四章 変化

 桜花がそれを感じたのは、食料などの調達のために街に降り、その帰り道の車の中だった。


 つけられている。


 後ろを走る車は何度も入れ替わっている。しかしなぜだろうか。そのすべての車に同じ《臭い》を感じた。どこかの誰かに【奴らだ】と教えられたように、確信を持った。


 心臓が痛くなるほどに緊張する。


 こいつらに隠れ家を知られれば、御影は連れ去られて殺される。

 ならば殺してしまえばいいと、印を彫った左腕を右手でつかむ。

 が、桜花は唇を噛み、ハンドルを両手でしっかりつかみ、車のスピードを上げる。後ろの車も、スピードを上げてついてくる。


 まいてしまえば別に殺す必要はない。踏切が降りるギリギリを走ったり、入り組んだ道を走ったり、必死でつけてくる車を引き離そうとした。それでも奴らはついて来た。何台かの車で先読みをして回りこんで、逃がさないようにしているのか。


 このままでは、御影のところへ帰れない。捕まったとしても、何をされようが御影の居場所を吐くつもりはないが、その後残された御影はどうなるのだろう。

 そんなことを考えると涙が出てきた。殺すしかない、と思うと涙が出てきた。


 御影の命を脅かす敵でしかないのに。相手には何の感情も感慨も抱いていないというのに。


 命を奪うということが、理屈ではなくただ怖かった。自分の意思を持って殺そうとしている自分自身が怖かった。


【いまさら何を純粋ぶっている】


 自分を嘲る自分の声が聞こえる。


【生きるために……誰かを傷つけることを厭わずに生きてきたくせに】


 耳鳴りのように耳の奥から耳障りに響き続ける。


【今まで誰にも愛されなかった】


【側にいてくれるのは御影しかいない】


【その御影を守れなくて、お前の存在価値はどこにある】


 耐え難い吐き気がする。全身から汗が吹き出る。

 印を彫った腕が熱を帯びる。わけの分からない叫び声をあげた。


 後方からクラクションが鳴り響く。止まることなく騒音を響かせ続ける。

 バックミラーを見ると、後ろの車はコントロールをなくし、歩道に乗り上げ、何かの店なのだろう建物の扉に突っ込んでいった。


 衝突の音が一瞬、世界が終わってしまったような感覚を辺りに振りまく。


 桜花は強くブレーキを踏んで、車の中で嘔吐した。涙と鼻水と涎をたらしながら、すぐにアクセルを踏みこむ。まだ奴らの仲間はいる。自己嫌悪などにかまっていられない。


 御影のためならどこまで堕ちようと、些細なことだ。



    * * * *



 何とか家まで逃げ切ることに成功した。山の中の隠れ家まで。桜花にとって、一番愛しいものを隠している家まで。


 人を殺した。


 人数は分からない。数える余裕も、そんな必要性もなかった。ただ、一人や二人ではない人数の人間を殺した。バックミラーの中に真っ白な顔色の自分を確認する。自分自身で自分を殺したような、死人の顔色をしている。


 罪悪感を持つ必要はない。奴らは御影をさらうつもりだった。さらって殺すつもりだった。それを阻止したに過ぎない。

 そう考えると、今度は人殺しをしているのを御影のせいにしているようで気分が悪くなる。


 ――ちがう。俺自身のためだ。俺が御影と一緒に居たいから、したことだ。


 どのように考えても気分は晴れない。だが動揺している自分の姿を御影には見せられない。


 桜花は唇を引き結び、後部座席から大量の買い物袋を取り出して車を離れる。

 一つ深呼吸をして玄関の扉を開けた。


 玄関は電気をつけていないようで薄暗かった。薄暗い中、玄関マットの上に御影が膝を抱えて座っていた。ひまわりが模様にあしらわれたロングスカートの中で脚をたたみ、大人の体を幼く丸めて座っていた。その周りを、モココが心配そうにうろうろしていた。


「おまえ電気もつけないで、こんなとこでなにやってんだよ」


 弾かれたように御影の顔が上がる。暗くて表情はよく分からない。


「は?」


 桜花が後ろ手に玄関の扉を閉めた途端、御影は泣き叫びながら胸に飛び込んできた。


「は? え?」


 思わず買い物袋を落としてしまう。

 背中に御影の腕が回される。御影の髪が頬に触れ、さらさらとした感触に、そぐわない状況に関わらず一瞬うっとりしてしまうも、ひっくひっくと嗚咽する御影に、どういう状況だと焦って戸惑う。


 長時間家を空けて帰ってくると、泣いていたことは今までにもあった。けれどそういう時はいつも、桜花の顔を見ればすぐに泣き止み、安心したように笑顔になって飛びついてきていた。

 なのに今は桜花の体にしがみつき、泣き続けたまま、まったく泣き止む気配がない。


「なに? どうした、何かあった?」

「お……おーかが、どこかにに、い、いっちゃうゆめ……み、みたぁ……!」


 言葉にしたことでまた恐怖がぶり返したのか、再び大声で泣き出し始めた。


 どこかにいっちゃう……。


 偶然に決まっている。なのに、今日したことが、何か自分の中の大事な部分を捨ててきた行為だと、本来の自分を消してしまった行為だと、そう言われたような気がした。


「そ、そんなわけねぇだろ。ずっと御影の側にいる」


 そう。そんなわけがない。そんなわけがない。


 桜花は自分に言い聞かせ、御影の体を強く抱きしめる。やわらかくあたたかい感触が、腕の中にいるのはとてつもなく愛おしい存在であると実感させられる。御影の側を離れるなんて、そんなわけはない。ずっと御影の側にいる。その想いを強くする。


 御影は腕の中で「うん……うん……」と何度も頷いている。

 自分の大事なものは、御影を守りたいと思うこと。何も変わってはいない。

 何も変わってなんかいない。


 御影の髪の毛を、かき混ぜるように撫でる。震えはおさまっている。


「もう、大丈夫か?」

「……うん」


 背中を軽く叩くと御影はぐしゅ、と洟をすする音を立てながら桜花から離れる。離れた御影の顔を見て、桜花は軽く噴き出して苦笑する。


「涙と鼻水スゲーな」

「うーー」


 と唸って御影は何度も一生懸命洟をすするがあまり効果はない。

 桜花はポケットティッシュを取り出して、御影の顔を拭いてやる。


 なぜそこまで自分のために泣いてくれるのか。そう思うとぐちゃぐちゃの顔すら愛おしく思えてくる。

 彼女を守らなければ。そのために、近所を奴らに嗅ぎつけられたこの場所から離れなければ。

 顔を拭き終わり、その話をしようと口を開きかけたが、


「――!」


 ガラスの破砕音が幾重にも重なり家中に響き渡り、桜花の口を凍りつかせた。

 御影は小さく悲鳴を上げて桜花の腕にしがみつく。


 なぜ、どこのガラスが、どうやって割れたのか。考えるまでもなく、やつらに襲撃されたのだと理解する。つけていた奴らを全員は殺せていなかったのだろうか。割れたガラスを見に行くのも、すぐに外に逃げ出すのも罠だと感じた。

 足元でモココが廊下を睨みながら唸っている。


「御影、目ぇつぶってろ」

「ん」


 奴らが襲ってきたら殺してやる。もう何人も殺している。これ以上殺しても同じことだ。

 そう自分に言い聞かせ、身構える。額の汗が流れて止まらない。


 睨みつけた廊下の奥から、正体の分からない白い気体が這い出てくる。なにかのガスだろうか。徐々に迫りくるガスの中に人影が見えた。


 殺意をこめて睨みつける。魂を抜き取る力を飛ばすが、手ごたえがない。人影はガスとともに歩みを進めてくる。廊下の横の扉が開いて、同じ白いガスが大量に廊下に流れた。


 桜花の体も、御影もモココも、白いガスに包まれる。後から出てきた人影にも力を飛ばしてみるが、やはり手ごたえがない。

 なぜだと心が焦る。人影が素早く動く。白い煙にまぎれ、どのような動きをしているのか分からない。


 桜花は御影を玄関ドアまで下がらせる。そして影が振り上げたものを肩に受けた。

 衝撃で膝を突く。白いガスの中、うっすらと人影がまた獲物を振り上げるのが見える。 


 桜花は足元に落ちていた買い物袋を手に取り、振り回した。

 人間に当たった衝撃で袋が破れて中身が散乱する。モココがもうひとつの人影の足に噛み付いた。


「御影! 玄関開けろ!」


 おそらくは、ガスが魂を抜き出す力を阻害している。このまま視界の悪いここにいてもどうにもならない。


 御影の手で玄関が開かれる。蹴散らされたのか、モココの「ぎゃん!」という鳴き声が聞こえる。

 桜花は肩を抑え、走り出しながら御影に「走れ!」と叫ぶ。ガスが外に流れていく。外の夕日の赤が入ってくるが、逆光を浴びた人影がすぐそこに佇んでいた。桜花は隠し持っていたナイフを持ってぶつかっていく。しかし避けられ逆に押さえ込まれる。


 もう一人の人影が近づいてきて桜花の頭めがけ、得物を振り下ろそうとする。桜花は頭への衝撃を覚悟して目を閉じる。


 御影が悲鳴を上げる。

 長い長い悲鳴を。


 桜花の耳はその悲鳴を拾い続けている。頭への衝撃が来ない。戸惑いながら目を開く。


 外にいた人影がいなくなっている。後ろを見ると、白いガスの中から「わんわん」と元気よくモココが走り寄ってくる。ガスの中にも人影はない。買い物袋の中身が散乱しているだけだった。

 さっきまでの人影はすべて消え去っていた。


「あ……あぁあぁぁぁ……」


 長い悲鳴を上げていた御影は、悲鳴の残滓のような、恐ろしさにうめいているような声を、小さくあげていた。


「御影……?」


 御影は目を見開いたまま桜花を見た。どこか焦点の合っていない瞳から雫がこぼれ、頬を伝っていく。


「おい、御影!」


 肩をゆすると御影ははっとしたように何かを言おうとして口をパクパクさせる。


「お、お、お、おーか! ケガしてない?」

「大丈夫だ。大丈夫。怪我はしてない」

「あ、あたし、おーかが、ケガさせられる、る、っておおおもって……そんな、こわい、ひとっは。ど、どっかいっちゃえ、て、いっぱいおもって。そしたら、みん、みんな、いなくなって……」


 そこまで言って、御影はパニックからか大声で泣き出した。また顔がぐしゃぐしゃになっていく。仕方ないのでハンカチを渡す。ハンカチをぐしゃぐしゃにしながら御影は泣き続けた。


 御影の背中を撫でながら、御影の存在を強く感じる。自分は御影に救われたのだと。


 あの研究所から初めてこの家にたどり着いたときと、今回。御影にはやはり瞬間移動の力があるのだと、確信を持った。奴らが消えたのは御影の力なのだろう。


 本人に自覚はないだろう。恐怖か何かの強い感情で発動するのだろうか。

 そして、ひとつの可能性を思い浮かべ、桜花は顔を曇らせる。

 この力が御影の心と体を結び付けたのではないのか。


 ずっと研究され続けて結びつかなかった、歳の離れた魂と肉体。なぜ御影だけが成功したのか。それは超能力という超自然的な力を持っていたからなのではないか。


 家の中のガスが晴れ、リビングに連れて行きソファに座らせる。それでも御影はまだひっくひっくと嗚咽を漏らしていた。御影の背中を撫でながら、桜花は痛みが走ったように顔をしかめる。御影に黙っている、殴られた肩が痛んだからではない。


 魂と肉体が結びついた仮説が正解だったのならば、そんな力を持っていなければ無理矢理他人の体で生き返らせられることも、こんな怖い思いをする必要もなかったのに。


 その一方で、だからこそ自分は御影と出会えた、とも考えてしまう。

 自分は御影の不幸を糧にして、幸せを感じているのかと吐き気がする。 



    * * * *



 奴らはまた襲ってくるだろう。どこか遠い所に逃げなければならない。


 あてはないが、車でできるだけ遠い所へ行かなければと、とにかく移動を繰り返す。御影がモココを離したがらないので、モココも一緒に。


 泊まるところを探すとなれば、ペットも止まれるところを探さなければならない。だが、どちらにしろ、誰かに自分たちの存在を知られるのが恐ろしく、知られた途端に奴らに情報が行くのではないか、という考えが止められず、人間との事務的な関わりすらできる限り避けていた。車の中での寝泊まりが続いた。


 そんな不自由な毎日に対して、御影は文句を言わなかった。彼女なりに追われる立場である今の状況を理解しているのだろう。それでも暗い表情は見せず、気丈に明るく振舞っている。


 御影が明るく振舞っているのに、自分は不安の表情を見せるわけにはいかない、と桜花は御影にいつもどおり冷静な態度で接した。けれど心の中は不安がつのるばかりだった。


 どこまで逃げればいいのか。御影には確実に負担になっているだろう。以前のような住める家は見つかるのか。見つかったとしてもまた不法侵入になる。そういうことを御影にさせ続けていいものだろうか。


 しかし人の目のある街に住むのは怖かった。誰の目が、どんな形で、奴らへの情報になるかわからない。


 それに、もしも御影の《体》の知り合いと出会ったら、どうなるのだろう。


 実験体として使われた《体》は、拉致されて研究所で傷を作らないように殺されている。おそらくは、家族や友人などの近しい者からすれば、御影の体は今でも《行方不明の少女》ということになっているだろう。


 もしも両親に出会ったら。


 娘を返してくれと責められるだろうか。責められたら自分はどうするのだろうか。自分が誘拐犯になるのだろうか。そして、御影と引き離されるのだろうか。


 様々なことが、御影と一緒にいられるのはいつまでだろうかという考えに結びつく。本当は御影を不幸にしているのは自分なのではないか、という考えに結びつく。


「うわぁ……! おーか、みてみて! うみー! うみだよ!」


 トンネルを抜けると、海が広がっていた。

 雲ひとつない青空の下、太陽の光を反射して光る紺碧に目を奪われる。

 車を路肩に止め、しばらくその光景に見入る。


「すごーいね」


 後部座席に座る御影が、開けた窓に頬杖をついて、のんびりとした口調で言った。


「ああ」


 桜花は御影の言葉に心の底から同意する。気を張り続け、がんじがらめになっていた心が、ほぐれていくのを感じる。

 目に涙がにじんで、自分は酷く疲れていたんだと気づかされる。


「おーか。およいでみたい! およぎたい!」

「泳ぐって……水着もないし、さすがにそろそろ寒いと思うぞ」

「じゃあー、あるくだけでもいい! もっとちかくにいきたい!」


 ずっと元気な“ふり”をしていた御影が、久しぶりに心からはしゃいだ声を出している。


「ああ。そうするか」


 御影の心が癒されるのならいい。そう思いつつも、自分も癒しを求めていた。


 モココもつれて、二人と一匹で砂浜に下りる。波の音が、力強く迫ってくるようでいて、やわらかくすべてを抱きしめているように響く。

 砂浜にはポツリと釣り人が一人いるだけで、他に人気はなかった。


「うみー!」


 と御影がモココをつないだ紐を持って駆け出す。靴を脱ぎ捨てて浅瀬に入っていく。


「ちょ、おまえ、浜辺を歩くだけって言っただろうがよ!」


 と声をかけるも御影は聞く耳を持たず、


「つめたーい」


 と言いつつはしゃいだ笑い声を上げている。水を掬いあげて上に放り投げたり、足で蹴り上げて水しぶきをモココにかけたり、そのモココがぶるぶると体を震わせ飛ばした水しぶきに悲鳴を上げたりと、あっという間にずぶ濡れになってしまっている。


「あははっ。モココ、ほそくなったー」


 普段ふわふわとボリュームのある毛皮が、水を吸収したことによりしぼんでいる。指をさして笑っていた御影だったが、くしゅん! とひとつ大きなくしゃみをした。


「うあ! さむい!」

「だから寒いって言っただろ。早く上がって来いよ」

「うんー……」


 投げやりな返事をしつつ、未練があるように御影がとぼとぼと海から上がる。上着をかけてやろうと上着を脱ぎながら、桜花の方からも近づいていく。が、びくりと足が止まる。


「あれー? おーか、カオあかい?」


 御影の白い長袖Tシャツが、水でぴったりと体にくっつき、体のラインがくっきり浮かび上がり、うっすらと下着も透けている。早く上着をかけてやりたいが、直視できない。


「なんでヨコ、むいてるの?」


 と桜花が顔を背けたほうに、何があるのだろうと思ったのか視線をさまよわす。


「……服が透けてんだよ」

「ふくー?」


 言って自分の体を見下ろすが、はて、それがどうしたのだろうという表情をする御影。


「あのなぁ。裸ってのはすごい大事なもんなんだよ。簡単に人に見せちゃいけない。だから他人に裸を見せるのは恥ずかしいって思うもんなんだよ」


 御影はやっぱりよくわからなかったようで、「ふーん?」と曖昧な返事しかしない。


「ったく……とにかくこれ着ろ」


 視線を合わせないまま、持っていた上着を御影に投げる。


「うん。さむいもんね。ありがと」


 と、先ほどの説教と完全にずれている返事が返ってきて脱力する。


 ――ああもう! だから何でそんなに無防備なんだよふざけんな!

 ――ぶっちゃけ正直、見れたらやっぱり喜ぶよ、テンション上がるよ、『嬉しい』て言ったらもっと見せてくれんじゃねぇかとかちょっと思うよ!

 ――でもそんな、よく分かってないところにつけ込むとか最低だろ。だからちゃんと理解してくれよ。恥じらいを持ってくれよ。最低なことなんてしたくねぇのに、したいってのが頭からはなれねぇんだよ……!


 顔を赤らめたまま目に涙をため、口は苛立っているのか歯軋りをし、眉間には怒りのしわが刻まれているという、感情が激しく入り混じった表情をして、桜花は心の中で叫びをあげる。


「やっぱり、あったかいのって、いいね」


 上着を着た御影が、ふわりと笑ってそう言った。

 声につられて逸らしていた目が、御影の笑顔を捕らえる。言葉と笑顔に、初めて御影に出会ったときのことを思い出す。


 肌寒い廊下を全裸で歩いていた御影。その彼女に、服を渡してやった時の、ほっとした表情と『ありがとう』という言葉。


 多分自分はあの頃、知らず知らずに心が凍えて死にかけていた。彼女は服の暖かさに救われただろうが、こっちは言葉の温かさに救われた。


 桜花の表情からは、苛立ちと怒りが消え、泣き出しそうな瞳だけが残った。御影に見せないように、目をつむる。


「おーかだいすき」


 すごい追い討ちだ、と思った。嬉しいのに、苦しい。

 目を開いて、告げる。


「うん。俺も、御影のこと大好きだよ」


 御影のだいすきと、自分の大好きは、まったく別物だろうということをわかっていながら、そう答える。

 嬉しそうに、嬉しそうに、御影は笑った。



    * * * *



 車に戻り、カーテンをした車内で着替えさせる。今度は絶対海に入らないからもう少し見ていたい、と言う御影に賛同し、二人は砂浜に座り、ぼけっと海を眺めていた。


 青い空と碧い海しかない空間で、御影と手をつないで、波が打ち寄せては引いていくのを眺めている。


 ここで時間が止まればいいのに。


 そんな月並みなことを考える。


 追われていることも、御影といつか離れてしまうかもしれないという恐怖も、御影への葛藤も、全部忘れて、ただ、御影の手のぬくもりだけを感じて、ずっとこのままいれればいいのに。


 わんわん、とモココが子犬らしい甲高い声で何かに向かって吠えていた。

 その声で目を覚ます。今まで二人して居眠りをしていたのだと気がついた。海が、夕日に染まっている。


「おお? 元気なわんころですなぁ」


 モココが吠えていた対象、声がかけられた方に振り向くと、先ほどから少し遠くで釣りをしていた中年の男が朗らかな笑顔で立っていた。


「あんたらがこの子の飼い主さん? いやはや、可愛いらしいカップルじゃないですか」

「かっぷるじゃないよ。かぞくだよ」


 御影がきょとんとした表情で律儀に訂正する。すると中年男は顔をくしゃくしゃにして笑った。


「ああ、じゃあ新婚さんだ。旅行中か何かだね?」

「シンコンサン?」


 不思議な言葉を聞いた、と言いたげな声色で呟き、まだ何か言いたそうな御影をさえぎり、桜花が口を開く。


「まぁ、そんなようなもんです。自分たちはそろそろ行きますから……」

「あのね、あのね。あたしたちね、ずっとりょこうしてるの。でね、おーかはいっつもあたしに、ちゃんとしたところでねかせてやれなくてゴメンってゆうの」

「おい御影……!」


 桜花の言葉をさらにさえぎり、今の境遇を明かす御影に、思わず険のある声を出してしまう。

 人と関わりたくなかった。巻き込みたくないという気持ちもあるが、どこで何が奴らにつながっているか、という恐怖の方が強かった。


「おーか、すごくつかれてるの。だからあたしもおーかに、ちゃんとねむれるとこで、ねむらせてあげたいの」


 必死で訴える御影の言葉に、何も文句が言えなくなってしまった。御影も疲れているだろうに、こちらのことを考えている。こっちだってそうだった。御影をちゃんとしたところで眠らせてやりたい。


「ははぁ。寝床がない、と。何か事情があるんだねぇ。でも丁度よかった。僕ね、この間までちっちゃいペンションやってたの。色々事情があってやめちゃったんですけどね。よかったら今晩、ウチに泊まりますか?」

「いいの? おじちゃん!」

「いいの、いいの。人が住まないとね、家ってどんどんボロくなるから。だから今日は手入れのために行こう、って思ってたんですよ。ついでに魚釣って食おうって思ってたんですけど、なんだか今日は大量で、一人で食べきれそうにないんで、誰か一緒に食べてくれる人がいたらなぁ、と思ってたとこですよ」

「やったあ! おじちゃんありがと。いいよね、おーか?」


 人と関わるのは怖い。最低限の事務的な関わりすら怖いのに、得体の知れない人間と関わるのはもっと怖い。けれど、多分。そのままでは御影も――おそらく自分も、いつか限界が来る。緊張に押しつぶされて、心が折れてしまう。


 自分のためにも、御影のためにも、必要な時は人に頼るということを、決めないといけないのかもしれない。


「すいません。それじゃ……お世話になります」


 そう言いながら、桜花は男に頭を下げた。



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