三章 運命を憎む前に

第12話 雨の中 君を抱えて

 雨が降る。これは、人が息をするくらい当たり前のこと。涙が出る。これも、犬が吠えるくらい当たり前のこと。僕は、夢の世界か現実の世界か、どちらにいるか分からなくなるときのように、今僕の顔が濡れているのが、雨か涙か分からなくなっていた。轟々と降りすさぶ雨の中、この水滴一つひとつが、ミサイルのような破壊力を持っていて、もしくは、針のような鋭利さを持っていて、僕の体をにべもなく貫いてくれたのなら、どんなに楽だっただろう。いくら呼んでも呼んでも、彼女の声は聞こえない。いくら体をゆすっても、彼女の目は開かない。


 本当に、つい、さっきまで、僕と彼女は話していた。つい、さっきまで。いくらついさっきでも、一度過ぎ去った刻限は、もう歴史として記されて過去のものになっていくように、時を戻せぬ限り、何もできないことは、認めたくなくても、信じたくなくても、痛感せざるを得ないことは、他の誰よりも、僕は知っている。


「・・・泣かないでくださいよ」

ああ、泣かない。僕は決めたはずだった。何せ、お前からの願いだから。でも僕は軟弱で、何よりも弱い存在だから、目からぽろぽろと、大粒の雫が零れる。

「不思議です・・・」

僕はお前と千尋を重ねた。どうして僕を憎んでくれないんだと思った。最後にお前は、不思議だと言ったが、僕の方がよっぽど不思議だった。他人が泣く理由が理解できないように、他人が怒る理由が理解できないように、僕は、最後にお前が、それはそれは安らかに、笑った理由が理解できなかった。


「死ぬことについて、深く考えたこと、無かったですけれど・・・」

怖いと思っていたと、お前は言った。誰もが抱くであろうことを、お前は述べた。怖いはずなんだ。死ぬって、怖いはずなんだよ。お前が素直に怖いといって、最後まで死に足掻こうとしてくれたなら、僕だって、少しは人間らしく狼狽して、慌てふためくことができたのかもしれない。


「楽しかった・・・」

それなのにお前は、今までのことが走馬灯のようにめぐってきて、そして、楽しい思い出しかないなんて、達観したように言うものだから、僕はどうしようもなくなって、お前のことを優しく抱きしめてやるくらいしかできなかった。本当は何の解決にもなりはしないのに、お前のことを離したくなくて、天へと旅立たせてやりたくなくて、ずっと全身を覆うことしかできなかった。


「ごめんね」

いつもは敬語で話すお前が、友達に話すようなタメ口を使った。意識していたのかは知らないけれど、昔からお前は、いざというときに、まさしくなタイミングで敬語を使うのを止める。そのギャップに男の心は簡単に揺れて、振られた女が少し優しくされただけときめくように簡単に揺れて、お前は皆の人気者だった。可愛いが、同時に、聡いと、ずるいとも思っていた。それを最後でやるなんて、本当に、卑怯だ。


「約束、したのにね・・・」

そうだよ。約束、したじゃないか。頼むからって、お願いだからって。あれは、僕の心からの願いだった、祈りだった。それなのに、どうしてだよ。どうしてなんだよ。こんなにも早く、こんなにもすぐに・・・。僕は彼女の体が冷たくなっていくのがまじまじと分かった。こんなに雨が冷たいのに、騒音の中では、小さな音はかき消されるのに、僕は彼女の体温と、彼女の心臓の鼓動が小さくなっていくのが、はっきりと分かった。


 良い結婚式だった。華やかで、煌びやかで、そして感動的で。僕は泣いた。嬉しくて、羨ましくて。お前も健二も泣いていた。きっと、今までの想いが込み上げてきて、どうしようもなくなって、体が涙を出したがって。これから末永く幸せになるって、疑いようがなかったのに。何年も、何十年も、きっと、一緒に歩いて行くだろうって、そう思っていたのに。未来に立ち止まって待っていた現実は、どうしてこうも過酷で残酷なのかと、僕は、運命を憎む。


 叫んだ。僕は耳元で叫び、訴えた。お前を待っている奴がいると。お前は死んじゃいけないと、僕は怒鳴った。必死だった。それなのに、お前は僕の頬に手を添えて、冷たい手を添えて、優しく笑った。僕はその手を血で染まった右手で支えて、彼女の手の甲が血で汚れて、そしてすぐに雨で流れた。彼女の体からじわっと流れて同心円状に広がっている血に目もくれずに、僕は彼女の顔だけで見ていた。謝るのはこちらの方だった。最後は健二に会いたかっただろうに、それなのに、僕が最後に見送ったことを、僕は謝りたかった。でも、僕のそんな主張、彼女の最後の言葉に比べたら、些末で些細で価値がない。


 一言一句覚えていた。最後の力を振り絞り、彼女が発した言葉、それは今も頭の中でぐるぐると回っていた。いつもいつも勝手だ。もう嫌なんだよ。僕は、普通で、平凡で、皆がいる、そんな生活でいいんだよ。劇的で、抒情的で、心が目まぐるしく揺れ動かされる生活なんてしたくないんだよ。だから、お前には、生きていてほしいんだよ。心の中にお前は生きているみたいな、そんな現世から逃げたようなこと、したくないんだよ。それなのに、それなのに、お前は最後まで、笑うのか。


「・・・大丈夫だよ。ね・・・?」

私はいつも、見守っているから。あ、そうだ、最後に、いいかな・・・。一言、伝えてほしいんだ。あの人に、一言・・・。愛してるって・・・。あなたに出会えて、本当に良かったって・・・。

「・・・お願い、だよ・・・?」


 僕は雨の中、轟々と降る雨の中、周りに誰もいなくて、二人っきりの中、天を仰いだ。腕の中に彼女を抱え、涙を流して。音がすべてをかき消す。僕の声も、すべて。

「ことねぇーーーーーーーーーーーっ!!!!!」

何も聞こえない。彼女の鼓動も、肌のぬくもりも。もう何も、聞こえなかった。

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