勝利の祝いをして、翌月に開催される大舞台「凱旋門賞-アークデトリオンフ-」に備えるのだった。

 涼が一時帰国するのは翌日夕刻のことである。

 成田空港から美浦へ向かう。

 今頃は、アルスが中山から引き上げている頃だろう。結果は聞けばいい。そう思って、楽しみをとっておく涼。

 そういえば、成田のロビーで歓待を受けたと思い出す。

 あの人たちは、日高の組合の人たちだ。以前、北海道新冠町に行った時に会った。しかし八島逸樹翁は来ていなかった。もちろんだが、ブライアンズハート生産者の日進英輔はしっかりと息子たちを連れて来ていた。

「涼さん、本番頑張ってください!」

「神代ジョッキー、ブライアンの全兄弟にも乗ってくださいね」

 英輔の息子、洋輔と公輔はそれぞれ思い思いのことを言っていた。ん、と、一寸考える。ブライアンズハートには下に3頭の兄弟がいる。3頭……当歳……一歳……。

 今年デビューの二歳馬がいる、ということに気がついた。藤村厩舎には預託されていない、どこだろうかと競馬関連のニュースアーカイブを辿っていく。きっとブライアンズハート関連の記事があるはずだと。

 調べたところ、どうやらブライアンズハートの全弟は栗東に行ったようだった。オーナーはハートフルカンパニーと記されていた。

 心田大志オーナーの持ち馬同士を配合させて生まれたのがこの4兄弟だ。

 となれば、普通なら、残りの仔の所有もハートフルカンパニーが持つというのが常道だ。ちなみにブライアンズハートだけはセールに出されてそこから改めて心田に落札されている。

 さて、二歳馬の名前は「アーリーハート」。神代久弘厩舎預託。涼はため息を吐いた。

「父さんところか……」

 父親のところの馬に乗るにはフリーにならなければいけない。それ以前に、関係が修復されなければいけない。ブライアンズハートの全弟に乗るための壁は高かった。

 涼が帰国した18日火曜日、前日が祝日開催だったので本日は休日である。涼は真っ先にマンションの南棟、アルスの部屋に行く。

「やあ、アルス、ただいま。セントライト記念どうだった?」

「帰ってくるなりいきなりだナア。ローゼンリッターが勝ったヨ、僕は2着確保で菊花賞出走権獲得」

 それを聞いた涼はホッと胸をなでおろす。

「次は、リョーとシンザヴレイブの神戸新聞杯ダネ」

「勝つよ。多分」

「自信あるネ」

「なんか、負けそうな気がしないんだ」

「すごいこと言うナア」

 アルスは感心する。涼は続けてこう言った。

「おれ、リーディング、獲るよ。調子に乗った事だとは思うけど、ブライアンズハートとシンザフラッシュのおかげでこれからもやっていけそうなんだ。もちろん他のお手馬や厩舎の人、周囲の人の力添えもある」

 胸に手を当て、思いの丈を綴る。気持ちを整えて、凱旋門賞に挑もうと言うのだ。

 それを聞いたアルスは少しいじわるな笑みを浮かべて言う。

「それじゃあ、リョーに一番尽くしてくれている人にも何かお礼してあげないとダメなんじゃないかな?」

「一番? 藤村先生? 潤?」

「はあ……部屋に帰ったら分かると思うヨ」

 鈍い日本男児を見るジャーマン青年アルスは、早く自室に帰るよう涼に促した。

「あー疲れた、ただいまー……って! うわああ」

 自室のドアを開けたと同時に、ある人物が涼に抱きついてきた。突然のことに涼は仰け反る。

「なに、なに? え、なに?」

 状況が把握できない。

「涼くん、ニエル賞生中継で見ました!! 大変だったんですよ? 競馬の有料チャンネルに契約してる実家に戻って見たんですから。真夜中に騒ぐなって流に文句言われたんですよ?」

「咲良……」

 間寺家は陣一の趣味で、衛星放送で競馬の有料チャンネルを契約している。海外のレース中継があるときは大体そのチャンネルで見ているらしい。

「お父さん、ブライアンズハートとロビンソンとムーンライトセレナーデの三連複10万も買っちゃったって、小躍りしてました」

「そ、そう、人気どころだったから、安い配当なんじゃないかな」

 涼はここで初めて日本がフォア賞とニエル賞のテレビ中継と馬券販売をやったのだと知った。

「とんでもないです、10万円をポンと涼くん信じて投げ捨てるんですよ。私も千円単勝買いましたけど3番人気だったんで美味しい単勝配当でした」

「3人気、ブライアンズハート。まあなんと言うか、信じてくれてありがとう」

「これで、凱旋門賞は文句なしの一番人気ですね!」

「どうかな……ニエル賞上位3頭とファア賞上位2頭は実力が拮抗していると思うけど」

 フォア賞上位2頭とは、優勝馬マジシャンズナイトと2着馬ウィザーズディサイプルである。同じ日に行われた二つの凱旋門賞ステップの勝ち時計は2分29秒台。上がり最速はどちらも35秒台。上がり最速を記録したのはニエル賞ではムーンライトセレナーデ、フォア賞ではウィザーズディサイプルである。

 ステップレース戦後、時計を確認して戦慄が走った。この5頭が凱旋門の上位を競う、そんな未来が視えた。

「それにアイリッシュチャンピオンステークスの勝ち馬も怖いよ」

 先週、アイルランドで行われた愛チャンピオンステークス(レパーズダウン芝10f)で驚異のレコードを以って勝利してみせたアイルランド産馬で四歳牡馬ネオサイクロンが凱旋門賞出走予定である。

 近年、凱旋門賞の叩きとして機能している愛チャンピオンステークスで、明確に凱旋門賞を目標として当レースに出走し、実力を証明して見せたネオサイクロンは現在のブックメーカーオッズでブライアンズハートの真下につけている。2400mのキングジョージを勝利しているブライアンズハートと、2000mの愛チャンピオンステークスでの勝利を比較されているのだろう。

 涼が怖いと思っているのはネオサイクロンのスピード能力であった。

 距離が短くなればなるほど、スピード適性が試される。ネオサイクロンはこの愛チャンピオンS以外は全て1800以下1600までの距離を走っている。

 距離が伸びた愛チャンピオンSでも持ち前のスピードを生かしきり、レコードを叩き出した。

 凱旋門賞では初めてのクラシックディスタンス挑戦となる。

 もし、ネオサイクロンが通用すれば第6の馬が登場する。

 流石、世界的大レース、出走するメンツが半端ではないと涼は思った。

「でも」

 涼は一呼吸おく。

「でも?」

 咲良は落ち着いて涼の顔を見つめる。

「負けたくはない」

 強い眼差しでそう言った。

「相変わらず負けず嫌いですね。それが涼くんの良いところですけど」

「悪いところでもある……ところで」

 涼のバツが悪い顔に咲良は疑問符を飛ばす。

「いつまで引っ付いているんだ」

「え、あ、えっと、ごっごめんなさい」

 玄関先で。何を。

 涼が咲良を突き放したその時、マンションのエレベーターからとある人物が現れ、二人の現場を目撃した。

「咲良……お前、何をしているんだ」

「お父さん!」

 咲良の父・陣一が紙袋をさげて涼の部屋に来ようとしていた。

「陣一さん、えっと、あの」

 涼が取り繕うとしたが、陣一はそれを制止してため息をひとつ吐いた。

「はあ……咲良、涼くんに迷惑をかけるのをやめなさい」

「別に迷惑なんかかけてないのに……」

「涼くんは海外遠征で疲れているんだ、早く休まないといけないのに、お前ときたら……」

 陣一の説教が咲良に降り注ぐ。涼はどうしていいか分からず、戸惑う。

「だいたい、無防備すぎるんだお前は。いい加減、大人になりなさい」

「私はもう大人!」

「そういうところが子供だと言っているんだ。涼くん、私が前に言ったこと、覚えているね?」

 前に言ったこととは、あのデビュー時の話だ。とんでもない流れ弾が飛んできたと涼は思った。

「は、はい。覚えています。忘れるなんてできません」

「前に言ったこと? なんですかそれ!」

「咲良は黙っていなさい」

「なんで?!」

 陣一は咲良を無視して涼に詰め寄る。

「本当なら咲良の好きなように生きて欲しい。しかし、一族郎党自分勝手な長男家系の男を好きになるなんて、私は許せない」

 熱がこもってきて陣一から本音のような言葉が出る。

「和尭さんも久弘くんも。みんな自分勝手じゃないか。和尭さんの独りよがりの教育で久弘くんはああなってしまうし、その久弘くんも家族をほっぽり出して関西に居を移してしまった……。そんな家に咲良を嫁にはあげられない」

「ええっ!! そんな話なんですか!! 飛躍しすぎですよ!」

 涼は仰天する。

「涼くん、君がもし約束を破るようなことがあれば、私は今後一切君の援助はしないつもりだ」

 デビューから今まで、自分が出走するレースの馬券を買ってくれていた陣一は、もし約束を反故にしたら今後関わりは持たないという。

「だ・か・ら! 約束って何なの?!」

「咲良、お前が、涼くんと同じ夢を追っていると言うのは知っている。ずっと一緒にいたいことも、最大限力になってあげたいということも、全て。だがな、もし涼くんにもしもの事があったら、お前はどうするんだ? 吹っ切れるのか?」

「人と添い遂げると言うのは大変なことだ。お前にできるのか? 何をするか分からない神代家の息子さんだぞ。信じることができるのか?」

 次々と、陣一はまくし立て咲良を追い詰める。

 それは少し自分の家に失礼なのでは、と涼は何とも言えない顔をする。しかしながら、陣一の言うことも尤もである。祖父も父も自分も中々に頑固で自分勝手である。というか、一族の男みんなそんな感じだったらしい。

 でも、やはり、咲良は小学生の時の約束に執着しているのかと気づく涼。

 陣一との約束もあるが、咲良との約束の方が先約だ。

 いつかは、決断しなければいけない時が来る。

 それがもう近いのかもしれない。

「信じることは、いくらでもできます! お父さんは頭が固いから分からないの!」

 咲良は頑として譲らない。そんな咲良のひたむきさを見た涼は、意を決して陣一に向かう。

「陣一さん、おれは確かに自分のことで精一杯で別のことを同時に考えられません。だから今までも、咲良のことを突っぱねてきました。でも、そんな中でもレースに勝てなくなった時も見捨てずにおれをサポートしてくれたのは他ならぬ咲良です。おれは咲良に恩があります。今度は、いや、これからはおれが咲良に恩を返すべきだと思います」

「涼くん……」

 凛とした涼を見たのは久しぶりだ。

「神代涼くん、君にうちの娘を守れるのか?」

「……お互いがお互いを守るのが理想です」

「そうか……涼くん、成長したね」

 陣一は観念したように、途端に穏やかな口調になる。

「私が思っている以上に、君は大人だったようだ。私も君を信じてみたい。信じさせてくれるなら、咲良のこともお願いしたい。二人の夢、私にも見させてもらえないだろうか」

「お父さん……」

 何か凄い所まで来てしまったと思う涼。咲良はどこか惚けている。陣一はと言うと、涼の手を取り何度も願掛けをしている。

「何をしているんですか?」

「凱旋門賞、応援するよ。咲良と一緒に。凱旋門が終わったら、全てを発表するよう咲良に言っておく」

 隣にいるのに、と、口にしようとしたが憚られた。

 今まで大声で騒いでいたせいか、マンションの住人が集まってきてこのやり取りを見て喝采をあげた。

 涼は途端に恥ずかしくなって、おずおずとしてしまう。なにせこのマンションの住人は美浦トレセン関係者がほとんどなのだから。そしてこの二人の関係性を知っている者がほとんどなのだ。

 明日、どんな顔をして出勤したら良いものか頭をひねる。

「どんな気分?」

「涼くんと同じ気分です!」

 何を当たり前のことを聞くんだとばかりに平然と答える咲良。

「まあ……そうだろうねえ……」

 涼も涼とて、どこか納得したような感じでこの場にいた。

「それで、お父さんは美浦に何しに来たの?」

 今更、咲良が問う。

 陣一は、そうだそうだ、と手に持っていた紙袋を涼に手渡す。中身はツルニチニチソウの寄せ植えとパンジーの寄せ植えの鉢だった。

「この二つは涼くんの誕生花だって聞いてね。シーズンじゃないハウスものだけど凱旋門賞の必勝祈願にと持ってきたんだ。もちろん、ニエル賞の儲け分を使ってね」

「へえー……季節外って高いんじゃないですか?」

「ああ。ニエル賞10万円突っ込んでよかったよ」

「そう言う問題ですか……」

「何にせよ、凱旋門賞は頑張ってもらわねば! 咲良のために!」

「ええ!!?」

 なんとも変わり身の早いお人だと感心する涼。これでも警察庁のお偉いさんである。

「私も、今年で定年だからね。次の世代に頑張ってもらわないと困る」

「流真は大丈夫なんですか? あいつ結構難しい奴ですよね」

 ふと、あの、小憎たらしい咲良の弟を思い出す。

「流真なら、ちゃんと“けいさつかんりょう”をやっているよ。早く独立してもらいたいがね」

 涼くんのように、と付け足す。

 騎手と警察官僚を引き合いにださないでくれと、心中では思うが口には出さない。

 とにかく陣一の来訪は突然であった。そして、流れるように自分の未来が決まったような感じを受けた。

 涼の成長に満足したのか、陣一は晴れやかな表情で帰って行った。

 父親の背中を見送る咲良の表情をちらりと見たが、とても満足げだった。もしや、全て咲良が仕組んだことではと勘ぐったが、これ以上は考えないでおく。

「で、結局、お父さんとの約束って何だったんですか?」

 そんな咲良の問いに、涼は恨めしく睨んだ後こう返した。

「騎手は危ない仕事だから、涼(おれ)のところには来るな、ってね」

「警察官だって十分危ない仕事なのに……お父さんたら」

「おれの方こそ聞くぞ、正直なところ、おれのこと好きなのか?」

 にくい質問である。そして鈍い質問でもある。

 咲良は改めて考えて、顔が火照った。

「い、言わせないでくださいよ〜」

「あ、そう」

 さあて、と部屋に入り、荷物の整理をする。

 週末、神戸新聞杯が終わったら、再びフランスに発つ。

 来週のスプリンターズSには乗鞍がない。出走予定のコーセイスピリッツは他の騎手が乗る。

 涼は再来週、いよいよ開催される凱旋門賞ウィークエンドに集中できるのだ。

 季節は10月に近づいている。フランス時間10月7日、決戦が近づく。

「私今週の神戸新聞杯、応援に行きますね!」

「え、何で?」

「仕事で前日大阪に行くんですよ。ついでと言ったらなんですけど……」

「それより、仕事で思い出したけど、その……発表するの?」

「当たり前ですよ! お父さんとの約束なんですから。芸能界はケジメの世界なんですよ?」

 ああ……、と内心うなだれる。間寺咲良のファンは意外と多いし、年齢層も幅広い。

 それこそ昭和時代のスターのスキャンダルとなると、相手方にカミソリ入りの手紙が送られたものだ。

 もちろん、祝福された人もいたが、咲良のようなアイドル的人気は少々厄介だ。

 そして涼の方にも若い女性ファンが多い。これもまたたちが悪い。

「式先輩は会見まで開いたんだっけ……はあ」

 途方もない話だ。

「でもまずは神戸新聞杯だ! ここで菊花賞の優先出走権を取らないと」

 本当はブライアンズハートで出たかったレースだ。しかし、運命の巡り合わせで別の馬に菊の夢は託されることになった。

 激動の一週間が過ぎ、9月23日、阪神競馬場開催がやってきた。

 シンザヴレイブの調子は上々。先週行われた一週前追い切りは、終いの時計11秒台と、ここでこの時計を出すのかと、ヴレイブの調子の良さが際立ったものだったという。

 第66回神戸新聞杯G2、菊花賞トライアル、阪神芝外回り2400。

 シンザヴレイブの適距離は少なく見積もっても2500以上だと聞く。神戸新聞杯、負けても上位ならば菊花賞に出走できる。それ以前に、シンザヴレイブは賞金的に出られそうなライン上にいる。ギリギリではあるが——。

 9月23日・日曜日。阪神競馬場。

 その日の神代涼の乗鞍は11R神戸新聞杯のみであった。

「うーん、関西の平場は本当に信用されてねーなあ」

 自分の情けない特殊能力に自嘲する。

 今年、関西の馬場での重賞の主な勝ち鞍は桜花賞・チューリップ賞だ。

「久しぶりのシンザのお馬だ。緊張するなあ……よしっ」

 意気込んで、待機場所を後にした。

 二人引きされているシンザヴレイブに跨り、地下馬道を行く。馬を引いている担当厩務員の遥乃に現在の人気を聞いてみた。

「18頭中の……10番人気」

 それを聞いた涼は緊張の糸がほぐれてさっぱりした顔になる。

「よっしゃ、いっちょ大穴開けますか」

 神戸新聞杯出走の全18頭がスタンド前のスタート地点に集まる。神戸新聞杯は外回り2400のコースである。右回りのスタンド前スタートであり、一周と少し走ることになる。

 関西重賞のファンファーレが鳴り響く。各馬ゲート入りが始まる。シンザヴレイブは5枠10番、偶数馬番なので後から入る。

 ヴレイブは少し落ち着かないか、ゲート前で嫌がる素振りを見せる。いよいよ自分の番になって、係員に引かれゲート入りを試みようとする。しかし、嫌がる。

 係員は必死に引っ張って入れようとする。鞍上の涼もヴレイブのお尻をポンポンと叩きしっぽを持って入るように促す。

 1分はゴネていただろうか。ようやっとゲート入りして、待機する。

 待ってましたとばかりに、後続の馬たちがすんなりとゲートインして行く。

 ゲート内でもやはりシンザヴレイブは落ち着きがない。涼はなんとかヴレイブを宥める。

 そんなことを長々していたら、ゲートがいきなり開いた。シンザヴレイブ、ゲートの出は大失敗、涼は押すが位置どりは最後方。シンザヴレイブは逃げ先行なので最悪の展開だ。

 最後方から先団を見るように、第1コーナーを回ってゆく。

 心の中で秒を刻む。——1000m、シンザヴレイブは1分2程のペース。前はそう飛ばしていない。

 隊列は向こう流しに差し掛かり、ペースはさらに遅くなる。

 第3コーナーで、涼はペースの遅さに気付き大胆にも大捲りを敢行する。

 最後方からどんどん進出して行くシンザヴレイブに、1頭ピタリとついてくる馬がいた。

 涼にもその馬の気配が感じられた。

 阪神の外回りをぐるりと回り第4コーナーを抜けると、最後の直線である。

 馬群は一斉にばらけ、各自進路をとる。

 シンザヴレイブ、大外から強襲と場内アナウンスが叫んでいた。ぴたりとくっついている背後の馬も同じ足かそれ以上だ。残り200、追い出す。

 スタミナに物を言わせ大捲りを敢行したが、同じ作戦をとった馬がいた。誤算であった。

 背後の馬は一瞬にして、シンザヴレイブに並びかけ、そのままゴールインした。

 涼はすぐに察した。

「差された……」

 勝ったのは5番人気の追い込み馬、そして神代久弘厩舎の馬「マーチオブドーン」だった。

 マーチオブドーンは鳴尾記念を優勝した馬だ。その時の鞍上は望だったが、今回は誰だと涼は気が気ではない。

「父さんに負けた……いや、まだ負けてない」

 本番の優先出走権は取れたのだ、勝負は本番菊花賞だ。

 レース後、検量室でのことである。

「アンタが神代涼か」

 涼の名前を呼ぶ男性が現れた。この男性はマーチオブドーンに乗っていた者だとすぐに気がついた。

「そうですけど……なにか?」

「畏るな、俺とアンタはタメだ。俺は都築未來(つづきみらい)、今月から中央移籍した元大井の騎手だ。先月のワールドオールスターにも招待された」

 そうなんだ、と言って涼は握手を試みようとしたが、未來はそれを払いのける。

「握手なんてものは要らない。俺はアンタが嫌いだ。苦労も知らずにぬくぬくとやっている奴を俺は必ず倒す。菊花賞、いや、有馬だ、有馬記念で勝負だ。俺が南関東で三冠を達成させた馬と、アンタの自慢のお手馬とでだ。忘れるなよ」

 涼は何も言い返せなかった。

 苦労も知らず、親族の伝手でぬくぬくと……。いちいちグサリとくる言葉だ。

 昔、一族の七光りと蔑まれていたが、今でも言ってくる奴がいるとはと辟易する。

  ///

「凄かったですね〜昨日の神戸新聞杯の配当」

 自宅で朝食を摂っていると平然と上がり込んでいる咲良が、新聞紙のスポーツ欄を見せながら言った。

「そりゃあそうでしょうよ。5人気と10人気がワンツーなんだからな。しかも3着はシンガリ人気馬。あー笑いが止まらねーだろうなー。菊花賞混迷を極めるってな」

 昨日のことを忘れようとするも、心中は忘れてくれない。

 都築未來——彼は、大井競馬所属の騎手だった。通り名は流星の未來。勝負服が青地に白の星模様だからだとか。

 今年、南関東三冠をやってのけたという。その南関東三冠馬を伴って今月から中央の栗東神代厩舎に移籍したらしい。

 南関東の三冠レースとは、羽田盃・東京ダービー・ジャパンダートダービーのことをいう。

「今年の南関東三冠馬って知ってる?」

 涼がなんとなく咲良に聞いてみた。

「地方ですか……えーっとたしか、セタグリーングラスですよ。それがどうしたんですか?」

「いや、何でもない。……セタグリーングラスか……」

 あとで、レース映像を検索してみようと思い至るのだった。

「ところで、明日、フランスに行くんですよね?」

「……そうだけど。どうかした?」

「凱旋門賞は7日ですよね」

「そうだよ?」

「そうですよね……分かってます」

「? 咲良……なんか変だよ?」

 涼の問いに咲良は憤慨した。

「涼くんは今の状況、何も思わないんですか?」

「はあ?」

「私がこうして毎日、毎日、勝手に鍵使って上がり込んで勝手にご飯作って……勝手にお父さんと約束しちゃって……」

 段々と声が小さくなっていく。それに連れて顔も火照ってくる。

「……咲良」

「私、本当に、凱旋門が終わったら色々発表しちゃいますよ? 良いんですか?」

「良いよ。咲良が良いなら。おれは」

 何か察した涼は持っていたトーストを置いて、一息吐く。

「色々と咲良の方が先約だからな」

「じゃ、じゃあ、今日、お休みですから実家行きましょう!」

「え、えー!」

 あまりのことに、素っ頓狂な声を出してしまう。

「和尭おじさまも梓おばさまも珠樹おばさまも喜びますよ」

「もしかして潤と望は……」

「もう知らせてあります」

 然もアッサリと驚きの事実を言ってのける咲良。

「潤くんや望くんどころか、このマンションの人たちみんな知ってるじゃないですか」

「……そうだな。フランス出立前に実家にでも行くか」

 そうして、涼と咲良は休日を利用して世田谷の実家に帰ることになった。

 連絡を受けた実家では、珠樹と梓がてんやわんやでお昼のご馳走を作ろうとしていた。事の次第をあらかた察したのであろう。女の勘というものだ。

 和尭は碁打ちの集まりで出ていたが、帰宅した時の珠樹らの様子を感じとり、ただ事ではないと思ったという。

「ただいまー。涼だよー」

 ドタドタと玄関に人が集まる。そこには何と、驚くべき人物もいた。

「父さんっ……なんでここに」

 久弘が来訪していたのだ。

「いや……お前の関係ではないぞ。偶然だ、偶然、この家に用があったんだ」

 久弘の取り繕いに、横にいた梓がクスクスと笑っている。

「わ、笑うな、梓」

「ねえ、涼? お父さんたら、涼が大事を決めたって噂を聞いて栗東から飛んできたのよ」

「梓っ!」

「いよいよ咲良ちゃんも私の娘になるのね。私、娘が欲しかったのよ。息子なんて、みーんな自分勝手にやっちゃって詰まらないったらないわ」

「おばさま!!」

「もうお母さんって呼んじゃって良いわよー」

 梓と咲良がガシッと握手を交わしている。取り残された涼と久弘父子は呆然としていた。

 そこへ和尭が入り込んできて引っ掻き回す。

「なんだ、遥乃じゃなかったのか。涼の好みは都会派かい?」

「爺ちゃん! それはそれ、これはこれ!」

 和尭が投げた大爆弾を炸裂前に処理する涼。

「玄関でくっちゃべくってないで上がりなさいな! 爺さん! 余計なことは言うんじゃないよ?」

 痺れを切らした珠樹が涼と咲良を居間へと促す。

 普段、なんともない居間の雰囲気が今日だけは変わって感じる。日本ダービーの祝賀会の時とも違う。この感じは初めてだと、どこか居心地が悪いと感じる涼。孫を見て察したのか、珠樹は和尭の昔話をする。

「爺さんの一世一代の告白は男らしかったよ。涼も爺さんに似て男らしく陣一くんに言ったんだろう? 婆ちゃんにはその姿が見えるよ」

 珠樹の言葉に少し気が和らいだ涼は改めて陣一に言ったことを回顧する。

「今思うと、こう言うのは爺ちゃんみたいに約束を果たしてからの方が良かったんじゃないかなって。爺ちゃんはカゼキリとハヤテで約束を果たした。おれは……ブライアンズハートで果たしたかった」

 それを聞いた和尭は涼を怒鳴りつけた。

「バカモン、ブライアンズハートはあれで良いんだ。来年レットローズバロンかトゥザスターズでチャレンジすれば良いだろう? あの二頭は他の二歳馬と比べるべくもない、格が違う。お前はそんな馬に乗るのだぞ」

「和尭おじさまはやっぱりレットローズバロンに乗って欲しいと思ってるんですか?」

 レットローズバロンの生産牧場は珠樹の実家・八島ファームであるから神代家とも縁が深い。

「いや、俺はトゥザに乗って欲しいと思っている。お前もだろう久弘」

 今まで黙っていた久弘が、ふっと涼と和尭に顔を向けて話し始める。

「ああ。トゥザスターズは化け物だ。正直、俺のところに欲しかった馬だが、反面、涼にぴったりの馬でもある……。正直三冠を狙える……かもしれない。高柳の腕次第だな」

「……三冠」

「次走東スポ2歳で、今年最後は朝日杯FSを狙う算段だろう? 阪神になった朝日杯をお前が勝てるかどうか」

 ホープフルSの方が良いんじゃないかと久弘が言う。涼はムッとして言い返す。

「朝日杯そのものは勝ったことがあるよ。中山だけど」

「朝日杯を勝って三冠馬になった馬をよく知っているだろう。ナリタブライアンは朝日杯の時点で圧倒していた。お前に再現できるか?」

 久弘は涼を試すように言葉を紡いだ。

「父さんには悪いけど貰っていくよ。全部、おれが」

 不敵な笑みを浮かべる。

「なら俺も本気を出さねばなるまい。菊花賞は必ずローゼンリッターを勝たせる。そしてジャパンカップで勝負だ。このままブライアンズハートが調子良くいくと思うなよ」

「待って、菊花賞ならシンザヴレイブも負けない。ジャパンカップも負けない」

 涼と久弘の間に静かな闘志が見えるような気がした。

 そこへ珠樹と梓が昼ごはんを持って居間に戻ってきた。

「なにバチバチやりあっているんですか。ご飯が不味くなりますよ久弘さん」

「ああ! 私も手伝います!」

「良いのよ、良いのよ、咲良ちゃんはゆっくりしてね」

 その日の昼、神代家で会食が行われた。果ては、隣の間寺家まで呼び込み、飲めや歌えの大盛況となった。

 同席した流真にはこう言われた。

「バカアニキ、世間知らずな姉貴をよろしく……」

 余りにも“らしくない”流真の物言いに涼は笑ってしまった。それと同時に、流真はずっと姉である咲良のことを大事に思っていたのだなとどこか感慨深く感じた涼だった。

「涼……覚えているか? 昔、お前に見せたナリタブライアンを」

 この会食にあまり乗り気ではなかった久弘が、ふと、梓特製の健康ジュースを涼のコップに注ぎながら言った。

「覚えてるよ。おれの一番の思い出だよ。このおかげで、今のおれがあるんだ。ここの部分、父さんには感謝してる」

 それを聞いた久弘は内心嬉しくなったのかそっぽを向いてしまった。

「凱旋門、頑張れよ。そのあとに俺との勝負が控えているんだからな」

「分かってるよ」

「咲良ちゃん、孫をよろしく頼むね。涼は優しい子だから、あなたを不幸にはしないよ」

「……珠樹おばさま。はいっ!」

「で〜、姉貴ぃ、結局のところバカアニキのどこが良かったのさあ?」

「どこって、全部?」

「何、君ら恥ずかしい会話してんだよ。おれが恥ずかしくなるわ」

「咲良ちゃん、芸能人でしょう? やっぱりこういうのって会見で発表とかしたりするのよね。いつやる予定なの?」

 梓が興味深気に咲良に聞いてきた。

「うちのお父さんと約束して、涼くんの凱旋門賞が終わったらすぐに……」

「そう。じゃあ、涼! 凱旋門賞勝ってきなさい! 母さんからの命令よ」

「そんな簡単に勝てたら、日本競馬は今までこんな苦労はしてません!!」

 呆れたように言い返した。

 そんなどんちゃん騒ぎが夕方まで続いた。辺りが暗くなってきて、思わす時間を確認しまずいと感じた涼は急いで美浦に戻る準備をした。

 帰り際に、和尭と久弘は涼にある物を渡した。

「爺ちゃんと涼のイニシャルが入った新しいステッキをこしらえた。これを持って行きなさい」

「父さんからは、キングオブハートとアイオブユアハートのお守りだ。心田さんから預っておいた。今更だがこの2頭は父さんの厩舎の所属馬だった。縁とは怖いものだな」

「爺ちゃん、父さん、大事にするよ。ありがとう」

「涼、父さんは今年のお前を見て分かった。お前も変わろうとしているんだな」

「俺も変わらなくてはいけないのかもしれない」

「……父さんは今のままで良いよ。ずっと、おれや潤、藤村先生のライバルでいて欲しい」

 久弘はそうか、と一言呟いて、居間に戻っていってしまった。父の意図を汲んだ涼は、自分は変わらなければいけない、呪いになど負けず正々堂々と騎道作興するのだと思いを新たにした。

 夜、美浦のマンションに戻ってきて、咲良と部屋で別れる時だった。

「へああ……東京行き来はほんとキツイなあ。やっと帰ってきた」

「涼くん」

 自分の部屋に入ろうとした時、咲良が涼を呼び止めた。何と言って、振り返る涼。

「凱旋門賞から帰ってきたら、涼くんの部屋に荷物まとめちゃって良いですか?」

 言っている意味が分からず、しばし考える涼にヤキモキしたのか咲良はズバリ言う。

「一緒に住んでいいですか!!」

 ポクポクポク——脳内に木魚の音が鳴り響く。

 状況が理解できなかった涼は変なことを口にする。

「2LDKで良いの?」

「はあ?」

 咲良は素っ頓狂な声をだす。一世一代の告白をしたのにこのザマである。いや、涼の言いたいことは、「それはそれで良いけど、おれの部屋2LDKのうち1部屋トレーニングルームになってるから、二人だと使い辛いぞ」……と言うのが飛躍した言い方になってしまったのだ。遠回しに受け入れてはいるのだ。

 この神代マンションの造りはLDKに他2部屋、トイレ風呂別、全室霞ヶ浦側にバルコニー、と割と良くできたマンションである。

 そのマンションの一室、神代涼宅は2LDKのうち一部屋をトレーニングルームに改造して使っている。もう一部屋は寝室兼書斎であり、シングルベッドとパソコンテーブル、本棚が置かれている。

「もうなんでも良いです!!」

「んん?」

 つつーっと腕を引っ張られる。少しよろけてバランスを崩した。

 その瞬間、目の前には咲良の顔があり——。

「おやすみなさい」

 紅潮した顔を伏せて、咲良は自分の部屋に入っていった。

「……」

 唇を触る。仄かな暖かく柔らかい感触。一瞬の出来事。

「はじめて……」

 昂ぶる。

「荷造りしよ……」

 気持ちが高揚したまま、部屋に戻り、明日の渡仏の準備をするのであった。

 次の日の朝、咲良は早くから舞台の稽古のため東京に出ていたようだった。涼はまとめた荷物と祖父・父からの贈り物を大事に持って自室をあとにした。

 マンションを出ると、アルス・ローマンが同じく荷物を持って待っていた。

「待たせたね。行こうか」

「うん。行こう。アークデトリオンフが待っているヨ」

 決戦の地へ、いざ赴かん。

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