「低評価」を押したことのない者だけが石を投げよ――Frankie Cosmos / Art School (2014)

 ジャスティン・ビーバーのポスターをもとにコラージュされた、タイトル・テロップが冒頭に映し出される。

 長い髪にブラシをかけている人影が、後ろから映し出される。

 淡いピンク色の壁紙が用いられた室内で、部屋中にジャスティン・ビーバーのグッズが並んでいる。

 女の子がいる。

 髪を三つ編みにしている。

 型落ちのMacBook AirにはYoutubeの画面が映し出されており、女の子はもちろん、「justin bieber baby」とタイプする。

 ジャスティン・ビーバーの「ベイビー」がYoutubeのなかで流れる。

 十億回も再生されている。

 驚くべきことに、「低評価」のほうが多い。よく見えないが、400万回か500万回は押されている。


 女の子が踊りだす。

 とてもスリムな女の子だ。

 かわいい子だが、もしかすると、心ない者たちから、痩せぎすと揶揄されたこともあるかもしれない。

 ただ、とりあえず、いま彼女は踊っている。

 両手をひらひらと揺らしたり、ベッドで跳ねたりしている。

 部屋には、もちろんだが、数え切れないほどたくさんのジャスティン・ビーバーのグッズがある。


 彼女はポスターに手を触れ、特集された雑誌を読み、写真立てを伏せる。

 写真立てのなかには、サングラスをかけた男の子の姿がある。

 彼女はジャスティン・ビーバーの似顔絵を書き、ジャスティン・ビーバーの顔がプリントされた枕に顔をうずめる。

 にこにこと微笑む。

 ビデオが終わる。


 これが、 Frankie Cosmos の楽曲、 Art School のビデオである。

 まあ、そんなにたくさん話すこともないビデオだ。二分で終わる。

 歌詞の話に移ろう。

 それはこんなふうである。

  

  芸術大学はあなたをワイルドにする……

  ふつうの学校はあなたをハイにする……

  高等学校はあなたをきちがいにする……

  高等学校はわたしを泣かせた


  わたしは何事をはじめるにもシャイにすぎる

  それが診断結果だった

  なんにも集中できない

  いつも逃げてばかりで、ついていくこともできない


  あなたの友達はみんな酔っぱらってる乱暴者ばかり

  わたしの友達はみんな鬱病だ

  わたしのお父さんは消防士

  あなたのお父さんは女優

  

  行かないわ

  行かない

  行かないわ


  行かないわ

 

  行かないわ

  行かない

  行かないわ


  行かない


 おそらくどんな読み取り方もできる作品なのだが、私がひとつ考えたのは、彼女がこの部屋の外ではひどくいじめられているはずだ、という仮説である。そう考えた理由は、作中で彼女が参照するジャスティン・ビーバーの「ベイビー」が、ユーザーによって異様なほどの低評価を下されているところだ。


 私はアイドル産業にまったく詳しくないので、穿った見方はできないのだが、おそらく日本であっても米国であっても、この産業をめぐる状況はそこまで異なるものではないだろう。したがって大衆は、この産業をお金を儲けるためのシステムだと見なすこともできるだろうし、楽曲が優れたものでないと批判することもできるだろうし、単純にアイドルを好きな人々をばかにすることもできるだろう。


 しかし私が触れておきたかったのは、他人の考えていることや好きなことを貶すことの、重大さについてである。私には子供はいないが、息子や娘ができ、もしも年頃になってアイドルに夢中になったとしても、私は心から賛同はしないものの、たぶん放っておくだろう。彼あるいは彼女はそのアイドルが心から好きなのだし、何かを好きになる気持ちはとても大切なものだからだ。それに彼あるいは彼女は、そもそも誰に迷惑をかけているわけでもない。


 この作品のなかで、女の子は室内にいて、たったひとりで踊っている。ということは、この趣味を共有する彼女の友人が、この作中に限ってはいないということになる。もちろんひとりの趣味の時間を楽しんでいると考えることもできるだろうし、そうであってほしいとは思うのだが、とにかく作品で描かれているのは室内なのだ。これは筆者の推測にすぎないが、「高等学校はわたしを泣かせた」という歌詞がどうしても気になる――心ない人々が、彼女の趣味を貶したのではないか? 楽曲全体に漂っているなんともいえない中庸さと寂しさは、この推測をいくらか補強するもののように思われる。


 唯一の救いがあるとすれば、女の子がずっと微笑んでいることだ。ビデオを読み解けばわかるのだが、作中に登場する女の子は、われわれが聞いている Frankie Cosmos の曲ではなく、ジャスティン・ビーバーの楽曲を聞いている。つまり、このビデオの視聴者と作中の女の子の趣向は、おおきく異なっているわけだ。つまりこの作品じたいが、作品に登場する女の子と趣味を同じくすることをまったく期待していない――私たちに、女の子とおなじようにジャスティン・ビーバーを聞き、微笑むことを要求していないのだ。これは些細なことに感じられるかもしれないが、実は重要なことである。なぜならば、この作品が称揚しているのが、同調ではなく多様性であるとわかるからだ。


 だからこそ、このビデオは寂しいのである。ちょっと信じられないほどの寂しさだ。視聴者は彼女が微笑んでいることは良いことだと感じるのだが、心から彼女の聞いているものを良いものだと感じることはできないのである。


 もちろん同調は人間社会を組み立てるためのひとつのやり方ではあるが、それだけに頼っていてはおかしなことになる。作品はそのことを分かっていて、だからこそ、べつに彼女の趣味に同調しなくてもいいですよ、と語っている。しかし、しかし、彼女はたったひとりで、室内で踊っているのだ。ポスターや雑誌や枕に印刷されたジャスティン・ビーバーに取り囲まれたまま、たったひとりで。


 ジャスティン・ビーバーの良さは私にはよくわからないし、それはそれでいい。ただ、この作品が私にもたらした疑念は、もうすこし根の深いものだ。かいつまんで言えば、彼女はこの部屋から出ていくべきなのかどうか、というものである。もちろん、出ていくべきだろう。しかし、いつ? ――この疑問を突き詰めていくうちに発見できるのは、このテーマが普遍的な少女小説のものとよく合致するという、驚くべき事実である。この部屋のなかでジャスティン・ビーバーを聞いている彼女は、そのうちに、少女から大人にならなければならないのだ。それも自発的にではなく、性徴によって強制的に。


 そのとき、それまでに少女を傷つけたものたち――彼女の愛を下等なものだと決めつけて揶揄したものたちは、いったいどんな罰を受けることになるのだろうか? もちろん、ここからはさらに私の推測だが、心から人生を楽しむことができないという罰を受けることになるだろう。それは、かつて彼ら自身が投げた石によって殺されるよりも、ずっと厳しい罰である。世の中にはそういう罰を堪え忍んでいる人が一定量おり、大抵の場合、とても不機嫌なので、近づかないに越したことはない。


 ところで、映像に登場するのは、Frankie Cosmos 名義で活躍しているミュージシャン、Greta Kline 自身である。ノーマル・コアとでも呼べそうなシンプルな曲作りが特徴で、ダン・エレクトロのおもちゃのようなエレキ・ギターを用い、たしか1弦を張っていなかったはずだ。1994年生まれの彼女は、このビデオが撮影されたとき、若干二十歳だったはずである。


 ……ちなみに、ジャスティン・ビーバー本人と同い年らしい。

 

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