僕の疑問符


「キミちゃん、今日いっしょ、お風呂入ろうか?」


僕が脱衣所で服を脱いでいると、妻がドアの外から、声を掛けてくる。


「構わないでいいよ、ごめんね、いつも先に使って」



あの一件以来、妻に背中を流してもらう習慣も、無くなっている。

妻が腕に力をこめ、石鹸を泡立て、僕の背中をぐるぐると擦る。あの感覚を思い出しただけで、僕の腕が少し震える。



「ねぇ、キミちゃん、私…」


妻がまた何か言いかけたが、振り切って、風呂の戸を開ける。



「ごめんね、また後で」


「うん」




 風呂から上がると、妻が居間のテーブルにポツンと座り、かわった香りのする紅茶を淹れている。


「おさき、若菜。なに飲んでるの?」


妻はパッと顔を上げて、嬉しそうな顔をする。だが、すぐに僕の表情に気付いて、俯く。


「カモミールの紅茶。キミちゃんが、リラックスできたらいいなって。お店で」



 頭を拭きながら、妻の向かいの椅子に座る。


「リラックスって、僕が?」


妻の気遣いを素直に喜べない僕は、とうに焼きが回っている。



「僕は、若菜のことで不安だ。いつも落ち着かない。また、同じことがあるんじゃないかって。若菜を守るために、若菜がになったみたいだ」


思ったより声に力が入らないのは、幸いかな、薬の効果だろう。妻は唇を舐め、テーブルにのせていた腕を、そっと引っ込めた。


「でも私は、。どんな私でも好きだよって、キミちゃんは約束してくれた」


妻が向けるまっすぐな瞳を、僕の鈍った意識が、辛うじて捉える。



「したね。でもまさか、若菜自身を傷つける若菜まで、僕は、好きになった訳じゃない。僕たちは夫婦で、お互いのことを守る約束をしたんだ。そしてそれは、自分自身に対しても、だと思ったんだけど」



 言えないと思っていたけれど、ずっと思っていたこと。


それは時が経つほど、口にするのに障害を感じなくなるのだろうか。それとも、"どうとでもなれ"という、捨て鉢な態度に堕ちただけか。


 妻は、しゅんとした猫のように目を伏せ、そうしてぽそりと言った。



「私は、キミちゃんみたいに、頭が良くないから」



うっすらと湯気のたつマグカップを掴み、たなごころに載せると、その濁った中身を見下ろす。妻が何かを話そうとしている。


「何の話?」


カップの縁から、ハチミツの香りもした。



「だから私、キミちゃんみたいに。思ってることは、いっぱいあるの。でも、最近は気持ちが大きすぎて、うまく言えないの」


結局、誤魔化すのだろうか。


「じゃあ、。下手でいいから。若菜の言いたいことを、僕が汲み取ればいいんでしょ。ずっとそうだったと思うけど」



 あぁ、嫌だ。どんどん妻に対して、卑屈な物言いをする男になっている。チリチリと、こめかみに電流が走った気がしたが、すぐさまその感覚も薄らいだ。一口、カップに口を付け、香りほどには味のしない内容物に、心の中で疑問符を浮かべる。



 ふと見ると、妻が、テーブル越しに腕を伸ばし、僕の手を求めている。その腕の包帯は、少し縒れて、留め金が取れ掛かっていた。僕はカップを置くと、妻の右手を握り、左手を伸ばして、包帯の端を拾って軽く引き、留め金を水平に付け直した。



「キミちゃんて、両手利きだったっけ?」


「うん」



 妻の包帯にはじめて、ちゃんと触れたことに気付いた僕は、瞬時に汗ばむ指先を、隠す様に握り込んだ。


 長く使われた包帯は、人肌に似た湿度と温度を保ち、それでいて一度ひとたび、端が自由になれば、スルスルとゆるんで、腕から落ちる。それはもとより異質なもの。どうやったって、身体の一部なんかに成りはしない。



「ねぇ、今度から僕が、包帯を結んでいい?」


「えっ、でもキミちゃん、傷を見るのが怖いんじゃない? だいぶきれいになったけど…」


 妻に言われると、まるでただの弱虫な夫の様な気がしてくる。



「うん、こわいよ。だって若菜が、僕の知らない若菜にだって成れる、っていう証だから」


 自分でも何を言っているのか、よく分からない。だが、妻には何故か、通じたようだ。


「うん、私、キミちゃんの思ってるよりずっと、悪い女だもん」



 僕は、妻の口にした、”悪い女”の意味を図りかねて、その日はそのまま、早めの床に就いた。だから、妻がいつ眠ったのか、僕は知らない。



翌朝、珍しく目を覚まさない妻の寝顔をしばらく見つめ、呼吸を確かめた。



 簡単な朝食を用意し、『行ってきます』と書き残して、家を出た。





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