東名高校三年一組一席 天木青嵐

 初夏の香りがした。

 すでに夏はとうに過ぎ、秋も超えて、冬の気配が徐々に迫ってきている。ちょうど今日から各教室でも暖房が稼働し始めている。

 あっという間に暮れていく太陽の入射光を厭うように引かれた厚手のカーテン。蛍光灯の暴力的な白い光が黄ばんだページを照らす。

 陰鬱な雰囲気の図書室は、自習スペースとして認められていない。自習室は専用のものが多く教室棟に用意されており、不満が出ることすらない。そのおかげで放課後でも人気はまるでない。読書をするには都合のいい――いや、そもそもの目的通りの利用方法か。

 ただ、そんなことをする生徒はここ東名高校にはほとんどいなかった。

 だから氷川稲は、ここに居心地のよさを感じていた。古い本の香りがして、教室で嗅ぐ芳香剤のような臭いとは無縁の空間。

 そこに漂ってきたのは、季節外れの目が冴えるような香りだった。

「キミ、性格悪いやろ」

 テーブルの反対側。机の部分に腰を下ろして、その人は悪戯っぽく笑っていた。

 稲が呆気にとられているのをいいことに、彼女は稲の読んでいる書店のカバーがかかった分厚いノベルスを指さす。

「『鉄鼠』やんな? それ」

 テーブルの向こうから身を乗り出して、彼女は稲の開いているページを一瞥する。

「ありゃ、『絡新婦』やんかー。恥ずかしっ。分厚さで当てれたらかっこええと思ったんやけどなあ」

 稲がなにか言おうとすると、彼女はテーブルに腰かけたままぺらぺらと話し始めた。

「いま『魍魎』が映画化で、新しいカバーの分冊文庫が出とるやん? ウチのクラスでもそれ買って持ってきとる奴がおったん。なんでまたって思ったら、主題歌歌っとる東京事変のファンなんやって。で、その後どうなったんかってゆうと、音沙汰なし」

 彼女はにやりと笑って、稲の目をぐっと覗き込んでくる。

「キミも同じやろ? ミーハーが出てきて、教室に『魍魎』持ってきとんのを見て。イラッとしたんやんな? やったら――って、わざわざノベルス版の『絡新婦』引っ張り出してきて、でもぱっと見同じ作者やと気付かれんようにカバーかけたまま、そうやって読んどるんやろ? この分厚さが作者の記号みたいなとこあるもんなあ。それに気付かん連中ん前で読書すんの、気持ちええんちゃうん?」

 ひりひりと稲の危なっかしい自意識をなぞりながら、彼女は事もなげに笑っている。

「ホンマ性格悪いわあ」

「あなたのほうが、よっぽど最悪だと思いますけど。天木青嵐先輩」

「せやに」

 初対面の稲にフルネームを呼ばれても、青嵐は驚きもしない。それはそうだろう。この学校で彼女の名を知らぬ者はいない。

 だが、稲は大きな驚きに混乱していた。

 天木青嵐。東名高校三年一組一席。

 進学校として名高い東名高校始まって以来、最高の学力を持つと教師たちからも畏怖される、極めて品行方正な優等生。

 その彼女が、こうして方言で話すということを、稲は初めて知った。

 東名高校は名古屋市に存在するが、三重県や岐阜県からも入試を受けることができる。そのため三重県からの通学者は関西訛りの方言を話す者もいるが、大抵は入学して半年ほどで周囲と同じ標準語に倣っていく。

 それだけではない。こうして――稲が行っていたのと同じように、周囲の人間を侮蔑するかのような言葉を平気で吐く人間だとも知らなかった。絵に描いたような優等生だと、一年生である稲の耳にすらその優秀さと際立った美貌の噂が入ってくる彼女が、稲のような陰鬱な人間と同じことを考えている――。

「ああ、たぶんやけど、キミの思っとること、両方ともハズレやに」

 稲の驚愕の表情を堪能しながら、青嵐は自分の唇に指をあてた。

「私も、入学してからはずっと方言使っとらんに。そりゃ家とかではこの喋り方やけど、東名でこんな話し方はしやんよ」

「じゃあ――」

 なぜ、今その話し方をしている。稲の疑問に、青嵐は笑顔で答えた。

「言ったやん。キミ、性格悪いやろ? それ、めっちゃ私の好みなんやんか」

 眩暈が、した。

 この女が――あの天木青嵐が、稲を気に入った?

 わけがわからない。おとぎ話でもあるまいし。

「そやなあ、私の名前、漢字でどう書くか知っとる?」

青嵐あおあらし。初夏の季語でしょう」

 青嵐は稲の答えを聞くと、本当に嬉しそうに顔を輝かせた。

「ええやんか。やっぱキミ私の好みやわ。私のこの名前さあ、ぱっと見DQNネームに見えるやん? でも実際はきちんとした日本語なん。それも知らんと、自分の無知さをひけらかして馬鹿にしてくる連中が当然おるやろ? そういうの見て育ったの、私の人格形成にだいぶ影響与えとると思うんやな」

「それでそんな最悪の性格になったんですか。ご愁傷様です」

「褒めてもなんも出やんに」

 稲の罵倒を愉快げに冗談へと換え、青嵐はそこでぞっとするほど美しい瞳の奥を見開いた。

「やけどな、私は別にそういう――話題の本買って途中で放るような奴や、勝手に他人の名前を笑うような奴を、馬鹿にしたりしやんよ。やって、そんなことしたら、世の中の人間のほとんどを馬鹿にしやなあかんくなるもん」

 稲は完全に呆れ果ててしまった。この女は――あまりにも。

「凄まじい傲慢さですね」

「やろー? 自分でヤーなるわ。やからさ、私な」

 世界を革命したいんやわ――笑いながら語る彼女に、稲は呑まれていく。

「アカですか」

「ええ返しやん。クソオタクやったら『ウテナ』の引用ですか? とか言ってくるとこやに。ますますええやん。共産趣味がぱっと出てくる奴なんてそんなおらんもん」

 一人でうんうんと頷いている青嵐の一挙手一投足――呼吸の一つすら見逃すまいと、稲は目を見張っていた。それほどまでに、この女の言葉は危険で、なにより甘美だった。

「私はさー、なんかめっちゃデカいことしたいん。それは別に目に見えることやなくってもええん。頭が上で、地面が下。それをこそっとひっくり返してみたいやんか。気付いたらみんなが頭が下で地面が上が当然って思っとる世の中にして、私ひとりが頭が上で、地面が下んまま、なーんもしやんとただ平然と革命された世界を歩きたい」

 よくもまあ、こんな危険思想を持った女を皆が褒めそやしているものだ。稲は呆れるよりむしろ、単純に恐怖を覚えた。このめちゃくちゃな頭の中をまるで悟らせず、完璧な優等生を演じて見せている青嵐のあまりの強かさに。

「それを私に話して、なにか得が?」

「キミ、こっち側においな」

 わけがわからずに青嵐の顔を凝視してしまう。方言の意味――はわかる。「おいな」は「来なさい」という柔らかい命令口調。

「あなた――自意識過剰ですよ。そんなふざけた話をしたくらいで、なにが――」

「できるに」

 青嵐は表情から笑みを完全に消し、稲をまっすぐに見据えた。全てを見透かしているかのような目。それで自分を見られていることが、たまらなく恥ずかしく感じてしまう。その上で、視線が身体を通り抜けていくような感覚に、頭の芯が痺れるような恍惚感を覚えてしまっていることにも気付く。

「やって、私やもん」

「ハ」

 しばらくその形のまま口をぽかんと開けて、たっぷり時間を置いた後、稲はそのまま一気に笑い出した。

 この女は狂っている。そしてその狂気を実現させてしまうだけの知略と理性を持っている。狂人に最も与えてはならない武器を自由自在に使ってみせる。

 そうでなくては、稲はこの女に狂わされたりはしない。

 天木青嵐はそれから、稲の前に何度も顔を出すようになった。青嵐が現れるのは決まって稲が一人きりの時で、どうやって稲が一人であることを見極めているのだろうと不審に思ったりもしたが、よく考えれば稲は学校での自由時間は決まって一人でいるタイプの生徒だった。

 周囲に人がいたりする場所では、青嵐は必ず標準語――それも下級生に対して丁寧な敬語で話した。これが通常営業なのだと、特に疲れた様子も見せずに青嵐は笑った。

 稲と二人きりの時だけ、青嵐は方言を使う。

「なあ稲、進路って決めとる?」

 年が明けてすぐに、青嵐はセンター試験の過去問を解きながら訊ねてきた。

 青嵐曰くただの最終調整だという、三年分の過去問を本番と同じ制限時間で解くという曲芸じみた行為に興じながら、それが単純作業だとでも言わんばかりにしきりにこちらに話しかけてくる。

 青嵐に教えてもらった、名古屋市内の喫茶店。進学校とはいえ東名高校の校則は比較的緩い。こうして店主が顔も見せない暗い雰囲気の店に立ち寄っても見咎められることはない。

 今日は青嵐の地元である桑名市の多度大社に初詣に向かい、その人の多さに辟易した稲を気遣ってか、青嵐はいつもの人気のない喫茶店まで稲を連れてきた。

 どうせなら先輩の家にでも連れていってくださいよ――という稲の密かなアプローチは完全に無視されていた。人に酔ったことも加えて、稲は少し機嫌が悪かった。

「どっかの国立の医学部。先生からもそう勧められてます」

 東名高校は難関大の合格率以上に、医学部合格率の高さを誇示している。稲の実家も開業医で、いずれはその跡を継ぐようにという無言の圧力を受けて、こうして東名高校に入学した。

「あかんに。キミはちゃーんと私のあとにおいな」

「東大ですか。理Ⅲはさすがに私じゃ無理ですよ」

「ええやん、文Ⅰでも理Ⅰでも」

 稲は思わず言いよどむ。青嵐に自分の家のことは話していない。

 その沈黙を察したのかまるで気にしていないのか、青嵐は急に話題を変える。

「そう言やあ読んだ? 前言っとったやつ」

「ケータイ小説ですか? 私にはどうにも……どこがいいのかわからなくて」

 青嵐は意地悪く笑う。

「稲、読む前にネットで評判調べたやろ」

 その通りだった。というより、稲のような人間の目に入るのはそうした悪評ばかりになる。

「うんまあ、稲が合わんって思うんやったらそれでええんやけど。叩いとるような連中に賛同したりしやんよな?」

「まあ――こんなのは小説じゃないというようなことを言ってる人たちが具体的な『正しい小説』を挙げているのが見当たらないので、別に小説が好きではない人たちが騒いでいるだけに思えましたけど」

 青嵐は楽しげに笑った。その間もプリントアウトした問題用紙の上を滑っていく鉛筆は淀みなく動いている。

「やんな。要はただ、自分たちとちゃう文法を使う相手が許せやんってだけの話やと思うに。そもそも言文一致の小説の歴史なんて、たかだか百年かそこらやろ? それをまるで高尚なもののように考えて――自分らは別にそれを読んどるわけっちゃう。やけどそれを逸脱したものは不愉快に思う。やったら自分らの使っとるネットスラングはなんなんやって話やんか。自分らもそれ使ってSSとか書いとんのに。たとえば、実体験を話すっていう体で掲示板にケータイ小説と同じプロットの話をその場の文法で投稿したら、絶対みんな感動したって騒ぐんやに。私がやろかな」

 天木青嵐という女は他人を馬鹿にしない。初めから世界の全てが自分よりも愚かだと知っているから。彼女はあらゆる対立を目糞と鼻糞が背比べをしているようにしか捉えることができない。可哀想な人だな、と稲は憐憫を覚える。

「でもそういうバイアス抜きにしたら――いや、そのバイアス自体も込みで考えても、この世に面白くないものなんてないんやに。コンテンツには底も天井もないん。問題はただそこにあるものを面白く思えるかどうか――受け取り方次第なんやな」

「だから、私にあんなものを読めと?」

「もう読みたくないんなら別にええよ。ただやっぱ、稲は性格悪いやんか。それがどう反応するか楽しみやったん」

「読めというのなら、読みますけど」

 稲が小さく呟くと、青嵐は意外そうに鉛筆の動きを寸の間止めた。

「先輩がやりたいのは、要は自分以外のあらゆる人間の思考パターンや文化、文法を的確に把握するっていうことなんでしょう。そこに優劣は存在しない。先輩にとっては自分以外はみんな同じようなものだから」

 青嵐は黙って問題を解いている。稲は構わず続けた。

「私は――わざわざそれを念頭に置いて、先輩のあとを追いかけるという目的を掲げなければ実行できませんが、やって、みたいです。先輩の見ているものが、少しでも見えたら、嬉しい」

 大きく息を吐いて、青嵐はプリントの上に鉛筆を転がす。

「いや、私そこまでけったくそ悪いこと思っとらんよ? 私は単に、そこにあるものを楽しめるだけやに。そう思っとるの――稲のほうっちゃうん?」

 言葉に、詰まる。

 青嵐が自分以外の全てを下に見ている――そう思っていた。

 だが実際は、この世の全てを馬鹿にしているのは、稲のほうだと――直接言わないまでも、青嵐は示唆している。

 自分がいやな人間だとは知っていた。だけど目の前の女は、そんな自分を悠々と飛び越えていってしまうほどの最悪の人間で、彼女と一緒にいれば、自分はまだまだまともなのだと安心することができていた。

 青嵐は稲を気に入った。

 それがなにを意味するのか――もう稲にはわかってしまっていた。

「やから、そこが好きやに」

 酷い――あまりに酷い女。稲が自己嫌悪の渦に呑まれるように仕組んでおいて、自分はそれを上から眺め、睦言を浴びせる。

「私に勝てるの、たぶん稲以外におらんもん」

「性格の悪さで、ですか」

「ううん。もっと、いろいろ」

 二年後、氷川稲は東京大学に入学する。

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