序説3 脇坂安治の龍仁戦闘(용인전투)

 さて韓国のイルベ民(ネットの住人、韓国の名無しさんたち)に「1000人で朝鮮軍7万人を打ち破った勇将脇坂じゃないか」「壬辰倭乱の倭軍中、最高の用兵であり大将…。脇坂安治は認める…。」と言わしめる脇坂安治の戦いとはいったい何を指しているのだろう。


 それは1592年6月6日、ソウル近郊の龍仁(ヨンイン)市で戦われた龍仁戦闘(용인전투)のことである。龍仁市はソウルの南方40kmに存在するベッドタウンで人口100万人の特別市である。ソウルと釜山を結ぶ京釜高速道路(1号線) を用いるとソウルからバスで45分の距離にある。


 日本人にとってなじみ深いのは、映画村「龍仁(ヨンイン)大長今(「テチャングム」=「宮廷官女チャングムの誓い」の原題)パーク」だろう。韓国テレビ会社MBCの大河ドラマ制作のために18,000坪の敷地に時代劇のセットが立ち並び、「チュモン」「太王四神記」「善徳女王」「イサン」「チャングムの誓い」などの人気作が撮影された。韓流時代劇ファンの聖地になっている。


 この龍仁を舞台に、脇坂安治はわずか1千人の部隊で、朝鮮の李洸将軍らの率いる7万人の「三道勤王軍」を打ち破ったのだ。寡兵が大軍に勝利したという点では、あの桶狭間の戦いや沖田畷の戦いや厳島の戦いに匹敵する。ちなみに勝者と敗者の戦力比はこれら四つの戦いで以下の通りである。


         勝者        敗者

桶狭間の戦い 織田信長(3千人) 今川義元 (4万5千人)

沖田畷の戦い 島津家久(5千人) 龍造寺隆信(5万7千人)

厳島の戦い  毛利元就(5千人) 陶晴賢  (3万人)

龍仁の戦い  脇坂安治(1千人) 李洸   (7万人)


 この表だけをみれば、脇坂安治の用兵は、織田信長よりも、島津家久よりも、毛利元就よりも優れていると言えないだろうか。ところがこれほどの戦いなのに我々日本人に少しでも知識のある者が何人いるだろう。正直に言うと、軍事オタクを自認する作者自身がこの戦いの存在を全く知らなかった。


 この戦闘の模様を手軽に知るにはDVD「不滅の李舜臣」第34巻(第69話、70話、71話)を視聴すればよい。平野の大規模会戦をCGに頼らず膨大なエキストラを動員してえがいており、脇坂安治(キム・ミョンス)の敵役としての最大の見せ場になっている。


 だが史実はどうだったのか。手近な歴史書を検索してみても、例えば2007年初版の中野等著「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」(吉川弘文館)は最新の資料も読み込んだ良書なのだが、この戦いは以下のようにほんの数行の記載しかない。


「このほか、京畿道では脇坂安治が京畿道龍仁(ヨンイン)付近に城塁を築き武将を駐屯させたが、六月に入るとここを朝鮮政府軍が包囲する。漢城にいた脇坂安治は、急を聞いて救援に駆けつけ、これを撃破している。」


 たったこれだけである。しかも最もポイントになるはずの、寡兵が大軍を破ったというジャイアント・キラーの戦力比がまったく触れられてない。


 困ったことに日本語のwikipediaにも「龍仁の戦い」の記事が全くない。これに対して용인전투と韓国語でネット検索すると韓国版wikipediaの記述は100行を超える。英語版wikiでも中国語版wikiでもこれほどの行数ではないが龍仁の戦いの概略を知ることはできる。なぜこの戦闘に我が国は冷淡なのだろう。かわいそうな脇坂安治。


 ともあれ我々が日本語でこの戦闘のことを知りたければ、市販本やネット情報に頼らず、国立国会図書館デジタルアーカイブを駆使して古典そのものを情報源に求めなければならない。こうして作者と「續群書類聚五百九十三 合戦部二十三」「脇坂記」とのお付き合いが始まった。「脇坂記」はその子の安元により寛永17年(1640)に成立している。脇阪安治の没年が72歳の寛永3年(1626年)だから安元は直接本人から体験談を聞くのに不自由しなかっただろう。従ってよくある軍記もの作者の誇張や創作は少ないと考えられる。


 ここではまず「脇坂記」の記録から始め、次に朝鮮の一次資料「懲毖録(ジンビロク)」「乱中雑録」、最後にKBSドラマ「不滅の李舜臣」の祖筋と解説を見ていこう。


 「文禄元年(1592)壬辰(じんしん)。秀吉朝鮮國征伐し給ふ時。備前中納言。宇喜多秀家を惣大将(そうだいしょう)として。陸の大将は小西摂津守(行長)。加藤主計頭(清正)。黒田甲斐守(長政)也。船手の大将は安治。九鬼大隅守(嘉隆)。加藤左馬肋(嘉明)也(なり)。四月十二日に肥前國名護屋より各(おのおの)船を出しけれは。同月末に釜山海に着船す」


 是より始て陸は陸の合戦。船は船軍(ふないくさ)にて数ヶ所の城を押取り。諸勢漸(ようやく)都(ソウル)に押入ける。


備前中納言(秀家)都に在陣して。秀吉卿渡海のためにとて。城郭を拵(そなえ)らるゝ。安治も釜山海の湊より夜を日につき馳(はせ)けれは。(五月の)十三日に都に着ぬ。


角(かく)て日本の諸勢(しょぜい)湊(プサン)より都(ソウル)へ往来の道にて。敵(てき)数多(あまた)うち出て。ここかしこにて味方二百三百討捕れは。船手の大将各(おのおの)相談して。都より湊までの通路五里七里の間に傅(つたえ)の附城(つけじろ)をそ拵(そなえ)ける。


安治も家臣脇坂左兵衛。渡邊七衛門に。歩卒三百人着添(つきそえ)て。五月中旬に都より七里口の山影に傳(つたえ)の要害を拵(そなえ)ける。


掛(かか)る處(ところ)に六月五日の曙より。敵数萬にて彼(かの)要害を取かこみ。稠敷(おびただしく)攻けれは。城中小勢にして叶難(かないがた)く見えけり。急ぎこの旨(むね)都へ注進しけり。


安治取物(とるもの)も取あへす。都に有(あり)し手勢計(てぜいばかり)にて初夜の時分より打立ける。都より彼(かの)要害まては僅(わずか)に七里なれとも。其間に大河(漢河=ハンガン)在て船にて渡しけれは。兎角(とかく)のわつらひに時刻移りて。明る卯の刻(午前6時ごろ)に馳(はせ)着きぬ。


 敵兵数万小高き山に陣を張てひかへたり。安治敵の間十七八町(180-190m)へたてたる山影より。旗をくり出し。家人山岡右近を先駆として一騎うちにおし出しけれは。敵陣これを見て案に相違し。少(すこし)色めきてそ見えける。


 城中よりも安治か旗を見て馳(はせ)出し。内外の味方一つになり。日の出る時分に惣掛(そうがかり)に敵陣へ切て入けれは。敵陣こらへすして。後の山へ引退(ひきしりぞく)と見えし處(ところ)に。安治敵の陣取(じんどり)し山へ乗(のり)あけ幣(ぬさ)を振(ふり)けれは。惣勢(そうぜい)我先にと乗上(のりあげ)。四方八面に懸(かけ)まはり切立(きりたて)けれは。敵即峙に敗軍しけり。


 釜山路に追(おい)つめて。或は切て捨(すてる)も有(あり)。或(あるい)は生捕(いけどり)にするも有(あり)。半時の問に数万の敵陣を小勢にて討敗(うちやぶり)りし事。勝(すぐれ)たる戦功なりと朝鮮國中に有し日本の諸勢風聞しけり。かくて生捕(いけどり)のもの二百人餘(あまり)。首数(くびのかず)一千餘。彼(かの)山本に掛置(かけおき)ける。


 折節(おりふし)日本より片桐主膳正(しゅぜんのしょう且元)。藤掛三河守(永勝)御使として渡海しけるか。此(この)合戦の翌日に安治か要害に来り。戦場に掛置(かけおきし)頸数(くびのかず)生捕(いけどり)のものを見て大きに感じける。此處(このところ)に一日逗留して。両人都へ通りけれは。安治も同くみやこへ歸(かえり)ける。


 「其頃(このころ)又唐島(からしま)表へ番船(李舜臣の艦隊)多く出るのよし。都へ聞えけれは。脇坂。九鬼(嘉隆)。加藤(嘉明)三人は番船(李舜臣)押への為にとて。急き熊川に馳(はせ)行ける。」


こうして陸から海に召喚された脇坂安治は、ちょうど1か月後の7月5日に閑山島沖で李舜臣の艦隊と運命の海戦に臨むのである。

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