第10話 不謹慎

 不思議だった。楓の紹介で赴いた博士のところで助手として働くことになった僕は、まったく嫌な気がしていなかった。無理やり入れられた生徒会が充実したものになるように、僕は今の生活に満足していた。僕は博士に買い出しを頼まれるという、いかにも助手らしいことをするために外に出た。

「あ」

「え?」

僕は研究所の扉を開けて疑問符を浮かべる。そこには男性が一人立っていた。

「何でここに・・・?」

「あ、いや・・・」

らしくなく、彼は急に僕が出て来たものだから、職員室に入るのに躊躇っていたような小学生のように戸惑っていた。

「楓から、お前がここにいる、って聞いてな・・・」

そういえば、健二と会うのは、千尋が死んで初めてだった。


 僕はとりあえず、歩くか、と言った。健二もそうだなと答え、僕たちは歩き始める。今、何してるんだ?と、健二は歩きながら聞く。僕も今までの経緯を説明して歩を進める。でも、健二が僕を訪ねた理由を、僕は薄々分かっていた。それは、歩きながらできる話ではないのも、薄々分かっていた。僕は博士から頼まれた買い物も後回しにして、健二と近くの広場へと向かった。幸い、人は誰もいなかった。


「・・・俺、結婚する」

「・・・」

風の音がはっきりと耳に聞こえてくるくらい、その場には静寂が流れた。僕は目をいつもより少しだけ大きく開けて、口もほんのちょっと開いて、誰が見ても驚き顔だと言われる表情を作る。その後、僕が自分の口から出した言葉に、僕自身が驚いた。

「おめでとう」

和やかだった。僕の顔は今まで一番和やかに、聖女を思わせるかのように優しく笑った。

「・・・何だよ・・・」

そんな僕の顔が見るに堪えなかったのか、健二は下を向く。

「そんな顔、するなよ・・・」

僕は今まで聞いたことがない声を聞いた。健二の声はか細く、そして震えていた。何で。健二は言った。何がだ、僕は聞いた。

「何で、そんな顔できるんだよ・・・。心から、俺の結婚を喜んでくれているような顔・・・」

何でだよ・・・。健二の顔は、今にも泣きそうだった。


「・・・何だよ、どんな顔すれば良かったんだ?」

僕は質問したが、答えは何となく分かっていた。きっと、健二は僕に、感情をむき出しにして、怒って欲しかったんだと。

「今、一番辛いのは、お前だろ・・・。それなのに、俺は結婚するって言ってるんだぞ・・・。憎くねぇのかよ・・・」

「・・・お前のせいじゃないさ」

僕は空を見上げ、流れる雲を眺めながら言った。千尋の声が聞こえた気がした。

「お前の人生だ。僕がどんな状況にあろうとも、それは変わらない。そうだろう?」

くそっ・・・。健二は悔しそうに唇を噛んだ。

「いいのかよ・・・?俺だけが・・・」

俺だけが・・・。健二は言葉を詰まらせる。傍から見ればよっぽど健二の方が辛そうだった。勘弁しろよ。僕は笑いながら言った。

「俺だけが幸せになっても、いいのかよ・・・!」

でも、そんな僕の声は、健二には届いていなかった。こんな時は、気楽で無頓着な性格の方がいいよな、と、僕は心で思った。


「ばーか」

僕は普段は言わない言葉を吐いた。楓みたいな言葉づかいをした。

「幸せに、俺だけとかないだろ」

僕は何も分からないくせに、さも分かっているかのように語りだす。

「幸せってのは、そこらじゅうに転がっている。誰でも手に入るものだ」

ただ。そう言って、僕は声のトーンを下げる。

「僕が取りこぼしてしまっただけだ」

先に結婚しようとしていたのは僕たちだった。そんな矢先、千尋が旅立った。多分健二は、そんな僕たちの状況を知っているからこそ、苦しんでいる。

「・・・お前のせいじゃない」

僕はもう一度言った。


「なぁ!」

健二は急に大きな声を出した。耳よりも、心に響く。

「辛くねぇのか!?あいつ、お前のことが本当に好きだったんだ!本当に!お前もだろ!?それなのに、もう立ち直ったってのかよ!?」

僕の態度に納得がいかないようで、健二は怒鳴る。

「ばーか」

そんな健二に、僕はもう一度同じ台詞を吐いた。今度は、聞こえるか聞こえないか、そんな小さな声で。

「辛くないわけ、ないだろ・・・」

僕は涙を流した。


「知ってるさ」

僕は涙を流して言った。

「あいつが僕のこと、好きだったってことくらい」

僕は声を震わせて言った。

「知ってるだろ」

僕は綺麗な涙を流しながら言った。こんな演技みたいな涙、個人的には嫌いだった。でも、今は丁度いい。言葉が伝えられる。

「僕が千尋のこと、本当に好きだったってことくらい」

ただな。そう言って、僕は涙をぬぐう。

「楓に言われたんだ」

楓のあんな顔、初めて見た。

「お前がうだうだしていたら、こっちまで辛くなるってさ」

お前もそうだろう?僕は尋ねる。

「・・・笑えよ」

そして、頼んだ。

「もしお前が僕のことを思っていてくれるのなら」


「いつも通りのお前でいてくれよ」


「な?」

僕は念押しする。

「ちっ・・・」

健二は舌を打つ。でも、全然不快に感じない。

「お前に励まされたらお仕舞だな・・・」

全くだ。僕は皮肉を込めて言った。

「・・・強いな」

健二は僕の顔を見て、言った。よせよ。僕は言いたかった。でも、空気を読んで止めた。僕は強くなんかない。それだけは、火を見るよりも明らかだった。


 きっと、健二は僕を励まそうとしてくれた。それなのに、逆に僕が健二を励ましてしまったことは、何か可笑しかった。

「敵わねェな、お前には」

健二は悔しそうに言った。僕は話を一番最初に戻した。

「相手は?」

願望も込めてだが、僕の頭の中には一人の女性の名前が浮かんでいた。

「お前が思っている奴だよ」

「そうか」

何だか嬉しかった。一途だな、そう思った。

「・・・とうとう結婚か」

僕はしみじみ言った。

「ああ。何だかいざ結婚ってなっても、実感湧かねぇや」

毎日、ずっといっしょだったし。きっと結婚しても変わらねぇよ。健二は、自覚していないだろうが、理想的な夫婦の台詞を吐いた。変わらないこと。これが一番難しい。


「悪かったな」

何がだ?僕は聞いた。

「お前の為になろうと思って来たってのに、結局はお前に助けられたから」

いいよ。嬉しかった。僕も健二が来てくれたことには救われた。心の中のもやもやが、徐々にではあるが晴れていくのを感じていた。

「良かったら来てくれよ」

日程が決まったら教えるから。結婚式の誘い、僕は断る理由はない。

「ああ」

そういって、僕たちは別れた。


 僕のことを心配してくれている。研究所への帰り、僕は空を見上げ、夕焼けに染まる雲を眺めた。

「千尋」

僕は図らずも声が出ていた。不謹慎だって思った。千尋がいないのに、こんなことを思うなんて。

「・・・くそっ」

僕は必死に気持ちを噛み殺し、博士のもとへと帰る。すると、買い出しのことをすっかり忘れていた僕は、今までの道のりをもう一度逆戻りする羽目になった。博士に怒られながら戻る路で、また。

「・・・っ」

涙は流したくない、出来るなら。どうしても、千尋のことが頭から離れずに、苦しくなって、どうしようなくなるから。でも僕は、溢れ出るあまじょっぱいものを、止められなかった。足を止めて、膝を曲げて、額を地面につけた。

「・・・んだよ、みんな・・・」

楓も健二も、何でそんなに優しいかなぁ・・・。僕は不謹慎だって思う。なぜなら、千尋がいないのに、僕は今、思っているから。


ああ、恵まれてるな、って。


僕は嬉しくて、涙を流す。千尋がいない世界でも、頑張って、生きていけるように。

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