29:激高

 ミレーヌは身構えたハクアの目に蝋燭を近づけた。

 目を焼く光が飛び込んで来る。

「!」

 眩しさのあまり顔を逸らそうとすると、逃がさないとばかりに首を鷲掴みにされた。

「ああ――昨日は暗くてよくわからなかったけれど、こうして光の下で見る目のなんと美しいこと! これがもうすぐ私のものになると思うと堪らないわ」

 蝋燭の光が眩しい。

 細い指が首に食い込む。皮膚に爪が刺さる。

 喉元を押さえつけられ、反射的に咳が出そうになったが、それすらも圧迫されて許されない。

 

「《月光宝珠》に比べれば、ダイヤモンドもサファイアもただの石くれよ。もう要らない。私、あなたの目さえあれば何も要らないわ」

 ミレーヌは恍惚の表情を浮かべ、その手をハクアの首から顔へと移動させた。

 白い繊手、その整えられたピンクの爪先が、ハクアの目じりを強く押す。

 力を込めれば抉ることだってできる――考えて総毛だった。


「死ぬまで愛してあげるから安心して逝ってちょうだい」

 酔っぱらったような口調。

 もはやミレーヌは正気を失っていた。

 湿った熱い吐息が顔にかかる。妙に甘ったるい香水の香りがする。アマーリエが使っているものは違う、ただひたすら下品で不快な香り。


「……っ」

 恐怖が胸に浮かぶ。どんなに押さえつけても滲み出てくる。

 ハクアは人間が怖かった。

 大勢で取り囲み、狂った目で狩ろうとする人間が心底恐ろしい。

 いまのミレーヌの目はこれまでハクアを散々傷つけ、追い回してきた人間と同じものだ。自分をモノとしか見ていない。


「素敵だわ、素晴らしいわ……誰もがこの目を欲しがる理由がよくわかった。当然よ。この七色の煌きを見て虜にならずにいられる人間なんているはずがないもの」

 そんなのは嘘だ、と理性が訴える。

 この目をあげてもいいと思った人間が三人いるが、一人には馬鹿ねと笑われたし、一人には殴られたし、一人には要らないと一蹴された。


(――落ち着け)

 恐怖で跳ねる心臓に言い聞かせる。

(おれはもう知ってる。人間がこんな奴らばかりじゃないってことを知ってるはずだ)

 許さない、と言われたことを覚えている。

 大好きだった人から。初めて愛した人から。


 ――ここで死ぬなんて許さない。こんな終わりは認めない。人間が皆、こんなくだらない奴らばかりだと思わないで。私以外にも、あなたを愛する人間は必ずどこかにいるから。


 当時の自分は、彼女以外の人間を全く信用していなかった子どもの頃の自分は、そんな人間いるわけない、と泣きながら訴えた。


 ――いるわ。出会えて良かった、生きていて良かった、心からそう思える人がきっといる。


 致命傷を負いながら、口の端から血を零しながら、それでも彼女は微笑んだ。


 ――その人に巡り会うまで、死ぬことは許さない。これは呪いよ、ハクア。あなたは生きるの。


 昔はその言葉通り、本当に呪いだと思っていた。

 あてもなく何十年もさまよいながら、心身ともに疲弊し擦り切れながら、何故こんな呪いをかけたのかとその人を恨んだ。

 でも、いまならわかる。

 あれは呪いなんかじゃなくて――祈りだったのだと。


 あの言葉があったから、ハクアはイグニスに出会えた。

 イグニスは錯乱した自分を抱きしめてくれた。

 ハクアがどんな暴言を吐いても、どんなに酷いことをしても見捨てず傍にいてくれた。

 ただ偶然出会っただけの厄介者の竜を愛し、慈しみ、壊れた心を十年かけて癒してくれた。


 イグニスに出会えただけでも奇跡だと思っていたのに、今度は新菜が現れた。自分のメイドになると言い出し、自分のために戦闘力まで身に着けた少女。


 ――もしハクア様が傷つけられそうになったり、誰かにさらわれたりしたら、わたしが助けに行きます。


 新菜はどこにいるのだろう。いま何をしているのだろう。

「ねえ、私知ってるのよ」

 こめかみにミレーヌの爪が刺さる。

 その痛みが半ば逃避しかけた意識を現実へと引き戻し、目の前の絶望を突きつける。


「本で読んだの。《月光宝珠》が欲しくて欲しくて、《月の使者》に関する過去の文献を片っ端から読み漁ったの。わざわざ満月を待たなくてもあなたの目は怒ると光り輝くのよね。見たいわ。凄く見たいわ。試してみてもいいかしら? 叩いてみてもいいかしら?」

 後ろに控えていた男が執事のように恭しくミレーヌに鞭を差し出した。

 ミレーヌが狂気の笑みを浮かべて鞭を振り、床を叩く。


「……ぁ」

 その音が忌まわしい記憶を呼び起こし、勝手に口から言葉が漏れた。

 子どもの姿に戻ったせいか、子どもの頃の記憶がまざまざと蘇る。


 ハクアは人間に鞭で叩かれたことがある。

 暗くて狭い檻の中に閉じ込められ、逃げ出そうとすると酷く叩かれた。


 無数の人間たちが檻を取り囲み、無数の目でハクアを見つめた。

 まあなんて綺麗なのかしら。これぞ至高の宝石だ。

 好き勝手なことを囁き、男女がほうと息を吐いた。

 売ればいくらになるだろうと、闇オークションで入る大金を夢見て、誰もかれもが楽しそうに愉しそうに嗤っていた。


 あのときの痛みと恐怖が心を蝕ばみ、身体が竦む。

 抵抗は不可能。逃げることもできない。変身は首の輪が封じている。


(嫌だ。怖い)

 恐怖が飽和した。

 感情を抑えつけていた理性の箍が外れ、身体が震える。


 ハクアの最初の記憶は人間に追われて山中を逃げ回ることから始まる。

 執拗な魔法攻撃を浴びながら、誰か助けてと泣いた。

 でも泣いても叫んでも、誰も助けてはくれなかった。

 人間たちは容赦なくハクアを追い立て、傷つけ、徒党を組んで殺そうとした。

 人の姿を取っても、正体を見破られた瞬間、その目を寄越せと馬乗りになって首を絞められた。


《月の使者》は人間に対し圧倒的に不利だ。

 何故ならば、無条件で人間たちの魔力を増幅してしまうから。

 傷つけられて怒れば怒るほど目の輝きは強くなり、増幅率が上がり、ただ火を起こす程度の下級魔法が辺り一面を焼き尽くす上級魔法へと化ける。

 だから《月の使者》は虐殺された。


 ハクアは両親の顔も知らない。同胞にも会ったことがない。

 ハクアは独りだ。

 どうしようもなく独りだ。

 イグニスも新菜もここにはおらず、新菜が結んでくれた暖色のリボンもない。


 銀髪は全て背中に垂れている。

 エルマリアがくれた組み紐も失ってしまった。


 心の拠り所にできるものが何一つない。


(誰か)

 誰か助けてくれ、と追い詰められた心が悲鳴を上げる。

 怖い、怖いと泣き始める。

 誰か――いや、違う。

 昔は不特定の『誰か』に願うしかなかったけれど、いまはもう縋る名前を知っている。


 ――絶対に、わたしがハクア様を守りますから。


(ニナ、助けて)


 心の底から助けを求めた直後。

 まるで奇跡のように、少女が牢屋に飛び込んできた。


     ◆      ◆      ◆


 話は十分ほど前に遡る。

 風に木々がざわめく森の中。

 三階建ての立派なヴィラン伯爵の別荘の前で、新菜はラオたち傭兵と同じく、悶々とした時間を過ごしていた。


(なんで別荘にいないのよヴィラン伯爵は……!)

 ヴィラン伯爵本人は遠く離れた伯爵邸にいて、別荘はミレーヌに貸し出している状態らしい。

 できることならいますぐ突入してハクアを救出したいのだが、ここはヴィラン伯爵家の所有地。

 どれほど正当な理由があろうとも、家主の許可なく侵入するのは賊と同じ。

 道理を無視した強行は侯爵家の醜聞になる。

 護衛もつけず、単騎で伯爵邸に向かったイグニスが話をつけるまで待つ必要があった。


 こうしている間にもハクアがどんな目に遭わされているのかわからない。


 不安と苛立ちが降り積もり、新菜は爆発寸前だった。

 永遠とも思える時間が過ぎていく。

 研ぎ澄ましていた新菜の聴覚は誰よりも早く蹄の音を捉えた。

 遅れて傭兵たちが顔を上げ、イグニスの声を待つ。


「許可が下りた! 行け!!」


 馬上からの叫びが聞こえたその瞬間、新菜は弾丸のように飛び出した。

 別荘の扉をほとんど体当たりで開き、廊下を突っ走る。

 途中で使用人やメイドにすれ違ったが、ただの風景として処理した。

 地下に続く階段は厨房の傍にあった。

 新菜は二段飛ばしで階段を駆け下り、最後は十段まとめて飛び降りた。


 地下はさほど広くはなく、新菜はすぐにハクアを見つけた。

 鉄格子の向こうで銀髪の子どもが拘束されている。

 新菜はハクアが子どもになれるという事実を知らなかったが、一目でわかった。

 あれはハクアだ。見間違えるわけがない。


 ハクアの前にミレーヌがいる。

 さらに、牢屋の中にはミレーヌの護衛らしき二人の男が立っていた。


「――叩いてみてもいいかしら?」

 ミレーヌは右手に持った鞭で床を打った。


(何を言ってる?)

 この女は、何を言っているのだろう。

 ハクアに。新菜の愛する竜に向かって、何を。


 思考回路が怒りで焼き切れ、視界が真っ赤に染まった。


 半分開いた牢屋の扉を無我夢中で掴み、中へ飛び込む。

 新菜は男たちが反応する暇を与えなかった。

 革のグローブを嵌めた手で急所を殴り、蹴飛ばし、殴打して床に這わせる。

 しつこく起き上がろうとした男には脳天にブーツの踵を打ちおろして意識を奪った。手加減など考えもしなかった。

 そこでようやくミレーヌが振り返った。


 新菜は初めて剣を抜き、ミレーヌの首に突きつけた。

「手錠と足枷の鍵を渡しなさい」

「な、何を――私を誰だと」

「黙れ」

 この女の声を聞くだけで吐き気がする。耳障りだ。


 ミレーヌを見たとき、新菜はその美しさから薔薇のようだと思った。

 でも、こいつは薔薇は薔薇でも、蛆の沸いた、醜く腐った薔薇だ。

 幼い幻獣を唆し、いいように使った挙げ句に殺そうとした。

 仮にも同じ人間――それも、無力な子どもの姿をした竜を鞭で叩き、あまつさえその目を奪おうとした。

 そして夫を捨て、愛人と国外逃亡の準備を整えている。


 この女にあるのは我欲だけ。

 倫理も道徳もない、おぞましい狂人だ。


「鍵を渡せ」

 殺気の籠った目で睥睨する。

「……い、命だけは助けてちょうだい」

 観念したらしく、ミレーヌは鞭を床に落として哀願した。

 これだけのことをしておいて、自分の命は惜しいらしい。

 体中の血管がまとめて切れてしまいそうだ。


「次に無駄口を叩けば殺す」

 新菜の気迫に圧倒されたらしく、ミレーヌは口を閉ざした。

 震えながら、ドレスのポケットから鍵を取り出す。


 新菜は奪うようにその鍵を取り上げた。

 細い輪に三つの鍵が下がっている。

 もうこの女に用はない。


 新菜はちょうど駆けつけた傭兵たちにミレーヌを引き渡した。

 ラオは新菜の顔を見て、何かを悟ったように微苦笑した。

「後は任せるっすよ」

 ラオは他の傭兵たちと手分けして、気絶した男たちを牢屋の外に運んでいった。


(……ありがとう、ラオさんたち)

 新菜はラオや他の傭兵たちの気遣いに感謝した。

 息を吐いて気持ちを改め、ハクアに笑いかける。


「怖かったでしょうハクア様。もう大丈夫ですよ。イグニス様もアマーリエ様も駆けつけてくださいました。ミレーヌたちには裁きが下ります。もうハクア様を傷つける者はいません」

 膝をつき、まずは足枷を外しにかかる。ハクアは裸足だった。

 よほど強く締め上げられていたらしく、枷を外した両足首には赤い痕が残った。

 新菜はその痛々しさにこっそり唇を噛んだ。


「これからはわたしがいます。もう二度とこんな目に遭わせませんから、安心してください」

 立ち上がって手錠を外す過程で気づいた。

 ハクアの頬と首にいくつか爪痕がある。

(あの女……)

 暗い憎悪が胸を焼き焦がす。どうせなら身柄を引き渡す前に殴っておけば良かったとすら思った。

 足枷と手錠を外し終わり、四肢の自由を取り戻しても、ハクアは俯き加減に立ち尽くすばかりで何も言わない。


 心配になったが、新菜はわざと明るい調子で言った。

「よし、あとはこの鍵で――」

 最後に残った首輪を外すべく、新菜はハクアの首に手を触れようとし、


 ――ぱしん。


 小さな手が、新菜の手を弾いた。

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