凶魔召喚祭

神月裕二

序章 そして幕が上がる

第1話


 山中玄造は、自分の胸が高鳴るのを感じた。

 ついに、幻の秘宝とまで呼ばれた書物が手に入るのである。そして、それが自分の身にもたらすもののことを考えると、興奮で足が震え出す。

 その書物が何故に『幻』の秘宝なのか。

 その理由は、それが、存在さえも疑われる『朱の血族』の遺した唯一の遺産だからであった。

 朱の血族とは、その発生起源さえも判然としないが、奈良県飛鳥地方を拠点とする、超常の能力を持った一族である、と平安末期の文献にはある。

 その書物、つまり幻の秘宝を持ち帰りおおやけにすれば、謎に包まれた歴史の裏側を覗くことも可能になるのだ。

 だが、山中はこのことで胸をときめかせているのではなかった。

 彼は、今日という日のために、偶然手に入れた朱の血族の資料をもとに、三〇過ぎからざっと三〇年余りもの間、時間と労力を費やして来たのである。

 もうすぐ七〇に手が届く。

 学会で知り合ったいく人もの友人も、彼が朱の血族の研究をしていると知ると、嘲笑しつつ遠ざかっていった。

 だが、彼は別に気にしなかった。

 研究を始めてすぐに妻と子に離縁された彼は、既に孤独に慣れ親しんでいたのである。

 今に見ているがいい。

 俺を嘲笑い、狂人とまで蔑んだ者どもよ、いつか貴様らに復讐してみせるぞ。

 ぐっと奥歯を噛みしめて、山中は唸ったものである。

 その辛苦の日々が、ようやく報われる瞬間が近づいて来た。

 彼が手にいれた文献にはこう書かれてあった。

「――その書物を開けし者、この世を統べる覇者とならん。その名は『転輪聖王てんりんじょうおう』なり」

 と。

 それを知ったとき、山中は秘宝探しを本格化したのである。

 憑かれたような研究の仕方だった、と山中をよく知る老学者は言った。

 彼もまた、朱の血族実在説を唱える学者ではあるが、山中には近づき難い何かがあったようである。

 その年、四月――

 山中は、赤石あかいし山脈近くの聖岳に登っていた。

 赤石山脈は、長野県、山梨県、静岡県にまたがり、三千メートル超級の峰が連なってそびえており、南アルプスとも呼ばれている。

 聖岳は、その南アルプスの最南端に位置していた。

 山中は、目的地に向かって、日の出とともに静岡県大井川上流にある赤石ダム近くの聖沢登山口から入った。

 杉やヒノキの林の急な登り道を越えると、しばらくは斜面の横断が続く。

 標高約二千二百メートルにある聖平小屋までは平均的に五時間程度かかる。

 山中はこれまで多くの登山を経験していた。

 無論、幻の秘宝を探して歩いたのだ。

 しかし、年齢が上がるにつれて体力も落ち、時間もかかるようになった。

 もう登山もそろそろ限界かもしれない。

 そう思っていた矢先に、ついに目指す場所が判明したのだ。

 それはまさに天啓とも思える瞬間だった。

 山中は聖平小屋で昼食を摂った。他にも登山客がいたが、山中は食堂の隅に座り、特に誰とも会話することなく飯を食った。

 もう少しすれば、宿泊客も到着し始めるだろう。

 山中は早々に荷物をまとめ、小屋を出た。

 時間は気にしない。

 これから「世界を変える」のだ。

 帰り道のことも考える必要はなかった。

 それからさらに三時間近くの時間をかけ、山中は山頂付近にある目的地に到着していた。

 ついに来たのだ。

 山中は自然と笑みが浮かぶのを感じた。

 感無量だった。

 今、目の前には一つの磐座いわくらがあった。

 誰一人として知る者のいない、いや、磐座である。

 磐座とは、大体が三つの巨岩で構成されており、それを注連縄しめなわで囲んであるものを言う。

 御神体、もしくは神の座だと言われている。

 しかし、この磐座は別の役目を帯びて、遥か太古の昔からこの地にあった。

「磐座か。なるほど、よく考えたものだ」

 山中は興奮を抑えながら言う。

「現代人ならいざ知らず、昔の人間なら、たとえここに秘宝があるとわかっても、神様に手を出そうとはしないからな」

 手を伸ばし、磐座に触れようとした。

「――!?」

 そのとき、伸ばした指先から全身に電流が走り、山中は驚いて磐座から飛び退いていた。

 注連縄は、この磐座が造られてから千数百年余りの時間が経っているにも関わらず、朽ちることなく変色して程度で、結界としての防衛本能を保持している。

「これも、朱の血族の異能が為せるわざというのか」

 結界が健在ということは、この磐座の内部にある秘宝は誰の手にも渡っていないということになる。

 山中は、痺れる手を揉みながら、ニヤリと満足そうな笑みを浮かべた。

 しかし、ここで手間取るわけにはいかない。

 いつ他人が通りかかるかわからぬ山道にいるのだから、結界を破る作業は迅速に、そして的確に行わなければならない。

 失敗と遅滞は許されないのだ。

 山中は、背負っているリュックを下ろし、その中から、数枚の長方形の紙を取り出した。

 結界の効力を抑止する力を秘めた呪符である。この呪符も、長年の研究の成果だ。

 呪符は、奇妙な図形と不可思議な文字で構成されていた。

 それを磐座を囲むように、半径五メートル程の大きさで地面に置いていく。

 正確に八角形を成すように。

 山中が低く呟くように何かを唱えている。磐座を中心に一回りすると、呪符を置いた地面を揺らしながら、ぐぐっとせり上がり始め、ちょうど墓石ほどの大きさになって止まった。

 それを見た山中の唇が、きゅうと欲望の笑みを形成する。

 もうすぐだ。

 もうすぐ、全世界が俺様の前にひれ伏すのだ。

 山中は、ゆっくりといくつもの墓石のようにせり上がった地面と地面との間に足を踏み入れた。

 その形は、まさに八卦であった。

 磐座は、この場合『太極』に位置し、そこに到るとき、彼は最高の叡知と権力を手にするのだ。

 山中は、中央の巨石の前で、一旦立ち止まった。

 唇から自然に狂的な含み笑いが洩れるのは、この場合仕方のないことなのかも知れない。

「――!?」

 磐座の表面に震える手を当てようと伸ばしたとき、山中は愕然と眼を剥いた。

 手が岩を通り抜ける!?

 まるで、岩が立体映像であったかのように、手には何の感触を伝えて来ない。

 山中は、この瞬間、異界への扉が開いたことを理解していた。

 ついに俺は人間を越えて在ることが出来る! 今まで俺を嘲笑った奴等すべてに復讐するのだ!

 山中の身体はスルリと岩の内側に滑り込み、暗黒の底へ落ちた。

 次に眼を開けるまでの数瞬の間、山中はいろんなことを脳裡に思い浮かべていた。

 死ぬ寸前に見るという走馬燈とは、このようなものかと思った。

 小さい頃からの記憶が、古い血の中から浮かび上がって来る。

 屈辱と怒りの、それは記録であった。

 狂人と罵って自分を捨てた妻と子の嘲笑が聞こえる。遠ざかって行った友人知人の蔑みの視線を感じる。

 しかし、これは人間を越えて、新しく生まれ変わるための試練なのだと、山中は思った。

 古い血とともに今までの全てが浄化されるのだ。

 そして『転輪聖王』という言葉の意味が、最後に浮かび上がって来た。

 全世界を支配することの出来る力を持った存在で、白い馬に乗っていると言う。

 かの仏陀――すなわちゴータマ・シッダルタは、誕生したときにアシタという老人に、この赤子は天から輪宝を感得し、これを転じて世界を治める転輪聖王となるか偉大な仏陀となるか、どちらかであろうと予言されたそうである。

 俺は、その転輪聖王になるのだ!

 

 山中は眼を開けた。

 そして見た。

 彼は、地下空洞にいた。地表からどれほど落下したのかわからない。

 だが、落ちた筈なのに落下の衝撃はなく、身体に痛みもない。

 何より、山中は立っていた。

 磐座の周囲に出現したのと同じような石柱群に囲まれて。

「ここはーー」

 自分の前方に一〇メートル余りの石の通廊が伸びているのを見た。

 その先に台座らしきものがある。

 そして、そこに山中の目指す書物はあった。

 山中の喉が、ゴクリと音をたてる。

「…あれが、宝…か」

 駆け出したい衝動を必死に抑え、彼はゆっくりと歩き出した。

 罠でも仕掛けられているのでは、と警戒したのだ。

 だが、罠はなかった。

 これを造ったたちは、誰一人としてこの通廊に足を踏みいれることはないと確信していたのだろうか。

 一歩、また一歩と、山中の血走った眼が、高鳴る心臓が、土と埃で汚れた手が朱の血族の秘宝に近づいていく。

 地下空洞には、山中の足音だけが響いていた。

 いや、心臓の鼓動さえも反響しそうだった。

 この宝のために、彼は全てを捨てた。

 そう言っても良い。

 自分は、今この日のために生まれてきたのだ。

 自分の役目が理解できた時、勤めていた製紙会社を辞め、家族を捨て、街から姿を消して三〇年余りが経過した。

 古いアパートを借り、山中は研究に没頭した。

 普通の暮らし以上のものを、山中はこの秘宝に求めたのだ。

 数少ない手がかりを探し、日本国中を駆け回った。

 最初は、やはり朱の血族発祥の地とされる、奈良県飛鳥地方を中心に探った。

 しかし、得られたものは思いのほか少なかった。

 そこで山中は徐々に行動の範囲を広げていったのだ。

 そして今、人生を賭けてまで挑んだ宝が、目の前にある。

 この秘宝を研究し、論文を書いて学会に発表すれば、彼の地位は回復し、嘲笑った奴等全てを見返すことができる。

 また、数少ない朱の血族研究家たちに売りつけるのも良い。恐らく途方もない金が手に入る筈だ。

 だが、それ以上の報酬がある。

 それは、全世界の王たりえること。

 そうだ。

 いくら金をつまれても、決して手放しはしない。

 山中は、古びた一冊の書物の前に立った。

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