一章 ダムネーション・イヴ・パーティ

第1話 スター・トリップ①


 少年は戦慄した。


 中学三年の春、軽トラックに轢かれた通学途中。その瞬間はまるで体が痛まなかったから、大した怪我ではないと彼は思っていた。仮にこのまま死んだなら、きっとこことは異なる世界へ転生して、それなりに特別な力をもらえるとも思っていた。ジュブナイル小説のお約束というやつだ。


 しかし目が覚めたとき、病院の真っ白な天井が今まで観たどんなホラー映画よりも恐ろしいものだと感じさせられた。結論を言えば、彼の肉体も魂も揃って現実に紐付けされたままだ。窓の外に広がっているのは紛う事なき少年の住む街で、医者や看護師が呼ぶ名は聞き違える事なく『結城ゆうき いたる』、彼がコンマ一秒たりとも離さず付き添っている名前。無論、事故の衝撃で遺伝子が突然変異など起こしていないし、超能力も発現していない。


 異世界に行けなかったことだけなら、そんなに悲しいわけではない。ただ、彼はあまりにも大事な物を奪われすぎた。ズキズキと痛む両足を布団から出そうとしたとき、その恐怖の正体をようやく理解することができた。


 ――――無いのだ。そこで痛んでいるはずの両足が。あのトラック事故で、彼は膝から下を完全に失っていたのだ。


 なぜ、ひと思いに命を奪ってくれなかったのか。到の心は嵐の海のように荒れ果て、目に映る全てに無差別に憎しみが沸いた。親も兄弟もいない彼を見舞いに来るのは、一度たりとも家族と思ったことのない伯父と伯母だけ。それも数回顔を見せて終わりだった。数少ない友人は……案外薄情なものだ。いっそ誰も来てくれない方が、余計な波を立てず済むから互いのためになるとさえ考えた。


 到は人生で初めて、自分の人生を絶望視した。『完全に充実した生活』に無理に手を伸ばしたりせず、強かに生きていた彼が味わう初めての絶望だ。このまま退院したとして、今まで頼りきりだった両足を、歩く自由を奪われたまま、一体どう生きろと言うのか。例え慰謝料で義足を作ったとしても、百パーセント満たされることはない。この痛みは永遠に続く。


 彼は再び変化を求めた。こんな生き地獄をぶち破る強烈な変化を待ち望んだ。だが、願いを聞く神は――――この地球上のどこにもいない。そんなこと知っていたはずなのに、それでも到は祈るしかなかった。


 しかし日を追うごとに、あの日失った両足がその事実を拒むように痛みを増した。ただの幻肢痛ではない。何度も何度も足をねじ切られるような尋常でない激痛が、毎日のように続く。一日中痛み続ける日もあった。こんな状態でリハビリなどできるはずもない。


 そして、怪我さえしていなければ中学三年最後の冬であっただろう季節。久方ぶりに手鏡で自分の顔を拝んでやろうと思い立って、実際に見てから少しだけ後悔した。彼の髪の毛はものの見事に真っ白に染まりきっていたのだ。


 これが絶望の色なんだ。


 と、到は呟いたつもりで、実際に声は出なかった。気力を失い、手鏡を床に落としす。バラバラになった鏡が床に散らばり、その音に驚いた看護師がドアから顔を覗かせたが、「またこいつか」と訝しげに口元を歪めてそそくさと立ち去った。


 雪の降る季節に、この白毛頭はお似合いではないか。サンタクロースがいるのなら相乗りして仕事の手伝いをしてやろう。そんな取り留めもない妄想を浮かべつつ窓の外に視線を移す。


(……おかしい。もう十九時なのに、明るすぎやしないか?)


 この季節、日が完全に落ちるのは大体十八時ごろだ。だのに窓からギラギラと光が差し込んでいる。しかし、太陽の暖かさをまるで感じない。夜の冷たさはそのままに、眩い光が照りつける。


 ふと顔を窓に向けたとき、到の視力が良かったせいもあり、彼は『ソレ』に気づいてしまった。ほんの一瞬は、ハエか蚊が飛んでいるのだと考えていた。だがすぐに誤認だと分かった。到は確信する。


(アレは、人だ。人がビルの間を飛んでいる……?)


 そのあまりに不自然な『人影』をよりよく見ようとしたが、無い足が。到は久しぶりに舌打ちしたが、口が上手く動かなかった。


(なんだかなぁ……)


 自分の体が以前のように言うことを聞いてくれないことなど、到は頭で分かっていても、本心では事故発生からずっと否定し続けていた。しかし、彼が体を大きく動かそうとしたのは久方ぶりだし、失った部分が余りにも大きすぎて、ジタバタともがくような動きしかできない。


 それでも好奇心は簡単には止まれなかった。体を揺らし、反動でベッドをずらして近づこうとする。一回上手く行ったのが災いして、到は調子づいて反動を大きくしすぎ、ベッドから勢いよく転がり落ちてしまった。腕に刺さっていた点滴は運良くきれいに外れ、余計な怪我を増やすことはなかった。しかし、急に動いたせいか目が回ってしまい、しかも立ち上がることが全くできない。仰向けになっているのが救いか、上半身を起こして窓に向けて手を伸ばし、桟の部分に指を引っかけることができた。


(このままなんとか外を見れないかな……)


 見た後でナースコールを押すまでが大変だと、暢気なことを考えつつも、腕にありったけの力をこめた。恐ろしく脆弱でも、軽くなった自分の肉体を起こすくらいはしてくれと、誰に向けたわけでもなく祈りをこめて――――


「っ……よっ……!!」


 思い切り息を吐き出し、エネルギーを使い切るつもりで体を浮き上がらせる。結果、何とか目線が外からの光を受け入れられる場所までたどり着いた――――


「え……」


 光は確かに見えていた。だが、今度は打って変わって光量が多すぎる。真夏の太陽でもなければこんなにも強い光を出せるわけがない。熱い! 明らかに目と鼻の先に光源がある!


「あああああ!!!!」


 圧倒的な熱量に顔全体が焼かれるようだった。咄嗟に手を離して顔の前に回したから、体は重力に従って“落ちていく”。冷たく固い床が到の体を待ちわびている――――筈だった。


「……あっ……?」


 間の抜けた声をだしたのは、彼の体を待ち受けていた予想を大きく外れた感触に驚きを隠せなかったからだ。彼の体は背中からふわりと優しく受け止められた。鼻先から焼き尽くされるかと思った熱量は消え失せ、あの光源も、チカチカとランダムに明滅する蛍光灯のそれに変わっていた。


 それだけではない。天井は見知らぬくすみのある灰色のものに入れ替わっている。よく見れば床を転がっていた筈の体もまるで見覚えのないベッドの上に置かれている。


 ――――そしてなにより、半裸の女性がいるのだ。

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