32:祈りと願いを胸に、未来へ
帝国の辺境にあるルーネは典型的な田舎村だった。
畑では麦や野菜が育ち、牧歌的な風景が広がっている。
町を流れる小川にはアーチ状の石橋がかけられ、近くで子どもたちが遊んでいた。
民家の軒先に紐で繋がれた果物が吊られている。
この地方の名物、イコの実の乾物を作っているのだろう。少し苦みはあるものの、栄養のあるイコの実は貴重な保存食になる。
道具屋の店先では看板娘らしき黒髪の少女が暇そうに座っていた。
頬杖をついたまま、盛大にあくびする。
目が合うと彼女は露骨に「やばい」という顔をした。
頬杖を解き、ぴんと背筋を伸ばし、愛想笑いを浮かべてくる。
つい噴き出しそうになりながら、新菜は笑みを返し、店の前を通り過ぎた。
目指す家が視界内に入った。右手にある三角屋根の家だ。
この小さな村は村人全員が顔見知りらしく、シュゼットという名前を挙げるとすぐに家を教えてくれた。
ちらりと隣を歩くハクアを見る。
ルーネ村に近づくにつれてハクアは口数が少なくなり、村に入ってからは一言も発していない。
三角屋根の家の前に着くと、ハクアはかけていた
ためらうように目を伏せ、数秒してから扉を叩く。
「はい」
ややあって、若い女性が出てきた。新菜よりいくつか下か。
薄茶色の髪に、紫色の目。
どこか草食動物を思わせる、優しそうな少女である。
「あの……おれは」
ハクアが緊張に満ちた声で名乗るよりも早く、彼女は「まあ」と目を丸くした。
「その虹色の瞳。白い肌に銀色の髪……あなたがエルおばあちゃんの言っていた《月の使者》――ハクアさんですね?」
「!!!」
ハクアだけではなく、全員に衝撃が走った。
イグニスもアマーリエも目を見張っている。
「エル……おばあちゃん、って……」
ハクアの声は震えていた。
「じゃあ……あのとき、エルマリアは生きて……?」
「帝国軍に襲撃されたときのことでしたら、はい。あなたを庇って瀕死の重傷を負った結果、歩けない身体になってしまいましたけれど。おばあちゃんは生き延びたんですよ。そしてあなたを探す旅先でおじいちゃんと結婚しました。残念ながらおじいちゃんは三年前に、おばあちゃんは二ヵ月ほど前に亡くなってしまいましたが」
ハクアは呆然と立ち尽くしている。
「申し遅れました。私はシュゼット。エルマリアの孫です」
少女――シュゼットは胸に手を当て、微笑んだ。
両親はちょうど出かけているんです、と言って、シュゼットは突然やってきた新菜たち四人を快く家に上げ、お茶を淹れてくれた。
この地方で飲まれているという茶は味も香りも独特だったが、美味しかった。
木製のテーブルに座り、シュゼットは教えてくれた。
エルマリアがあの後、近くの村の診療所に運び込まれたこと。
怪我の治療には丸一年かかったこと。
エルマリアが車椅子に乗り、何年もハクアを探し続けたこと――
「でも、そうですか。おばあちゃんがいくら帝国内を探したところで見つかるわけがなかったんですね。ハクアさんは既に帝国を出てしまっていたんですから」
両手で湯気を上げるコップを持ち、シュゼットが静かに言った。
「……ああ。あの後おれは人間に追われながら、各国を移動していたんだ」
「帝国に戻ろうとは思わなかったんですか?」
「エルマリアとともに過ごした山には一度だけ戻ったことがある。でも、エルマリアがいない現実を突きつけられただけだった。……そう思っていた」
悔恨に胸を焼かれる思いらしく、ハクアは唇を噛んだ。
「……あのとき村を訪ねていれば良かった。そうすれば、エルマリアが生きていたことに気づけたのに……」
「……仕方ないですよ。ハクア様はエルマリアさんが亡くなったと思っていたんですから。自分を酷い目に遭わせた人間たちの集落に、わざわざ立ち寄る理由なんてありません」
新菜は口を挟み、ハクアの背中にそっと手を置いた。
「……たとえ死んでいなかったとしても、おれに出会わなければエルマリアが歩けなくなることはなかった。不幸にならずに済んだ」
「ハクア」
イグニスが咎めるような声を出し、新菜も胸の痛みを抱えてハクアを見つめた。
悪いのは帝国軍なのに、ハクアはどうしても自分を責めてしまう。
「……おばあちゃんはあなたと会ったせいで自分が不幸になったなんて一言も言っていませんでしたよ。むしろ、あなたのことを話すときはとても楽しそうでした。私は奇跡のように美しい目を持つ竜に会ったのだと、瞳を輝かせて語ってくれたものです。少し待っててください」
シュゼットは居間を出ていった。
「あなた宛ての手紙を預かっています」
シュゼットは白い封筒を持ってきて、ハクアに差し出した。
「……エルマリアが、おれに?」
ハクアは困惑顔で受け取ったものの、封筒を見つめて動かなかった。
やがて、腹をくくったらしく、封筒を開いて手紙を広げる。
手紙には何が書いてあったのだろうか。
読み進めていくうちに、ハクアの身体が震え始めた。
虹色の瞳に涙が溢れ、零れ落ちる。
いくつもいくつも、雨のように、涙が頬を滑り落ちていく。
「…………っ」
ハクアは手紙を胸に抱き、声を殺して泣いた。
シュゼットは「新しいお茶を淹れてきますね」と席を立った。
新菜はハクアが泣き止むまで、ただ黙って傍にいた。
エルマリアの墓は夕陽に照らされた村の墓地の一角に、ひっそりと建っていた。
新菜たちはハクアとともに墓参りをした。
ハクアはエルマリアの墓に向かい、新菜たち一人一人を紹介してくれた。
ハクアは新菜を「おれの大切な恋人だ」と言った。
はっきりと、恋人だと。それがとても嬉しかった。
ハクアにしばらく一人にしてほしいと頼まれたため、新菜たちはのんびりと村の中を歩いていた。
どこかから夕餉の香りが漂ってくる。
子どもの名を呼ぶ親の声が聞こえた。
小さな子どもが新菜の前を横切って駆けていく。
イグニスたちも何か思うことがあるのか、特にこれといった会話はなく、村の外れに到着した。
村はここまでらしく、空き地が広がっている。その奥は林だ。
「……戻りましょうか」
「そうですね……あれ?」
引き返そうとしたそのとき、新菜は目の前をふよふよと漂う光の球に気づいた。
「なんでしょうこれ。蛍?」
「なんのことだ?」
どうやらイグニスとアマーリエには見えていないらしい。
新菜は人差し指で光の球を突いてみた。
途端。
光が炸裂した。
「うわあ!?」
びっくりして一歩下がるのと同時に、炸裂した光は形を整え、卵のように丸くなり、さらに変形して人の形を取った。
「なんだ!?」
ここまで来てようやく見えるようになったらしく、イグニスたちが驚愕している。
光が作り上げたのは長い髪の美しい少女だった。
雪のように真っ白な、腰に届くストレートの髪。
瞳の色はシュゼットと同じ、アメジストのような紫だった。
新菜と変わらない年頃の少女は半ば透けていた。
身体越しに木立が見える。
「……エルマリアさん、ですね?」
新菜は笑いかけた。
「ええ」
少女はこれまでとは違う、はっきりとした声音で言って頷き、その顔を綻ばせた。
「ありがとうニナ、私の願いを聞いてくれて。そしてありがとうイグニス様」
エルマリアは幽霊らしく、質量を感じさせない動きでふわりと飛び、イグニスの目の前に降り立った。
「まずは誰よりもあなたにお礼を言いたい。あなたがいなければハクアはあの森で死んでいたわ。人間を憎み、世界を呪って息絶えていたことでしょう。ハクアの心を守ってくれてありがとう」
「……ああ。礼には及ばない。初めまして、エルマリア。まさか死したあなたと会話できるとは。光栄だ」
イグニスはエルマリアの手を取る真似をした。
幽霊なので触れられないが、エルマリアが動きに合わせて手を動かすと、イグニスは手の甲にキスを落とした。
「うふふ。さすが誰もが倒しえなかったワイバーンを討伐したお方。肝が据わっていらっしゃるのね。普通の人なら失神したっておかしくはない状況なのに。奥方のアマーリエ様も」
「王女たる者、常に威厳と気品を忘れず優雅たれ、と教育されてきましたの」
顔を向けられ、アマーリエは悠然と微笑んでみせた。
「ありがとうアマーリエ様。イグニス様がハクアの父であり兄であるなら、あなたはハクアの母であり姉だわ。お二人にはどれほど感謝してもしたりない。そしてニナ」
エルマリアがこちらを振り返り、新菜の両手に触れた。
触れている感覚はなかったが、空気が少しだけ冷たく感じた。
「あなたを見ていたわ。ハクアのために頑張るあなたを、ずっとずっと見ていたの。あなたにならハクアを託せる。どうかハクアをお願いね」
「はい」
新菜はエルマリアの手を握り返した。
触れ合うことはできなくとも、そのつもりでいた。
「任せてください。ハクア様はわたしが幸せにします」
エルマリアはますます笑みを深めた。
「あなたがいまここにいることこそ、女神リエラがハクアのために起こしてくれた奇蹟ね。これでもう心残りはない。ようやく私は虹の橋を渡ることができるわ。ずっと私を待っていてくれていたあの人の元へ行くことができる」
エルマリアは目を閉じ、己の左胸に手を当てた。
その輪郭が揺らぎ、身体がさらに透明度を高めていく。
「えっ、待ってください。ハクア様には会っていかれないんですか? 誰よりハクア様があなたに会いたいはずなのに」
慌てて引き留めようとしたが、エルマリアはかぶりを振った。
「会わずに行くわ。だってきっとハクアは泣いてしまうもの。ハクアは強がっているけれど、本当は寂しがり屋で泣き虫なのよ。甘えん坊で、とっても可愛いの」
「……はい。とても、とても可愛い竜です」
新菜が同意したことが嬉しかったのか、エルマリアが笑う。
その姿はもうほとんど空気に溶けかかっていた。
「もしもこの先、ハクアが泣くことがあれば、あなたが涙を拭ってあげてね」
「大丈夫です。泣かせません。約束します」
「頼もしいわ。ありがとうニナ。本当にありがとう――」
エルマリアの身体が弾け、いくつもの光が生まれた。
光は空高く昇っていき、雲を越えて見えなくなった。
(……無事に虹の橋を渡って、旦那さんに会えましたか? エルマリアさん。ハクアさんのことは任せてください。遠い遠い未来に、わたしも虹の橋を渡ります。そこであなたに会ったときに怒られることのないよう、精一杯頑張りますね――)
「何してるんだ? 皆して、ぼうっと空を見上げて」
声が聞こえて、新菜たちは遥かに高い空を仰ぐのを止めた。
前方からハクアが歩いてくる。
涙の痕が残るその顔は、純粋に不思議そうだ。
新菜たちは互いに目を合わせた。
声にも出さず、一瞬で取り決める。
――いまの出来事は、ハクアには話さない。
ただ、受け取ったエルマリアの想いを、それぞれの心に刻もうと。
「いいえ、なんでもありません。それよりハクア様、髪……」
一房だけ伸ばしていたハクアの後ろ髪がなくなっていた。
「切った。エルにもらった組み紐もなくなったしな」
ハクアは右手を軽くあげた。
右手を竜の形態に変化させ、鋭い爪で切断したのだろう。
「もう過去に縛られるのは止めた。これからは未来を生きていきたいんだ。愛する人と」
夕陽を背に、ハクアが笑った。
曇りのない、どこかすっきりとした笑顔で手を差し伸べてくる。
風が吹いて、ハクアの銀髪が揺れた。
ざあ、と辺りの枝葉が音を立てる。
言葉にできない感情が胸いっぱいに込み上げ、泣き出してしまいそうだった。
視界を滲ませていると、侯爵夫妻が肩を叩いてきた。
イグニスが右肩、アマーリエが左肩に手を載せ、優しくハクアへと押し出す。
「……はい」
新菜は二人に押されてハクアに歩み寄り、手を重ねた。
「帰りましょう、ハクア様」
手を握ると、ハクアは力強く握り返してきた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます