第24話 『水と油の漂泊者《バガボンド》(4) - もう一度』 Opposite vagabonds chapter 4 - “One more chance”

魔術に精通した者達の間で、まことしやかに囁かれる噂。

しかし、それは噂ではなく、現実だった。

『不定形の怪物』が表立って目撃されるようになったのは、最近になっての事である。

屍者を冒涜する者共が至った境地、屍体を完全に融解しその状態を維持したまま操る術は、もはや禁忌を超え、これまでに想像も検討もされなかったものである。

水銀に似た形質ではあるが、単純な魔法生物の代表たるスライムに似た見た目とは裏腹に、その内部は非常に複雑な構造になっている。

全身には形状と性質こそ変貌しているが筋繊維に似た組織が張り巡らされ、術者がその繊維の収縮を意識する事によって、形状を多様に変化させて蠕動する。

また、その際限のない繊維の緊縮により組織の一部を硬質化し、切断や刺突をも可能な形状を作り出す事にも成功している。

本来の人間の筋組織に対する意識とは著しく乖離したその身体構造は、人間の意識そのものでそのままに動かす事すら難しい。

不定形を操作する術者は、まるで熟達した大道芸人の曲芸のように複雑な肉体操作を求められる事になる。

しかし、その高い操作難度と技術的な実現難度を乗り越えた先には、恐るべき屍体性能が対価として待ち受けている。

“自由自在に動き回る、硬化軟化も自在の液状の戦士"がもたらす戦闘能力は、骨と関節の制約を受ける人型の肉体を持った者の比ではない。

それを止める方法は、分厚い鋼鉄に閉じ込める、水底に沈めるなどの、Buriedbornesの術そのものの遮断のみである。

さらに上回る戦闘能力以外においては、とも言えるが、それを見出した者は、未だかつていない。

屍者の軍勢との戦いのために、生き残った人類側が、真っ先に人類の本来のあるべき姿から逸脱していったのだ。


日が落ちた沼地には、静寂が訪れて、生き物の鳴き声ひとつ聞かれる事はない。

沼地の奥、打ち捨てられた廃屋のひとつに、結界が張られている。

崩れかかった家屋の中で、小さな焚き火が焚かれていた。

その傍らには、3人が思い思いの姿勢で座り込み、焚き火を見つめている。

その表情はそれぞれに異なるが、共通して見受けられる感情は、不安と緊張であった。

ビアンカのそれは、最も深刻であった。

戦いの後、彼女は一人取り乱し、集落での依頼を諦めてこの地を去る事を提案した。

だが、ジョセフもゴードンも、首肯はしなかった。

この違いに、『乗りかかった船』に対する互いの意識の差が顕著に現れていたと言える。

ビアンカは、この時代の人間において、当然の判断をしていた。

生きる事が再優先事項であり、たとえ受けた仕事であろうが、そのリスクが手に負えるものでないなら、逃げるのが正しい選択だ。

依頼人も、所詮は赤の他人である。

命を懸ける義理など、あろうはずもない。

ジョセフは違った。

彼にとっては、人々を守る事は、命を懸ける価値のある仕事であった。

そして、命を懸けて戦い、そして勝利と生存を勝ち取る強い自信も、彼にはあった。

術者でないジョセフの『不定形の怪物』に対する認識の違いも、あったかもしれない。

ゴードンは、その内心においては、ビアンカ以上に逃げ出したい気持ちが強かった。

しかし、同時にジョセフと共に戦う事に、強い意味も見出していた。

『何もできない自分からの脱却』という、曖昧な目的に、その命を委ねていた。

ここで逃げ出せば、自分は一生、半端者だ。

ただ、一度は失い、拾われた命である、という意識もあった。

その心理はやや複雑ではあったが、「逃げよう」とは言い出せないほどには、それ以外の感情が強かった。

何故あの不定形が自身を狙うのかはわからない。

わかっている事は、屍者の抜け殻から作られた怪物を、何者かが操っているという事だけだ。

「向かう前に、できるだけの事はしておかないとな」

ジョセフが小さく呟いた。

ここから一里と離れていない地点に、ビアンカは異質な魔力の蠢きを察知していた。

それが誘拐犯である可能性は、高い。

そしてそこで、あの怪物が待ち受けている可能性も。

ジョセフは、懐から小さな壺や、短刀、粉薬などを取り出して並べていく。

言葉に反応せず無言で焚き火を睨んでいたゴードンも、並べられていく品々に気を引かれ、目線を動かした。

「…そんなに持っていたのか、必要そうには見えんが」

「魔法が使えん俺は、いざと言う時にできる事を増やしておかんとな」

そういうと、ひとつずつ手入れをし始める。

ビアンカは変わらず、焚き火を見つめたまま震えを堪えるように腕を抱いたまま蹲っている。

「…指輪、もう返そうか」

逃れられぬ死の可能性が、この先に横たわっているのを感じる。

できるだけの事はしておかないと、その言葉を反芻し、ゴードンは覚悟を決めつつあった。

「…あんたも、因果な性分してるんだな」

ジョセフはゴードンを見て、苦笑した。

「ところで聞いておきたかったんだが、その杖は…」

ジョセフは、ゴードンが懐中に携えた杖を指さした。

ゴードンは、微笑を浮かべながら、語り始めた。

「これはな、いつかギャンブルで手ひどく損をした時にな…」


無数に立ち並び揺らめく灯火の明かりが、沼の水面を鈍く照らしている。

列石めいた松明の回廊の先に、悪臭が漂う不清潔で小ぢんまりとした円屋根の小屋が佇んでいる。

その中からは、聞くものの精神に悪影響を及ぼしかねない異様な呪詛が響いてくる。

見れば、その小屋の傍らにうず高く積まれたものは、ゴミでもなければ、飼い葉の類でもない。

骨、肉、臓、その全て、それも何十人分もの遺体が雑多に混ぜられ、積み上げられたものだ。

この山だけでも、この地で行われた恐るべき所業の全てを物語っている。

その山を険しい表情で睨みつけながら、小屋に向かって歩む人影が視界に入る。

ジョセフだ。

少し離れた沼の岩陰から様子を伺っていたゴードンは、両手に握った杖を、一層強く握りしめた。

沼を真っ直ぐに小屋に抜けて、高台になった入り口の板に足をかける。

その瞬間、小屋の戸が弾け飛び、そこから黒ずんだ土塊がせり出してくる。

ジョセフは咄嗟に跳躍し、後方の沼地に着地、あるいは着水し、その手を逃れる。

小屋の中から次々土塊が溢れ出し、明らかに小屋の大きさ以上の量の土になる。

やがてその土塊は2階建ての馬小屋ほどの大きさになるとぐにぐにと形を変え、やがて人の形を取り始める。

そしてそれを追って、小屋の中から呪詛を唱えながら醜怪な男が這い出してくる。

「なるほど、犯人は呪術師様って奴か?」

ジョセフは懐中から短刀を取り出し、男目がけて投擲する。

土塊人形が足を払うと、短刀はその足に突き立って、やがてその中にぐにぐにと取り込まれていった。

「…様子見からだな、これは」

ジョセフはそうつぶやいて、腰から剣を抜き、構える。

土塊人形の大木のような腕がジョセフに迫るが、一閃が走り、斬り飛ばされた腕は斜め後方の松明をなぎ倒しながら地面に落ちた。

「そんなもんか?」

ブツブツと呪術師が何かを唱えると、切り飛ばされて欠けた箇所から、また新しい土の腕が生える。

足元も生えた腕と同様に蠢き、足元の泥を吸い込み、その体の内に取り込んでいる事がわかる。

大きさが縮む事もない。

さらに迫る人形相手に、ジョセフは腕となく足となく次々と斬り飛ばすが、失うのと同じ勢いで新しい四肢を生やし、次の一撃を繰り出してくる。

このままでは、呪術師に近寄る事もできない。

「キリがねぇ…!」

ついに、人形の腕がジョセフを捉え、その拳で全身を掴み、握り込んだ。

だが、それと同時に、人形の頭部に何かがぶつかり、陶器が割れる音が響く。

投げつけられた壺の中から液体が滲み出て、人形を頭部から濡らした。

「喰らえッ!!」

岩陰から飛び出したゴードンが、手にした松明を投げつけた。

松明が人形に直撃すると、液体を伝って火が瞬く間に広がり、その上半身全体が一気に炎上した。

さらにゴードンは2つ3つと壺を投げつけるにつれて火の手が強くなる。

ジョセフの体にも火の手が迫り、衣服の一部が発火する。

しかし、ジョセフが力を込めると、それまで流動的で頑丈だった腕がひび割れ始め、やがて砕け散り腕から解放され、沼に落ち込んだ。

身を起こして目をやると、ゴードンの足元に落ちた斬り飛ばされた腕の倒れた松明の火に焼かれた部分が固まっている。

僅かな時間のうちに、ゴードンは土塊人形の弱点を見破ったのだ。

「やっぱりアンタは、すげぇ奴だよ!!」

水を得た魚のように、ジョセフが剣を振るって土器と化し身動きができなくなった土塊人形をバラバラにする。

呪術師は慌てて詠唱を再開し、新たな土塊人形を作り出そうと足元から新しい土が生え始める。

「遅ェ!!」

一瞬の隙を逃さずジョセフは呪術師の懐に踏み込むと、喉元に剣を突き立てた。


呪詛は途絶え、代わりにゴボゴボと液体の吹き出す音に変わる。

手応えあった。

傷口から銀灰色の液体が吹き出て、撒き散らされる。

「銀…?」

呪術師の腹部から突如白い棘が突き出ると、ジョセフの胸を貫いた。

「ジョセフ!!」

岩陰から、ビアンカが飛び出す。

突き刺された棘がジョセフから抜け落ち、ジョセフはよろめき、後方に倒れ伏す。

呪術師から吹き出した液体は次第に集まり、呪術師の足元でひとつの塊を成した。

駆け寄りながら、ビアンカは短く詠唱し、掌を突き出すと、無数の光弾が放たれる。

しかし、不定形の怪物はその間隙を縫ってビアンカに迫り、腹部を貫いた。

駆けていたビアンカはそのまま倒れ込み、動かなくなる。


これらの様子を、ゴードンは呆然として見ていた。

当然、それはほんの数秒の出来事だったかもしれない。

不定形の奇襲は、ほぼ完璧な形で成し遂げられた。

常人に何かが出来るような時間などなかった。

震えが止まらず、立っているのがやっとだった。

静かに液状の怪物が足元に迫り、眼前で形を変え、人じみた何かに姿を変え、静止した。

それは口を開き、ハッキリと喋り始めた。

「お前…ノ… 記憶を貰う… 崩壊前の… 記憶を…」

そう言うと、不定形は再び形を崩し、液状化して、ゴードンの肉体に這い寄る。

液体が、顔を伝い、口、鼻、耳、目の隙間から、徐々に肉体に這入ってくる。

じわじわと肉体の感覚が失われていくのがわかる。

恐怖もあった。

しかしそれよりも心を支配したのは、自分に何ができるのか、だった。

何もできなかったか?

土塊人形の弱点を突き止めた。

前金を引き出した。

俺にできる事が、あったじゃないか。

このまま死を待つ?

そんなのは、ごめんだ。

逃げ場はない。

やるしかない。

俺には俺の、俺にしかできない事がある。

ここまで来たのだ。

ジョセフや、ビアンカでもできない、自分だからこそ出来る事を、やれ。

心に灯ったひとかけらの勇気が、ゴードンを突き動かした。


残された全霊の力を振るって、杖を振り上げた。

それに呼応して、彼を覆った地平線が、せり上がる。

否、それは、水の壁である。

沼の水がまるで断崖のように盛り上がり、猛烈な勢いでゴードン目掛けて収束していく。

ゴードンの体内に忍び込もうとしていた液体は、一瞬動きを止めた後、猛烈な勢いで肉体から這い出していく。

しかし、間に合わない。

怒涛の勢いで全方位から迫る大津波がゴードンと不定形を襲い、一瞬で、ジョセフやビアンカの肉体諸共、その一帯の全てのものをその濁流の内に飲み込んだ。

この様子を上空から眺めていた者がいたとしたら、沼に透明な水瓶が突如現れたように見えたであろう。

瞬く間に沼地中から集められた水はその水瓶に収められ、その内側では激流が渦を巻いている。

その渦中で、不定形はその外側に逃れようともがいてた。

しかし、ゴードンは杖を強く握りしめ、離さない。

肉体こそ激流に翻弄されているが、見開かれ血走った瞳には、確固たる決意の光が満ちている。

まるで排水口のように、あらゆる水が外側からその中央に向かって流れ込み、外に向かおうとする者を内側へと押し戻す。

右往左往し、激流の中から外へ向かう流れを求めて、不定形はのたうち回るが、その動きを抑えるように、ゴードンは杖を振るい、内側へ、内側へと水の流れを変え、不定形を水中に押し止める。

"潮の杖"と呼ばれる遺物が持つ力は、ただ「水を自在に操る」程度の力であった。

しかし、その力は、沼という地形と、Buriedbornesの術で動く怪物という相手において、存分に発揮される事となった。

Buriedbornesの術は、厚い鋼鉄や、深い水底において途絶える。

次第に抵抗の力は弱まり、そして最後には、それまで意志を持って動き続けていた不定形は、その全身がまるで本来の水銀質を取り戻したかのように、突然水中で霧散し、散り散りになって融けた。

ゴードンの意識は、その姿を確認すると糸が切れたように途切れた。


目を醒ますと、そこは3人が焚き火を囲った廃屋の中であった。

あの時と同じように、焚き火が床板を暖かく照らしている。

夢だったのか?

身を起こしたが、僅かな希望は報われる事はなかった。

磁気のように白くなったジョセフが、傍らに横たわっている。

焚き火の向こうで、幽鬼のような面持ちのビアンカが、焚き火を見つめていた。

貫かれたはずの腹部は、既に塞がれている。

全くの跡がないわけではなく、傷があった箇所の皮膚にミミズ腫れが残されている。

回復魔法を受けた直後の影響である事は、ゴードンにも覚えがあった。

ジョセフの傷口も、或いは同様のものが残されていた。

だが、ゴードンが手を差し出すと、彼の手は、もはや氷のように冷たかった。

ゴードンは数秒の逡巡の内に、無数の言葉を絞り出した。

しかし、そのどれもが、この場に相応しいものにはなりえなかった。

「…すまない」

ゴードンは片膝をつき、頭を下げた。

だが、ビアンカは力なく笑った。

「あなたのせいじゃないわ。無理矢理にでも、私が彼を止めるべきだった」

「だが…」

「それに、あなたがいなければ私も死んでいたのだから、感謝こそすれ恨むつもりはないわ」

その声は震えていた。

彼女が彼にどんな想いを抱いていたのか、想像する他ない。

それが一方ならぬものであった事は、確かであろう。

だが、それに報いる手段がどれだけあろうか。

「できるだけの事はしておかないと」

亡き友人が、そう言ったような気がした。

ゴードンは、ジョセフの冷たくなった指に見覚えのある輝きを見て取った。

細く頼りない指輪は、ジョセフの太い小指に、収まっていた。

誰よりも勇敢な男は、もういない。

彼の魂を気高きものに育てた者の元へと、還った。

残された自分は、彼のようになれるだろうか?

いや、彼になる事は、到底叶わないだろう。

それでも、ジョセフから受け取ったものは、今ではゴードンの中で、確かな火を灯していた。

「彼を弔おう、そして集落に戻るんだ」

ゴードンは、立ち上がった。

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