第7話

 玄関先で道着を身にまとった金髪碧眼きんぱつへきがんの若者がきれいに背筋を伸ばして正座をしている。

「センセイハオデカケシテオラレマス」

 朝一番で事務所で所長から受け取ったA4の茶封筒を背中のデイバッグから取り出す。詰めすぎてパンパンに膨れて表面のところどころが破けているが、中身が何であるのかは分からない。調査員を長く続けていると、これは知らない方がいい、と勘が働くこともあるのだ。青年は包みをうやうやしく受け取ると一礼して明かりのない廊下の奥へと下がっていった。木造の家屋が時々音を立てて震えるのは中にある道場で門下生が稽古けいこに励んでいるためだろう。2メートル近くもある大男たちがささくれだった畳の上で打ち合い組み合い極め合うのを私も見学したことがあるが、10人余りいた弟子たちはみな東欧とうおう、ブラジル、モンゴルなど外国からやってきて、この家に住み込みで暮らしながら日々鍛錬たんれんを積んでいるという。道場主によると「軟弱になった現代の日本男児には我が流派の特訓は耐えられない」とのことで、やむを得ず海外に人材を求めているそうである。ブロンドの青年が先生はお出かけしている、と言ったのがセネガルまで弟子を探しに行っていることを指しているのは事前に分かっていた。

 道場主の不在は私にとってはありがたかった。仁丹じんたんのマークのような髭を生やした短軀たんくの男に初対面でいきなり腕を取られ肘の関節を極められ悶絶もんぜつさせられては苦手になるのも無理はないというものだった。「未熟だが鍛えればものになるかもしれん」とおめの言葉を頂戴ちょうだいしたが、武道家であるおかげで辛うじて塀の向こう側に落ちずに踏みとどまっているような人物のもとへ月に一度お使いに出されるのは所長の言いつけとはいえあまり楽しいものではない。道場主と所長がどんな関係であるのか、それも知らない方がいい気がしていた。郵便受けの横に掲げられた看板には道場と流派の名前が雄渾ゆうこんな筆の運びで書かれているはずなのだが、達筆すぎて私には読むことができず、おかげで1年近く通っているのに道場の名前を知らないままで、町屋まちやにある道場、と記憶しているだけである。

 青年が戻ってきた。歩き方がどこかぎこちないのはまだ道着に慣れていないせいかどこか痛めているせいか。

「ホンジツハナニモゴザイマセン」

 私の方から茶封筒を渡す代わりに向こうからも油紙あぶらがみにくるまれた包みを渡されることがあるのだが、大きさと形はまちまちで、スイカほどの大きさのぶよぶよした球体が包まれていた時もあれば、手のひらに収まるくらい小さいのにやたら重い金属片が包まれていたこともあった。そんな物々交換に何の意味があるのか考えたくもないが、ともかく今日は私が持っていくべき荷物はないようだった。ごくろうさま、と告げられた青年は、メルシー、と返事をして引き戸の向こうに戻っていった。彼がフランスからわざわざこの道場にやってきたのはどういう理由なのか、それには少し興味があった。日本で少しはいい思い出を残せればいいのだが、と思いながら道場を後にする。


 夏から秋へとさしかかりつつある空がひときわ高い。町屋まで来たときの帰り道は長めに歩くようにしていて、今日もそのつもりでデイバッグを背負いナイキの白いスニーカーを履いている。空いた穴を直すほどの気力はないが、船底にたまった水をバケツで掬おうとするくらいには健康に気を使っているつもりだ。疲れるか飽きるまで歩いたら地下鉄か都電にでも乗ることにしよう。この後は特に予定もないことが私の足取りを軽くしていたが、明日の木曜に阿久津あくつと会わなければならなくなったので、気持ちが完全に浮き立つまでにはいかなかった。

 阿久津の公式サイトの投稿フォームからメールを送った翌朝には早速返信が届いていた。担当者を名乗る人物からのもので、ワークショップへの入会を希望されるのであれば、手書きの履歴書と400字詰めの原稿用紙に意気込みを書いて送って欲しい、とのことだった。ネットで手続きを完了できないのがいささか不親切にも思えたが、わざわざ郵送させることでこちらのやる気を試しているつもりなのかもしれない。それに特に枚数制限が課されていなかったのは、やる気があればたくさん書けるはずだ、と長文でのアピールを強いているようにも感じられたが、それに付き合う義理もないので、阿久津のテレビ出演や著書からいかに感銘を受けたかをびを多少交えつつ書いた後で、今の自分を変えたいなどとこの年齢になって言うのも恥ずかしい心にもない内面の吐露とろを付け加えて、原稿用紙3枚に収めた。四谷よつやにあるビルの7階の一室が送り先に指定してあったが、後でその住所を検索してみると、金融業者とひきこもり支援のNPOも同じ部屋にオフィスを構えていると分かった。多角経営をしているわけではなく、書類の上だけで実体は存在しない、いわゆるバーチャルオフィスなのだろう。半ば予期していたことであり、私のような調査員には都合がいいはずなのに、正体を隠す努力をおこたっているのが腹立たしくなる。この程度でいいだろう、そこまで調べられはしないだろう、という甘えを感じるのだ。

 その日の昼に所沢ところざわ駅前のポストに投函とうかんされた封筒は四谷からまた何処かへと転送されて阿久津の元へと届けられたのだろう。昨日の夜には担当者からまたメールが送られてきて、阿久津本人が直接会ってあなたの人柄を見定めたいから木曜日の午後に指定した場所に来て欲しい、とあった。もちろん四谷のビルに呼ばれたわけではない。私としてはつつがなく無事に入会を認められるのに越したことはないが、一筋縄ひとすじなわではいかない相手であることは間違いない。まず有り得ないことだが、心の底から好感を抱いてしまう可能性だってある。もしそうなったら、本格的に阿久津のもとでスタッフとして働こうか、著書を読み込んでいるからゴーストライターだって務まりそうだ、などと白昼夢はくちゅうむに浸りながら歩いていると、向こうから来たシボレーのピックアップトラックのドライバーに怪訝けげんそうに見られているのに気づいて慌てて表情を引き締めた。意味もなくニヤニヤしないでください、とこの前護島ごとうさんに怒られたばかりだというのに。意味があってもたぶん彼女は許してくれないとは思うが。あてもなく歩いているうちに三河島みかわじまの駅近くまで来ていたので、常磐線じょうばんせん上野うえのまで出ようかと思ったが、駅前に定食屋があるのを見つけてまずは昼飯を食べることにした。

 サンマの塩焼きにはしをつけるや否や、おぜんの横に置いたスマホからバート・バカラックのナンバーが流れ始めた。ジュンローからだ。

「今日の夜なら空いてるス。というか今夜しか空いてないス」

「どういうこと?」

「明日から海外に長期ロケに出かけるらしいス」

 急な話だがそれならば仕方ない。阿久津の報告書はコピーを取って持ち歩くようにしていたので今も手元にある。少し時間が空いたときに読み返して考えをまとめようとしていたおかげで夜までに県境けんざかいを往復せずに済んだのは幸運だった。ジュンローに待ち合わせについて細かい点を聞いてから、ようやく待望のサンマにありついた。最近むやみに魚が美味うまいのは何故なぜなのだろう。ニッカボッカをき頭にタオルを巻いた若者たちと入れ違いで店を出てから電車を乗り継いで池袋いけぶくろまで行く。ジュンローからの電話で予定はすっかり変わってしまった。

 東口に出て待ち合わせの時間まで名画座で時間を潰すことにしたが、プログラムを知らずに行くと今週は石井輝男いしいてるおの特集が組まれていた。そういえば、大学に通っていた頃にレイトショーで『江戸川乱歩全集えどがわらんぽぜんしゅう恐怖奇形人間きょうふきけいにんげん』を観て呆然としたのもこの映画館だったのを思い出した。ちょうど上映5分前だったので販売機でチケットを買って小さな明かりだけがついた劇場の中へと飛び込む。前もった知識もなしに見た映画は、江戸時代を舞台にしたアブノーマルなセックスに満ちた凄惨せいさん極まりない物語を俳優たちの怪演のせいもあってどこかユーモラスに描いたものだったが、ラストシーンで悪女が八つ裂きの刑に処され、明らかに作り物の手足がちぎれ、やはり作り物の極彩色ごくさいしきの内臓が飛び散ると場内のあちこちから笑い声とともに拍手が沸いた。私が言えた義理ではないが、昼間からこの映画を観て喜ぶのは一体どんな客層なのか。そしてこんなにパンチの効いたお話を観てしまって夜の打ち合わせまでに平常心に戻れるのだろうか。一人でカラオケでもしてグループサウンズ以外の持ち歌を増やす練習でもしておけばよかった。まる内線うちせんに乗ってもまだ私の頭の中は行動の選択ミスを悔やむくよくよと小池朝雄こいけあさお異相いそうとが混ぜこぜになっていた。


 赤坂あかさかのテレビ局に近い中華料理屋が待ち合わせの場所だった。頭の上で電線が不器用なあやとりのように入り組んでいるのを気にしながら、ジュンローに教わった道順をたどっていくと「海覇王」に着いた。ハイパーワン、と読むらしい。Hyper Oneにして海の覇王、という勇ましい名前に反した電飾でんしょくもない落ち着いた店構えが味の確かさを保証しているように見えたが、「でもお高いんでしょ?」とテレビショッピングでよく聞く文句が何処かで聞こえたような気がした。もちろん経費として落ちるから気にしなくていいはずだが、マイナスにはならないもののプラスにもならない、摩天楼まてんろうの狭間で綱渡りする人騒がせな大道芸人だいどうげいにんのごとく奇跡的なバランスをここ数年保ち続けている貯金残高を考えると、ちょっとした出費でもひそかに冷や汗をかいてしまう。店内に入るとラメの入ったエメラルドグリーンのチャイナドレスを着た店員がいきなり距離を詰めてきたので焦りながら名前を告げる。とおを思わせる歩き方で接客するのは考え物だが、ジュンローはちゃんと予約を取ってくれていた。他に客がいないわけではないはずだが、話し声も食器が触れ合う音もせずに胡弓こきゅうの音色がゆるく流れているだけの廊下を一番奥の個室まで案内される。入ってすぐに籐細工とうざいく衝立ついたてが立てかけられていて、その向こうにあるターンテーブルの付いた赤い円卓えんたく直上ちょくじょうのランプのおかげで自ら鈍い輝きを放っているように見える。今日は会話をICレコーダーで録音するわけではなかったが、誰にも邪魔されずに話ができる環境が用意されていたのはありがたかった。それからしばらく、立ったまま椅子の背もたれに両手を乗せてスニーカーの爪先で床をリズミカルに軽く蹴っているうちに、異常性愛映画いじょうせいあいえいがの興奮が心と体からようやく抜けつつあるのを感じていると、ドアが2回ノックされて待ち人が入ってきた。

「すみません。お待たせしてしまって」

 さかいが入ってくると、彼のファンとは言えない私でも名探偵ガブリエルに会えた、という感激で胸がいっぱいになってしまった。もっとも、私にとってのガブリエルは第1作の最終回で衝撃的な死を遂げてカルト的なスターに一躍まつりあげられた彼ではない。「名探偵ガブリエル」のテレビシリーズはその後第7作まで作られ、今でも半年に一度2時間のスペシャルドラマが放映される人気作品だが、第2作で制作プロダクションがマグニから変更されて以降は人情派にんじょうはの推理ドラマに作風が一変していた。昼下がりにしばしば過去の傑作選けっさくせんが再放送されているが、海に面した断崖絶壁だんがいぜっぺきの前で捜査陣と真犯人を前に忌まわしい殺人に隠された悲しい過去を涙ながらに解き明かすガブリエルの姿に引き込まれて、前にも見た話なのに最後まで見入ってしまったことも何度かある。

「こちらこそお呼び立てしてしまって申し訳ありません」

 ミーハー根性を押さえつけて、堺を奥の席に座らせてから自分も腰かける。

「明日から海外に行かれると聞きましたが」

「バラエティ番組の体当たりロケで2週間ほど行かなくてはならないんです」

 堺が肩をすくめる。普通の人がやればわざとらしくなってしまう動作もごく自然に見えるのは売れっ子の俳優ならではと言うべきだった。

「どちらまで行かれるんですか?」

「アフガニスタンまで地雷を除去しに行ってきます」

 思わず絶句する。バラエティ番組はあまり見ないのだが、最近はそこまで過激になっているのだろうか。 

「それはテレビの企画なんですか? PKOとかではなくて」

「激辛料理の大食い競争に負けて罰ゲームをしなくちゃいけなくなったんです」

 罪と罰が釣り合ってなさすぎる。

「話を聞いた限りでは生命の危険をかなり感じるんですけど」

「いやあ、あの番組はスタッフが優秀ですから。この前も罰ゲームでロシアまで行ってマフィアに拉致されかけたけどなんとか自力で脱出できたし、今度も大丈夫だと思いますよ」

 堺は俳優でありながらバラエティ番組にもよく出演していて、天然ボケなキャラクターが愛されているようなのだが、地雷除去までやらされるともなると天然を超えてスーパーナチュラルの域まで達していると言ってもいいかもしれない。放送される時は必ず見るようにしよう。

 さっきの通り魔のような歩き方の店員が入ってきてお品書きを渡された。2人で適当に料理を選んでから、私は生ビールの中ジョッキを、堺は紹興酒しょうこうしゅを頼んだ。

「今回は小泉こいずみくんに取り持ってもらいましたが、彼とは何処で知り合ったんですか?」

「初めてゲームで声を収録するときに雑誌のインタビューを受けたんですけど、そこでいろいろとお世話になったんですよ」

「ゲームに声がつくんですか?」

「ロールプレイングゲームでね。今は勇者から魔王から村人まで全員しゃべりますよ。僕は伝説の魔法使いの役でしたけど、電話帳ほどもある分厚い脚本を渡されて、狭いブースの中で一日中しゃべり通しでさすがに咽喉のどがおかしくなりました」

 私がかすかに覚えているファミコンの時代からは変われば変わるものである。今でも新作が出ているようだが、マリオとルイージもしゃべるようになっているのだろうか。

「僕も今のあなたと同じで、ゲームについて何も知らなかったのを小泉さんがご親切にも一から教えてくれて、他のメーカーにも僕がゲームに向いていると宣伝してくれたみたいなんですね。それからゲームの仕事も増えましたし、公私混同こうしこんどうになっちゃうかもだけど、うちの娘が好きなアニメのイベントのチケットを融通ゆうづうしてもらったこともあります。ところで」

 私の知らないジュンローの仕事ぶりに感心していると、突然堺の声が低くなり、頭の中で赤いあかりがともった。

「阿久津くんの話を聞きたい、ということみたいですけど、一体何が目的なんですか?」

 堺はそれまでの温和おんわな表情を捨てて警戒感をあらわにしていた。そうは言っても元々が優しげな顔の造りなのでさほど怖くはない。

「質問に質問で返してしまいますが、何か問題でもあるんですか?」

「前にも週刊誌が来てあれこれ聞かれてしかも嘘ばかり書かれて迷惑したんですよ」

「話したくない、NGということであれば、僕はこのまま帰りますが」

「そうは言ってません。目的がまっとうで納得できるものであれば協力してもかまわない、ということです」

 私の決めつけに若干気分を害したようで、ますます話が聞き出しにくくなったが、阿久津に関してマグニの関係者の口が一様に重いのは調査の過程で分かっていたので、これくらいの反応は予想できていた。とりあえずからで行くことにする。

「それなら阿久津さんの話はやめにして、話を小泉くんに戻してもいいですか?」

「小泉さんの話なんてさっき話した以外には別にないよ」

 予想外の展開に堺が戸惑っているのが言葉遣ことばづかいでも分かった。

「堺さん、小泉くんに何か重要な話をしませんでしたか?」

「重要な話?」

「秘密を打ち明けてはいませんか?」

 端正たんせいな顔を曇らせてしばらく考え込む。

「いや、たぶんしてないと思う。仕事で会うだけなのにそこまでの話はしません」

「それならいいんです。実は、小泉くんは秘密を黙っていられない性格なんですよ」

 え、と堺が大声を出しかけて危うく押しとどめる。バラエティでドッキリに引っかかったときもこんな反応をするのだろうか。そこへちょうど今度は男の店員がビールと紹興酒を運んできたので、唇を湿しめして話を続ける。

「最初は僕も知らなかったんですけど、ある時小泉くんに“ここだけの話だよ”と、調査を通じてたまたま知ったある有名人のゴシップをつい言っちゃったんですね。そうしたら翌日にはインターネット中がその話題で持ちきりになっていて」

 今度はえええ、と声を漏らしそうになっている。

「本当に?」

「はい。不幸中のさいわいというべきなんでしょう、ゴシップそのものは他愛たあいのないものだったので、その有名人の方には特に影響はありませんでした。僕の方はちょっとゴタゴタしましたけど、まあなんとかなりました」

「でも、それを小泉さんが広めたという証拠は?」

 さすがは名探偵ガブリエル。簡単には納得しない。

「ネットで話が広まった経緯けいいを調べたんです。そうしたら、最初に話が出たのが、かの悪名高い超大型匿名掲示板での書き込みだったんです」

 堺が顔をしかめる。芸能人にとってタブーにも等しい名を聞かせてしまったようだ。私も阿久津の評判を確かめようとその掲示板をたびたびのぞいていたが、「悪屑」という蔑称べっしょうは上手くできていると思った。あそこに書き込む人たちは人の悪口となると抜群ばつぐんのセンスを発揮はっきするようだった。

「その書き込みを見たら、明らかに小泉くんの文体だったんですね。書くときのくせは本人には分からなくても傍から見れば意外と分かるものなんです」

「本人に確認は?」

「もちろんしました。“あれを書いたのは君?”と後で訊いたら、気まずそうに頭をいてました」

 うわあ、と堺が嘆く。

「それはひどい。あんまりだ」

「でも、小泉くんは悪気わるぎがあってやったわけじゃないんですよ。“面白い話を聞いたからみんなに教えてあげたい”と、どちらかというと善意で動いてたんです」

 もしくは「秘密をかかえこんではいけない」という罪悪感が暴露のモチベーションなのかもしれないが、それは口に出さない。

「それは善意じゃないよ。人を困らせる善意なんてないよ」

「でも、どんな秘密でもばらすわけではないみたいです。何もかも全部話していたらさすがに生きていけません。僕がやったみたいに“ここだけの話”とか“内緒にして欲しい”とか念を押されると黙っていられなくなるようです。あと“オフレコ”と言うとか」

 オフレコ、と呟いた後で堺は両手で顔をこすりあげた。身に覚えがあったのかもしれない。そして思い切ったようにグラスの中の紹興酒を飲み干した。

「それを分かっていながら、あなたはどうして今でも小泉さんと付き合っているんですか」

「もう一度言いますけど、小泉くんは悪気があるわけじゃないんです。だから、彼は自分に不利な秘密でも平気で暴露するんですよ。彼には恋人がいるんですけど、いつだったか、僕に向かって2人でラブホテルに行った時のことを語りだしたことがあります。力ずくで止めましたけどね」

 堺が言葉を失って固まっているが、甲州街道こうしゅうかいどう沿いのモーテルにあなんを連れて行った話をされた時の私も今の堺と似たようなものだっただろう。魔法少女まほうしょうじょのコスチュームを着せてからとか、そんなことをのたまう男の頭を叩いても罪には問われないのではないか。グーで殴っておけば表彰されていたかもしれない。それからすぐ、あなんには「ジュンローと秘密を共有しない方がいい」とだけ電話で言っておいた。詳しい話をするわけにもいかずまどろっこしい言い方しかできなかったが、思い当たる節があったのか、彼女も「ジュンくんバカだから」と笑っていた。

「こちらで気を付けさえすればいいやつなんですよ。らされて困るようなことは一切言わない、それだけを心掛けておけばいいんです」

 だから、私はこの前高円寺こうえんじで会った時も本当の意味で調査に関わる重要な話は一切口に出さないでおいた。阿久津に会う前におじゃんにされるのだけは勘弁かんべんして欲しかったからだ。

 私の頼んだ牛肉とカシューナッツのいたものと、堺の頼んだ小籠包しょうろんぽうがテーブルに置かれた。自分が空腹だったことを思い出して、小さな皿に山のように取る。堺にお願いして小籠包をひとつ貰い、その代わり私の炒め物も彼に分ける。

「食欲なくなっちゃったよ」

 堺がぼやくので申し訳ない気持ちになったが、黙っていたらいずれジュンローに彼の秘密をワールドワイドにばらまかれていた危険性もあったので、私としてはなすべきことをしたまでのことだと思うしかない。

「それでどうします?」

「小泉さんが悪い人ではないのは分かるけどこれからも付き合えるかというと」

「そうじゃなくて、阿久津さんのことです。お話を聞かせてもらえるのかどうか」

 堺が目を見開いてから力なく笑みをこぼす。

「そういえばその話もあった。すっかり忘れてました」

「こっちが本題なんですけどね」

 2つ目の小籠包を食べきると堺が大きくうなずいた。

「とりあえず何が目的なのかを教えてください。それ次第でお話しするかどうかを決めます」

 そう言う顔つきこそ厳しいものだったが、最初の頃のようなこちらを警戒する雰囲気ふんいきはもうない。要するに私はジュンローをダシにして堺の信頼を得ようとしたのだが、ある程度その目的を達成できたようだった。逆にジュンローは堺の信頼を失ってそのせいで今後の仕事に支障をきたすことになるかもしれなかったが、本人の努力次第で避けられるはずなので、それは私が気にするべきことではなかった。

 五目炒飯ごもくチャーハン、とうもろこしのスープ、酢豚、鶏の煮込みが運ばれてくるまでに説明は終わっていた。持ってきた報告書に目を通して確認してもらうだけでいいので、阿久津について何か言ってもらう必要はないということは特に強調しておいた。

「じゃあ、阿久津くんのやっているそのワークショップがおかしなものじゃないと証明できればいいんですね」

「はい。僕としては阿久津さんにプラスになる話だと思っています」

 嘘は言っていないが完全におためごかしである。今更胸の内に何ら痛痒つうようを覚えることもなく、手元に用意していた報告書を堺に手渡す。時間がかかりそうなので、許しを得てから料理に手を付ける。昼のサンマといい今日はやたらに箸が進む。さすがに料理はどれも素晴らしいものだったが、私にはもっと庶民的な店の方が気安くて有難かった。週末に大宮おおみやの行きつけの店で油淋鶏ユーリンチーを食べてこようか、と思っていると、堺が報告書から顔を上げていた。眼の中に驚きの色がある。

「これ、僕の前に誰か関係者に話を聞きました? 加瀬かせくんとか三輪みわくんとか」

「いいえ。全部本やテレビやインターネットにあったことです」

 ふうん、と声に出して感心される。

「じゃあ誰かが話したんだなあ。僕らしか知らないはずのことまである。でも、よく調べられてますよ。ほとんど間違いがない」

 どうも、と炒飯を乗せたレンゲを口に含みながら礼を言った。

「ああ、でもひとつだけ違うな。僕は“サンエイケツ”のサルブルーはやってない。タヌキイエローをやりました」

 驚いてレンゲを噛み砕きそうになる。

「よく間違えられるんですよ。サルブルーをやった藤井ふじいくん、専門学校の同級生で今でもたまに会う友達だけど、若い頃は僕と体格がほぼ同じだったから。あっちは太っちゃったから今は簡単に見分けがつきますけどね」

「でも、テロップでは堺さんがサルブルーって出てましたよ」

 堺が出来の悪い生徒を見守る教師のような笑みを浮かべる。

「だからそれはテロップが間違えているんです。恥ずかしい話だけど、マグニのシャシンってそういう信じられないような大きなミスがよくあるんですよ。スタッフが映りこんだり、ピアノ線が見えたり、死んだはずのキャラがしれっと登場したりしてね。何回も確認したはずなのに何故か誰も気づかないでそのまま電波に乗っちゃう。“そこがいい”って言ってくれるファンもいるけど、失敗を褒められてもちっとも嬉しくありません」

 「シャシン」という隠語いんごを気取りもなく使っているのが業界に馴染なじんだ人らしかったが、理由はどうあれ調査に間違いがあったことは私を少なからず動揺させていた。スープを飲めば少しは落ち着くだろうか。書類をテーブル越しに渡してきたので受け取ってジャケットのポケットに乱暴に突っ込む。ひとつ間違いがあったからといって全部がダメになったわけではないのだが。

「堺さんが確認してくださったおかげで、調べに間違いがないと分かって安心しました」

「サルブルーは直しておいてね」

 意外に執拗しつような人だ。しばらく斜め上を見つめながら椅子の前脚まえあしを時折浮かせた後で、堺は静かに口を開いた。

「そうですね。僕も少し話をしておこうかな。もう何十年も前のことだけど、マグニに参加したのが僕の出発点だしね。それにあなたは口が堅そうだ」

 ジュンローのことをまだ気にしているから、そんな風に付け加えたのだろうか。それから堺の思い出話が始まった。特に禁じられたわけではないので、関係者の証言として報告書に追記ついきしても良いのだろうが、私としてはそのつもりはなく、ここだけの話にしておこうと思っていた。何故そう思ったのかは自分でもよく分からない。

「今頃になって言うのもなんですけど、僕は自分が役者に向いているとはこれっぽっちも思えないんですよ。演技の勉強をきちんとしたわけでもないし、人手が足りないから、本職の人を雇うお金がもったいないからとりあえずお前が代わりをしておけ、と言われて嫌々いやいややったのがスタートでしたから。本当は裏方で美術をやりたかったし、将来もその関係の仕事をするつもりだった。他のみんなは才能があって僕にはなかったけども、やりたいことをやれればそれでよかった。だから今の自分に満足しているかというとそうでもないとしか言えないんです」

小川おがわさんも同じなんじゃないですか」

 堺が気怠けだるそうに頷く。煙草たばこが吸いたいのではないか、という気がなんとなくした。

「そうですね。小川くんも同じ、というより僕よりも彼の方がずっと気の毒です。彼は地元のバンドに参加していてプロデビューの話もあったくらい才能豊かだったから。ただ、彼には経営者の才能もあって、マグニが今もっているのはひとえに彼のおかげです。小川くんがどんな気持ちでいるのかは分からないけど」

 ここで一番の気がかりについて聞いてみようと決めた。ジュンローにも分からなかったことだ。

「阿久津さんはマグニの中でどんな役割をされていたんですか? 仲間のみなさんは“凄い”と仰っていますけど、外部からはいまひとつ分かりにくくて」

 堺は右頬に手をやってしばらく考えてから、一言一言を選ぶかのように話し出した。

「それはよく聞かれます。気になっている人が多いんでしょうね。でも彼のことは本当に“凄い”としか言いようがないんです。他のみんなの長所はすぐに言えますよ。小川くんはさっき言った通りで、エビちゃんの演出は若い頃からキレキレだったし、加瀬くんは面白い話を考えられる。三輪くんは絵が上手くてコンピューターにも詳しい、クマちゃんは怪獣のことならなんでも知っていて現場をうまくまとめられる人徳がある。僕は一応役者として成功しているということになっている。でも阿久津くんの何処がいいのかというとうまく言えない」

 急須きゅうすから中国茶をいだが、熱くてすぐには飲めなかったらしく湯呑ゆのみをテーブルに戻した。

「仲間の僕らがそうなんだから、他の人から見て分かるはずもないのは当然だと思います。でも、阿久津くんが何の役にも立っていなかったみたいに言う人もたまにいますけど、それは絶対に間違いです。そう言われたら僕は怒ります。彼がその場にいてくれたおかげで出来たことはたくさんありますから。マグニの作品の数々は阿久津世紀あくつせいき抜きにして完成しなかった、とはっきり言っておきたい」

 それだけを一気に言い切った後、少しの間をおいて、でも、と呟いた。

「“それならどんな風に役に立ったのか具体的に教えてくれ”と訊かれると、やっぱり上手く言えないんです。作品の成立に目に見えるかたちで関わっているわけではないから、裏方として頑張っていたのだろう、と好意的に見てくれる人もいるけど、残念ながらそれも違います。確かに最初に名古屋のテレビ局とつながりを持てたのは阿久津くんのおかげだったけど、あれはプロデューサーが阿久津くんのお姉さんの旦那さん、義理のお兄さんだったからですよ」

「それは初耳です」

 調べを尽くしてもまだ出ていない話がどこかで眠っている。

「僕らも“指輪綺譚ゆびわきたん”のあたりまで知りませんでした。若いのに実力でコネをゲットするなんて凄いなあ、と感心したのは一体何だったのか、と思っちゃったけど」

「確信が持てなかったので報告書には書かなかった話ですが、阿久津さんが“サンエイケツ”の製作費を出すために実家からかなり借金したというのは」

 堺はようやく程良くぬるくなったらしい湯呑を手に取った。

「それは本当。何百万単位でね。僕らはみんな“そこまでしなくていい”って引いちゃったんですけど。阿久津くんの実家には僕は行ったことがないけど、加瀬くんから聞いた話では、三河安城みかわあんじょうの結構な豪邸ごうていらしくて。付き合っているといかにもいいとこの子みたいな雰囲気があったから、僕は納得しましたけどね。でも、どういうわけか阿久津くんは金持ちとかお坊ちゃんとか呼ばれるのを凄く嫌がってました」

「“サンエイケツ”でお金を出したから、他の作品でも製作費をひねしたように思われているのでしょうか」

「かもしれませんね。彼はその後もプロデューサーの肩書きで表に出ていたから。でも、金策きんさくに追われて一番大変だったのは小川くんでしたし、僕らだってスポンサー集めはやらされましたよ。人付き合いの苦手なエビちゃんには特につらかったみたいだけど」

 その言葉にはマグニ時代を無かったかのように扱っている現在の恵比寿えびすへの複雑な感情が込められているように思えた。映像作家として作品を発表するたびに海外で高く評価されている彼は最初から自分ひとりだけでやってきたかのように振舞っていて、かつての仲間から見ればそれは受け入れがたいことなのかもしれなかった。

「あと、テレビで出演されているのを拝見すると、阿久津さんはお話が上手ですね」

 なんとか美点びてんを探し出そうとしたものの、それくらいしか思い浮かばず、阿久津に悪い気がした。

「それは昔からそうですよ。僕なんか口喧嘩くちげんかで勝てたためしがない。制作会議でもずっと阿久津くんがしゃべりっぱなしで誰も止められないんだもの」

「じゃあそれが阿久津さんの凄いところ」

「ではないと思います」

 言い切らないうちにかぶせるように言われた。

「確かによくしゃべるんですよ。三輪くんに“あいつは口から先に生まれたに違いない”と言われてたくらいで。でも、阿久津くんに言われたことで印象深いことやためになったことというのは思い浮かばないんですよね。他の仲間の言葉はまあまあ覚えているんですけど」

「作品に関わるアイディアを出したりは」

「ないですね。少なくとも実現可能なアイディアは出してくれなかった。ジョークとして聞けば面白いけど、それを本気でやろうとしたらお金がいくらあっても足りない、彼のアイディアはいつもそうでした」

 昔の仲間を悪く言いすぎたことに気付いたかのように、堺は上唇うわくちびるに右人差し指を乗せて口をつぐんでしまった。私もお茶を注いでしばらく待ってから、再び質問をした。

「阿久津さんが悪く言われるのは、マグニの辞め方があまりよくなかったこともあるのでは、と思ったのですが」

「辞めたいきさつはあなたが書いたのでほぼ当たってます。やっぱり誰かが何処かでしゃべったのかなあ。でも一つ言わせてもらえれば、お金は一番の問題じゃありませんでした。一番大きかったのは僕らがみんな阿久津くんを信用できなくなったことなんです。阿久津くんよりも先にエビちゃんがマグニを辞めてますけど、最後に会社で会った時に僕に言ったんですよ。“阿久津が本当に仕事ができる男だと思っているのか?”って。そのときは、エビちゃんもカッカしているから、と聞き流しちゃったんですけど、小川くんから経営が危ないと聞かされた時にそれを思い出したんです」

「能力があると思っていたからいろいろ見逃がしてきたけど、実は違ったんじゃないか、ということですか?」

 私の言葉に頷きながら、ターンテーブルを指で回す。空になって重さを失った皿が回転の勢いで少しだけずれる。

「さっきも言ったけど、僕は阿久津くんには間違いなく才能はあると思っています。彼が今テレビに出ているのも才能があるからです。でも、あの頃の彼はこれというものを作れなかった、作るふりだけしかしていなかったわけで、それなら才能がないと思われてもしょうがないでしょうね」

 いくら友達でも限界はあります、と最後に小さく付け加えた。

「近いうちに阿久津さんと直接会う機会がありますから、いろいろ聞けるのなら聞いてみます」

 堺がきらきらと輝くまなざしを私へと送る。強い目力めぢからにその気がなくても胸が騒ぐ。

「ぜひそうしてみてください。僕も彼のどこが凄いのか知りたい」

 いい話が聞けるのであれば教えてもいいが、そうでなければ伝えない方がいいだろう。気まずいかたちで別れた友人を今でも心配している人にこれ以上余計な苦しみを与えるのは忍びない。

「デザートを食べたいですね」

 重くなった雰囲気をごまかそうとしただけだが、堺は身を乗り出してきた。

「この店の杏仁豆腐あんにんどうふは絶品ですよ。口の中に入れるとすぐに溶けてなくなって甘さだけが残るんです」


 堺のお勧め通りの味を堪能たんのうしてから、私たちは外に出た。やはりそれなりの値段にはなったが、等価交換とうかこうかん法則ほうそくに背くわけにはいかない。コンビニと外食チェーンのネオンサインにくまなく照らしだされた狭い道を並んで歩く。

「本物の探偵さんにお会いできていい勉強になりました」

 外に出ると堺は野球帽と薄いサングラスをつけていたが、すれ違う人が何人かこちらを気にしているところを見ると、変装としては不十分なのかもしれなかった。それに探偵と調査員は私の中では別物べつものなのだが、私のこだわりは私にしか分からないもので、説明するだけ徒労とろうに終わるからその気すら起こらない。

「誰かお迎えにいらっしゃるんですか?」

「マネージャーには今日は遠慮してもらったんだけど、さっき連絡を入れておきました」

 そこまで行ったところで路地を抜けて外堀通そとぼりどおりへと出た。

「もう来ていますね」

 指さす先を見ると反対車線の日枝神社ひえじんじゃの入り口の手前辺てまえあたりに白いセダンが停まっている。昼間に来ていたらお参りしたかった、と思っていると、

「それじゃお疲れさまでした」

 私が礼を返すのを待たずに堺は駆けていき、そのままの勢いで横断歩道を突っ切り、赤信号になると同時に通りの向こうにギリギリでたどり着いた。後部座席に乗り込もうとして、私に見られているのに気づいて笑顔で小さく手を振り、それから車内に姿を消した。何をそんなに急ぐのか、セダンは猛スピードで走り去っていく。名探偵ガブリエルがアフガニスタンから無事に戻ってくるのを祈らずにはいられなかった。

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