第5話

 日曜の夕方に上りの電車に乗った私の心は奇妙に浮き立ち、人もまばらな車内の空いた座席に腰を掛けずに扉に背中を預けていた。報告書に目途めどをつけることができて知らず知らずのうちに興奮しているのだろうか。どうせ帰りには休日に遊び疲れた人たちで混み合う中で立ち尽くさなければならないのだろうが、今からそんなことを心配しても仕方がない。

 昼過ぎに私はジュンローに電話をかけて、阿久津の知り合いにアポを取るように頼んだ。前にある通り、世間に出回っている資料だけでも十分に調べ上げることはできるのだが、私の調査した結果を関係者に確認してもらって裏が取れるのならばそれに越したことはない。絵に描かれた龍の輝く瞳とは行かないまでも、カレールーの中のひとかけらのチョコレートになってくれれば十分だ。

 するとジュンローが、せっかくだから久しぶりに会って飯でも食いませんか、俺が奢りますから、と言ってきた。ジュンローは実に扱いに困る男で、奢りだからといって軽々しく出かけるのも躊躇ためらわれたが、言われてみれば半年以上直接会っていないので、むさくるしい顔を見るのもたまにはいいかな、と思い直して一緒に晩飯を食べることにして、今は待ち合わせの店まで出かけている途中だった。

 高田馬場たかだのばば東西線とうざいせんに乗り換えて高円寺こうえんじまで行く。南口を出て高架下こうかした阿佐ヶ谷あさがやに向かって歩くと、電話で告げられた店の前に着いた。雑居ビルの地下にある入り口まで煉瓦れんが造りの階段が下りていて、洪水にでもなれば間違いなく店中が水浸しになるだろうが、東京ではこの1か月雨の降る気配すらなく、要らぬ心配もいいところだった。

 ドアのガラスに「居食屋いしょくや か~でぃがんず」とあるのに気分が若干塞ぐのを自覚しながら店内に入ると、すぐに一番奥のテーブル席にジュンローが座ってスマホを眺めているのを見つけたが、その隣にあなんが居るのを見て少なからず驚いた。あなんも私を見つけて右手をワイパーのように振り出した。

「ソリガチさん、はろはろー」

 この挨拶を耳にするのは久しぶりだが、場所柄をわきまえずに大声を出すのも相変わらずで、他の客の視線が集まるのを感じながら2人のいる席まで小走りで行き、ジュンローの真向かいに座る。

「なんでスーツなんスか?」

 青地に白いドクロのマークが染め抜かれたニット帽をかぶった青年が挨拶も抜きにいきなり訊いてきた。瘦せこけた浅黒い顔に似合わない口髭を生やしていて、太い黒縁眼鏡の奥にはカミソリで裂いたような細い目が2つただあるだけだ。あなんもこの男とまだ付き合っているからここに来ているのだろうが、一体どこに惹かれたのだろうかといつも首を捻らざるを得ない。

「今日は日曜スよ」

「一応仕事の話で来ているわけだから。それより」

 あなんの方に向かって軽く手を振り上げた。

「どうして一緒に?」

「いや、俺もどうかと思ったんスけど、こいつもソリガチさんに会いたいって言うから。マズかったスか?」

 女の子が私に会いたいと言って来てくれたのなら文句を言うのも野暮だ。少し心配そうにしたあなんにむしろ嬉しいと本音を言って、生ビールを中ジョッキで注文した。帰ってからもう一度阿久津あくつに関する資料を確認したいのだが、1杯だけならかまわないだろう。

「ちょっと聞いてくださいよ」

 ちょっとどころかそれから1時間あまりジュンローはしゃべり通しだった。だから彼と食事をするのは考え物なのだが、それを分かっていながら所沢ところざわからはるばる来てしまった我が身を恨むしかない。

 小泉潤郎と知り合ったのは私がまだフリーで調査をしていた頃のことで、リサーチに人手が必要になって、まだ大学生だったジュンローを臨時のアルバイトで雇ったのだが、初対面では自信ありげな口ぶりだったのにいざ実際の調査になるとイージーミスを繰り返していた彼がとうとう「もうやめたい」と泣きだしたのを表参道おもてさんどうのハンバーガーショップで諭して以来私を慕ってくるのだ。ジュンローはその時私が親切にしてくれたと深く感謝しているのだが、私の方では「やめたければやめていいよ」と突き放したつもりだったので、物事の見方というものがいかに多面的であるかを考えざるを得ない。受け取り方に差はあったものの、ジュンローは立ち直ってなんとか役割を果たし、それから不定期で助手として私の調査に参加するようになった。大学を卒業した後に護国寺ごこくじの編集プロダクションで勤め出すと、クライアントとして私に出版業界の調査を頼んだこともあったが、現在ではそのプロダクションからも離れてフリーランスの身でムックやコンビニで売られる雑学本の編集に参加したりウェブマガジンでコラムを執筆したりしているという。マンガ、アニメ、ゲームといったいわゆるオタク関連の知識に強く、阿久津やその知人とも仕事を通じて何度か会っているとも聞いたので、それで今回ジュンローに連絡をとったのだが、そのためにマシンガントークの弾幕にさらされるのは割に合わないにも程があった。

 ジュンローはインターネットでプレイできるゲームに最近ハマっているという話だけをひたすらし続けた。そのゲームは「山岳さんがくころっせお」といって、日本の山々が擬人化されて美少女に変身して怪物と戦う内容だというのだが、開聞かいもんさんが格好よすぎるとか隠れキャラの天保山てんぽうざんちゃん一推しとか世界編のアンナプルナがゲットできないとか、小学生の頃に勉強の邪魔になるからと母親にファミコンを隠されてからテレビゲームに触れたことのない私には未知の言語を聞かされているのと同じであった。山が擬人化して美少女になるとは一体脳のどの部分から出てきた発想なのか、あのファミコンは今でも実家のどこかにしまわれているのだろうか、などと厚揚げを口にしながら私は物思いに耽っていた。相手が話を聞いていなくても気にしない、怒らないのはジュンローの数少ない美点であって、本人は人前で話をするだけで満足してしまうのだろう。それをコミュニケーションと呼べるかは甚だ疑問ではあるが。

「ほら、新作。見てみてー」

 あなんがスマホを差し出してきた。彼女もジュンローの話を適当に受け流していたのだが、「そうだね」「ジュンくん凄い」と心のこもらない相槌あいづちを時々挟んでいて、ガールフレンドともなると彼氏の呼吸まで読めるのだろうか、と感心させられた。小さな画面の中では黒のロングヘアのウィッグをかぶり紺のブレザーを着たあなんがウインクしながら柔らかそうな唇から桃色の舌を小さく突き出していた。どうやら自分で撮ったようだが、手慣れているようで斜め上からの構図が見事に決まっている。ベースギターを肩から下げているが、何故か左利き用である。通常のモデルが用意できなかったのだろうか。

「昔のアニメを観てたらやりたくなっちゃって」

 あなんにはコスプレ趣味があって、着るだけでなく自分で衣装も作っているそうだ。以前にも何度かその手の写真を見せられているが、今日見せられたのはかなりおとなしいもので、髪はピンクではないし羽根を生やしてもいない。20代半ばになってもまだ何処か顔に幼さの残る彼女が制服を着るとコスプレにつきまとう不自然さもなしにその辺を歩いている女子高校生に見えてしまうのだが、これでも普段は川崎かわさき駅近くのコールセンターでテレフォンオペレーターとして働いているという。春の日差しを思わせるぽかぽかした温かい話しぶりで応対されると、クレーマーも抗議しているうちに眠くなってしまいそうで、案外向いている仕事なのかもしれない。

「ジュンくんが今度引っ越すから、そろそろ一緒に暮らそうって言ってくれてるんだけど、まだうちを離れたくないから、どうしようかなあって思ってて」

 ジュンローとあなんが付き合いだしてもうすぐ2年半になるだろうか。毎年夏と冬に開催されるマンガの大型イベントにコスプレをして何度か参加していたあなんが、素人カメラマンに囲まれていたところに、ジュンローが取材と称して話しかけたのが交際のきっかけだったという。最初はかわいいと思って近づいたら話しているうちに中身はもっとかわいいと思ってメロメロになった、と付き合い始めの頃にジュンローにのろけられて都営三田線とえいみたせんのホームから突き落としてやろうかと思ったこともあったが、紹介されて彼女と直接会ってみると、オタクをこじらせた青年がのぼせあがるのもよく分かった。それから3人でたびたび会って話をすることもあったが、ジュンローを抜きにして彼女と2人きりで会う必要もなかったので、あなんの顔を見るのもかなり久しぶりである。

「僕に会いたがってるってジュンローが言ってたけど、何か用事でもあった? 調べものなら何かできるかもしれないけど」

「あー、話したいことがあった気もしたけど忘れちゃったみたい」

 気まずかったのか、セミロングの栗色の髪に白い指が滑りこんでいったのが見えた。

「でも私、ソリガチさんが好きだから、何もなくても会いたかったんだけど」

「好きって、どの辺が?」

「顔」

 そう言って首をかしげながらいたずらっぽく笑った。一回りほども年齢の離れた女の子にもてあそばれているかと思うと情けないが、そういえば職場でも年下の女の子に困らされていたのだった。幼稚園の頃にスカートめくりをして同級生を泣かせていたのが今になって祟っているのかも、と因果関係もへったくれもない突飛な考えを思い浮かべていると、いつの間にか前に座った男が静かになっているのに気づいた。

「すんません。ソルティドッグおかわり」

 ジュンローが肩で息をしながら通りがかった店員にタンブラーを差し出していた。スマホで確認すると彼がしゃべりだしてもう1時間半近くになっていた。それだけの時間猛烈に話し続ければ体力を使い果たすのも当然だ。

「もういいのかい?」

 皮肉めいた響きを隠しきれない私の問いかけに返事もできないジュンローの顔をあなんがおしぼりで拭ってあげている。さっきそれでテーブルにこぼれたレモンサワーを拭いていたのは見なかったことにしておく。やがて青年は蚊の鳴くようなか細い声で話し出した。

「阿久津さんスよね」

 まだ息が荒いが、あんなに話した後でも用件を覚えていたことに少し驚く。それなら体力のあるうちに話をすればよかったと思うのだが、そこに考えが至らないのが私のよく知るジュンロー持ち前の迂闊うかつさとも言えた。

「頼んだ件はいけそう?」

「それは問題ないス。忙しい人だからすぐというわけにはいかないかも知れないスけど」

 別に急ぐ話でもないからそれならそれで構わなかった。仕事ができない男ではないので任せて心配はないはずだが、そこでジュンローも過去に阿久津と仕事をしたことがあったのを思い出したので、その時の印象を聞いてみることにした。

「いや、俺なんか全然ペーペーもいいとこスから。あの人は雲の上の人スよ」

「そんなに凄い人なんだ、阿久津さんって」

「オーラが凄いんスよ。近寄りがたいというか近寄りたくないというか」

 ようやく息が整ってきたのはよかったが、その言い方だと阿久津が他人から嫌われているようで語弊がある。ジュンローとだけ話しているのでほったらかしにされたあなんが心配になったが、

「私もその人知ってる。美しすぎて逮捕されたんでしょ?」

 さすがに捕まってはいないが、一人でも楽しそうにしているので気にしなくても大丈夫だろう。話に戻る。

「オーラは分かったけど、近くで仕事を見ていて、ここが凄い! って思ったところはなかった?」

 そう言われるとジュンローは考え込んでしまった。いつも反応の速い青年にしては珍しい。

「どこが凄いかはうまく言えないんスけど、とにかく凄いんスよ。凄いとしか言いようがないス」

「仕事の手が早いとか、アドバイスがためになったとか、そういうことはなかった?」

「ないスね」

「じゃあ、嫌な役目を進んで引き受けたとか、みんなのやる気が出るように気配りをしたとか、そういうことはしていなかった?」

「それは全くなかったス」

 だんだん怖くなってきた。凄いから凄い、理由はないけど凄い、ではもはや宗教だ。正岡まさおかの知り合いのご婦人が「息子がカルトに入った」と嘆いていたというのは正しかったのか、と暗然としたところで、角度を変えて質問してみることにした。

「ジュンローはマグニのファンだったよね?」

「それはもう。“ガブ”より“キタン”派スね。一番好きなのは“サンエイケツ”スけど」

 つまり、マグニの作品では「名探偵ガブリエル」よりも「指輪綺譚ゆびわきたん」や「戦国戦隊せんごくせんたいサンエイケツ」が好きだと言いたいのだろう。映画監督のファンが世間で一番名のとおった作品でなく、それよりも少しマイナーな作品や初期に作られたまだ粗削りな作品をあえて推す心理は私も身に覚えがあるのであまりとやかく言えない。ジュンローのオタク心に火が付きそうなのが見えたので慌てて質問を続ける。また独演会が始まってはたまらない。

「それでさ、阿久津さんがマグニにいた頃に何をやってたか分かる?」

「何って、あの人は社長だったじゃないスか」

「いや、具体的に何をやっていたかが知りたいんだよ。僕もあれこれ調べたけど、阿久津さんが作品にどんな形で貢献こうけんしていたかが見えてこないから聞いているんだ」

 またジュンローは黙り込んでしまった。困らせたいわけではないので私としても心苦しい。しばらくして、そう言われてみると、とやっと絞り出すように呟いた。

「俺にもよく分かんないスねえ。でも、阿久津さんが“あの頃の俺は凄かった”って自分でよく言ってるし、仲間の加瀬かせさんも三輪みわさんも熊野くまのさんもみんな“阿久津くんは凄い”って言っていたから、凄いのは間違いないんじゃないスか」

 完全に迷宮入りである。アリアドネも助けてくれそうにない。

さかいさんからは何か聞いていない?」

「俺もマグニのこと聞きたくてウズウズしてるんスけど、タイミングが合わなくてなかなか切り出せないんスよ」

 ならば自分で話を聞いてみるしかないのだろう。問い詰めるようなかたちになってしまったのをジュンローに詫びて、私はウーロン茶のおかわりとじゃがバタチーズを頼んだ。どの店員も黒のTシャツにエプロンを着用しているので、店名の意味がいよいよ理解不能である。

「阿久津さん。あの人は絶対に凄い人なんスけど、どこが凄いのかよく分かんないスね」

 まだ頭を切り替えることができていないジュンローの言葉を耳にしたあなんが、テーブルにあごをグリグリと押し付けながらそっと呟いた。

「ほんと。わけわかんない」



 それから30分後に「居食屋 か~でぃがんず」を後にした私たち3人は、高円寺の駅前まで戻って終電近くまでカラオケをすることになった。ジュンローは早歩きでさっさと先に行ってしまったが、あなんは金の鈴が鳴るような笑い声をあげながら街灯があってもまだ薄暗い夜道でくるくる回ったり路肩に片足で飛び乗ったりしている。普通の人なら酔っていると判断するところだが、この素面しらふでも路上でいきなり飛んだり跳ねたり歌ったりするので、一概には言い切れない。酔っているにしてもそうでないにしても彼女を一人きりにするわけにはいかず、私の歩調はきわめてゆるやかなものになっていた。

「ソリガチさーん」

 突然私めがけて走ってきたあなんが勢い余って頭からぶつかってきた。かすかに漂う花の香りはフレグランスかそれとも彼女自身のものなのか。

「危ないなあもう」

「僕のせいみたいに言わないでくれ。葡萄ぶどうみたいな服を着た人が悪いんだ」

 濃い緑と紫のボーダーのワンピースを見てそう言ったのだが、意味が通じなかったようで、あなんはビーグル犬のような眼でこちらを見上げている。分かりづらいジョークを言った私が悪い。

「あ、思い出した」

 2歩、3歩と前方に大きく跳ねてからあなんが私の方を振り返った。

「ソリガチさんはゴトウさんと同じところで働いてるんだね」

「誰だって?」

「ゴトウさんも、ユニバーサル貿易だった? そこで働いてるって、この前分かってビックリしちゃった」

 そこまで言われて、あなんの言う「ゴトウさん」が何者かやっと分かった。

「ゴトウさんって、うちの会社で調査員をやっている護島ごとうさん?」

「そうそう。護島さんきれいだから、友達になれて私嬉しくって」

 そう言うと、あなんは右足を軸に180度ターンして恋人であるジュンローのもとへと駆けていった。

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